「そういちろー」
妙な発音で呼ばれた。
くすぐったかった。
普段の浅尾、も好きだが、これも物凄くいい。
*
青少年は欲求不満と戦っていた。
わざとらしく大げさに、木製の机に突っ伏して時折うめき声を上げる。
そんな彼のアピールにも、茜は絶対に動じない。
「センセイ」
「なんだ、浅尾」
「触っていいですか」
「駄目だ」
「……触って、もらえませんか」
「断る」
「手、冷たくないですか」
間に合ってる、とちらりともこちらを見ずに言い退けた後、ビーカの中ををガラス棒でかき混ぜながらもう一言付け足す。
「気持ちだけ受け取っておく」
茜なりにそっけなさ過ぎた、とでも思ったのだろうか。
願わくば、もう少し早く気がついて欲しい。
無駄のない言葉はまるで刃のように鋭い。
繊細な青少年の心など、一瞬でずたぼろだ。
そんな氷のように冷ややかな彼女を好きになってしまった自分が悪いのだ、と浅尾総一郎は頭を抱えた。
「浅尾」
「…………はひ」
「2分37秒」
「は?」
「記録。サンプルBの凝固まで2分37秒」
次、サンプルCの凝固実験開始。
見事なほどに淡々としている。
絶対零度とはこういうことか。
夕暮れ色の実験室。
目の前にはお似合いの白衣を着た愛しいセンセイ。
机の上には色とりどりの実験サンプル。
今日のお題は「スライムを作ろう」。
今どき小学生でも喜ばないスライムを作っているのは、今週が新入生の部活動見学の為の期間だからだ。
もちろん客は誰も居ない。
客どころか部員も居ない。
なのに茜は律儀にスライムを作り続ける。
普段の活動のほうがマシだと悪態をつつきつつ、ノートに「サンプルB:2分37秒」と書き留めた。
いつ来るとも知れない客を待って延々とスライムを作り続けるよりは、茜が自分の好きな実験をしている様子を見ていた方が、何万倍もマシである。
もっとも当の本人は、スライムも嬉々として(きっと他人にはわからないだろうが、少なくとも総一郎にはそう見える)作っている。
「許可なく触れることなかれ」
この部活動見学週間の初日に淡々とに宣言をされた。
常だったら手に触れてちょっと抱きしめるぐらいなら怒られないのに。
ああ、冬の間はよかった。
心底実感する。
冷たい水のせいで氷のように冷え切った茜の手を温める役得は、春の到来とともに消え行くのか。
これからは暑いからそばによるなと、ものすごい暴言を投げつけられる予感がする。
もちろん、ただの被害妄想だ。
「小笠原先生……」
「なんだ」
「…………なんでもないです」
「言いたいことがあるならはっきり言いたまえ」
言いたまえ、なんて言葉、このヒトの口以外から聞いたことがない。
「僕たちって付き合ってますよね」
「付き合うという定義が難しい。恋人、愛人、だと問うなら答えはイエスだ」
あいじん。
総一郎は絶句する。
茜はふと顔を上げて、天井を見つめながらにやりと一人笑みをこぼした。
なんていうか、悪人顔だ。
「ああ、愛人は響きがエロくていいな」
エロという言葉は茜のお気に入りのようである。
何故スライムかと聞いたときも、感触がエロいからだとのたまった。
エロが好きなのか? と思ったがその割には必要以上に総一郎に触れさせないし、触れることもしない。
あの衝撃的な愛の告白から実に半年ほど経つはずなのに、未だ手を握って抱きしめるだけという実に美しいプラトニックな愛人だ。
ちなみにバレンタインのあのキスは、もちろんノーカウント。
くそう、常に寸止めか。このドSのヘンタイめ。俺が焦れている様をみて楽しんでいるに違いない。
ことあるごとにそのセリフが脳内をよぎるのだが、もちろん総一郎の壮大なる被害妄想だ。
耐え切れなくなって席を立つ。
サンプルCのビーカを熱心にかき混ぜている茜の隣に立って、おもむろにそのビーカを取り上げた。
おや、と無感動に教師は呟いた。
「君も作りたいのか」
そんなわけはない。
ビーカをかたんと木の机に置いて、細い手首を握り締めた。
む、と低い声をあげて、逃れようと引いた手首を逆に引き寄せて、腕の中に細い身体を抱き込んだ。
ああ、久しぶりのこの柔らかい身体。
感無量である。
「センセイ……」
「浅尾、客だ」
浸る間もなく無情にも心地よいアルトが告げる。
慌てて身を引き離すと、茜はくるりと踵を返して実験室のドアを開いた。
ドアの外では、まだまだガキくさい三人の男子生徒が、いきなり開いた扉に目を丸くしていた。
音もなく立っていたはずなのに、何故判ったのだろう。
あわあわと顔を見合わせた三人組の一人の肩に、ぽん、と白い手を乗せる。
「よくきた。入りたまえ」
見事な営業スマイルで、茜が三人に入室を促した。
すばらしい変わりようである。
年に一度の大安売りだ。
ちくちょう、そういえばあの笑顔に騙されたんだった。
一瞬、ぽかんと口を開いたズッコケ三人組のような新入生が、さあ、ともう一度声をかけた茜に会釈をして、慌てて中に入る。
「君たち、名前は?」
「山井です」
「岡本です」
「中田です」
「山井と岡本と中田だな。化学部へようこそ。私が顧問の小笠原、あれが部長。今はスライムを作っている。スライムに興味は?」
立て板に水の勢いに、ますますぽかんと口を開く三人組。
何も言わないのをいいことに、淡々と、しかし幾分か口調は柔らかく茜は話を進める。
「スライムはいいぞ。原材料は洗濯のりとホウ砂、たったこれだけだ。色は絵の具で自由自在。
今回はでんじろう先生の著書を参考にした。でんじろう先生は知っているな、よし。
コレが完成品のスライムだ。持ってみたまえ。ああ、遠慮は要らない。
単純に手にとって遊ぶおもちゃだが、人肌に暖めればオ」
「うおーっ! 部長の浅尾ですっ。君らどこの中学出身ッ? 部活見学はたくさん回ったか!」
慌てて叫んで茜の言を遮る。
嫌な予感に備えておいてよかった。
話に勢いがついた茜は何を言い出すか判ったものではない。
ちらりとこちらを見やったその目線はもしかして不服を訴えているのかも知れないが、とりあえず顧問を無視して、あっけに取られる下級生の相手を部長らしく務めた。
*
化学部が欲しいのは一緒に実験を楽しむ仲間ではなく、形ばかりの部員だ。
部費は部員数におおよそ比例する。
その部費は多いに越したことはない。
そして万が一、部員が一人も入らなければ廃部が決定だ。廃部だけは避けたい。
すなわち、幽霊部員の確保が毎年の最重要ミッション。
幸い、この学校には帰宅部が存在しない。
帰宅部希望の学生は、いかに楽な部活動に在籍するかが4月の目標となる。
化学部の活動は一応火曜日と木曜日。人がいれば実験するし、いなければしない。
実験内容は希望があればそれに沿うし、なければ茜が適当に選ぶ。
年に一度の文化祭に掲示物を作成して展示する以外は、特にコレといった活動はない。
という旨を説明すると、三人に一人は入部を決める。
他にも帰宅部への抜け道として山岳部(ただし、月に一度集団で学校の周りを歩く姿はいい笑いものだ)、天文部(夏にはやぶ蚊の中で合宿がある)、美術部(芸術家肌の一派とのいざこざが面倒だ)などがあるが、顧問が少々変人で、冬場の実験室が寒いといったデメリットを抱えた化学部も、今年は十人の新入部員を無事にゲットした。
先程のズッコケ三人組も入部届けに記名をすませ、お願いしますと形ばかりの礼をする。
「うむ、こちらこそ宜しく。放課後はだいたいいると思う。平井と山本と佐藤、好きなときに来るといい」
山井と岡本と中田です、と入部届けを手に総一郎は心の中で突っ込む。
微妙に惜しい。
本人たちは訂正をしなかった。
あいつらはもう来ないかもしれない。
コレが茜の作戦だったら大したものだが、残念ながら本当にヒトの名前を覚えるのが苦手らしい。
去年の部長の小林は、最後まで高橋と呼ばれていた。
まぁ小林の姿を見かけたのは合計3回だから、無理からぬ話かもしれないが。
そういえば、と総一郎は思い出す。
初めて呼ばれたときから、名前を間違えられた事は一度もない。
だから彼女が名前を覚えられないと知ったのは、ずいぶんと後になってからだった。
「君は2年B組1番の浅尾だな」
一年前のこの時期、偶然入ったこの実験室で。
顔を見てそう言われた。
はぁ、と生返事を返せば、茜は柔らかく笑った。
「昨日の授業、一番前で寝てくれただろう。化学は嫌いか?」
「…………嫌いじゃ、ありません」
昨日の自分を後悔した。
化学の授業では絶対に眠らない、と一人誓った。
「そうか、よかった」
心から安堵したような微笑。
その笑顔に吊られて、卓球部から化学部に転部して、何故か部長にまで上り詰めてしまったのだが、今思えば営業スマイルだった。
あれ以来、あんな笑顔は見た事がない。
入部届けの束を受け取って、茜が満足げに総一郎に頷いてみせた。
「今年は十人。部長、ご苦労だった」
「センセイ」
「なんだ、浅尾」
変り種の転部組み、というインパクトのせいか、茜が総一郎を違う名前で呼ぶことはない。
間違えるどころか、このひとはことあるごとに浅尾、と呼ぶ。
「もっかい笑って」
「今年は終わりだ。慣れない筋肉を使って頬が痛い」
「じゃあ俺の下の名前って知ってる?」
「…………はて、何だったか」
「ひでー……」
むに、と茜の両頬を挟んだ。
ついでに軽くつまんで引っ張る。
マッサージのサービスだ。
痛いな、と全然痛くなさそうに茜が小声で呟く。
眉根を寄せて、首を振って総一郎の手から逃れた。
「ジョークだ、浅尾総一郎。日本人らしくていい名前だ」
「どうも。茜ってのもいい名前ですよ。センセイにぴったり」
「む、そうか。似合っていないと思っていたが、浅尾がそういうなら信じよう」
「あの、下の名前で、呼んでもらえません?」
「…………………………あー…………そういちろー……」
少し間をおいて聞こえたそれは、消え入りそうなほど小さな声で、しかも妙な発音だった。
くすぐったかった。
凄くいい。
名前を呼ばれることが、こんなにも嬉しいとは思ってもみなかった。
抱き締めたくなって手を伸ばした。
しかし流石に二度目は掴み損ねた。
「さあ、帰るぞ。浅尾、今日は君も洗うのを手伝ってくれ」
ひらりと身を交わした茜が、スライムをビニール袋に突っ込み始める。
もう浅尾に逆戻りですか、と残念に思ったが、とりあえず今日はこれ以上望まない事にする。
珍しく鉄面皮の崩れた場面を目撃できただけで、贅沢というものなのだ。
2007/10
最終更新:2008年12月31日 15:49