The Race Of A Thousand Ants






         曇りてとざし 風にゆる

         それみづからぞ 樹のこゝろ

         光にぬるみ 気に析くる

         そのこと巌のこゝろなり

         樹の一本は一つの木

         規矩なき巌はたゞ巌

                       ――宮沢賢治、こゝろ






 ――何が、お前には不服だと言うのだ……?

 玉座に座る男が、実に弱弱しい光を宿した瞳で俺に言った。
油でも塗った後のように光り輝く褐色の肌を誇っていた、俺の父上の、何と老いて、憔悴しきったことか。父はこの数日で、めっきりと老け込んでしまっていた。

 ――見捨てると言うのですか!? 私を……この子を!!

 生まれて間もない、それこそ一年と経っていないだろう赤子を抱きながら、涙を流して叫ぶ女がいた。
ヒマヴァットに堆積する万年雪のような、淡雪を思わせる白い肌。教養の高さを窺わせる、理知的な顔立ち。女は、■■■■■■の者だった。
そんな女が、鬼を宿したような顔つきで、俺の事を睨んでくる。その手に抱いた、彼女と、俺の子供だけが、この場に在って無垢を保っていた。
無邪気な瞳で、俺の子供が、俺の方を見つめてくる。見捨てるのが、心苦しくなかった訳じゃない。
邪気も、慈悲も、善も悪もない、無垢のままの瞳は、俺の心を動かした。だが、『俺/私』は、それでもこの子の試練を乗り越えなければならなかったのだ。

 ――だから俺は、この子に■■を意味する名を与えて


「夢を、見ていたのかね。キングの座を蹴った物好きよ」

 瞼を閉じたまま、十と数時間は経過していた。その間、ずっと闇の暗幕が男に垂れていた。
それだけの時間、瞼を閉じていながら、男は眠りに落ちる事はなかった。苦行の一つに、そんな修行がある。ずっと、瞼を閉じたままいる苦行である。
その間、寝てはならない。瞑目していながら、意識と心を一の状態に保つのである。どんなに眠い状態で瞼を閉じていても、起きている状態を維持するのである。
肉体を痛めつける必要もなく、特別に誂えた道具を用意する必要もない。人間の身体一つで誰でも出来る、最も厳しい苦行の一つであった。

「眠ってはいないさ」

 人は、そんな苦行をこう呼ぶのである。『瞑想』、と。

「君が、己の脳内にだらしなく浮かんでいるプティングより柔かい物質が産み出す、精神と幻想の昏海を遊弋している間、こちらでは十一時間二九分五三秒が経過していた」

「時間の無駄だ、と言いたいのかな」

 試すような口調で、男が言った。
その口に、あるかなしかの微笑みを浮かべながら言葉にするその様子には、面白そうな気風が漂っている。

「時間とは、いつ誰にでも、時速六〇分の速度で我々の下にやって来る。それは、愛くるしい猫である私にも、ガーディアンを気取る君にもだ。君がメディテーションに精を出している間、この激動の世界は絶えず、素早く、変化したぞ」

 男の耳に届く声に、彼は、子どもの他愛ない悪戯を見るような大人のような苦笑いを浮かべてしまった。
声の主は、酷く迂遠で、言語学者的な修辞法でいつも自分に語りかけて来るので、それが何だか、面白く感じてしまうのである。

「実はな、この瞑想と言うのは『私』である俺が、生涯の内長い時間費やした行動が元になっている。それを、『俺』もやってみたかったのだ」

「ふむ。それで君は、心の湖の水底で、何を思ったと言うのかね」

「時間の無駄だった、と言う事さ」

 かぶりを振るう、男。

「お前のな、言った通りだ。俺が静謐の世界で、心の海を揺蕩っている間、世界は激しく動いていた。人の身体も人の心も、移ろい、形を変えていた」

 なお、男は言葉を続ける。

「『私』はな、宇宙の事を考えていた」

「宇宙? 空の果ての事かね」

「当たっているが、そうではない」

「では、宇宙とは何かね。偉大なる飲んだくれ君」

「我々が見ているものの、全て。そして、見えていないものの、全て」

「全て?」

「ああ」

「この部屋もか」

 白い壁紙、白い天井、白い床が広がる、広さ七畳程の、何の調度品も置かれていないワンルームを見ながら、声の主が言った。

「そうだ」

 男は、迷わず肯定する。

「山もか」

「そうだ」

「肉ではない海もか」

「肉ではない海もだ」

「雪もか」

「雪も、だ」

「何処ぞの山の岩も、何処ぞの山の頂上の空気もかね」

「そうだ」

「天も」

「そうだ」

「雲も」

「そうだ」

「君もかね」

「俺も、宇宙の一部らしい」

 間が、一秒空いた。

「君も、か」

「そうだ」

「なら、私もか」

「あんたも、宇宙の一部さ」

「私は、生まれ落ちてから、弟と言う存在を認識し、そして成長しきった今日に至るまで、そんな事を思った瞬間は一度としてない」

「なくとも、そうなのだ」

「では、君の髪は」

 男が自分の髪をいじった。

「これも宇宙だ」

「では、君の身に纏う服も――」

「宇宙だ」

「――」

「お前の声もそうだ。生えている毛もそうだ。お前が今頭の中で考えている事も、それから、ここでは見れない、遥か彼方の平原も、そこに生えている草も。その草を食べる牛も、星も、花も、水も、木も、家も、雨も風も人も獣も、あらゆるものが宇宙なのだ」

「ならば、この世界に在る全てが宇宙だとでも言うのかね」

「俺はそうだと、初めから言った」

「そうだとして、何だと言うのだね?」

「これらは皆、動いている」

 男は言った。

「山も動いている。海も動いている。雪も動いている。岩も、空気も、天も、雲も、平原も、草も、花も、星も、水も、木も、家も、雨も、風も。お前も、俺も。皆、動いている。この世に存在するあらゆるものは動いている」

「私や君が動くのはわかる。だが、山や、岩までも、何故動く?」

「動いているのだ。刻(とき)の中をな」

「刻、だと?」

「……『私』はな、この、大地や天が動いて行く、ごうごうと言う轟きを、聴いた時があった」

「……」

「この宇宙は、何によって動かされているのか。そして、どこに向かっているのか? 『私』はある時、堪らなくそれが気になってしまったんだ。そして、その真理を求めんが為に、旅に出た」

「……」

「その旅でな、よく瞑想をしたものだよ。そして、その旅に、宇宙が動くのを感じていた。『私』は、それを享受していた」

 かぶりをまた、男は振った。二度。頭の中の雑念を、振り払うかのようだった。

「だがな、それでは駄目だったんだ。宇宙が動いていると言うのなら、『私』は、その宇宙に合わせて、宇宙よりも速く、宇宙よりも大きく。動き続けねばならなかったのだ」

 男は平素と変わらぬ声音で言葉を続けた。そこに熱は籠っていない。なのに、石に刻まれたあるかなしかの亀裂に、水が染み入って行くかの如く、男の言葉は、この場にいる誰かの心に染みて行く。

「『私』は、宇宙が動いていると言う事を知っていながら、そこからどう動くかを誤った。全ての人が、少しだけ優しくなれる法を求めていた『私』は、初めの一歩を決定的に踏み違えていた」

「君には、それが出来る、と」

 沈黙で、男は返した。

「わからない」

 十秒程経過してからの、言葉だった。

「無駄かもしれない、徒労に終わるかもしれない。しかしそれでも、俺は、やってみたいのだ。遂に、俺の側面である『私』が達成させる事のなかった境地に、俺は、俺のやり方で至ってみたいのだ」

「――その為の、聖杯戦争か」

 ぐるる、と、獣の唸りが上がった。

「貴き霊と、汚れた血を混ぜ合わせたブイヤベースで満たされた杯に、何かを祈る、か。東西の神秘学に真っ向から勝負を挑むような、素晴らしいイベントだよ」

 非難がましい声に、男が返す。

「『私』は■■だったが、『俺』は違う」

「では、君は。何であるからこそ、聖なる杯を手中に収めようとするのかね。真理の旅人だった男よ」

「――王だ」

 迷いも、躊躇いもない。狐疑逡巡とは無縁とすら言える程の、即答だった。

「王であるからこそ俺は――『私』には選べなかった選択で、世界を救おうとするのだ」

 作った握り拳を、眼前に持って行き、男が続けた。

「優しい世界を、作ろうと言うのだ」

 力強い言葉で、男が言った。ぐるる、と、獣が唸りの声を上げた。
聖杯戦争の本開催、その、一週間前の幕間が、これであった。

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最終更新:2017年05月21日 17:16