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君の名を

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君の名を
 タイプライターの音に混じって古臭いフォークソングが流れていた。タンタンタンと規則正しいリズムが刻まれている。
 パイプ椅子に背を預け、吉川は一枚の写真を眺めていた。郊外にある古びた洋館の正面からのショット。先日発行した雑誌の特集コーナーに掲載した物だ。
 昭和初期に建てられたというその洋館は、戦争と時間の傷痕を色濃く体に刻み付けていた。煉瓦造りの外壁はツタに覆われ、側窓のステンドグラスはひび割れている箇所が目立つ。建設当初は一番の見所だったであろう尖塔は、上部がごっそりと無くなっていた。
「何見てるんすか?」
 マグカップを片手に後ろからひょいと覗き込んだのは、後輩記者の稲村だった。苦笑いを返しながら、吉川はその写真を散らかっている机の上に置いた。
「あれだよ、こないだのほら、名前募集した家の写真」
「あー、百万円のヤツっすか」
 いかにもこの若者らしい覚え方だな、そう思いながら再び写真に視線を落とす。
 企画を持ち込んだのは館の持ち主である老婦人だった。館につける名前を募集し、採用者には賞金として百万円を進呈する。個人が出すにしては破格の値段だが、ローカル雑誌の片隅に載る程度ではどれほどの応募があるのか疑わしい。
「いいっすねえ。俺も応募しちゃおうかな」
「馬鹿たれ。最初に振り分けするのは俺達だろうが」
 冗談っすよ、そう言いながら肩をすくめる稲村を、吉川はじと目で見つめる。
「まあでも、吉川さんが応募したら絶対不採用でしょうね」
「なんでだよ」
「ネーミングセンス無いじゃないですか。ペットの猫の名前なんでしたっけ?」
「……フラミンゴだよ」
 そりゃ駄目だ、そう言いながら稲村は笑いを堪えている。トントントンとこめかみを人差し指でつつきながら、吉川は渋い表情を浮かべていた。

 その洋館の写真が誌面に載るのは初めてではなかった。古い記事の中で、その家は話題の中心だった。
 最も古い日付の物は完成間もない写真だった。モノクロの風景の中、生まれ立ての屋敷はどっしりとした存在感を見せている。
 設計者は当時新鋭と呼ばれていた建築家だった。日本人でありながら奇抜な着眼点と発想を持ち、手がけた作品は海外からも高い評価を得ている――そう記事にはある。
 記事にはその建築家の写真も載っていた。野暮ったいシャツにジーンズ、猫背で頭に手を置きながら半笑いを浮かべている。そしてその側には袴姿の若い女性が凛とした表情でこちらを見つめていた。その細い指は不釣合いなほど大きな宝石ののった指輪がつけられていて、どこかアンバランスにも見えた。
 記事のタイトルは『館の名前募集します』。今と同じように賞金額も添えられている。
 だが結局、その館に名前がつく事は無かった。名無しのまま時だけが経ち、画素の増えたカメラで撮られたその姿は、荒れ果てた様を残酷なまでに浮かび上がらされている。
 そのまま静かに眠っていればよかったのに。その記事を見つけた時、吉川はそんな思いを抱いていた。

「あまりよろしくない茶葉を使ってらっしゃるのね」
 吉川が依頼者である老婦に始めて会った時、言われた台詞がそれだった。
 雑居ビルにある編集室の中の一画。つい立で分けられてはいるが、安っぽいソファーとテーブルがあるだけで
応接室とはとても呼べない。そんな場所であるというのに、彼女はただ優雅に見えた。
 黒い毛皮に真珠のネックレス、元貴族という家柄は肩書きではなく、芯の強さを窺わせる眼差しが印象的だった。
 名前を募集する企画は一通の書面で編集室宛に送られてきた。ローカルの弱小誌にしては賞金と依頼量が高額だったこともあり、編集長はすぐにゴーサインを出した。その打ち合わせに彼女が訪れたのだった。
「しかし何故、今になって名前を募集される事にされたんですか?」
 その婦人の家が没落し、今では資産のほとんどを失っているという噂を吉川は聞いていた。唯一残った家の改修費も出せず、ゴルフ場を建てようとする不動産会社から再三売却の話を持ちかけられているという事も。
 維持費にすら困窮しているだろうに本当に百万円なんて出せるのか、吉川の頭にはそんな邪推すらあった。
 そんな吉川の様子を見て取ったのか、婦人は少し不機嫌そうに言い放った。
「あの家がなんて呼ばれているかご存知かしら?」
「え?」
 名前を募集しているのに呼び名を聞かれる。眉をひそめる吉川に、しかし婦人は説明を続けようとはしなかった。
「記者さんなら口下手な私の口から聞くよりも調べた方が早いでしょうよ」
 それきり彼女は家の事を話そうとはしなかった。

 スクラップをまとめたバインダーのページをめくりながら、吉川はため息をついた。二番目に古い日付の付いた記事は、その前のほのぼのとした内容とは一変していたからだ。
『麻薬の館』
 そんな見出しが目に飛び込んでくる。文を指でなぞりながら、吉川は夫人の事を思い返していた。
 天才と呼ばれた建築家は麻薬密輸の仲介者だった。そんな冒頭から記事は始まっている。手がけた洋館に設置された隠し部屋から次々と麻薬が発見されたのだと言う。
 奇抜な発想は麻薬によって生み出されていた。記事はそう続ける。その後その建築家は有罪となり、イメージの低下を恐れた企業は彼の設計した洋館を次々と取り壊していったのだと。
 しかし記事の中にはあの洋館の事は書かれていなかった。当時貴族だった彼女の家の圧力があったのは想像に難くない。
 だが、その家柄ゆえに彼女とその建築家は再び会う事はなかった。そして獄中で建築家が自殺したという記事が紙面の片隅に小さく載り、世間はいつしかそれを忘れた。そのままただ風化していくはずだった。
 彼女は何を思い、今もあの家に住み続けているのだろう。煙草の煙を吐き出しながら、吉川はぼんやりとそんな事を思う。ただ、胸中を推し量るには時間が流れすぎているのだけれど。
 ふと、戒名なんて言葉が脳裏に浮かぶ。ゴルフ場になるにせよ、主を失ってうち捨てられるにせよ、あの家に残された時間はそうは無いだろう。それならば――と、そこまで考えた所で思考をとめた。邪推でしかないし、これ以上考えた所で婦人の機嫌を損ねるだけだろうから。
 机にはより分けられた葉書が積まれている。予想以上に多くの応募があった。その葉書をぱらぱらと眺めながら、明るい言葉のついた名前の群れに笑みがこぼれる。確かにそれは、救いだった。

 最終選考に残った候補を書面でお送りします。そう電話で伝えると、直接見たいと言って彼女は編集室を再び訪れた。立ち振る舞いは相変わらず凛としていたが、首にかけられた真珠のネックレスが無くなっている事に吉川は気付いていた。
「可愛らしい名前が多いわね」
 彼女は葉書を一つ一つ眺めながら、その名前を読み上げていく。指摘されれば怒るだろうが、その目尻は少し下がっていた。
「あなたは考えて下さったの?」
 葉書の山を半分ほど読み終えた頃、彼女は吉川にそう聞いた。
「いえ、私は選考する立場ですので」
「なら今考えて頂戴」
 短いながら、有無を言わせぬ口調で彼女はそう言った。しばらく固辞する姿勢を見せた吉川だったが、やがて観念したのか、テーブルに肘をついてこめかみを指で叩いていた。
「そうですね。『我が子』とか、どうでしょうか」
「あら、素敵ね」
 婦人は目を丸くしていた。凛とした表情が、ほんの一瞬和らいだように吉川には見えた。
「でも、家の名前としては変ね」
 ぴしゃりと言い放つ婦人を前に、吉川は苦笑いを浮かべたまま頭をかいていた。その視界の隅では、少しだけ高価なお茶を運んできた後輩の稲村が、必死に笑いを堪えているのが見えた。

<了>

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