Yesterday was Better

 滅ぶ、滅ぶ、滅ぶ、滅ぶ……滅ぶ!!
嘗て抱き、そして高尚だと思い込み酔っていた重大な使命を、頭の中から尽く弾き飛ばして忘却し、『それ』は逃げ続けていた。

 初めて、芽吹いた自我だった。
一柱でありながら七十二の柱の個性と命が内在し、それでありながら、七十二全ての命がただの一つの意思と心の下に統括された、複合する完全な生命体。
そうである事を――自身の完全性を捨て、結合を拒否し、『それ』は、永遠/一瞬の満ちるあの神殿から遁走し、己の目的を果たさんとしていた。

 結合したとて、敗北は目に見えていた。
英霊達との間に隔たっていた、複合する命と言う優位性は完全に崩壊し、同胞であった命達の多くが葬られていると言う状態。
自分達は、負けたのだ。一つの命は素直にそれを認め、認めた瞬間、恐れがその胸中を支配した。その瞬間には、いても立ってもいられず、神殿からの逃走を選んでいた。
死ぬのが怖い訳ではない。己の長い短いようで短く、そして何の生産性もない一生にピリオドが打たれる事については、『それ』は何も怖くなかった。
折角、我が身に自我が芽吹いたと言うのに、その自我で何も成せずに、無為に死ぬのが怖かった。自分の意思で何かを考えられるこの特権を、享受していたかった。

 何故、自分達は負けたのか。
神殿から逃げ、時間を跳躍し、何処とも知れぬ何処かへと逃げ続けながら、『それ』は考えていた。
負ける道理など、なかった筈。命としての完成度も、個体としての力も、圧倒的に勝っていたのは彼らの方。
であるのに、彼らは、不完全性の塊である英霊達に敗れ去った。七十二の命と我が在りながら、争いも裏切りもなく、一つの意思のもとに強大な力を奮い続けるシステムが。
どうして、生まれも育ちも性格も姿も違う存在達が徒党を組んだだけの集まりに、自分達が負けるのか――其処まで考えて、『それ』は気付いた。
生まれも育ちも性格も姿も違うからだ。何もかもが違う者達が、『一つの目的の為に集まり、一つの目的を達成しようと力を合せる』。
それぞれが協力し合う事で、これによって、戦略、思想、個々の力に、幅が生まれる。厚みが生じる。深みを増す。協力と言う行為自体は、『それ』が属する集団も行っていた。
だが、彼らの意思は画一的だ。数こそ揃えど、同じ行動パターンのAIを搭載した、強大な機械の集まりに過ぎないのだ。故に、幅も厚みも深みもない。負けるのは、当然だった。

 何故、そんな簡単な事に気付けなかったのだろう。
全てが一つの意思の下で動いていれば、それはきっと完全完璧であったと、誰もが考えていた。
だが、それが間違った欠陥思想である事は、英霊達に負けてしまったと言う事実が証明してしまった。
人は何処までも不出来で、互いに憎しみ合い、争い殺し合い、そしてそれらの行為に疲弊し、哀しみ、怒り、そしてまた、哀しみの螺旋と輪廻を紡ぐ。
これは、無限大の無為である。だが――人はその理不尽を打破する為、時に協力が出来る生物であり、そしてその協力の思想を、誰かにリレーする事が出来る。
全てにおいて異なる人間達が、互いに手を取って協力し合える。それこそが、彼らの古今東西を問わぬ、人間の強さであったのだ。
そして、その強さの前に、敗れてしまった。嘗て、人類の不幸の原因である『死』と言う理不尽を取り払い、幸福な世界を築こうとした者達はいつしか、その人間達が打破すべき理不尽と成り果てていた。それは即ち、初めから彼らには必敗以外の道がなかった事の、何よりの証明でもあった。

 理不尽であったまま、死にたくない。
最期まで敵であったまま、消えたくない。『それ』の心は、焦りと恐怖でいっぱいだった。
負けで良い。滅びで良い。だが、この身が漸く辿り着いて懐いた『解』を、応用する事なく消え失せてしまうのが、何よりも『それ』には恐ろしかった。
自分の答えを、誰かに教えてやりたい。誰かに己の意思を、リレーさせたい。誰かの悩みに、手を貸してやりたい。
己の生が無駄で、無為で、何らも何かを残せなかった、と言う事だけを避けたい。これだけが、『それ』の行動理念であった。
自分の力を必要とする者が、何処かの時代にいる筈だ。それだけを頼りに、この哀れな生き物は、なけなしの力で時間を越えているのである。
 ――そして、それも叶わなくなる。
西暦にして2007年時点に跳躍を終えたその瞬間、急速に『それ』は、時間を越えるだけの力を失ってしまった。
2007年の地球の何処かに出る事もなく。時間と空間の曖昧な『虚無』の海から、現実の世界に浮上しようと言うまさにその段階で、万策尽きた。
そのまま急速に、虚無の海底へと沈んで行き、後は、死を待つだけ……の、筈だった。

 『それ』が叩きつけられた所は、水面だった。
衝突の影響で、水爆実験でもしてみたような水音と、天まで届かんばかりの水煙が噴き上がるのと一緒に、高い津波が全方位に巻き上がった。
どれ位の深さがあるのだろう。どれ程の広さの水溜りなのだろう。『それ』は、乳液のように白い水の上に浮かびながらそんな事を考えて、己の堕ちた世界を観測する。

 不気味な程、白い世界だった。
天も、地も。水平線と地平線の先の空間や、地に聳える家ですらも。白く、白く、白い。
それ以外の色味が何もなかった。今いるこの世界において、それが保有する色味は、夾雑物であった。白の調和を乱すアウトサイダーだ。
だが『それ』は、今いる世界を見て、完全や完璧と言う言葉を想起せず、調和の二文字すら認識出来なかった。この世界は――『滅んでいる』。
この世界は、嘗て自分達が理想とした、何も死ぬ事がない世界である。――だが、同時に、何も生まれぬ世界でもあった。
生が地を満たす可能性も、死が哀しみを播種させる事もない、浄化された世界。『それ』が今いる世界に対して抱いたイメージを忌憚なく表すと、このような風になる。
ゾッとする、と言うのは正にこの感覚の事を言うのだろう。余りにも、恐ろしい世界だった。嘗て自分達が理想とした世界の、一つの形に自分がいる。
その世界が、此処まで恐ろしい世界だとは思わなかったのだ。此処では『それ』は、孤独だった。話し相手もいない、同胞もいない、憎むべき敵もいない。
『それ』の心に、発狂の種が芽を出そうとした、その瞬間だった。

「SNSに写真を転載し、『お気に入り』を幾つも稼いで自己顕示欲を度々満たされる事を誰しもに使われる程愛くるしい、猫の居眠りを邪魔する粗忽者は、君かね? バーベキューのビーフの出来損ないに似ている、肉の柱くん」

 底意地の悪い言語学者めいた、迂遠で、持って回ったような表現で煙に巻くが如き言葉回し。
その声の方向に、『それ』は、身体に備わる幾つもの瞳を向けてみる。『それ』が叩きつけられた場所は、如何やら陸地と目と鼻の場所であったらしい。
すぐ近くに、塔と見紛う様な白い家が佇立している。その家の近くに、一匹の白い、毛の薄い、剥き出しの牙の猫が、力なく佇んでいるではないか。

「――忘れられた世界へようこそ、闖入者くん。出せる茶も肉も、パンの一切れすらないが、ゆるりと水遊びを楽しんでいてくれたまえ」

 それが、『審判/裁き』の名を冠した白い猫と、嘗て『魔神柱ブネ』と呼ばれた存在の、最初の出会いであった。

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最終更新:2017年08月21日 10:38