「浅尾、キスをしようか」
キスは好きだ。
短いのも、長いのも。
くちびる同士を触れ合わせるだけの、子供のようなキスしかしたことないけど、それでも好きだ。
まるで空に飛んでいけそうな心地がする。
キスは、好きだ。
「エロいキスを」
ああ、最近暑いから、とうとうセンセイの頭もおかしくなっちゃったんだな、と思った。
*
7月に入り、遅い梅雨明けが宣言されたら急に暑くなった。
茜はお似合いの白衣を着ないようになり、下ろしていた髪をまた後ろに一つでまとめ始めた。
しっぽのように垂らすときもあるし、くるりと丸めてしまうときもある。
まとめられてしまうと、もう触る余地はそこに見出せない。下手に触って崩したら、無駄にご不興を買ってしまう。
手を温める必要もないし、抱きしめると暑い、とたまに文句を言われる。
早く冬が来ないかな、と思う。夏になったばかりなのに。
たとえ冬がきたとしても、去年のように二人っきり、とはいかないだろうけど。
冷え性の茜は暑さにも弱いようだった。
いつもクールだが、そこにダウナーがプラスされているようだ。
冬の間は病的に白かった頬も、今は赤味が差しているが今度は目に生気がない。
梅雨入りのころから物憂げに、ぼんやりとした目をすることが増えてきた。
湿気が多いとだるい、と低く呟く。あと、暑くて寝られない、とも。
冬は手足がつめたくて、夏は気だるくて、一年中で健康な時期は非常に短くて難儀だな、と総一郎は同情する。
同情はしても、夏はなにもしてあげられることがない。
せいぜい食事を抜かないように見張って、無理やりにでも食べさせるぐらいしか出来ない。
本当に、所々で駄目な大人だ。
俺がしっかりしないと。
そんな名目で今日も茜の部屋に入り浸るのであった。
デスクに向かって真剣に仕事に励む茜の背中を穴のあくほど見つめた。
学期末最後の休日はとてつもなく忙しい。
定期考査の採点が終わると間発入れずに成績表、という大仕事が待っているからだ。
仕事をするときは2メートル以内に近寄らないように、との言いつけをハチ公並の忠実っぷりで厳守している。
人には踏み込んでならないテリトリーがあるものだし、万が一破れば二度とこの部屋に入れてもらえないと知っている。
彼女は本気で実行するだろう。
だから大人しく、与えられたスペースで、せっせと課題や受験勉強にいそしむのだ。
――ああ、俺ってケナゲ。
そんな自画自賛に浸りつつ。
せめて自分だけでも自分を褒めてやらないと、自信喪失で生きていけなくなりそうだ。
ちらりと時計をみやる。二時間経過。
そろそろ集中力の限界だ。
キーボードを叩く音が途切れるタイミングを見計らって、声を掛ける。
「センセイ」
「うん」
「休憩。アイス食べませんか?」
かたんとノートパソコンの蓋を閉じる音がした。
うぅんと大きく延びをすると、簡単にデスクを片付けて立ち上がる。
「食べようか」
茜にとっても甘い誘惑だったようで、素早く冷凍庫からアイスクリームを2本取り出して、1つを総一郎に手渡した。
今日、総一郎が買ってきた、チョコレートのバーだ。
受け取って、白い壁に背を預けながら袋を破る。
茜もクッションに腰を下ろすと総一郎に向かって目を細める。
「ありがとう、いただく」
白い手が優雅な手つきで袋を破り、アイスクリームを赤いくちびるに含む。
食べる、という行為はエロティックだ、と、テレビで誰かが言っていた。
なるほど、そうかもしれない。
極限まで冷えたアイスが、茜のくちびるをさらに真っ赤に彩って、時折ちらりと覗く舌が器用にうごめく様を目の当たりにする。
目の毒だ。
視線を逸らして、黒いバーに目を落としてかぶりつく。
ぱきんとチョコレートが折れたあと、カカオの香りとバニラの甘さが鼻を抜けた。
総一郎にとって、アイスといえばこのチョコレートだった。毎年、夏になると母親が買ってきてくれて冷凍庫に常備されている幸せの食べもの。そんな印象だ。
「やっぱ夏はアイスですね」
「ん? ああ、そうか、そうかもな」
「アイス、嫌いでした?」
「いいや、美味しい。ただ、一人で暮らしていると買うのを忘れる。だから夏はアイスという発想がない」
「……それは、食に対する欲求が全般的に乏しいセンセイだからじゃないですか」
沈黙が訪れた。
何かまずいことを言ったか、と茜を見やれば、ぼんやりと窓を見つめている。
バニラが溶け出して、今にも床に垂れそうだった。
「センセイ、落ちます」
慌ててティッシュを引き抜いて、その手に握らせる。
ああ、とやっと意識を取り戻した茜が、バニラの雫を舐め取った。
なにか、見てはいけないものを見てしまった気がした。
元の位置に大人しく戻って、咎めるような視線を向ける。
「子供じゃないんだから、ちゃんと食べてください」
照れ隠しで言い放ったセリフは、思いのほかきつく響いた。
だけど茜の耳にはそうは届かなかったようで、うん、と呟いてアイスの消費に集中をする。
相当疲れているみたいだ。
睡眠時間も削られているに違いない。
じゃなければ、このドSのヘンタイが、妙な野次も飛ばさずに大人しくアイスにかじりつくはずがない。
普段ならアイスはエロい、とかなんとか、オヤジのようなセクハラを飛ばして総一郎を戸惑わせるのに。
「…………浅尾、」
総一郎よりもかなり遅れてアイスを食べ終えた茜が、後に残った棒とティッシュをゴミ箱へ放り込みながらポツリと呼ぶ。
「なに?」
「キスを、しようか」
「…………………………」
はぁ、とか、なんで、とか、どうしたんですか急に、といった類の否定の言葉をすべてとっさに飲み込んだ。
それらを口にしたら最後、じゃあいい、とこの天邪鬼は言うだろう。
キスは好きだ。
触れるだけのキスしか知らないが、それでも好きだ。
ここに遊びに来た帰り際に、いつも盗むようなキスを一瞬だけ茜がくれる。
たったそれだけで、触れ合ったくちびるから魂が吸い取られる気がする。
茜とのキスが好きだ。
うん、と頷いて、腰を浮かしかけた総一郎に、畳み掛けるように茜が呟く。
「エロいキスを」
今度は意図的ではなく絶句した。
何を言われたか、全く理解が追いつかなかった。
――ああ、最近暑いから、とうとうセンセイの頭もおかしくなっちゃったんだ。
きっととんでもなく間抜けな顔で、茜を見つめ返しているであろう総一郎に、彼女は焦れたようにきつく続ける。
「するのか、しないのか」
「ししし、します」
「そうか」
くるぶしまでのロングスカートのひざをずるりと引きずって、おもむろに距離を縮めてくる。
思わず身を引いたが、いかんせん真後ろは壁だった。
「浅尾。己で試行錯誤するのと、私の実技を受けるのと、どちらがいい?」
「は?」
「5秒で決めたまえ。5……4……」
残酷なカウントダウンが始まった。
何を問われたのか、また判らなくなって混乱する。
ただ一つ判るのは、0になる前に返事をしなければキスができないだろう、ということ。
「……1、」
「実技で……!」
「ほう?」
「…………お、教えて、ください」
「了解。誠心誠意取り組もう。手加減はしない、覚悟したまえ」
ドSは恐ろしい宣言をしながら銀色のフレームの眼鏡を外して、ローテーブルの上に置いた。ちょうど、総一郎のノートの真上に。
「……なんで眼鏡外すんですか」
「邪魔だから」
もう一歩詰め寄って、今度はカーディガンを脱ぎ捨てて、タンクトップ一枚になった。
「なんで、脱ぐんですか」
「暑くなるから」
目のやり場に困る。
細い二の腕と鎖骨が見えて、いつもはずいぶんと首の詰まった、隙のない服を着ているんだな、となんとなく思った。
茜が目の前まで迫っていた。
立ててだらしなく開いていた膝の合間に入り込み、膝立ちで総一郎を見下ろしている。
後ろでまとめていた髪を解くと、軽く頭を振った。
くせのついた髪が、ふわりと踊る。
「雰囲気作りだ。浅尾、」
なんで、と聞いてもないのに楽しそうにそう言うと、そっと、白い手で彼の顎と肩に触れた。
その手が夏なのにつめたいのは、さっきのアイスのせいだろうか。
「判っているとは思うがキス以上はない。君は私に触れないでくれ。いいな?」
この上なく理不尽な宣言だが、総一郎は頷くよりほかない。
床に置いた拳を、ぎゅっと握った。
茜の顔が、吐息のかかる位置まで近づいてきている。
いつもの甘い香りがして、くらりとした。
家なのに香水をつけているんだ。
総一郎の好きな、この香りを。
センセイ、と声を絞り出そうとしたくちびるを、細い指がそっと撫でた。
「……喋ってはいけない」
小さく頷いた。
茜は目を細めると、囁くような声音で、目を閉じて、と言った。
素直に従って、目を閉じると同時に柔らかいものがくちびるを塞いだ。
当然、茜の赤いくちびるだ。
角度を変えて数回触れて、位置を定める。
突然、下のくちびるを熱い舌で撫でられてびくりと肩が震えた。
上のくちびるも同じように触れられて、軽く吸われた。
甘く歯が当てられる。
握ったこぶしに汗が滲む。
顎に触れていた指が、すっと頬を撫でて耳たぶを挟んだ。
一つ一つの動きは緩慢でじれったく、いちいちびくびくと反応をしてしまう自分が恥ずかしくなった。
うすく開いたくちびるの隙間から、熱いぬるりとした何かが入り込んできて、総一郎の舌に触れた。
甘いバニラの味がして、ああセンセイの舌か、とぼんやり思う。
ゆっくりと、まるで総一郎の舌を吟味するかのように先端に幾度も触れ、くすぐったさに思わず奥へと引っ込めたらついに囚われた。
茜の口腔へと誘いこまれ、突き出たそれを甘いくちびるで挟まれる。
自分のくちびるを、舌を、まるでさっきのアイスのように食べられている。
白い雫になったバニラが、脳裏をよぎった。
溶けそうだ。
耳たぶに触れていた手が、総一郎の前髪をくしゃりと弄んだ。
肩に置かれた手は、猫の喉をくすぐるようにくびすじを撫でる。
背筋からぞわりとした悪寒にも似た快感が這上がってきて、思わず茜の腕をすがるように握った。
何かを掴んでいないと、どこかに連れていかれてしまいそうだった。
舌を歯で緩く噛まれて、重なったくちびるを食むようにうごめかされて、もう、訳が判らない。
時折、唾液の絡まるぴちゃりという音が響く。
さらりとした髪が、総一郎の頬に落ちてくすぐる。またぞわりとした。
もしかしてこんなものまで武器にしているんだろうか。
とんでもない。
呼吸ができない。どう息をするのかも思い出せない。
おまけに興奮しすぎて心臓が痛い。
くちから飛び出してしまいそうだったがそんなはずはなく、代わりにたっぷりと溜まった唾液が溢れて、くちびるの端からあごへとつたった。
「……っ、う……」
悲鳴のような吐息が漏れた。
もっと続けたいのに、もう無理だ、と思った。
角度を変えながら延々と続く口づけ。
茜の二の腕を掴む指に、どんどん力が入っていく。
茜はゆっくりと総一郎の舌を押し戻すと、もう一度くちびるをやわらかく食んで、のろのろと顔を離した。
荒い呼吸を繰り返しながら、うっすらと目を開ける。
目の前の茜は、視線を合わせてにやりと笑い、手の甲で乱暴に自分のくちびるを拭った。
男前だ。
身体中の力が変な風に抜けて、なのに指先だけは妙に力んでしまって、小動物のような小刻みな震えを止められないでいる総一郎の前髪を、茜はまたそっと撫であげると、優しく握ったままの手を腕からほどいた。
やっと力ぬけた指が、茜の腕を滑ってずるりと床に落ちた。
ああ、いつもは夏でもひんやりとつめたい肌が、確かに熱を持っている。
総一郎の身体も、てのひらだけでなく背中までうっすらと汗ばんでいる。
茜の言うとおりだ。暑い。どうしてこんなに暑くなるんだろう。
センセイも興奮して暑くなったのかな。
焦点をあわせられずにぼんやりと茜を見つめる総一郎に、彼女は目を細めた。
「エロいだろう」
「…………エロい、です。もうムリ」
だるい腕をなんとか持ち上げて、前髪をかきあげた。
額にもじっとりと汗がにじんでいた。
両手で頬を挟む。熱い。
振り向いてテーブルの眼鏡に手を伸ばした茜が、とても余裕に見えて憎らしい。
優雅に眼鏡を装着して向き直り、低いいつものアルトで、む、と唸る。
その目線を辿れば、総一郎の股間へと落ちている。
しっかりと、反応を見せて膨らむ股間へと。
「あ」
「……コーヒーをいれよう。アイスでいいか?」
「……ハイ、お願い、します」
「うん」
茶色い瞳をゆっくりと瞬かせて、身を翻した。
落ちていたカーディガンを拾い上げて、バサリとまた男前に羽織った。
あまりに彼女が男前すぎるので、自分が何かのヒロインになった気さえする。盛大な勘違いだが。
立ち上がった茜の、素足に見とれた。
足の指は細くて長く、つめも手と同じように丁寧に切りそろえられていた。
きゅっと引き締まった足首とくるぶしのバランスが絶妙で、キレイな足だな、と思い、もしかしていつかこの足で踏まれたいと思う日がくるんじゃないかと恐ろしくなって目を逸らした。
部屋を出る直前に思いついたようにその足が止まり、前ぶれもなく振り向いた。
「煩悩を抑えるためには暗記がいい。コーヒーを入れる間に元素記号を35まで暗唱するように」
余韻もへったくれもない無情な宣言を残し、茜はキッチンへと消えて行った。
それでも自分を取り戻せないでいる総一郎がはっと我に返ったのは、コーヒーの香ばしい香りが部屋中に漂いはじめたころだった。
慌てて参考書を手にするも、実はもう30まで暗記していた安堵感でちっとも集中できず、残りのたった5つはどうしても覚えられなかった。
アイスコーヒーを2つ盆に乗せて戻ってきた茜は、やっぱりいつものクールフェイスで、すげえなと思った。
何がすごいのか判らないけど。
元素記号はあと5つ覚えられなくても特に咎められはしなかった。
受験に関係ないせいだろうか。
「気分転換になった。ありがとう」
淡々と告げて仕事へと戻っていく茜は、何を考えているかよく判らない、としみじみ実感するのだった。
*
その後、幾度もこの「エロいキス」を反芻しては悶絶する。
次はいつ、あのキスができるんだろう。
っていうかドコで覚えてきたんだろう。
やっぱ大人だから経験豊富なのかな、くそ。
あー誰とあのキスしてきたんだ?
いや、過去に嫉妬するなんて見苦しいにも程がある。
それにしても万事が万事、センセイのペースで進んでいくんだろうか。なんだかなぁ。
ああでも、あの髪は反則だよな、ホントに。
センセイ、またぷっつんしてくれないかなぁ。できたら、早いうちに。
などと延々と繰り返し考えては、床をのたうち回ることになる。
茜は気分転換になったかもしれないが、総一郎にとっては受験勉強の大いなる妨げである。
いつか文句を言ってやりたい、と出来もしない希望を胸に、元素記号をついに50まで暗唱した自分にハラショーと呟いた。
2007/11
最終更新:2008年12月31日 15:50