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井の中の蛙の韓国学 2012年3月14日
「井の中の蛙大海を知らず」とは荘子の言葉だそうだ。2千年以上昔の賢人の格言であり、今尚色褪せない金言である。今更説明する必要もないが、要するに「視野の狭い人は多様な考え方ができず意固地になる」、もしくは単に「ものを知らない」という意味で使われている。よく言ったものであるが、或いはこの説は再考を加えるべきかも知れない。
カエルが人並みの知的動物であると仮定して、果たしてカエルは大海を知らないと言えるだろうか? 人は世界を一周するはるか昔から世界が丸いと知っていた。顕微鏡を覗き込む前から物質は何か基本となる元素でできていると考えていた。今や宇宙の始まりから宇宙の外の世界まで知ろうとしている。どうしてカエルが大海を知らないと言えるのか。カエルだって空を見れば天体が動くことを知るだろうし、雨が降れば水が外から来ることを理解する。井戸に落ちてくるアリやバッタから情報を得ることもあるだろう。地下水脈からミネラルを分析する奴もおらん。畢竟、カエルは大海の存在を知ることになるのである。
重要なのはカエルが大海を見ることができるのかではなく、大海を知ることができるのかということである。荘子曰く「井鼃不可以語於海者拘於虛也」、即ち「井のカエルは海の事を話すことはできない。くぼみのことしか知らないから」と。なんとも失礼ではないか。カエルだって大海を知っている。話くらいしてやってもよいではないか。その方が奴も喜ぶであろうに。荘子の間違いはカエルは自分の見たことしか知らないと解釈し、敢えて大海を話すことを拒否したことであった。荘子は海を見たであろう。しかし、荘子がカエルよりも海を理解していたかどうかは分からない。
福沢諭吉は1860年、アメリカに渡って西欧の都市と技術の見せられたとき、全然驚かなかったと言っている。福沢は渡米する以前にアメリカについて書物を通して十分に勉強していたからである。井の中の蛙だって勉強すればこれほどのものなのだ。
さて、私が韓国に興味を持ったのは2001年日韓共催ワールドカップの年であった。別にサッカーが好きだったのではなく、全体的に韓国友好ムードがあった年で、その波に乗ったのである。このときでも大型書店の韓国語コーナーは僅かに1列あるかないかで、そのほとんどが「はじめての~」程度の会話本。ハングルを覚えた次の勉強に難儀したのが懐かしい。今は棚ひとつを占領するまでになっているし、上級用教科書も増えた。その間、冬ソナブームがあり、嫌韓が登場した。これまでの「関心―無関心」が「好き―嫌い」に発展したのは注目すべき変化である。「好き―嫌い」時代になって「好き」派も「嫌い」派も一気に韓国通になった。たぶん私よりも数段も韓国のことを知っているのだろう。しかし、その知識はどうも与えられたものにすぎない気がしてならない。
「好き」派はいわゆる韓流である。テレビのスター達についての彼等の知識はものすごいものがある。しかし、その知識が韓国を理解することに少しでも助けになるのだろうか。ドラマや映画の世界に浸って韓国を知ったつもりになっているのだろうか。韓国の歌をくちずさめば韓国人と心が通うとでも思っているのだろうか。いや、もっと根源的な問題であるのは韓流の「好き」派は韓国を知ろうとしているのだろうか。
「嫌い」派は韓流の「好き」派よりはまともである。少なくとも韓国を知ろうとしているからだ。ただ、こちらは非常に偏僻で「嫌い」を自己増殖するに留まっている。彼等は「嫌い」がために韓国に行くことはなく、行っても「嫌い」を増幅させる事しか体験できず、韓国人と交流する機会を持とうともせず、ひたすら「嫌い」な韓国像を生産し続ける。それは韓国の一面であって全てではないのだが…。彼等の知識はインターネット一辺倒であり、彼等はこの情報を「ソース」と呼んでいる。彼等にとってこの「ソース」こそが事実・真実なんだそうだ。哀れである。
世界は広い。韓国は小さな国であるが、それすら全てを知ることはできないであろう。況やテレビやインターネットの情報で韓国を知ったつもりになっているとは。荘子は海を見て知っていた。カエルは海を見ずとも知っていた。しかし、荘子とカエル、どちらが海をより理解していたかは分からない。推察するに、海を見てそれを理解した荘子よりも海の存在を研究に研究を重ねて発見したカエルの方が海をよく理解したのではないだろうか。
「井の中の蛙大海を知る」とは主体的な知的欲求の帰結である。韓国学は韓国を知ることである以上に韓国を知りたいと思うことである。その知的欲求があれば、韓流や嫌韓などといったうわべの韓国通は淘汰され、「好き―嫌い」時代は次の段階に入ることであろう。
最終更新:2014年10月20日 18:54