大人は自由だと、思っていた。
 ただの想像だけど。
「言い忘れていたが」
 そんな大切なことなのに言い忘れてしまえる程度の存在なんだ、と悲しくなった。
 自由に、気ままに、自分のことなど置いて、どこにでも行ってしまえるのだ、と。


*

「テストを返す。今回の平均は72点。順番に取りにくるように」
 化学の教科担任・小笠原茜の凛としたアルトが、教室に響き渡った。
「1番、浅尾」
 はい、と立ち上がって教壇まで歩み寄る。
 茜と目をあわせると、彼女はにやりと笑って、頑張ったな、と低く言った。
 93点。ワンダフル。
 その後、ずっと茜がテスト返却する様子を観察していたが、他の誰にも別段声をかけたりはしなかった。
 特別である証をもらったような気がして、顔のにやけが止まらなかった。
 

 その日の放課後の実験準備室。
 日に日に夕暮れが早くなり、今年も暖冬だと言われつつも冷え性の茜はすでに辛いであろう毎日だ。
 北校舎の西一階にある実験室は、日当たりがとても悪く底冷えをする。
 ビーカや試験管や三角フラスコやマグカップを洗ったあとの茜の白い手は、指先が真っ赤に腫れて痛々しく、氷のように冷えてなかなか温度を取り戻せない。

 やっと、役得の日々が訪れた。
 洗い終えるタイミングを見計らって、拭ったばかりの手を攫って強引に包み込む。
 毎度のことなのに、いちいち照れて逃げるように手を引く様子は見ていて楽しい。
 それでも離さなければ諦めるが、うつむいてじっと総一郎の手を見つめて、決して顔を上げない。
 その間、吐息が聞こえそうな至近距離で茜の顔を見つめ続けられる。
 最後には、もういい、ありがとうと淡々と述べて身を離す。
 その割には総一郎が洗い役を申し出れば、自分の楽しみだと言って譲らない。
 なんだかんだで、彼女も悪くは思っていないようである。
 真意の程は定かでないが。


 半月ほど前にストーブが設置されたが、石油の節約を言いつけられているため、5時限目に化学の授業のある火曜以外は、化学部の活動は自主的に休止となっている。
 火曜以外は、温風器のある実験準備室で、ぽつぽつと会話を交わしたり、茜が仕事をしている向かいの机で課題を終わらせたり、もちろんテスト期間中には勉強をさせられた。
 別に見張られている訳ではないが、勉強以外を許さぬ沈黙を茜が作り出していた。
 おかげで、というべきか。
 かなり手ごたえはあった。
 成績アップは確実だ。
 もちろん一番時間を割いたのは化学だったし、一番点数がよかったのも化学だ。

「失礼します」
 がらりと準備室のドアを開けると、カーディガンの上に白衣を着た茜が顔をあげて、やあ、と言った。


「グレイト、浅尾」
 熱々のインスタントコーヒーが入った彼の専用マグを総一郎の前にかたんと置きながら、茜の声音はいつになく弾んでいた。
「いただきます。俺、頑張った?」
「ああ、よく頑張った。B組で1位、学年で5位だ」
「……5位ですか」
 まだ上に4人もいるのか。
 満点はいない、と聞いていたので、もしかすると、ひょっとすると、1位じゃないかと淡い期待を抱いていたのに。
 次こそは、と新たなる決意を固めて、いつから自分はこんなに勤勉になったのだろうとびっくりする。

 暗黙の了解で、テストが返却されるまでは二人ともそれに触れない。
 期間中、いくら総一郎が的外れな質問をしても茜は軌道修正を促したりしない。
 授業に関しては他の生徒と同列だ。
 その潔癖さが好きなのだ、と総一郎はつくづく思う。

 そうそう、と総一郎は返ってきたばかりの答案を取り出す。
「今回テスト作ったの、センセイでしょ?」
「む、判るのか」
「判るよ」
 最初は基礎的な問題、応用問題、疲れてきたところでまた点を取れるサービス問題、再び応用、最後に難関が用意されたテストは、アメとムチを上手に使い分けつつ、おちこぼれを出さない配慮を含んだ、茜らしいものだった。

「この問12さ、センセイの性格出てますよね。すんげーやらしー」 
「簡単に満点を取らせてなるものか。テストとは生徒と教師の仁義なき戦いだ」
 何か嫌な思い出でもあるのだろうか。
 口調は普段より幾分か熱っぽいが、銀色の眼鏡の向こうの瞳はぎらりと剣呑だ。
 その目を、ふ、と柔らかく細めて茜は総一郎を見つめた。
「だがな、浅尾。問12に正解したのは君だけだ。おめでとう」
「マジ?」
「マジだ。負けを認めよう。しかし夢中になりすぎて見直しをおろそかにしたな。ケアレスミスで7点マイナス。12を捨てたほうが高得点だった」
「センセイからの挑戦状だと思ったので」
「その通り。これは君への愛だ」

 愛ですか。
 激しい愛だ。
 厳しくて、湾曲しすぎている。
 俺じゃないととても受け取れないですよね、と口に出そうか迷った。
 でもちょっとそれは、自意識過剰すぎるだろう。

「じゃあセンセイ、ご褒美ください」
「おお、見返りを要求するか」
「もちろん。だってセンセイに褒めてもらいたくて頑張ったんですよ?」
「褒めたじゃないか、3回も。不足か? ならもっと褒めて差し上げよう。浅尾、グレイト、ハラショー、シェイシェイ」
「………………からかってる?」
「いいや? 気に入らないなら要望を聞こう。言ってみたまえ」
「……………………キ」
「駄目だ」
 ぴしゃりと鋭い声で制止される。
 まだ言ってないのに、と反論する間もなく、茜が一歩後ずさる。
 さすがに、それを無理やり腕の中に閉じ込める、なんて強引なことはしない。
 以前に痛い目を見てこりごりだ。
 学習機能はついている。

「アバンチュールは対象外だ。残念だったな」
 残念です。非常に残念です。
 恨みがましい目で、ちらりと上目で茜を見やった。
 胸の前で両腕を組んで、威厳たっぷりに総一郎を見下ろしている。

「不服そうだな。しかしだ、浅尾よ。私は満点を取るなら君だと、君ならやってくれるに違いないと信じていた。裏切りに対する代償はないのか?」
「むちゃくちゃだ……」
「そうだとも。君のその要求も同じぐらい理不尽だ。勉学は己の為に励むものだろうに」
「聞くだけ聞いてくれてもいいのに」
「では言ってみたまえ。次は完膚なきまで叩きのめす」
「やめときます」
「賢明な判断だ」
 実際完膚なきまで叩きのめされたら自分はどうなってしまうのだろう。
 きっと立ち直れないぐらいズタボロにされるに違いない。
 この人は容赦がない。本当に恐ろしい。

 しかし何故そんな頑固に総一郎の接近を拒むのか、どうしても理解できない。
 たとえばクラスの女子のほうが、よっぽど積極的だ。
 いつキスしたとか誰が初体験をすませたとか、耳をそばだててなくても入ってくるような大声で毎日のようにはしゃいでいるというのに。
 大人のくせに、思春期の女子より純情、というワケはないだろう。

 何で駄目なんですか、と聞けば、学校だからと返ってくる。
 準備室は内側から鍵をかけられるし、カーテンだってきちんとついている。
 あえてそれをしてまで、ということなのか。
 それとも本当は総一郎に触れられるのが嫌なのかと勘繰りたくなる。

 とにかく、拒否されたものは仕方ない。
 あらかじめ用意しておいた代替案を出してみる。
「もうすぐ冬休みですね」
「そうだな」
「しばらく会えませんね」
「うむ」
「休みになったらすぐにクリスマスですね」
「おお、そうだったか」
「そうです。恋人と過ごす日です」
「違うな、元々は家族で過ごす慣習だ」
「家族で過ごすんですか?」
「いいや?」
「じゃあ、デートしてください」
「…………………………あー、」
 茜が口ごもった。
 あーと数度くちのなかで繰り返して、白い指で顎を撫でた。
 茶色がかった瞳をぱちくりと瞬かせ、軽く眉根を寄せる。
 ノリ気ではないらしい。判りやすい。
 ああ、そんなに否定されると、結構ヘコむ。

「……だめ、ですか?」
 勇気を出して、声を絞り出した。
「駄目、ではない。が、言い忘れていた。24日から私は旅に出る」
「はっ? どこに!?」
「アンコール・ワット」
「世界遺産かよ! 誰と!」
「琴子」
「コトコ?」
「久本先生だ」
「そんなに仲良しだったんですか?」
「うむ、バリかプーケットに行こうと誘われてな。リゾートには興味がない、サグラダ・ファミリアかピラミッドかアンコールワットかカッパドギアなら、と返事をしたら、アンコールワットを見に行くことに決まっていた」
「チョイスが渋い……それでいいのか久本先生」
「スペインは高い、エジプトは日程が強行、トルコは治安が不穏、消去法でカンボジアだったらしい。ついでにベトナムも行くそうだ」
「センセイ、そんなとこ行って、生きて帰ってこられるんですか?」
「どういう意味だ?」

 茜は白くて線が細い。太陽の光や薄着が似合わない。
 快活にジャングルや遺跡を動き回る姿よりも、薄暗い図書室かなんかでじっと座って本を読んでいるほうが想像に容易い。
 ついでに街や人ごみも、もちろんビーチもきっと似合わない。
 あ、それってあれかな、引きこもり……。

 さすがに引きこもりっぽい、とは言えず、総一郎は慎重に言葉を選ぶ。
「生命力足りてなさそう、というか」
「おお、我ながら不安だ。まあ琴子がなんとかしてくれるだろう」

 あー、久本先生ならバイタリティあふれていそうだもんな、と、記憶の中から彼女の容姿をさぐる。
 確か国語教師だったはずだが、一度も担当されていないので記憶は曖昧だ。
 唯一、体育館の女子バトミントン部にて軽く熱血指導する姿だけが思い浮かぶ。

「不安ならなんでオーケーしたんですか」
「実は、琴子が別の人を誘うという展開を期待していた。しかしこう歩み寄られては無下に断れない」
 もしかしてこの人は、押しに弱いのかもしれない。
 思い当たるフシがないでもない。
 プライベートも聞けば案外素直に何でも答えてくれるし、手を握ったついでに抱きしめるぐらいなら、少しだけお願いしますと懇願すれば拒否はされない。
 頑なに拒否をするのは、彼女の言うところのアバンチュールだけだ。
 ふぅん、と総一郎は白衣の教師を見上げた。

 無機質な銀のフレーム。
 後ろできゅっと一つにまとめられた黒いつややかな髪。
 色素の薄い肌と眼。
 よく似合う真っ白な白衣の下の、全体的に華奢な身体と、耳に心地よいアルト。
 冬休みに入ってしまったら、しばらくお目にかかれない。
 たった2週間程度の話なのに、何か、とんでもないことのような気がしてくる。

「いつ、帰ってくるんですか?」
「元旦。そのまま実家へ帰る」
「遠いんですか?」
「いや、電車で1時間程度だ」
 クリスマスに茜は女二人で海外旅行。
 久本琴子はそんな日程を組む辺り、彼氏がいないんだろう。
 茜と総一郎の関係も、知らないに違いない。
 知られていても困るが。
 そして正月には茜は家族で団欒。
 それ自体を否定はしない、しないけど。

 ちらりと時計を見た茜が、そろそろ帰るか、と二人分のマグカップを洗い始める。
 白衣の背中に向かって、少々大声で話しかける。

「クリスマスも正月も、会えないってこと?」
「……まぁ、そうだ。不都合でも?」
「ありまくりです」
「む、そうか?」
「そうです」
 出来るだけぶっきらぼうに響くように答えて、ぷいと背をむけた。
 机にひじを付いて、行儀悪く頬を載せる。

 水音が止まった。
 いつもならとっくに隣でスタンバイしているタイミングだ。
 だけど、今日はとてもそんな気分になれない。
 
 耳に馴染んだアルトが背にぶつかる。
「………………浅尾、もしかして怒っているのか?」
「怒ってません」
「じゃあヘソを曲げている?」
「どっちかっていうとそっち」
「なぜ」
「さあナンでしょう」
「……………………あー、その、旅行の件を伝え忘れていたから?」
「ちょっと違います」
「クリスマスに旅行だから?」
「違います」
「元旦に実家に帰るから?」
「帰ったほうがいいでしょ」
「だったらなんだ」
「別に」
「別に、か」

 茜の大きなため息が聞こえた。
 ちらりとその姿を盗み見れば、白衣のポケットに両手を入れて、相変わらずの無表情で立っていた。
 その視線の先は、総一郎にない。

 ああ。
 総一郎は胸のうちで嘆いた。
 違う、違う。
 言い争いがしたいわけではない。
 茜は大人で、大人には大人の事情も予定も楽しみもあって、それを総一郎にわざわざ伝える必要はないと、ドライでクールな彼女が判断しただけのこと。
 まだ誘ってもいないのに、さあどこへデートしようと勝手に胸を躍らせていた自分がガキなだけだ。

 きっと茜は呆れている。
 面倒に思っているに、違いない。
「頭を冷すように」
 なんて、淡々と告げて、準備室を出て行ってしまうかもしれない。

「浅尾」
 これが世に聞く死の宣告、というやつか。
 胸を弾ませるはずの声音が、冷たく響く。
 振り返ることは出来なかった。
 背後で茜が動く気配がする。

「うわっ!」
 顎の下ががひやりと冷えて、驚いて肩をすくめた。
 視界の端に、茜の細い指が見える。
 ふわりと、控えめな甘い香りが漂う。
「…………浅尾、」
 ささやくような穏やかな声。
 たったそれだけで、張り詰めていた何かがふっと緩んだような気がした。
 肺に、逆流してきそうなほど大量にたまった重苦しいガスが、一気に全部抜けたような。
 
「拗ねないで、くれないか。どうしたらいいか判らない」
「……困ってる?」
「うん、とても困ってる。手がつめたい」

 やっぱり俺ってどこまでも湯たんぽか。
 でもそれでもいいや、と総一郎は柔らかく思う。
 自分の首もとへと手を伸ばし、そっとひんやりした指に重ねた。
 体温を失っていた指先が、徐々にぬくもりを取り戻し始める。

「私は、手だけでなく心もつめたいらしい。知らずに君を傷つけたのなら、謝る」
「……傷ついたわけじゃない。ただ、」
「ただ?」
「俺は、週末に会えないだけですごく寂しいのに、センセイは違うんだな、って思ったら、悲しくなった」
「………………うん」
「センセイは大人で、どこにでも行けて、大事なものもたくさんあって、俺だけ、センセイに夢中で」
「浅尾」
「全然、追いつける気がしない」
 
 言い終えると同時に、重ねた手をぎゅっと握って指を掴んだ。
 そのままぐいと引いて、胸の前で一つにしてしまう。
 茜は、逃げようとしなかった。
 少し乾いた、その手の甲をやわやわと撫でた。
 くびに回る、茜の腕の体温が心地いい。

「ごめん、言ってもどうにもならねーのに」
「浅尾。大人は、結構楽しみが少ないんだ。私は君が羨ましい。これから、なんだって出来るじゃないか」
「そんな」
「私は、いろんなことをずいぶん前に諦めた。情熱も根気もなくなって、毎日をだらだらと過ごしているナマケモノだ。
 せめてあと5年、遅く生まれてきたら、輝かしい時間を君と共有できたかと、幾度も思った」
 たぶん、茜は凄くいい話をしているんだろう。
 片耳で聞きながら、それよりも唐突に後ろから抱き締められて困惑する。
 特に、背中に当たる、ふくらみが気になって仕方がない。
 耳元で低く穏やかに響く声音も、吐息がくびすじにあたってくすぐったい。

「だけど5年前の私を、君が受け入れる保証はないし、その逆も然りだ。今と、先を見て生きていくしかない」
「ちょっと難しい、です」
 つまり、と低く囁かれた。
 音よりも息が多くて、ざわざわと腰から這い上がるむずがゆさを誤魔化すように、きゅっと手を握りこんだ。
「年なんて気にしないと言った君が、負い目を感じないでくれ。不安に、させないで、欲しい」
「……うん、じゃあ」
 何がじゃあなのかよく判らないが、ブレザーの胸のポケットから紙切れをとり出して茜に握らせた。
 いつか渡そうと、ずっと忍ばせておいたのだ。

「コレ、携帯の番号とメアド」
「誰の?」
「俺の。で、メールください」
「…………ああ」
「携帯って持ってますよね? メールとか嫌いそうだけど」
「持っている。メールはめったにしない」
「やっぱり」
「………………………………浅尾、」
「はい?」
「教えて、なかったか?」

 ああ、もう、一人でぐずぐずと悩むのは止めにしよう。
 何でもとりあえず聞くことにしよう、と浅尾総一郎は誓った。
 番号を教えてもらえないのはやっぱりどこかで線引きされているからで、こちらから聞くタイミングもつかめないまま、悶々と悩んだ日々が馬鹿らしくなって、一人でひとしきり笑った。

 急に笑い出した総一郎に、茜はすっと手を放してしまった。
 少し不服に思ったが、茜の手はもう充分に温まっていたし、なにより彼女から総一郎に歩み寄ってきてくれた今日はいい一日だった。



 その岐路のこと。
 未登録のアドレスからメールが届いた。
 差出人がよく判るクールさで、たった一言だけ。

『機嫌は治ったか?』

 治ったどころか上機嫌だ。
 しかしそれをストレートにリプライすべきか、総一郎は幸せな葛藤にしばらく浸る。


 今更ながらゲットした茜の番号とメールアドレスは、しばらくの間彼を上機嫌にさせた。
 展開が遅い、と我ながら呆れるが、これが自分たちのペースだから仕方ない。
 こののんびりも悪くないかな、と総一郎は思い始めていた。







2007/09
最終更新:2008年12月31日 15:47