夕焼けに染まった実験室。
 控えめな甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐって、浅尾 総一郎は胸を軽く高鳴らせた。
 小笠原 茜の香水の香りだ。

 常にパンツスタイル、化粧も控えめ、髪も後ろでシンプルに一つに纏めただけの彼女が、香水をつけていると知った日の衝撃は忘れられない。
 女としての自分を認めているのだ、と漠然と思ったのち、そういえばこのヒトは女だったとヘンな自覚が沸いてきて、気がついたらどうしようもなく茜を意識するようになっていた。
 確か二十七歳だったはずだ。
 総一郎より十歳も年上。
 顔だけ見れば、まだまだ二十代前半で通りそうな童顔だが、無機質な眼鏡と老成したその雰囲気が彼女の年齢を一層不詳なものへとしている。

「浅尾」
 心地よいアルトでそう呼ばれると、体温が一度ほど上昇する。
 彼女を見やると、右手に試験管、左手にビーカを持って、目線だけで総一郎を呼んでいた。
 なんですか、と面倒そうに聞こえるように呟いて、席を立って茜の一メートル側に立つ。
「アルコールランプの火を消してくれないか。先に消せばよかったのだが、うっかり持ち上げてしまった。余熱が引くまでは手が放せない」
 感情の読めない声音だ。
 淡々とした喋りは限りなく論理的で男性的で無駄がない。

 目線だけで頷いて、アルコールランプにキャップを被せた。
 ありがとう、と抑揚のない謝辞も耳に心地よい。

 化学部などという部活動が機能しているなんて奇跡だと総一郎は思う。
 ただし、活動しているのは主に小笠原茜。
 それを眺める浅尾総一郎、あとは幽霊部員という図式が、部活動の詳細だ。

 茜は本当に化学が、というか実験が好きなのだなと見ていて判る。
 大学院に残りたかったと聞いたことがある。
 経済的理由で教師になった、と。
 何故高校なのかと聞けば、高校教師は響きがエロい、とにやりと口元をあげた。
 まったく意味が判らない。

 ふと、頭一つ分小さい彼女の白い横顔を見つめる。
 化粧気のない頬、目元、くちびる。
 それでも眉は綺麗に整えられ、洒落っ気のない銀色のフレームの奥にあるまつげは長く伸びている。
「センセイ、」
「なんだ」
「化粧ってしてるんですか」
「してない。マスカラだけは塗っている」
「肌、キレイっすね」
「そうか」
「そうです」
 そうか、ともう一度呟いて、急に茜はこちらを仰ぎ見た。
 思わず身を引いた。

「浅尾」
「…………ナンでしょう」
「顔が赤い。熱でもあるのか」
「ないと、思います」
 ふむ、と低く口にすると、おもむろに手にしたビーカと試験管を置いて、総一郎の手首を掴む。
 普段のぼんやり具合からは想像も出来ないすばやさで、抵抗をする暇もなく手を取られて総一郎は動揺する。

「…………心拍数上昇。やはり風邪か。今日はビタミンを摂取して早く寝るといい」
 淡々と告げ、すっと手を伸ばした。
 ふわりと、控えめな甘い香りが漂う。
 何の香水を使っているか、聞こうと総一郎は思った。
 そんなことを考えている隙に、茜の白いひやりとした手が総一郎の額に触れた。
 ちょっと、と上げた声はすがすがしく無視をされた。
「熱いな」
「………………センセイの手が、冷たいんです」
「む」
「さっき試験管洗ってたでしょ」
「そうだった」
 重々しく頷く。
 彼女はいつも、無駄にシリアスだ。

「センセイ」
 思わず、手首を握っている茜の冷たい手を握りしめた。
「結婚とか、しないんですか」
「したいと思う相手が現れたらするだろう」
「恋人いるんですか」
 茜がそっと首を左右に振る。
 総一郎は安堵した。自分でも驚くぐらい、ほっとした。
「いないな」
「ずっと?」
「過去にはいたこともある。なんだ、浅尾は私の婚期を心配してるのか?」
「してないっす」
「ほう。じゃあその質問の意図はなんだ」
「センセイの好きになる男ってどんなヒトですか」
「考えたこともないな」
 西日が差し込む実験室。茜の着ている白衣が、茜色に染まる。
 ちょっとした言葉遊びだ、と雰囲気に耐えかねて総一郎が苦笑を漏らす。

「可笑しいか?」
「いえ、えーと。考えてみて、もらえません?」
「そうだな…………手は、暖かいほうがいい」
「は?」
「冷え性なんだ。浅尾は暖かいな」
「…………コドモ体温ですから」
「そうか。君はいい湯たんぽになりそうだ」
 湯たんぽっすか、と胸のうちで呟く。
 それは、もしや裸でベッドにもぐりこむという、卑猥で素晴らしい状況下でのことですか。
「他には」
「化学や物理が好きだと、面白いかもしれない」
 好きになります、好きになりますとも。
「浅尾こそ、どうなんだ」
「俺?」
「学生らしく青春を謳歌しているのではないのか。
 化学は好きそうでないのに熱心に顔をだしているのは、誰か女子生徒の部活動の終りを待っているのだろう?」
「違いますよ」
「違うのか」
「違います」
「違うのか」
「どう違うのか聞いてはもらえませんか」
「どう違う?」
「センセイを見に来てるんです」
「……手を、放してくれないか。記録を取りたい」

 素直に手を放した。
 だけど代わりに肩を引き寄せて、強引に腕の中にその細い身体を収めてしまう。
 茜は身じろぎをしたが、抵抗をする気配はない。

「浅尾」
「…………」
「浅尾、」
 低い声音。感情が読めない。
「放してくれ」
「センセイ、俺、センセイのこと、」
「駄目だ、浅尾。君は私の教え子だ」
「……再来年には卒業です」
「十も年が違う」
「関係ない」
「君のそれは若気の至りだ」
「まずは十年続けて、証明して見せます」
「確証がない」
「俺のことスキじゃないとか嫌いだとかって言わないんですね」
「感情は曖昧だ。理論は揺るがない」
 らしい、と総一郎は思った。
 茜はまるで授業の時のように淡々と言葉を続ける。
「君が思っているより私は脆い。次に捨てられたら、きっと立ち直れない。ぬくもりを失うのが怖い。だったら知らない方がいい」
「すっげーマイナス思考」
「認めよう。私は臆病だ。頼むから放してくれ。いつまでもこうしていたくなってしまう」
 更に強く抱き寄せた。
 あるかなきかごとき、と思っていた両のふくらみが、総一郎の胸に当たる。
 どきんとした。
 有体に言って欲情した。
 やっぱりこのヒトは、総一郎とってどうしようもないほど女だった。
 どうしようもなく、好きな女だった。

「浅尾、私はヘンタイなんだ」
「…………………………は?」
「気がつくと四六時中君のことを考えている。君に触れることばかりを。うっかり実行してしまった。許して欲しい」
「はぁ、」
 そのくらい別に、と言う前に、茜が言葉を続ける。

「君が好きな食べ物だとか、得意な教科だとか、休日の過ごし方だとか、もし誰かを待っているならどんな女生徒なのだろうか、等、どうでもいいデータを集めたくて仕方ない」
「俺って観察対象?」
「そうかもしれない」
「好きな食べ物は、メロン」
「贅沢だな」
「得意な教科は、本当は数学」
「おお」
「休日はゴロゴロしてる。そんで誰も待っていない、いつもセンセイを見ている」
「……………………なぜ」
「俺も、ヘンタイだから。センセイに触れたくって仕方なかった」
「じゃあ今は満足か」
「うん。他に聞きたいことは?」
「……何だろうな、思い出せない」

 茜が、その白い頬を総一郎の胸に摺り寄せてきた。
 おずおず、と言った緩慢な動作で、両の手を総一郎の背に回して上着を引いた。
 そっと黒い頭を撫でた。
 驚いて顔を上げた茜と、至近距離で視線がぶつかる。
 珍しく驚いたように両の目を見開いたその表情は、始めて見るものだった。

「好きです」
「オーケィ、浅尾。私も君が好きだ」
「……マジで?」
「大マジだとも」

 茜の鉄面皮が白衣と同じぐらい真っ赤に染まっていたのは、夕焼けの所為ばかりではあるまいと総一郎は願った。

 彼女が、本人の申告どおり少々ヘンタイであると、しばらく後に知ることになるのだがそれはまた別の話。






2007/09
最終更新:2008年12月31日 15:47