『森を賭けて』
Author:◆GudqKUm.ok(◆k2D6xwjBKg, 初代スレ>>102)
23 :『森を賭けて』 ◆k2D6xwjBKg :2008/09/27(土) 00:19:40 ID:ge1jtaUR
歴史はまだ始まっておらず、そしてその歴史を記すためにある『文字』の学習は、常にショウヤを苛立たせる。
あんなものを森を駆ける狩人の国である『紫の国』に広めようとする女王の意図が彼には解らなかった。
しかし、その女王の特別の計らいがなければ、こうして『キドゥ』を狩る為、三日もタカミの山に入る事を、あのおっかないユラが許すことはなかっただろう。
『キドゥ』の泥浴び場を木立の上から見張り続けるショウヤの鼻に、微かだが馴染み深い匂いが届く。
はるか後方の藪から聞こえる歩みの音も、まさしく彼女のものだった。
「ユズキ!! 何しに来た!!」
姿を現したユズキは、二日前にはなかった、女性としての成熟を示す紋様を額に描いていた。
まだあどけない彼女には不似合いに思い、ショウヤは目を背ける。
「…だって、心配だったんだもん…」
ユズキは風上に立たないよう注意しつつ、木から音もなく飛び降りたショウヤに近づいた。
「…ウロウロしてていいのか!? お前…」
「…病気じゃ、ないから… お社と、イトキリサマの河に入れないだけ。」
ユズキは恥ずかしそうに俯いて言った。
「…ガキは俺だけ、ってことだ。」
先日、ショウヤの親友であるリョウは、兄と力を合わせて、凶暴な雄鹿『片耳のトメ』を仕留めた。
リョウは同い年で一番に『村の弓』を授かり、一人前の戦士として絵師の娘ミサに契りの誓いを立てた。
すでに額に紋を染めていたミサはこれを受け入れ、二人は許嫁となった。
ショウヤはユズキをにらみ据え、再び木に登る。時間が無かった。
『村の弓』を得る為、どうしても大猪『キドゥ』の首が要るのだ。
今、麓の村には男が殆どいなかった。強大な中央政権との戦いの為、辺境の部族連合軍に参加した戦士たちは智将タカヤに率いられ、紫の国の誇りを賭けて転戦に転戦を続けている。
そんなときに『村の弓』を得ようと『キドゥ』狩りを願い出たショウヤに、臨時の若者頭であるユラは冷たかった。
すげなく却下され、危うく山羊の世話まで命じられそうになったとき、居合わせた女王の思わぬ言葉が、ショウヤにこの機会を与えたのだ。
『…猪に敗れるようでは戦に出ても役立つまい。ユラよ。そなたの待つトウヤもこうして弓を得、戦場へ征ったのではないか?』
少女のまま成長を止めた不思議な女王がショウヤに与えた時間は三日。
そして、すでに二日が過ぎていた。
悄然とユズキは、木の下のショウヤを見上げた。突然訪れた体の変化への戸惑いを持て余しショウヤを追ったものの、ユズキに出来ることは何ひとつないのだ。
彼女はあちこち汚れた白い麻の衣をパンパンと払い、山刀を外して木の根元に膝を抱え座り込む。腰が重く、熱っぽい。
ふと遠くの藪に小動物の気配がした。
『…狐の親子…三匹…』
微風がユズキの鼻と耳にそう教えたとき、狐達は慌てて向きを変え、彼女の五感から消え失せた。
『…なんで!? 気配は、絶ってたのに…』
ユズキの疑問より早く、ショウヤが再びひらりと彼女の前に降り立って怒鳴る。
「バカヤロー!! …テメェの匂いだ!! その…『女』の匂いだよ!! 失せろ!!」
ショウヤの怒号に、ユズキの目から堪えていた涙が零れ落ちる。
「ひどい… ひどいよぅ…」
なにもかも変わってしまった。
戦。そして自らの月満ちた体。
ついこの間まで共に『紫の国』中を駆け周っていた仲良しのリョウもミサも、そして誰よりも好きなショウヤさえ、遠く、遠く感じる。
出征した英雄コガネイ。ショウヤ達が憧れる女王の懐刀。
ユズキが彼から感じる昏い影は、いつかショウヤやリョウを覆うのだろうか…
顔を伏せ、泣き続けるユズキを、革と汗の匂いがそっと包んだ。
しばらく触れていなかった幼馴染みの温もり。
悲しみに曇った愛らしい顔をユズキは静かに上げる。
「…悪かった。でも、『村の弓』を授かったら、俺も…」
この二日間でかなり憔悴したショウヤが少し口ごもったとき、突然、湿地の匂いが禍々しく変わった。
「キドゥ!!」
ついに現れた怪物に、二人はすぐに山刀を抜いた。
ユズキは獣に怯えるほど脆弱な少女ではない。そして、キドゥも自分の縄張りに居座る人間を許す怪物ではない。
獣はすぐに、巨大に巻き上るたてがみを揺らし、泥を蹴って木の下の二人に突進した。
ブフォォォォォォ!!
迫り来る恐ろしい唸り。二人はひらりと宙を舞ってキドゥの最初の突進を避けた。
『ユズキ!! 木の上に!!』
戦いの場で男に従うのは『紫の国』の掟のひとつだ。
木立に駆け上がったユズキは、懐から獣の聴覚を混乱させる笛を出し、
その人間には聴こえない音を湿地じゅうに響かせる。
「来おおおおおい!!」
叫び声と共にショウヤはキドゥと真っすぐに対峙する。吼孔と突進。
しかし、両者の力の違いは明らかだった。
「ショウヤ!!」
ショウヤの体が木の葉のように舞い、ぬかるみにドサリと落ちる。
キドゥは向き直り、この手応えのない獲物を蔑んだように鼻を鳴らした。駆け下りてショウヤにすがり付きたい衝動を抑え、ユズキは笛を吹き続ける。神聖な狩りを邪魔する女は『紫の国』にはいない。
そして泥にまみれて立ち上がったショウヤは、山刀を突き出し、そのまま微動だにせずキドゥを待った。
痺れを切らしたキドゥが再び、その岩のような体躯で猛進する。
ブフォォォォォォ!!
激突の瞬間、ショウヤの山刀が宙に舞った。そして再び、彼の体も舞い上がる。鹿革の胴衣が裂け、キドゥの牙を朱に染めた。
ユズキは幹の上で静かに『寡婦の誓い』を諳んじる。
もし、ショウヤの骸を背負って帰ることになれば、すぐに社と祖先に誓いを立て、一生彼を弔って生きよう。
そのためには、涙をこらえ、この闘いを見届けねばならない。
再び深い泥に落ちたショウヤは、もがきながら上体を起こした。腰から下はぬかるみの中だ。
「キドォォォォォ!!」
この絶望的な体勢で、泥を吐きながらショウヤは声を絞り出してさらにキドゥの名を叫ぶ。
そのとき、ユズキは彼の瞳に、勝利への確信をたしかに見た。
死にゆく者への敬意にも見える動作で、キドゥは巨大な頭を低く下ろし、前足で泥を掻いてから最後の突進を始めた。
未だ、丸腰のショウヤの両手は力なく泥に沈んでいる。キドゥはいまや彼の目前に迫り、ユズキは全身全霊を込め、唇を噛み切って両目を見開いた。
「うおおおおおお!!」
「わああああああ!!」
重なる二人の叫びと共に、死神を前にしたショウヤの背中に力が漲る。
突然、泥から斜めに突き出された太く鋭利な竹槍の切っ先がキドゥの喉から背に抜けた。
二日間、ショウヤはただじっとキドゥを待っていた訳ではなかった。
グフォォォォォ!!
噴出する獣の鮮血を浴びながら、ショウヤは断末魔の獣の狂乱に耐え続ける。
泥と血の中で絡み合う両者に、我慢できずユズキが駆け寄ったとき、巨猪キドゥは虚ろな目でゆったりと自らの『泥浴び場』に崩れ落ちた。
「やっ…た…」
しばらく茫然としていたショウヤの口から、高々とした勝ち鬨が迸る。
響き渡るショウヤの勝利の雄叫びに、ユズキの高く澄んだ喜びの叫びが重なり合って、ざわざわとタカミの山じゅうの草木を震わせた。
ピョンピョンととんぼを切って湿地帯を跳ね廻るユズキの傍らで、ショウヤは湯気を立てるキドゥの肝を山の神と祖先に捧げた。
そして狩人らしい俊敏な動きで興奮するユズキを捕らえ、乱暴に抱きしめて囁く。
「…汝の炉辺と、父祖の村に糧を運ぶと、誓う。弓と弦を預け…」
せっかちな求婚の辞を、ユズキは血と泥と恍惚の中で聴いた。
火照る体と抑えられぬ疼きに、初めて彼女は『貞潔の誓い』の意味を悟った。
…羊を追っていたユリは、語り部の若き長たるツバキは、そして遠見の隠者マキハは、『紫の国』の女達は、タカミの山から澄んだ空に響く勝利の声に顔を上げた。
そしてそれぞれが、この国の永遠の安泰を信じ、静かに感謝と祈りの言葉を呟いた。
END
最終更新:2008年10月17日 01:52