突然くちびるがふってきた。

 一瞬まぶたを掠めたそれは、すぐにくちを塞ぎにかかった。
 とっさに逃げられなかったのは、両手に持った空の皿の上に乗ったフォークに気を取られていたからだ。
 軽く食んで柔らかなくちびるの感触を楽しんだあとに、舌が入り込んできて絡まりあった。
 ケチャップの味がする、と思った。
 舌の裏側をつん、とつつかれて身体を震わせたら、フォークがかちゃんと鳴ってひやりとした。
 落としてしまわないか気が気でなくて、平素のように応えることも身を引き離すことも適わない。
 元々そんなに器用ではないのだから、横着をせずに一枚ずつ持てばよかったと、茜はひっそりと後悔をして、いや悪いのは彼のほうだと認識を改めた。

 汚れた皿を放置するのは好きではない。
 すっかりと口に馴染んだ食事を終えて、ごちそうさま、と皿を両手に立ち上がると、同時に立ち上がった総一郎が身を寄せてきた。
 おや、と一歩後ずさったら壁にとん、と背をぶつけた。
 そして今に至る、というわけだ。

 茜の好きな、暖かい手が伸びてきてくびすじを撫でる。
 肩に落ちた髪を弄びつつ、親指の腹で耳をさする、なんて器用なことをしてみせる。
 くすぐったくて、肩をすくめた。またフォークがからんと鳴った。
 ともすれば翻弄されて溶けてしまいそうな理性を、茜は必死で保つ。
 だけど数時間前の情事の名残は完全には身体から抜けきっておらず、ひんやりとしているはずの全身に血が巡るのを自覚した。

 これはやばい。いろんな意味で。
 まず皿を落とす。その後に、たぶん、押し倒される。
 この煽るようなキスは、彼が飢えている証拠だ。
 このままでは流されてしまう。

 ゆるくくびを振って、何とか口付けから逃れる。
 は、と吐いた二つの吐息が混ざり合った。
「…………浅尾、」
 呼びきる前に、目の前の総一郎がセンセイ、と熱っぽく呼んだ。その声音にくらりとしてしまう。
「お行儀が悪い」
 ちょっと熱に浮かされたことを知られたくなくて、ぴしゃりと告げる。
 犬のような総一郎は、悪びれもせずにだってといいながら、茜の横髪をゆるく撫でた。
 熱い身体が密着をする。
 どくんと胸が高鳴って、意識のどこかが期待をする。
 だめだ、と必死に己に言い聞かせた。

「あー、君の欲望の象徴が当たっているわけだが」
「その官能表現やめてもらえません? ちなみに当たってるんじゃなくて当ててます」
「そうか。離れては、もらえないだろうか」
「嫌です」
 子供のようなわがままを言って、総一郎が再びくちびるを寄せてこようとする。
 顔を背けて嫌がって、彼の手に皿を一つ持たせた。

「君がやりたい盛りだとは知っているが、」
「それ傷つく……」
「む、言葉が悪かったか。あー……君が、性欲旺盛なお年頃だと理解はしている。だけど申し訳ないが付き合いきれない」
「なんで」
「日に二度はキツイ。年寄りを虐めないで欲しい」
 年寄り、は自分で言って自分で傷ついたが、身体が辛いのはほんとうだ。

 食事の前に求められるままに重ねた身体は、未だ力が入りにくくて、何より腰が痛い。
 もっと力を抜けばいいと頭では理解しているのだが、気を抜くと我を忘れそうなほど追い詰められて、抗っているうちに知らず知らず全身余すところなく力んでしまう。
 終わった後起き上がるのも辛いほどセックスとは体力が必要だっただろうか、と疑問に思う。

 そういう訳だから、と言いながら、目線だけでベッドに誘う総一郎の顔を見上げれば、彼が拗ねたような表情をうかべて茜を見下ろしていた。

 その顔はずるい。
 茜はそれに弱いのだった。
 しかも最近の総一郎は、計算でその顔をする。まったく可愛げのないことだ。

 さらにとても始末の悪いことに――計略だと判っていても胸が痛んでしまうのだ。
 ごめんごめん私が悪かった、と頭を撫でて、機嫌を取りたくなってしまう。
 なんとらしくない。
 そんなに彼を甘やかしてはいけないのに。
 それに今回、自分は悪くない。
 セックスとはお互いの気分が一致して初めて成り立つもののはず。
 求められるのは悪い気はしないが、ただでさえ、昼間からの情事に罪悪感で一杯なのだから追い討ちをかけないで欲しい。
「センセイは、したくないの?」
「今のところ間に合っている」
「ふーん……試してみていい?」
 なにを、と言いかけて、彼のペースに乗りかけていると気がつく。
 触れられたら、たぶん、あっさり陥落してしまいそうな予感に慌てて首を振る。
「試さなくていい」
「ちぇ」
「せっかくお誘いいただき嬉しいけれど、またの機会でお願いしたい」
 傷つけないように、やんわりと断り文句を口にする。
 ナチュラルに気を使えるなど、丸くなったものだと自分に苦笑しながら、ほら、映画に行くのだろう、と微笑みかけた。

「判った」
 その言葉に安堵する。
 しかし安堵も束の間、総一郎がもう一つの皿も奪い取って顔を寄せる。
「じゃあキスだけさせて。それで諦めるから」
 返事を迷っているうちに、ローテーブルに皿を置いた総一郎が再び茜に向き直って手を取った。
 相変わらず熱い手だな、とぼんやり思った。
 食後だから眠いのか、とも。
「キスだけ」
 動く赤いくちびるに見とれた。触れたら気持ちいいだろうな、と思ってしまった。

 キスだけなら、と頷いて、目を閉じた頬に、総一郎の吐息が落ちてくる。
 髪を手ぐしで梳かれた。ぞわりと甘い痺れが背筋を伝う。
 ちゅ、と軽い音を立てて、頬を滑ったくちびるは、何故かくびすじへと落ちた。
 ぺろりと熱い舌で舐め上げられて身がすくむ。
「浅尾……っ」
 まるで食事を終えた犬がその空になった皿をぺろぺろと舐めるように、くどく首筋を責められて息が乱れる。
 センセイって、と総一郎がくちびるを少し離して吐息混じりに言う。
 生暖かい息が吹きかけられて、またびくりと身体が震えた。
「くび、弱いよね」
「…………くすぐったい」
「ふぅん。じゃ、ここは?」
 耳のすぐ下に軽く吸い付かれた。
「あっ、や……っ!」
 身を捩る暇もなく、すぐに耳も口に含まれて高い声が漏れる。
 ねちゃり、と耳から直接脳髄へと湿った水音が響いて、半ば溶け始めていた思考が本格的に白み始める。
「あ、待って、キスだけだ……」
「キスしてるだけですよ」
 屁理屈だ、と反論も出来ないまま、楽しげに笑った総一郎の吐息にまた翻弄される。
 気持ちいい。身を委ねてしまいたい。
 だけど甘い疼きとともに湧き上がった鈍い腰の痛みが、茜を現実へと引き戻してくれた。

 両手を突っ張って総一郎の身体を押し返す。
 片方の手は握られたままだ。
「浅尾、だめだ……約束が、違う」
 ぶるると身を震わせながらでは、説得力はない。

 その証拠に総一郎は、にやと笑って、繋いだままの手を自分の口元に運んだ。
 こら、と言おうとしたくちびるに、総一郎の暖かい指が軽く乗った。
 囚われの、人差し指の背に口付けられた。
 そのまま何のためらいもなくぱくりと咥えられて、全身の皮膚がぞわぞわした。
 ぴちゃ、とわざと音をたてながら、総一郎が丁寧に細い人差し指を味わう。
 第二関節まで咥え込んでから一度口を離し、付け根をぺろりと舐めるといった具合に。
 人差し指が終われば息をつく間もなく、今度は中指を甘く噛まれる。
「んんっ……」
 漏れた声を確認するように、ちらりと薄目でこちらを見た総一郎の表情が、酷く扇情的だった。

 前は、煽るのは常に自分だったはずなのに。
 茜に翻弄されて、顔を赤くして、それでも必死に応えてくれていた頃の彼を懐かしく思い出したら、なんだか何もかもどうでもよくなってしまった。
 痛む身体も、映画の約束も、汚れたままの食器も。
 きっと後で後悔するのだろうな、とどこかで冷静に思った。

 熱くなりすぎた身体を持て余して、総一郎の注意を引くためにくちびるに乗った指をぺろりと舐めた。
 顔の角度を変えて、かぷりと噛み付く。
 抗議をこめて、少しだけ強く。
「って」
 茜の指を咥えたまま、総一郎が小さく呻いた。
 なに、と上げた顔を見据えたまま、くちびるを動かす。
「…………キス」
 くすぐったそうに笑った総一郎のくちびるが近づいてきた。
 一度軽く触れ合って、すぐに口付けは深くなる。
 本能のままに舌を絡ませあって、貪りあって、お互いの身体を熱く火照らせていく。
「……んーふ、む……んん……」
 言葉にならない声が、重なったくちびるの端からぽろぽろと漏れた。
 熱い手のひらが茜の肩を撫でる。
 気持ちいい。
 もっと触って欲しい。
 茜の思考を読んだかのように、その手が洋服の上からわき腹をなぞり腰をなでて太ももに触れる。
 手玉に取られてなるものか、と誘いこんだ総一郎の舌を歯で捉えて、先端をつつく。
 彼はそこが弱い。あとくちびると、舌の裏側も好きみたいだ。
 
 意識がそちらに集中した隙に、こそこそと動いていた手が、白いパンツのボタンとファスナを素早く外してしまう。
 おや、と思う暇もなく、下着の中に入り込んだ総一郎の指が秘部に触れ、膝から力が抜けた。
「ん! ……あ、ふ!」
 よく判らないが、その指のすべり方からしてたぶん、しっかりと濡れているんだろう。
 くちゅりと捏ねられて、がくがくと足が震えた。
 背中を壁に預けたまま、ずるずるとずり下がる。
 総一郎は追いかけるように身をかがませながら、執拗に濃厚なキスを繰り返す。
 とうとう床にしりもちをついたところで、指が離れた。

 湿っぽい息を漏らした総一郎が、潤んだ瞳をうっすらと開いて茜を見つめる。
「センセイ、…………しようよ。ね?」
 こんなにお上手に誘われては、頷くよりほかないじゃないか。
「…………ベッドに、連れてってくれるなら」
 腰が抜けた、と素直に申告すれば、嬉しそうに笑った総一郎の手が背中に回った。
 茜も自分の両腕を伸ばして、彼の首に回した。
 顔を、見られたくなくてぎゅっとしがみつく。
 そろえた膝裏にも手が回って、ふわりと身体が浮いた。
 やっぱり男なんだな、と嬉しくなる。
 小さい子供みたいに抱き上げられるのは、案外心地が良かった。
 一度ちょっとよろめいたのが気になるが、落とされることもなく無事にベッドに身体が沈む。
 離れかけた身体を、ぐいと引き寄せてくちびるを奪った。
 くびすじを爪の先でくすぐって、先程のお返し、とばかりに耳を軽く引っ張る。
 前髪を掻きあげて、頬を挟んで、完全に理性が溶けてなくなってしまわないように意識的に指先を這わせる。煽るように、温もりを、分かちあうように。
 ただで翻弄されるわけには、まだいかないのだ。


*

 やっぱり身体が痛い。
 最悪だ。
 もう今日は外出などしたくない。

 裸のままベッドにうつぶせて、胸のうちで悪態をつつく。
 ちらりとテーブルを見やれば、食事をしたままの食器が目に入りさらに茜の気分を陰鬱とさせた。
 はあ、と盛大にため息を落とす。
「……センセイ?」
 後始末を終えた彼が心配そうに茜を覗き込む。
 今度は、計算でなく捨て犬のような目をして。
 怒らせたんじゃないかとびくびくしながら。
 そんなには怒ってはいないが、意地悪い気分ではある。

「……食欲が満たされたらすぐ性欲か」
「ほんと、ケダモノですよね俺」
 珍しく自虐的なその発言に、ちょっと驚いた。
 総一郎はしゅんとして、申し訳なさそうに肩をすくめている。
「……その、身体が目当てなのかって言われても仕方ないなって思います」
 まさか10代の女の子ではないのだから、そんな恥ずかしいこと言うはずがない。
「自分でもよくないって判ってるんだけど、その……」
「ん?」
「してもしても全然足りない。いくらでもしたい。俺ってどっかおかしいのかな」
 もう少しで泣き出してしまいそうな表情で、ぎゅっとクッションを抱きしめた総一郎が可愛くて仕方ない。
 それがいわゆるやりたい盛りなんじゃないか、と言いかけて、わが身を振り返る。
 こんな風に、してもしても足りない、なんて時期あっただろうか?
 少なくとも彼の年の頃には、そうじゃなかった。

 ――うん、しいて言えば、今、かな。

 求められるのは嬉しいし、身体がついていけば何度でも肌を重ねたい、と思う。
 我慢を強いているなら気の毒に感じるものの、しかし無理なものは無理なのだ。
 体力がなくて申し訳ない気分にはなる。

 気だるい上体をなんとか持ち上げて、総一郎の顔を下から覗き込んだ。
 前髪を撫で上げる。
 くせはないが、案外硬くて量が多い。たぶん彼は薄くならずに白くなるタイプだ、とどうでもいいことを思った。
 別に、将来的に彼が禿げてもいいけど。一緒にいられるならなんだって。

「浅尾。大丈夫、怒っていない」
「ほんと?」
「うん。全然足りないって気持ちも、判る、つもりだ。誰彼構わず襲うんじゃなければ、別にいい」
 もし誰彼構わずに欲情しているんだったら、淫乱、と罵りながら散々に扱ってやる、と考えていた。
 その想像に、いいかも知れない、と思ってしまった自分が怖かった。
「センセイだけだよ。したいのはセンセイとだけ」
「……ん、ならいい。ただせめて、洗い物が終わってからにしてほしかった」
「ごめんなさい」
「身体が痛い。動く気になれない」
「もちろん俺が洗います」
 その言葉を聴きつけて、よし頼んだと言いながらくしゃと髪を撫でた。
 クッションを奪い取って、その腕の中にすっぽりと納まる。
 後ろから抱きかかえられて、裸同士の胸と背中が密着して気持ちいい。
 まるで吸いつくみたいに、ぴったりと重なる。
「センセイってさ」
「ん?」
「食べる時、ものすごくしっかり噛むよね」
「そうか?」
「そうです。食べ方も、すごくキレイだし、味わって食べてるし」
 明るい場所で見られるのは一応恥ずかしいので抱き込んでいたクッションの隙間から、総一郎の手が入り込んで腹をなでた。
 さっき食べたものの居場所を探るように。
「……俺のことも、味わって食べてるのかなぁ、と思ったらまたしたくなっちゃった」
 否定はできない。
 味覚が鈍感で、食に対する欲求が薄い自分が、総一郎の食事だけは美味しい、といつだって感じる。
 そして総一郎自身を、こんな美味しいものはない、と思っている。
「………………味わっているとも」
 顔をちょっと上げて、首と肩の間に鼻をうずめた。
 浅尾の香りがする、と幸せに思う。
 きっとこれはすっかりこの身体に移っていて、自分を形成するものの一つになっているのだろうな、と。

 ううんと背骨を反らせて伸ばし、ほう、と息をつく。
 まだだるさは抜けきらない。できるならこのまま少し寝てしまいたい。
「今日は、もう外出は嫌だ」
「うん。俺も出たくない」
「……ああ、また怠惰な休日を過ごしてしまった」
「いいじゃん。愛人とだらだら過ごす休日って贅沢らしいよ? 今フランス語でそんなようなことやってる」
 愛人。そうか、愛人か。
 あいするひと、か。それはいい言葉かもしれない。

 非常に体力を消耗したけれど、二度目の情事も悪くなかった。
 今日は出かけるから、とコンタクトレンズを入れていたおかげで、普段はよく見えない彼の裸をクリアに見ることができた。
 今まで気がつかなかった場所にホクロも発見したし、なにより、射精する瞬間の表情をばっちり目撃した。
 あんな顔をするんだ、と思い出したら、腰のあたりがまたぞわぞわして慌てて話題を探して口を開く。
 身体を離せば手っとりばやいのだろうけど、もう少しだけこうしていたかった。

「そういえば、映画は? よかったのか?」
「うーん、また今度」
「そうか。その時は外で待ち合わせをしよう。迎えに来なくていい」
「えっ、なんでっ」
「…………今日みたいなことになるから」
 しばらくの沈黙のあと、素直にはいと頷いた総一郎の喉元をごろごろと猫のように撫でながら、結局自分も性欲旺盛で欲望に素直なのだと思い知る。

 これはこれで、バランスが取れていていいのかもしれない。
 少なくとも利害は一致している。
 結局映画に行っても、暗闇で手をつなぐその温度に、分け合って飲むジュースに、もしかしたらあるかもしれないラブシーンに、それにエンドロールの余韻にだって欲情をして、身体を重ねることになるのだろうなと予感はしていた。
 お互いやりたい盛りなのだから。

 予感はしていたものの、全くその通りになれば苦笑いを漏らすしかなく。
 いつか途切れてしまうであろうこの旺盛な性欲が、できるだけ長く持続すればいいと、茜はひっそりと願った。







2008/12
最終更新:2008年12月31日 15:57