※10話の途中ぐらい



軽く飲んで帰宅して、仕事場に顔を出すより前にリビングの様子を窺った。
玄関に彼女の靴があったからだ。
描いている間に仕事場に入ると修に怒られる彼女は、大抵リビングにいる。
兄弟の顔より先に、その姿を見たかったのだ。
リビングに足を踏み入れると、確かに彼女はそこにいた。
ただし、ソファの長いすの背もたれに身体を預け、気持ち良さそうに眠りこけていた。

なんだってこの人はこんなに無防備なんだろう。
いや、それ以前に編集として失格じゃないのか?
遅い時間まで原稿を待たせているのは確かに自分たちなのだが、それにしてもこれはどうなのだ。

苦笑交じりのため息を落として、そっと隣に跪く。
小さな寝息を立てる彼女の頬に、触れたくなって手を伸ばす。
自制心が働いて、その手をぎゅっと握りこんだ。

後ろを振り返る。
テラス越しの仕事場には陽の背中が見える。
修からは死角になっている。
陽の向こうに、航の姿はない。

細く長く息を吐いて、握り締めた拳を開いた。
頬に落ちる髪を、そっと払いのける。
閉じたまぶたが小さく動いたが、起きる気配はない。

悪戯心が、むくむくと沸き起こる。
人としてダメだろう、という理性と、ばれなければ、という利己的な感情がぐるぐると渦巻く。

彼女の泣き顔がよぎった。
追いかけて掴んだ手を、そっと振り払ったつめたい手。
「航さんに、迷惑かけたくないんです」と、口元だけを歪めて笑おうとしたその顔。
飲んでもらえなかった缶コーヒー。
航にだけ向けられる、極上の笑顔とワントーン上がる声。
見た事もなくにやける、兄。

どうせ、想っても報われないのだ。
だったら思い出ぐらい頂いても、罰は当たらない。

そっと、くちびるに指を這わす。
軽く触れた親指が、赤く濡れた。
夏世は身じろぎ一つしない。
微笑をこぼして、そっと顔を寄せる。
起こしてしまわないように、細心の注意を払ってふわりとくちびるを重ねた。

たっぷり三秒間。
一瞬にも永遠にも思えた。

身体を起こして、自分のくちびるを指の背で拭った。
夏世のくちびると同じ色に彩られた。
もう一度拳を握り、顔を上げた。
逃げようと立ち上がると、リビングの入り口に両目を見開いた兄の姿があった。

すっと身体が冷えた。
何か、言わなくては。
適切な言葉が浮かばない。
航の口が、震えながら動いた。

「…………悪い、」

それを言うべきは己のはずなのに。
さっき冷えた体が、一瞬にして熱くなった。
「ん、だ、それ……」
握った拳が、小刻みに震える。
「…………これ、彼女に」
航が、手にしていたブランケットを差し出した。
夏世をちらりと見て、智に視線を戻してじっと見つめて、やがて耐えられなくなったように目を逸らす。

航がとういうつもりなのか、図りかねた。

「……それは、自分でやれば? あと、見なかった事にして」
忘れろと言った方が良かっただろうか。
「あ、ああ」
棒立ちになった航の横をすり抜ける。
イライラした。
だけど、
自分か、
航か、
夏世か、
誰に何を憤っているのか、自分でも判らない。
ちらりと振り返ると、何も知らない夏世が、相変わらずすやすやと眠っている様が目に入った。


*

早足で立ち去る智を見送って、航は差し出したままのブランケットに視線を落とした。

作業中にふと顔を上げたら、ガラス越しにソファでうたた寝を始めた彼女を見つけた。
時計を見やると結構な時間だ。
申し訳ない、と真っ先に思った。
広いリビングは床暖房とはいえ多少冷える。
だから仕事を中断し、ブランケットを片手にリビングへと向かったのだ。

智がいた。
いつの間に帰ってきたのかと問おうとしたが、真剣な弟の様子に憚られた。
ゆっくりと重なる二人のくちびる。
止める事が出来なかった。
くちびるが離れても、何か言う事も立ち去る事も出来なかった。

気がつかなかった。
いつの間に、智が彼女に想いを寄せるようになったのだろう。
弟たちのことをすべて判っていたつもりで、実は何も知らなかった。
修の事も、陽の事も、智の事も。

軽くため息をついて、先ほど智が座っていた同じ位置に、同じように跪く。
少し光沢を失ったくちびるを見つめる。
今日の色は、紅色?
緋色、真紅、韓紅? 
どれだろうか。
頭の中の色図鑑と照らし合わせた。

少しずつ、気分が落ち着いてくる。

ブランケットを広げて、ふわりと夏世に被せた。
小さく身じろぎをして、夏世が瞼を奮わせた。
航さん、とかすれた声で呟いて、はっと両目を見開きながら慌てて身体を起こす。
「ご、ごめんなさい、わたし……」
「いえ、お待たせしててすみません。もう少し、待っていただけますか」
ええ、と頷いた彼女に微笑を返す。
大きな瞳が恥ずかしそうに揺れて、ややあって彼女も微笑を浮かべて航を見つめ返した。
「また、寒くなりましたね」
「そうですね」
「冷えませんか?」
「大丈夫です。でも、ありがとうございます」
夏世は嬉しそうにブランケットを撫でた。
柔らかい空気が流れている、と思う。
例えるならさくら色の空気。


このリビングで、判りたい、と叫んだ彼女。
その後に自分が遮った言葉は、なんとなく想像は付く。

同じ気持ちだ、と言えば彼女は喜んでくれるだろう。
だけど、そうできない。
それを言う権利も自信も、自分にはない。


「じゃあ、仕事に戻ります」
「はい。頑張ってくださいね。あ、お茶、お持ちします」
「ええ、お願いします」

同時に立ち上がって、また微笑みあった。

*


「あっそう。なら俺、貰っちゃうよ」

赤い遊歩道。
春めいた日差し。
肩を落として、去っていく彼女。
真剣に自分を見つめる、弟。

「いいのね?」

頷く事も、首を振る事も出来なかった。
ため息を一つついて、智が走りだす。
その背中を、じっと見送った。


夏世を守る事も、突き放す事も叶わない。
それでも夏世の笑顔を、見ていたいのだ。
智が叶えてくれるのなら、それもいいかもしれない、などと考えた。

くるりと向きを代えれば、夕焼けに染まった川がそこにあった。

ふと、思い立つ。

あの日のくびちるの色はあかね色。
何故か胸が痛くなる、この夕焼けと同じ色。


眠ったままの夏世を見つめるまなざしと、この色を載せた智の指を思い描く。

すぐに彼女を追いかけていける弟の強さと身軽さを、少しだけ羨ましく思った。







++とどかないほうがいいんだ++
070308
最終更新:2008年12月31日 15:31