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抜き書き
<聖人崇敬>
○それで聖人への祈りというのはかいつまんでいえば「○○さん、わたし[たち]のために祈ってください」というものです。神への祈りとは根本的に違うんです。
それで、キリスト教徒はわりあいと気軽に「どうかわたしのためにお祈りください」ということをいいます。生きているもの同士でです。聖人にそれをいわば話しかけるのが聖人への祈りです。なんで永眠したなかで聖人だけそういう祈りの対象になるかといえば、それは教会=信者の共同体が「この人はすでに天国にいる人だよね」という確信をもっているから
<三位一体>
○キリスト/神/聖霊の三位ってそれなんて(ry 聖三位は「父と子と聖霊(聖神)」です。
「父なる神」と「ロゴス (λόγος) である子なるイエス・キリスト」と「聖霊」の順番で言えということですね。
違います。順序はさして問題ではない。その言い方は子が神であり聖霊が神であることを曖昧にする、だからよろしくないということです。正教会ではそれを協調して「神父」(かみちち)「神子」(かみこ)「神聖神」(かみせいしん)というような言い方もいたします。
○位格というやつについて言えば、とりあえず「父と子と聖霊は一つの神と3つの顕現である」という表現が必ずしも間違っているかというと微妙なのですがw、とりあえず「一つの実体」が想定されつつも、「三つの位格はそれぞれ自立存在である」という点に注意しなくてはいけません。
上の表現に誤謬があるとすると、「一つの神が(人に対して)三つの姿を投影している」という感覚を与える点がまずいですかね。三位格が仮初めの顕現で本体として神がいる、というわけではないのです。それぞれ等しく至聖な三位格があって、本質が同一である、という順番で考えるとよいかと。
○単純化して言いますが、まず
- 両性説=イエスは神にして人である(神性かつ人性)
- 単性説=イエスは神である(人性は神性に吸収された)
- 仮現説=イエスが人として現れたのは仮初めの幻のようなものであり、霊的な存在がそう見せかけただけであった(人性の完全否定)
- アリウス派=神は唯一であり、イエスは人であって神の養子(人性)
- ネストリウス派=神のイエスと人のイエスがあり、両性は区別される
と考えて下さい。んで、Brittyさんがおっしゃるように、問題は「イエス・キリストとは何か」に集約されます。
今に至るキリスト教正統派、つまりニカイア・コンスタンティノポリス信条ひいては三位一体論を支持する諸教会の教理とは、「愛に溢れた神が、人=被造物となって(受ける必然性がないのに、愛故に)難苦を自ら受け、それを通じて人類の罪を贖った」というものですが……
まずイエスが人(のみ)だとしたらイエスの受難自体の神聖性が削がれます。神である存在が人として自ら受難したからこそ、全人類の罪を贖えたというわけです。次にイエスが神(のみ)だとすれば、人として受難したのではないですから人の罪を贖うことはできない(というか、ヘブライ的「贖い」に必要な「生け贄」になれない)。というわけでイエスが「神にして人である」と考えられたわけです。
この「正統派」と、それが排斥した種々の論派の対立点は「イエス・キリストは本来的に人(被造物)であったのか否か」「イエス・キリストは本当に人になったのか」「イエスは贖いの後も人であったのか」といった点にあったのですが、そうした論点の背後には「(キリストの)贖罪と、それによる救いの神聖性」という問題があったのです。
○ただ瑣末なことですが「単性論」については注意が必要です。単性論教会といわれている教会は自派の教説を単性論と理解されることを拒絶しており、そのなかでもシリア正教会は東方正教会のアンティオキア総主教座と「両派の教説はたんに言語表現の上での差異であり根本的には一致している」を旨とする合意文書を交わし、完全相互倍餐関係にあります(ただし他の正教会はこれを承認していません)。
○まあ細かいことを言い出したらキリがありませんしね。今の文脈では、現存しない「真の」単性論派だけ想定して問題ないでしょう。といいますか、多分勉強したらその辺は「単性論と言われることもあるが――」と知れるかと。
○ともかくも根幹にある「キリストとは何か」を理解することがなぜあの時代に斯くも切要に求められたかといえば、それは聖体機密(mysterion)において信者がキリストと一体になることが救いをもたらすということに当時の人々が極めて自覚的であったからではないかと私は理解しています。
<サクラメント>
○キリスト教は門外なので、別の観点から。
キリスト教徒は秘蹟を通じて、かつ通じてのみ、有効なキリスト教徒たり得ます。が、この秘蹟を行使する個体は、正式なヒエラルキアに沿っていなければなりません。
ここで問題になるのは、神学・教義上の問題がある個人が施した秘蹟が有効か、それとも無効かということです。特に、事前にはその異端が明らかではなく、さらに異端が明らかになったときには既に死んでしまっているような人が一番の問題になります。救済を受ける可能性は生前の行いによってのみ定まるのが原則ですから。
結局、多くの場合には「錯誤により異端者から秘蹟を受けた場合、その秘蹟は有効」と裁定されるのですが、しかしながらこれは完全ではない。
従って、司牧にとって、自分が異端者と真偽決定される(神学は論理を以て構成されるため、必然的に真偽が決定可能な部分を有します)ことは、個人の破滅ではなく他者の、それも最も護るべき弱者の破滅を意味しかねません。
これが、善良である司牧達が善良であるが故に、神学・教義論争において自己の絶対的正統性を示さざるを得ない理由となっています。
この点をわきまえずにいると、神学論争を理解することができません――敬意を欠く人間に、信仰を理解できるわけもないのですから。
聖職者は自分が正しいと主張しないと、論理的に間違っていることになり、つまるところ異端とみなされ、(自分だけなら良いとしても、自分から洗礼等を受けた)随従の者も一緒に地獄落ちになってしまう、ゆえに神学論争は死んでも勝たなければならないということですか。
そうですね。責任問題になっちゃうんですよ、構造上。なので、引くに引けないんです。
○ただ一方で、少なくとも西方教会においては in ordo「行為において有効」という考え方があり、所定の方式によって有資格者が執行した秘蹟は、合法性のあるなしにかかわらず[=地元司教の認可済み]、有効であるという見解だったように思います。あとで時間のあるときにCCCを確かめて見たいと思うのですが、これはおっしゃるとおり、他者、すなわち秘蹟を受ける側の福祉の顧慮(オイコノミア)から来る規定だろうと私も思います。一方、東方正教会では合法性と有効性と分けて考えるということをあまりしませんので、たんに「ふさわしくない」とした上で個別事例についてそのつど判断するというようだったように覚えています。
○伝統的教会においては、洗礼同様に叙階もまたサクラメントなわけです。というわけで極端な話、しかるべき手続き(=サクラメントとして成立する儀礼)で叙階使徒継承が保たれている限り(=キリスト→使徒→司教→司教……という叙階関係が成立してさえいれば)、洗礼を授けるものの神学的立場の如何に関わらず、理論上は常にその洗礼は有効ということになるでしょう。まあ、極端な話であって、概ねアドホックな判断がされてきましたが。
とは言えこのような姿勢は多分に現代的なもの――近代エキュメニズムの所産――というところがありますし、特に今回の文脈のような時代の話だと、やはり各地の司教は己の教徒らの魂を背負って論争していたと言っていいのではないかと。何よりS師の発言はどの時代のキリスト教の云々とかではなく、人の魂を預かる意味での聖職者一般の話をしているわけですしね。
○そのとおりですね。そしてそれは今でも変わらない。ですが一方で、教会は外からみえるほど文言に rigid に縛られているわけではない、というのも事実です。これは伝統的教会とプロテスタントのような新しいところとで若干異なるかもしれませんが。
zeb さんの「(自分から洗礼等を受けた)随従の者も一緒に地獄落ちになってしまう」というのは機密の有効性の理解からするとちょっとどうかなと思います。正しくない司牧、正しくない礼拝によって自他共に大罪を犯す→司牧者は己の適切さについて常に自覚的であるよう要請されている、というのはその通りだと考えますが、その表現についてそういうことが通時的にいいえるのか私は具体的な例を知りません。それを諾うのでしたら、具体例をご教示いただければ幸いに存じます。
○zebさんの表現に関しては諾うつもりはなく、私も如何なものかとは思いますが、何らかの意味で専門分野として足を突っ込んでるのでなければそのような理解でもまあいいのではないか、程度には思われますね。特に、世間では「神学論争」という単語が「現実離れをした実りのない論議」というような意味で揶揄に使われているわけですし、そのイメージを補正しようとしているからには許容されるべき行き過ぎかと。
あんまりこっち方向に行き過ぎるのもアレですね。一般に我々が扱っているようなファンタジー世界だと、聖職者にとっては神性が授ける魔法という形で己の真理性証明は日々為されているわけですから、神学論争にそこまでの切実性はないかもですな。むしろ深刻な敵は、現代で言う宗教学じみた連中か。グローランサでは神知者とか……第6世界の信仰系マジシャンは大変そうですね。
○ヨーロッパで神学論争が机上の空論のようにいわれたのは啓蒙思想あたりからかと思います(カントも特殊形而上学についてぼろかす書いています)、神知者的アプローチなのかもしれず。ただ信心と教義あるいは祭儀の意味と形式の関係に自覚的でない読者にとって、あるいはそこで問われている教義そのものを意味がないと断じる立場からは、「現実離れをした実りのない論議」にみえても仕方ないかと思います。かの「あんぱんミサ」に私は他人事ながら震え上がるのですが、この感覚はおそらく食パンでも無酵母のナンでも自由に用いるプロテスタント諸派の方には、共有が難しいのではないかとも思います。
ゲーム内神学論争についていえば、ルナーとその外の部族外ではどうでしょう。東西教会で伝承と教義の細かい話をはじめると共通の土台を確かめつつ机の下で足を蹴りあうような感じになることが多いのですが、案外そんな感じじゃないのかなと思ってます。
最終更新:2008年08月31日 05:04