『アンタの所為だ。今すぐ来い!』
電話口で開口一番、酷い声の智に怒鳴られた。
「智さん、風邪ですか……」
やっぱりうつってしまったのか。
だからやめて欲しい、イヤだ帰ってくれと散々言ったのに。
智の自業自得なのだ。


*

二日前、確かに夏世は風邪をひいた。
今までの経験からして、恐らく一日で治る類いの風邪だ。
社会人5年目。
伊達に今まで一人で過ごしてきていない。
寝るのが一番と決め込んで、適当に胃の中に食べ物と薬を流し込んで布団に潜る。
こういう所、己は大変男前だと思う。
世間一般的な乙女のように「誰かに頼りたい」なんて気持ちは微塵も沸いてこない。
それ以前に頼れる人もいないのだが。
もしかして死ぬ時もこんな風に一人なのかな。
いやいや、縁起でもない。
そんな事を考えながらうとうとと眠りに落ちそうになった頃にインターホンが鳴った。
――こっちは病人です。残念ながら留守ですよー。
どうせセールスか何かだ。
無視を決め込んで掛け布団を頭から被る。
3回目のインターホンの後、枕元の携帯電話がピロロと鳴った。
サブディスプレイを確認すると「着信 三男」の文字が浮かんでいる。
慌てて起き上がって咳払いで声を整え、通話ボタンをプッシュした。
「も、しもし?」
『居留守? ダウン?』
「は?」
『インターホン、鳴らしたんだけど」
「えぇぇぇぇ!?」
思わず玄関にダッシュして、ドアを開ける。
携帯電話を握り締めたまま間抜けに見つめ合った。
たっぷり3秒が経過した後で、自分がノーメイクで頭もボサボサで、パジャマ姿だという事に気が付く。
「あぁぁぁっ、あの! 大丈夫です、じゃっ!」
ぎゃふんと仰け反り慌てて閉めようとしたドアの隙間に、智が強引に足を挟んだ。
「まぁまぁまぁ、いいからいいから」
そのまま身体を割り入れ、ずいずいと中に入り込む。
「うつるから! 帰ってください!」
顔を見られないように智に背を向けて、怒鳴るように叫んだらげほげほと激しく咳き込んでしまい、その場にうずくまった。
「ほらほら、調子悪いんだから、大人しく寝ろよ」
急かされて言われた通りにベッドに潜り込む。
その姿を見て智は満足げに頷いて、台所でごそごそとビニールの音を立て始めた。
「せっかく見舞いに来た人間を追い返すなよな」
「……何で風邪ひいたって知ってるんですか?」
「今日は蛍潮さんの〆切。田丸さんが取りに来て『月山は風邪ですスミマセン』って言うから」
そういえばそうだった。
朝一番に会社へ電話して編集長に申し訳ありませんが、と頼んでおいたのだった。
「……で、何でここにいるんですか?」
「おかゆ作るけど喰える?」
「…………おかゆより雑炊がいい……」
「わがまま言うな」
ぴしゃりと叱られて、掛け布団を頭から被る。
こっそり起きて覗き見れば、長身の智が台所でいそいそと材料の確認をしていた。
この部屋に誰かが来るなんて、本当に久しぶりで、妙に新鮮だった。
こまごまと動く智の姿は、意外にも家事労働に似合っている。
夏世はくすくすと笑いをもらし、布団から抜け出した姿を智に見つかりまた叱られた。


*

智の雑炊は美味しかった。
それはもう驚くほど美味しかった。
智の料理を食べるのは初めてだったし、誰かの手料理を食べるなんて本当に久しぶりだった。
とても暖かい。

ただ、智が匙を握って食べさせたがるのには辟易した。
「自分で食べられるのであっち向いててください」
「別にアンタのすっぴん見たからって何とも思わねぇって。
 でもオレの飯食わないんだったら写真撮って修兄に見せる」
これは絶対親切心なんかじゃない、と夏世は確信している。
こっちが困る姿を見て楽しんでいるのだ。
智のにやにやと嬉しそうな表情がそれを物語っている。
結局、夏世が折れる形になって、まるで新婚さんのように食事をすませた。
薬を飲んで、再び布団の中に押し込められる。
「……智さん、何だかんだ言って世話焼きさんですね」
「あ?」
「手馴れてるっていうか」
「あぁ。陽が、昔っから身体弱くってさぁ。オレしょっちゅう看病してたんだよね。
 あいつ、小学生の頃は冬になると月一ぐらいで熱出してさ。
 食が細い所為だよなー、絶対。…………悪い、寝る?」
「ううん、大丈夫です。皆さんの話、もっと聞きたい」
軽く微笑んで智が頷く。
「兄貴達は仕事だったし、オレしか面倒見るやついないでしょ。
 でも2回に1回はうつされてオレが熱出して、結局航兄の世話になるんだよな。
 修兄はなーんも出来ないから後ろでオロオロしててさぁ。
 そうそう、不思議と航兄と修兄って風邪引かないんだよ。
 あれって雑食だからだと思うんだけど、どう?」
家族のことになると、智の口調がとても穏やかになる。
低い声が耳に心地よい。
智の話を聞きながら、だんだんと夏世は眠りに落ちていった。


*

「ちょっと、アンタ」
肩を揺すられて目が覚めた。
うっすらと目を開けると、ぼんやりとした視界に人影が写る。
「ん……お母さん……?」
「ハァ?」
低い声に驚いて一気に意識が浮上した。
あ、智さんがいるんだった。
「ご、ごめんなさい……寝ぼけてて」
「いいけどな、別に」
智の大きな手のひらが前髪を避けて額に触れる。つめたくて心地いい。
「熱、大分下がったな。起きれるか? 汗かいたみたいだから着替えろ」
何故エラそうに命令口調? と思いながらも大人しく返事をして起き上がる。
「……ちょっと向こう行ってて下さい」
ハイハイと軽く返事をして、智がリビングへと消える。
カーテンが閉められたのを確認して、ベッド隣のロールスクリーンを巻き上げて着替えを取り出した。
確かに、大量の汗をかいたようだ。
背中がじっとりと濡れて気持ち悪い。
でも心なしか身体が軽くなったような気がする。
パジャマのボタンをぷちぷちと外して上着を脱ぐ。
そうだ、身体を拭こうとタオルを探した所で、突然カーテンが開かれた。
「これ、蒸しタオ、ル…………」
「きゃあっ!」
慌ててさっき脱いだパジャマで前を隠して智に背を向ける。
見られた、絶対に見られたような気がする。
「は、やく閉めてくださいっ!」
夏世が叫ぶと同時に、無言でカーテンが閉められた。
ほっと息をつくと、背中に暖かいものが触れビクリと身体が震えた。
背後に智の気配がする。
「智さん!?」
「いいから」
「よくないですっ!」
「アンタの裸なんか見ても何とも思わねぇって。大人しくしてろ」
暖められたタオルで、智が丁寧に夏世の背中を拭う。
肩に落ちた髪をかき上げ、首筋にも暖かいタオルが触れた。
気持ちいい。
でも、落ち着けない。
心臓が口から飛び出そうだ。
「……もぅ、大丈夫ですから……」
消え入りそうな声で夏世が懇願する。
ん、と智が返事をした。
やっとこの辱しめから逃れられると安堵した身体を、ふわりと抱きしめられた。
「さささ智さん!?」
首筋に、智のくちびるが落ちる。
ぺろりと舐められて、身が竦んだ。
「魚心あれば水心……ってね」
「なっ何ですか? 下心のこと?」
「うーん、まぁそれでいいや」
智がベッドにひざを乗せ、ぎしと軋ませた。
肩を抱かれて、逃げる暇もなくくちびるを奪われる。
ついばむような軽いキスを繰り返した後、だんだんと深いものに変わる。
呆然としすぎて抵抗を忘れていた夏世だったが、智の舌が歯列に触れて我に返った。
「んっ、……んんっ待って!」
片手で懸命に智の身体を押し返すが、無論何の意味もなく。
「何?」
「なに、って! なんでいきなりこんな事!」
「こないだの、お礼をしようと思って」
「お礼!?」
こんな酷い事をされる覚えはない。
失言の謝罪は受け入れてくれたし、キッチンの破壊も無事に修理が済んでいるはずだ。
意味が判らず視線を泳がせた夏世の顎をぐいと智が掴み、再びくちづけられる。
キスなんて、本当に何年ぶりだろうか。
ぼんやりとする頭と、だるい身体が思うように働かない。
懸命に智の腕から逃れようとするのだが、どうも上手くいかない。
大人なんだから、こんな事ぐらいたいした出来事じゃないはずだ。
なのに、まるで小娘のような思考がぐるぐると巡る。
頭のどこかで智を拒否する気持ちがこびりついている。
不安は段々と大きくなり、夏世は泣き出したい気持ちを抑えきれなくなってきた。
智の大きな手が淡く色づいた胸の先端を摘んで、びくりと身体が震えた。
「ま、待って! イヤですってば!!」
「…………何で?」
「何で……?」
とうとう涙が溢れてきた。
オロオロと智が慌てふためく。
「泣くなって。ルール違反だろ?」
ルールって何のルールだろう。
「まさかバージンなわけ?」
だったらどうだ、違ったら何だと言うのだ。
うつむいて首を左右に振る夏世の頭を、智がぽんと撫でる。
そのまま軽く頬を撫でた手を、身を捩って振り払った。
「帰ってください」
「なんで」
「……大嫌い」
やっとそれだけを口にして、布団にもぐりこんだ。
もう顔もみたくない、との意思表示のためだ。
「嫌われ、ちゃった……」
傷ついたというような智の口調に、少しだけドキリとした。
でも自業自得なのだ。
無視を決め込んだ夏世の上に、ずしりと体重がかかった。
重みでぐぇと息が漏れる。
「拗ねんなよ。一応謝るから」
「一応ってなんですか。ちゃんと謝罪してください」
「だって、なんで怒ってるか判んねーもん」
しれっと言われて、思わず顔を覗かせた。
本当に悪気のない顔で智がこっちを見ている。
子犬のようなその表情に、毒気を抜かれて肩が落ちた。
「本当に判んないんですか?」
「うん」
「あのね、私は、好きでもない人と、っていうか付き合ってもいない人と……ああいうことするのはイヤなんです」
「なるほど」
「ご理解いただけたら帰ってください」
「好きだ、付き合おう」
「……は!?」
「こんでいい? いいよな、よし」
言うが早いか掛け布団を剥ぎ取られ、再び智に肩を押される。
「待って、よくない! か、風邪うつるから、悪化するから!!」
「大丈夫大丈夫。汗かけば治るって言うじゃん?」
「無理無理! 嫌だってばー!」

しばらく不毛な押し問答を続けた挙句、夏世の「好きなら待てるはず」の一言が決め手となって、智はすごすごと彼女のアパートを後にしたのだった。


*

というわけで冒頭の電話に戻る。
「……ちょっと、今日は校了会議が」
編集室の片隅で、同僚上司の目を気にしてひそひそと携帯に向かって話す。
『メシだけでいいから、頼むよ~。修兄たちが飢え死にしてもいいの?』
それを言われると大変困る。
確かに、家事担当の智がダウンしてしまった痛手は察するに余りある。
長引けば、家出騒動の時の惨状が繰り返されるのだろう。
『熱が高いんだけどさぁ、みんな忙しいし誰も心配してくんないんだよね』
うっと言葉に詰まった。
こちらにも一応看病してもらった負い目もある。
心細い時に側にいてくれた。
とても暖かかった。
『聞いてる? アンタ彼女でしょ? 心配して来てくんないの?』
「だっ、誰が誰の、か、彼女?」
『アンタが、オレの』
「彼女になるなんて、言ってなーーーーい!!
 そんなずうずうしい人の看病になんて、行きませんからねっ!」
叫んで、思わず電話を切った。
片岡家は心配だ。
ほんとは、智のことも少し心配だ。

だけど、だけど、今智のお見舞いになんて行ったら確実に彼女にされてしまう。

コミック編集部の片隅で、うんうんと唸る編集者・月山夏世。
編集長に「早く行け」と怒鳴られる、30秒前。





++このねつは かぜのせい?++
070222



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最終更新:2008年12月31日 13:52