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我々は皆、形を母の胎で借ると同時に、魂を里の境の淋しい石原から得たのである。
───柳田國男『遠野物語』
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むっと雨の匂いが鼻についた。
五限が終わって少女が渡り廊下に出ると、予報の通りに外は雨になっていた。
空は朝からどんよりと曇っていたので、銀糸がしたしたと降り注ぐ様を見てもそう驚くには値しない。
時折どこかで「うわー」などと悲鳴のような声も聞こえるが、それはうっかり傘を忘れたか、さもなくば余程雨が嫌いな生徒に違いない。
少女―――
アーシア・ヴェルレーヌは幸い、そのどちらでもなかった。
雨そのものは、アーシアはそう嫌いではない。予期せぬ天候の変化は、旅人にとっては貴重な娯楽でもあるからだ。
とはいえ、今の自分には関係ないことか、と。アーシアは一つ息を吐く。
「この分だと、帰りは少し遅れそうね……」
独り言を呟く。
雨はすっかり本降りで、うっすら地面を覆った水に敷石が浮いているような状態だ。
人間の都合などお構いなしに、雨はひたすら気持ち良さそうに、したした、したした、地上のあらゆるものを濡らしながら降り注いでいた。
その日の学校図書館は、数人を除いてはほとんど利用者がいない状態だった。
常に空調の音が聞こえるほど、そこは静かな場所だった。
広い書架にも、閲覧室にも、人影らしい人影はない。木の匂いがしみた空気を、空調が僅かに揺らしている。
アーシアにとって、その静寂は心地いいものであった。
特段人嫌いというわけではない。旅も、人との触れ合いも、アーシアは好きだ。だがそれと同じくらい、彼女は読書というものが好きだった。
孤独ばかりを好むつもりはないが、本を読む時というのは、やはり一人静かなところで、というのが理想である。
図書館というのも、またいい。
本の匂いが、アーシアは好きだった。
図書館や書店に特有の、読書人には馴染んだ紙の匂いは、アーシアにとっては精神安定剤にも近いものだ。
図書館や書店に入ると、アーシアは、ふと安心する。
「ん……」
そんなことを思いながら、肩の力を抜いて息を一つ。
図書館の一角。四人掛けの席を占領して、アーシアは大量の本をそこに広げていた。
アーシアが自分の楽しみのために来ていたら、もっとこの状態を楽しんでいただろう。だが、今は調べもののために、彼女はここにやってきているのだ。
調べものの内容は、他でもない。
『伝説』『神話』『都市伝説』───それらの専門書や研究書、単なる読み物までもがその席には積み上げられ、広げられていた。
───Chaos.Cellのデータと、大した齟齬はないみたいね。
独りごちて、開いていた専門書を閉じる。実に数時間ぶりの休憩であった。
アーシアがやっていたのは、Chaos.Cellのデータベースに記載された情報と、この地にある書物の情報との比較考察であった。
アーシアはこの世界の住民ではない。それはChaos.Cellに由来する人間ではないということと同時に、再現された『冬木市』があったであろう世界の住民でもないということだ。
当然ながら、前提となる知識自体がない故に、まず基準となる判断材料が必要であった。聖杯戦争のマスターにはChaos.Cellのデータベースへのアクセス権が与えられるが、それとてどこまでアテにしていいものか。
結論を言えば、基準点となる知識を、アーシアは得ることに成功した。冬木市の存在した国『日本』とその周辺国についての表層的なものに限定されるが、データベースと書物を照らし合わせて、そこに齟齬が少ないことを確認できた。
得られた知識が本物の『日本』にあるものと同じかどうかは知らないが、少なくともChaos.Cellにおいては正当なものと扱われるのだろう。データベースそれ自体の信用性については、彼女が知る「ロフト」や「ジェイゾ」といった英雄を調べることで、その正確性を確認済みである。
そういうわけで、収穫はそれなりにあった。
とはいえ流石に目が疲れた。
今日は、そろそろ帰ったほうがいいだろう。
「……どうかな、調べものは進んだかい?」
アーシアは目を押さえていると、突然声をかけられた。
顔を上げると、そこには貴族然とした優男が、無駄に爽やかな笑みを浮かべて立っていた。
「……あんまり、かな?」
苦笑して答える。実際、収穫が皆無というわけではないが、できたのは現状の再確認程度だ。進展したとは口が裂けても言えまい。
「そう。まあ僕としては、こうして安穏と過ごすのも嫌いじゃないから別にいいんだけどね」
椅子を引いて腰かける。彼は存外に背丈が高く、こうして向かい合うと自然とアーシアが彼を見上げる形となる。
穏やかに笑う彼は、人間ではない。
サーヴァント・キャスター。アーシアに与えられた一角の英霊であり、聖杯戦争に参加するための相棒のような存在であった。
とはいえ。
「ねえ、キャスター。それで他のサーヴァントは見つかった?」
「ああ見つかったよ。それはもう強そうなでっかい鎧武者と、如何にも蛮族ですって感じのむさ苦しい巨漢が筋肉モリモリで殴り合ってた!
あー嫌だねぇ、思い出しただけで背筋が寒くなる。これだから殺したがりの英雄は嫌いなんだ、ほんと馬っ鹿じゃないか?」
目の前で「あーやってらんねえ」とでも言いたげにいじけているこの優男が、本当にサーヴァントなのか?と聞かれたら、アーシアでも若干言葉に詰まってしまうだろう。
尚も子供みたいにうじうじと文句を言っているキャスターに、アーシアは更に問いかける。
「それで、そのサーヴァントたちは?」
「やだやだ全く英雄(ばか)はこれだから……え、ああうん。景気よく殴り合って最後には相討ちで消滅したよ。蘇生タイプの宝具でもなければ完璧に退場したね、あれは」
「じゃあ、そのマスターたちは……」
「鉄片拾って逃げ出してたよ。ああ、聖鉄っていうんだっけ?
まああの分じゃ、聖鉄をダシに他のサーヴァントとの契約目指して頑張るんだろうけど」
普通に考えて無理ゲーだよねぇ、とカラカラ笑うキャスターに、アーシアは恐る恐るといった具合に尋ねる。
「じゃあ、その人たちはまだ死んでない、のね」
「ああ、"殺してない"よ。君の要望通りにね」
あっけらかんと、キャスターは答えた。
凡人のように不平不満を言うその態度のままに、彼は誰も殺さなかったとアーシアに告げる。
「けど、君も随分と変わったマスターだよね。聖杯は要らないし戦いたくないし、極力人を殺したくないなんて。
別に闘争と無縁な人生を送ってきたわけじゃないだろう?」
「だから、よ。それがどういうものか少しでも知ってるから、好き好んで誰かを傷つけたいなんて思うわけがないもの。それに……」
そこでアーシアは、ほんの少し俯いて。
「単純に、怖いっていうのもあるから」
「……そう」
「失望した?」
「まさか。むしろ共感しかないよ、その感情は」
キャスターは自嘲したように笑いながら。
「正直な話、絶対に聖杯を獲るぞとか、絶対みんなを助けるぞとか、そういうこと言われたら発狂してた自信があるね。
強く気高く雄々しく、光へ向かって一直線……そんなの、二度とごめんだし」
譲れない願いのために聖杯を求める。失われる人命を憂いそれを救おうとひた走る。
そのことについての正しさと清さを、キャスターは理解できる。彼は英雄らしからぬ凡人めいた価値観の持ち主だから、それらが所謂「尊いもの」であることは知っている。
だが、それに自分が巻き込まれるとなれば話は別だ。
聖杯のために、見知らぬ他人のために……そうした指針は、言い換えればサーヴァントたるキャスターに「死力を尽くして戦え」と言っているようなものである。
冗談ではない。なんでそんなことを強要されなければならないのか。苦難と苦痛に塗れ死が支配する戦場を、どうして自分のような凡夫が歩めるという。
正しいことは痛いのだ。力を持っていることと、だから戦えることは全く別の概念だから。
「けど、君のその方針なら……うん、まだ付き合えるかなって思う」
「そんなに戦うのが嫌なら、自分から舞台を降りるって選択肢もあったと思うけど」
「冗談。自殺なんて怖すぎてできるわけないし」
キャスターは変わらず鬱屈した苦笑いを浮かべたままで。
けれどアーシアは、そんな彼の嫌悪感の一つでも抱きそうな態度を、何故か嫌いになれないでいるのだった。
▼ ▼ ▼
日が傾いた今になっても、雨はしとしと降り続いていた。
雨のけぶる中、学校を出たアーシアは住宅街の灰色の小道を歩いていた。
しっとりと濡れた、くすんだ緋色の傘をさし、鮮やかに濡れた緑を横にして、白髪の彼女は静かに歩く。
麗姿。
その姿はあまりに自然で、完全に景色に溶け込み、これほど目を引く姿でありながら、それでも尚注視しなければ見逃してしまいそうになる。
「……止まないわね、雨」
【そうだね。結局ずっと降りっぱなしだ。これなら別に雨宿りする必要もなかったんじゃない?】
「読書は好きだから、別に嫌じゃなかったけどね」
雨は降り続く。
暗くなりつつある曇天に、雨粒の弾ける音が反響する。
それを傘の裾から見上げ、ぽつりと呟く。
「巷に雨の降るごとく、か」
【それは?】
「詩。ポート・ヴェルレーヌっていう人の」
調べもののついでに読んだ本。詩集。そこに載っていた一節だ。
通り過ぎた後に芳香を残すような、情緒のある詩人だった。アーシアはその詩人を気に入っていた。
【雨、雨か……。
マスター。いつか時が来たら、僕なんか捨てて違うサーヴァントと契約したほうがいい】
「……突然、何?」
【忠告さ。君だってこんな、冷たい死人の負け犬なんてまっぴらだろう?】
それは自嘲ではあったが、アーシアの行く末を気遣うものでもあるのかもしれなかった。
雨。身体を打つ冷たい雫。肌の熱を奪い死人の肌にしてしまう。
アーシアは答えず、無言のまま歩みを再開する。キャスターもまた、何も言わなかった。
いつの間にか、アーシアの居住地とされている場所まで来ていた。
母は死に、父はとうの昔にいなくなった。待つ者など誰もいないアーシアの家。
無機的な静けさを湛える、小さな家。
「……早く入りましょう、キャスター。これじゃあなたまで冷えるだろうし」
【マスター、それは】
「大丈夫」
アーシアは振り返り、ほんの少しだけ微笑む。
差し伸べた手は、彼の手を掴むように。
「あなたは今でも、暖かいままよ」
決して生者とは触れあえない、霊体化したままの己の手。
その指が何故か、彼女の宿す熱を感じ取れたように、キャスターは思えてならなかった。
【クラス】
キャスター
【ステータス】
筋力C 耐久C 敏捷B 魔力A+ 幸運A 宝具A
【属性】
中立・中庸
【クラススキル】
陣地作成:E+++
最低限のランク保障。生前のキャスターは陣地を作る側でなく使う側の人間だった。
宝具発動時においては周囲の空間を強制的に支配するためランクが著しく上昇する。
道具作成:E
最低限のランク保障。生前のキャスターは道具を作る側でなく使う側の人間だった。
【保有スキル】
魔星:A
正式名称、人造惑星。星の異能者・星辰奏者(エスペラント)の完全上位種。
星辰奏者とは隔絶した性能差、実力差を誇り、このスキルを持つサーヴァントは総じて高い水準のステータスを持つ。
キャスターはそうした魔星の中でも最も優れた個体とされており、全方位隙のない資質を兼ね備える。
また魔星は人間の死体を素体に創造されたいわばリビングデッドとでも呼ぶべき存在であり、死者殺しの能力や宝具の影響をモロに受ける。
話術:C
言論にて人を動かせる才。
国政から詐略・口論まで幅広く有利な補正が与えられる。
黄金律:C
身体の黄金比ではなく、人生において金銭がどれほどついて回るかの宿命。
富豪でもやっていける金ピカぶりだが、自分自身の努力も必要。
無力の殻:C
魔星としての隠蔽特性、及び本人の精神性から派生したスキル。
宝具である星辰光を発動していない時に限り、サーヴァントとしての気配を消失させる。
戦いを好まず、苦難を好まず、ただ無様に怯え過ごしていたキャスターの在り方がスキルとなってまで具現化したもの。
───ただし、彼が自らの意思で星を揮わんとした時は話が別である。
【宝具】
『雄弁なる伝令神よ。汝、魂の導者たれ(Miserable Alchemist)』
ランク:A 種別:対軍宝具・侵食固有結界 レンジ:1~99 最大捕捉:500
ルシード・グランセニックが保有する星辰光。星辰光とは自身を最小単位の天体と定義することで異星法則を地上に具現する能力であり、すなわち等身大の超新星そのもの。
彼の星辰光とは磁界生成。周囲の時空が歪むレベルの出力を誇り、不可視の支配領域を広げるアルケミストに輝く星。
斥力・引力の発生、対象内の鉄分干渉による捕縛、鉱物操作、磁力付加による高速移動、S極とN極の付与といった磁力によるほぼ全ての機能を行使し、ほとんどの物質に影響を及ぼす磁力を操作するという特性上、高すぎる汎用性を持つ。
【weapon】
なし
【人物背景】
商国に根を下ろす豪商一族、グランセニック商会の御曹司。一見すると爽やかな好青年だが、その内実には鬱屈した精神性を併せ持っている。
その正体は魔星の一人、ヘルメス-δ アルケミスト。どうしようもない負け犬であり、ある日突然授かった力を持てあます臆病者であり、ただ震えて縮こまるしか能のなかった落伍者であり。
そして愛する者のためならば何度でも立ち上がれる、そんなどこにでもいるただの凡人。
【サーヴァントとしての願い】
戦いは嫌いだ。痛いのなんてごめんだし命の獲り合いなど死んでもしたくない。傷つけるのも傷つけられるのも、どうして喜んで受け入れられるというのか。
だからこれは、殺すためじゃなく生かすための道程である。
顔も知らない誰かではなく、自分を呼んだ一人のために。戦わずとも生かして帰すまでの手伝いをしてみたい。
【マスター】
アーシア・ヴェルレーヌ@引き裂かれたバダール
【マスターとしての願い】
元の世界への帰還。
【weapon】
樫木の杖、旅人のマント:旅人ご用達のアイテム。それ以上でもそれ以下でもない。
【能力・技能】
先天的に優れた魔術回路を有する。使用魔術は凍結の攻性魔術に特化している他、肉体治癒も多少はこなせる。
【人物背景】
旅好きの読書家な少女。表象の世界において塔を昇り、外の世界へ続く門を解放した者の一人。
元々はマドルーエという地にルーツを持つ人間であり、その地の逸話に曰く「マドルーエの血をひく白髪の娘、悲惨な死を遂げ死してなお安らぐことなし」とのことだが……
ちなみに17歳なのでルシードのストライクゾーンからは完全に外れている。
【方針】
できるだけ戦わず、事を荒げず、聖杯戦争から脱出する手段を探したい。
最終更新:2017年03月24日 16:20