文才無いけどキーボード叩く
ゆでたまごの皮の価値
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ゆでたまごの皮の価値
過去の自分と今の自分は別の人間だ。磯崎成美は頑なにそう信じていた。
と言っても過去に大きな失敗談があったわけではない。青春期に植えつけられたその考えを捨てるでもなく、成美はただそっと胸の中で温めていた。
ゆでたまごの薄皮をむくようにして、一日毎に違う自分が生まれている。三十を過ぎた肌の下からはみずみずしい細胞は出てこないが、自己を形成する本質的な物はまだ新鮮であり続けてる。日々の生活に疲れた時、成美はそう自分に言い聞かせる。
「それは過去を軽視している。極端に言えば、それは無責任な事だ」
成美がそんな考えを初めて打ち明けた相手は、夫である良明だった。何がきっかけだったのかは思い出せないが、返ってきた言葉は辛らつだった。そしてそれが、良明に対して自分の考えを力説した最後の夜だった。
高校の数学教師である良明は、自らに厳しい人間だった。そしてそのスタンスは他者に対しても向けられていた。夫の授業風景を成美は見た事が無かったが、時間を刻むチョークの音は容易に想像する事ができた。
とは言え、夫婦仲が険悪と言うわけでも無い。数年前の自分は良明の頑固さを愛おしいと感じて一緒になったのだし、そろそろ子供が欲しいね、なんて会話はずっと交わしている。
だから、と、成美は呟く。指先に感じるひんやりとした感覚に笑みがこぼれる。団地サイズの畳が六枚ひかれただけの手狭な和室、その中心で、乳白色の壺が細い陽光をただ静かに浴び続けていた。
古美術の知識は成美には無かったし、そもそも興味すら持っていなかった。結婚して以来衝動買いをした事は無かったし、日用品以外は良明に買う理由を説明するのが習慣だった。説明するうちに本当に必要なのか自分でも分からなくなる、なんて経験は少なくなかったし、訪ねてきた友人達に部屋の中が殺風景だと言われたのは一度や二度のことではない。。
その壺は商店街にある古道具屋の、ショーケースの中で埃をかぶっていた。昼前の買い物に行くデパートへの通り道にあったので、成美はいつもその横を通り過ぎていた。
何度か眺めるうちに、それはいつか見かけた壺じゃないかという考えが浮かんだ。少女時代の食卓の上だったかもしれないし、学生時代彼氏と眺めた物だったのかもしれない。だがいずれにせよ、はっきりと思い出せないのなら重要なものではなかったのだろう。
ただ、積み重ねというものは厄介だった。何気なくそれが目に留まるたびに、成美は今日も買われていなかったと安堵するようになっていた。扱われ方からして芸術的な価値はさほど無いのだろうが、客足の乏しいあの店が潰れないとも限らない。そんな考えさえ浮かんだ。
それでもその壺を買うのには、更に幾らかの勇気と時間が必要だった。行動とは思考の積み重ねの果てにある。そんな良明の口癖が頭から離れなかったからだ。
そして葛藤と、結局は衝動の末、マンションの一室にその壺は置かれる事になった。両手には少し余る胴回り、派手さは無いが、小振りで可愛らしい花器だった。下に行くにつれ色合いが変わる乳白色の肌は、指でなぞると陰影によりまたほんの少しずつ表情を変えていく。
良明が初めてその壺に気がついたのは、昨日の夜の事だった。
和室の隅に置かれた、花の飾られていない花器。良明は興味の無さそうな目を一度だけ向けると、
「いくらだった」
手元の新聞にすぐに視線を戻し、素っ気無くそう言った。
「三十万円」
流し台の前に立ちながら、背中越しに成美は答える。がさり、と、新聞が丸められる音が聞こえた。良明の唖然とする顔を見てみたいという衝動に駆られたが、成美はそれをぐっと堪え、ひたすらに食器を洗い続けていた。
自分を形作っているものは、過去であり経験だ。成美が大学時代に交際していた青山の口癖だった。彼は生物学を専攻していたが、ロマンという言葉をやたらと口にしたがる男だった。
外見的差異、DNA配列、静脈パターン、それらは全て付加的なものでしかないんだ。主義や価値観、思考でさえそうだ。全ては記憶によって生み出されている。何故なら無から何かを考え出すことは出来無いからだ。だから考えというのは、ひょっとしたら魂なんてものさえ、記憶の一部でしかないんじゃないかな。
まるで熱に浮かされたように、青山はそう繰り返していた。良明に聞かせれば、また無責任だと切って捨てるのだろうか。ひょっとしたら、ただ唖然と口を開けているだけかもしれない。それともただ押し黙って、新聞を読み続けるのだろうか。
成美は最近、学生時代のささやかな恋に思いを巡らせる事が多くなっていた。といってもその視線は青山に向けられているのではない。愚かしく、抱えている孤独に気がついていなかった自分という人間に対してだ。
記憶はある。十数年前、それはたしかに自分自身だった。しかし記憶は積み重なり、また新しい自分が生まれていた。
だけど、その薄皮を剥がせばまた昔の自分に戻れる筈だ。出来もしないそんな事を呟きながら、また増えていく記憶をただ眺めている。
良明の低い声を聞きながら、成美はかりかりと人差し指の爪で壺の下の丸みをかいていた。よくよく見れば、そこだけ色の違う事を見て取れる。まるでかさぶたのような、修繕の痕だ。
「壺に三十万なんて馬鹿げている」
一日たってようやく良明は口を開いた。生徒達の前で教鞭を取りながら、ずっと壺の事を考えていたのだろうか。何であれ自らの行為には責任を持たなければならない、そう教える彼らしいとも思えるが、どこか滑稽でもある。
「俺の稼いだ金だ、とは言わない。お前個人の買い物も時には必要だと言う事は理解している」
ずるい言い方だと、成美は思う。良明が使う“理解”という言葉は、“それ以上は自分が考える必要は無い”という意味なのだから。
「だが、そんな壺に三十万も払う価値があるとは思えない」
「鑑定書があるわ」
「重要なのは俺達にとって必要なのか、という事だ」
それきり良明はまた沈黙した。かりかりかりと、壺をひっかく音だけが聞こえている。
傷があったから、本当は三万円なのよ。そう言いかけて、成美はやめた。
乳白色の肌にかぶせられた薄皮。それを剥がさないように注意しながら、成美は人差し指を動かす。
かりかりかりかり。明日の自分も多分、そうしているのだろうと思いながら。
<了>
と言っても過去に大きな失敗談があったわけではない。青春期に植えつけられたその考えを捨てるでもなく、成美はただそっと胸の中で温めていた。
ゆでたまごの薄皮をむくようにして、一日毎に違う自分が生まれている。三十を過ぎた肌の下からはみずみずしい細胞は出てこないが、自己を形成する本質的な物はまだ新鮮であり続けてる。日々の生活に疲れた時、成美はそう自分に言い聞かせる。
「それは過去を軽視している。極端に言えば、それは無責任な事だ」
成美がそんな考えを初めて打ち明けた相手は、夫である良明だった。何がきっかけだったのかは思い出せないが、返ってきた言葉は辛らつだった。そしてそれが、良明に対して自分の考えを力説した最後の夜だった。
高校の数学教師である良明は、自らに厳しい人間だった。そしてそのスタンスは他者に対しても向けられていた。夫の授業風景を成美は見た事が無かったが、時間を刻むチョークの音は容易に想像する事ができた。
とは言え、夫婦仲が険悪と言うわけでも無い。数年前の自分は良明の頑固さを愛おしいと感じて一緒になったのだし、そろそろ子供が欲しいね、なんて会話はずっと交わしている。
だから、と、成美は呟く。指先に感じるひんやりとした感覚に笑みがこぼれる。団地サイズの畳が六枚ひかれただけの手狭な和室、その中心で、乳白色の壺が細い陽光をただ静かに浴び続けていた。
古美術の知識は成美には無かったし、そもそも興味すら持っていなかった。結婚して以来衝動買いをした事は無かったし、日用品以外は良明に買う理由を説明するのが習慣だった。説明するうちに本当に必要なのか自分でも分からなくなる、なんて経験は少なくなかったし、訪ねてきた友人達に部屋の中が殺風景だと言われたのは一度や二度のことではない。。
その壺は商店街にある古道具屋の、ショーケースの中で埃をかぶっていた。昼前の買い物に行くデパートへの通り道にあったので、成美はいつもその横を通り過ぎていた。
何度か眺めるうちに、それはいつか見かけた壺じゃないかという考えが浮かんだ。少女時代の食卓の上だったかもしれないし、学生時代彼氏と眺めた物だったのかもしれない。だがいずれにせよ、はっきりと思い出せないのなら重要なものではなかったのだろう。
ただ、積み重ねというものは厄介だった。何気なくそれが目に留まるたびに、成美は今日も買われていなかったと安堵するようになっていた。扱われ方からして芸術的な価値はさほど無いのだろうが、客足の乏しいあの店が潰れないとも限らない。そんな考えさえ浮かんだ。
それでもその壺を買うのには、更に幾らかの勇気と時間が必要だった。行動とは思考の積み重ねの果てにある。そんな良明の口癖が頭から離れなかったからだ。
そして葛藤と、結局は衝動の末、マンションの一室にその壺は置かれる事になった。両手には少し余る胴回り、派手さは無いが、小振りで可愛らしい花器だった。下に行くにつれ色合いが変わる乳白色の肌は、指でなぞると陰影によりまたほんの少しずつ表情を変えていく。
良明が初めてその壺に気がついたのは、昨日の夜の事だった。
和室の隅に置かれた、花の飾られていない花器。良明は興味の無さそうな目を一度だけ向けると、
「いくらだった」
手元の新聞にすぐに視線を戻し、素っ気無くそう言った。
「三十万円」
流し台の前に立ちながら、背中越しに成美は答える。がさり、と、新聞が丸められる音が聞こえた。良明の唖然とする顔を見てみたいという衝動に駆られたが、成美はそれをぐっと堪え、ひたすらに食器を洗い続けていた。
自分を形作っているものは、過去であり経験だ。成美が大学時代に交際していた青山の口癖だった。彼は生物学を専攻していたが、ロマンという言葉をやたらと口にしたがる男だった。
外見的差異、DNA配列、静脈パターン、それらは全て付加的なものでしかないんだ。主義や価値観、思考でさえそうだ。全ては記憶によって生み出されている。何故なら無から何かを考え出すことは出来無いからだ。だから考えというのは、ひょっとしたら魂なんてものさえ、記憶の一部でしかないんじゃないかな。
まるで熱に浮かされたように、青山はそう繰り返していた。良明に聞かせれば、また無責任だと切って捨てるのだろうか。ひょっとしたら、ただ唖然と口を開けているだけかもしれない。それともただ押し黙って、新聞を読み続けるのだろうか。
成美は最近、学生時代のささやかな恋に思いを巡らせる事が多くなっていた。といってもその視線は青山に向けられているのではない。愚かしく、抱えている孤独に気がついていなかった自分という人間に対してだ。
記憶はある。十数年前、それはたしかに自分自身だった。しかし記憶は積み重なり、また新しい自分が生まれていた。
だけど、その薄皮を剥がせばまた昔の自分に戻れる筈だ。出来もしないそんな事を呟きながら、また増えていく記憶をただ眺めている。
良明の低い声を聞きながら、成美はかりかりと人差し指の爪で壺の下の丸みをかいていた。よくよく見れば、そこだけ色の違う事を見て取れる。まるでかさぶたのような、修繕の痕だ。
「壺に三十万なんて馬鹿げている」
一日たってようやく良明は口を開いた。生徒達の前で教鞭を取りながら、ずっと壺の事を考えていたのだろうか。何であれ自らの行為には責任を持たなければならない、そう教える彼らしいとも思えるが、どこか滑稽でもある。
「俺の稼いだ金だ、とは言わない。お前個人の買い物も時には必要だと言う事は理解している」
ずるい言い方だと、成美は思う。良明が使う“理解”という言葉は、“それ以上は自分が考える必要は無い”という意味なのだから。
「だが、そんな壺に三十万も払う価値があるとは思えない」
「鑑定書があるわ」
「重要なのは俺達にとって必要なのか、という事だ」
それきり良明はまた沈黙した。かりかりかりと、壺をひっかく音だけが聞こえている。
傷があったから、本当は三万円なのよ。そう言いかけて、成美はやめた。
乳白色の肌にかぶせられた薄皮。それを剥がさないように注意しながら、成美は人差し指を動かす。
かりかりかりかり。明日の自分も多分、そうしているのだろうと思いながら。
<了>