★2005年度・・・普通~やや難
<大論述>『第二次世界大戦の影響』難度:★★★★☆
自分の出来栄え:△
河合OPかなんかで非常に類似問題が出た気がする。
しかし、明らかに違うのは、原因(大戦中の出来事)と結果(戦後の影響)の因果関係を明確に書かなくてはならない点。
実は赤本をはじめ、大手予備校の解答はすべてそこら辺が甘いらしい。
その点が『世界史論述練習帳』で指摘されている。(もっとも、彼は「火種」と「火事」という言葉を使っているが)
言われてみれば確かにそうだな、と思う。
リード文を読む限り、50:50とまではいかなくても、40:60ぐらいでいいから、戦時中のトリガーについても書かなきゃいけないようだ。
戦後冷戦史ではないというこの指摘が正しいとすれば、これが書かれていないと大幅減点となるみたいだ。
採点方式が気になるけど。それによるけど。
それを踏まえるとこうなる。
大西洋憲章、ダンバートン=オークス→国連設立
日本の敗北、軍部体制崩壊→日本国憲法
国共合作が崩壊・内戦再開、土地改革を進めた共産党が支持を得る→国民党は台湾へ
ソ連対日参戦、朝鮮でゲリラ支援→南北朝鮮分断、朝鮮戦争
ナチスユダヤ人迫害→移住、イスラエル建国、パレスチナ難民
大戦で西欧荒廃→復興のためEEC
第二戦線問題、ポーランド解放での米ソ対立→冷戦構造、東西ドイツ分割
という感じになる。
矢印の左側と右側の両方が書けて、もしかするとそれでやっとその要素がマルになるのかもしれない。
※ちなみに赤本の解説にはこれらの要素がちゃんと載っているのに、それなのに模範解答がやや不十分とはもったいない。
<小論述>『ヘレニズム文明の影響』
(1)『ガンダーラ美術』難度:★★★☆☆
自分の出来栄え:△
美術絡みの問題が出てくるとちょっと戸惑う。
まず、問われているこの美術がガンダーラ美術と分かるかどうか。
地域柄、どんな特色があったか言えるか。
特徴を忘れていたので、復習しておきます。
(2)『ギリシャ語とイスラーム世界』難度:★★☆☆☆
自分の出来栄え:◎
アリストテレス大人気!
「知恵の館」がポイントですね。
設立したのはアッバース朝7代カリフ・マームーン(用語集記載無し)です。
(3)『ギリシャ語文献の伝播』難度:★★☆☆☆
自分の出来栄え:◎
スペインのトレド、シチリア島のパレルモ、ここらでラテン語に翻訳されました。
またもやアリストテレス大人気!
<一問一答>『人とモノの交流』難度:★★☆☆☆
正解数 9/13
(※短文論述も1問としてカウント、複数答えさせる問題はそれぞれごとに1つとカウント)
いきなり、ペリシテ人間違えて、ダヴィデも連鎖あぼ~ん
っていうのは、パレスチナに伝えた云々と書いてあったから、出エジプトの流れと思った。
んで、ユダヤ人と書いた。しかし、そうすると、それを倒した勢力のボスみたいなのが、謎である。
アッシリア?新バビロニア?王様誰だよ\(^o^)/となる。
馬を書かせる問題。これ、軍用のって書いてあるけど、無しでも良かったと思う。
それぐらいじゃないとインド洋交易を問うてるレベルとは言えない。
『農政全書』/徐光啓、は名前が出てこなくなった。
日本史で出てくる『農業全書』/宮崎安貞とまぎらわしいwww
★2006年度・・・普通
<大論述>『戦争の助長と抑制』難度:★★★☆☆
自分の出来栄え:◎
この問題、見たらパッと表を作ること。3*2ですね。
そして、指定語句を振り分けていく。
すると、埋まらなそうな枠が出てきます。
三十年戦争の助長と、フランス革命の抑制とですね。
後は、きちんと埋まるので、用語の補足をしておく(*´ω`*)
んで、上の二つを考えてみる。
【三十年戦争の助長要因】
1.宗教戦争にフランスが宗教お構いなしに飛び込んで、国家間(主権国家間とは言いきれない。でなければ、この後のウェストファリア条約で確立されたというのは何なのか?結局、この時点では内乱に各国が便乗した形である)戦争へ。
2.傭兵の普及。それに伴う治安や被害の激化。
【フランス革命の抑制要因】
ウィーン体制によって、主権国家間の勢力均衡による平和維持がはかられた。
ここら辺を埋め込んで行けば、答案になるはずです。
あ、あと赤本とかの模範解答に一つ突っ込みを。
グロティウスの『戦争と平和の法』を入れるなら、これはやっぱりウェストファリアの前に入れなきゃ時系列的にダメだと思います。
ていうか、あの答案じゃ、戦争終結時にこの人が生きてて、提唱したみたいな言い方じゃん。
それと、間違えちゃいけない順序。
フランス革命時、最初は義勇軍。それはまぁいいとして。
ナショナリズムの高揚→徴兵制 の順番にしないと、逆にするととんでもない。
それと、中谷氏HPに反論。
第一次世界大戦は、初めっから総力戦だったのではありません。クリスマスまでには終わるはずだったのが、長期化したために、国を挙げての総力戦にならざるをえなくなったのであり、どちらかといえば結果であり、戦争の性格です。
これは間違え。少しマニアックな話ですが。
まず、オーストリア皇太子フェルディナントがセルビア人暗殺された・・・
これはパンゲルマンvsパンスラブの燻りの高まりがついに臨界点に達しようとしたきっかけでした。
民族対立がこの事件で一戦を超えました。が、まだ完全に暴発したわけではありません。
オーストリア外務大臣ベルヒトルトは参謀総長コンラートにセルビア攻撃を打診します。
念のため同盟国のドイツに確認を取りに行きます。
セルビアはロシアの庇護下にあったので、オーストリア単独では戦えないので、ドイツに支援をお願いしに行ったのです。
ドイツ側では、オーストリアはあくまでドイツの同意を脅しの材料とするだけで、実際に戦争はしないだろうと考えていました。
そして、ヴィルヘルム2世は許可を出します。
で、オーストリア側はベルヒトルトとコンラートが会議。
兵員輸送と言うのは綿密な計画(特に鉄道ダイヤ)のもとで行われます。
よって、一度決まったものを変更するのはかなり難しいです。
コンラートはもしロシアが「総動員」をかけてきたら、こちらが部分動員ではやばいから、こちらも始めから「総動員」でいくようにと進言。
こうして、引き返すことのできない道へと突入・・・
ドイツのあまり知らないうちに、オーストリアとセルビアは開戦。
ロシアの参戦の動きに、ドイツは自重するように要求。
そうでないとドイツも参戦すると警告を発した。
電報が両国間で交わされた。
実はロシア皇帝とドイツ皇帝はいとこであった!(話には関係ない豆知識)
しかし、両者の間にはさまざまな誤解が生じてしまった。(この下りは省略)
ドイツのかの有名なシュリーフェンの後の参謀総長を継いだ小モルトケは、ついにコンラートに総動員を要求。
対するロシアも総動員を発令。
ドイツは最後にロシアに動員解除による戦争回避を迫るも、これはならず。
そして、ドイツでシュリーフェンプランが発令され、第一次世界大戦へ・・・
要するにどこの国も最初っから全力です。
ドイツとしては、西部戦線を早期に叩き、東部がベルリンに迫らないうちに引き返してきて、これと組み合うわけですから、短期戦を予想していたわけではありません。
少なくとも一年ぐらいは考えていたでしょう。
そして、総動員があれば戦時体制に突入して、総力戦とも言えると思います。
こんなところです。
<小論述>『インドルート』
(1)『10c末~16c前のイスラーム進出』難度:★★★☆☆
自分の出来栄え:○
赤本の解答にやや不満。
インド=イスラームの辺りを、イスラムとヒンドゥの融合として、スーフィズムとかに触れた方が良いと思う。
文化的側面の方はそんなとこかな。
各勢力が何世紀に進出したのかが分からなかったりした。
ここら辺、反省。
(2)『イギリスのインド植民地化』難度:★★☆☆☆
自分の出来栄え:◎
比較的わかりやすいフランスとの絡みを書くだけである。
(3)『エジプト』難度:★★☆☆☆
自分の出来栄え:◎
ほら出てきた、定番文句。
やっぱり教科書の文章が染み込むと強いです。
<一問一答>『帝国や連合』難度:★★☆☆☆
正解数 14/15
基本的事項ばかりの問題であったと言える。
都ニネヴェの位置を間違えて、猛省m(__)m
スサ-サルデス間の王の道が地図上でどこかを知っていれば、後はすぐわかる。
ビザンティオンが意外にとっさに出てこなくて焦った。
ビザンティウム(オン)→コンスタンティノープル(ノポリス)→イスタンブール
2009年02月23日19:22 mixiより
最終更新:2009年03月01日 20:49