やってしまった。
泡だらけの手元を見ながら、血の気の下がるのをじんわりと感じる。
陽がいつも牛乳を飲んでいるグラスが、いつの間にか割れていたのに気がつかなかった。
飲み口が欠けていて、それに気がつかずその真上で指をスライドさせた。
ざっくりいったみたいだ。
いつの間に欠けたのだろう?
さっきシンクに置いた時だろうか。
とにかく、陽が飲むときでなくて良かったと思いつつ、泡を簡単に洗い落とした。
「……智さん、ごめんなさい」
隣の智に小さく声を掛ける。
はぁ? と驚いたような声音が遠い。
シンクを支えに、ゆっくりと膝を折って、床に座り込む。
そのまま、慎重にうずくまった。
幸い、貧血には慣れている。
年に1.2度ほど起こすのだ。
最初の時はいきなり倒れて頭を強く打った。
貧血よりそっちが痛かった。
それからは、予知みたいなものが働くようになり、ヤバイと思ったら無理せず座り込むという自衛手段を覚えた。
今回は、アレだ。
最近の乱れ気味の食生活と、昨日の校了で起きた事件のせいだ。
おかげさまで本日の睡眠時間は非常に足りない。
「ちょ、アンタ何してんの!?」
「………………ひ、貧血…………」
ざっくりと切った右手を見せる。
「うわっ、オレ血ダメ!」
智は一瞬怯んだものの、タオルを掴むと夏世の右手に巻きつけて、頭上に上げさせる。
「立てるか?」
首を左右に振る。
「……こうしてれば、大丈夫、」
「冷えるだろ」
言うが早いか、ぐいと抱き上げられた。
これは……、
俗に言う、
お姫様だっこ!!
しかし貧血の渦中にいる夏世には拒否する事も感慨にふけることも出来ない。
ただ襲い来るめまいと戦うしかないのだ。
「陽そこどいて」
リビングのソファに腰掛けていた陽に、智が声を掛ける。
「何? どうしたの?」
「貧血だと。寝かせる。あと救急箱もってこい」
「う、うん」
誰かが頭上でしゃべっている。
こんなヘロヘロの状態を見られるのは物凄く恥ずかしい。
だけど恥ずかしいとか言ってる余裕はない。
やわらかいソファに丁寧に下ろされた。
ふわふわしたクッションが背に当たり、心地いい。
「夏世っぺに病弱ってイメージないなぁ……」
――はいはい、悪うござんしたね。
「アンタよく貧血起こすの?」
――無理、今返事できないから話しかけないで。
心の中で返事をしながら、やっとの事で頷く。
「智、これ」
「ん」
航の優しい声がして、身体にふわりと柔らかいブランケットが掛けられた。
「智兄、救急箱。……何に使うの?」
「右手が酷いことになってんだけど、オレ、血、ダメなんだよね……」
「うわっ。タオル真っ赤じゃん! オレもダメ!!」
「僕も…………」
「じゃあ、救急車、呼ぶか?」
「……だ、大丈夫……!」
切り傷ぐらいで救急車のお世話になっては恥ずかしい。
声を振り絞って拒否をした。
「ほんとに、大丈夫なの?」
心配そうに陽に覗き込まれた。
何だかんだ言ってもみんな優しい。
「しばらく、このままで、治るから……」
「うーん、そう? じゃ、航兄、よろしく」
「え?」
「血、ダメじゃないでしょ?」
「さー、オレたちは仕事するかな、仕事」
「え? ええ?」
航の間抜けな声を置いて、3人がさっさと部屋を出て行ってしまう。
「なな、あの人すげーヘンな倒れ方したんだよね」
「なになに? さとぴょん何?」
「急に『ごめんなさい』って言ったかと思ったら、自分で床に横になんだぜ?
少女漫画っぽくさぁ、ふらぁって倒れてくんないと、オレの立場ないじゃん?」
「ぎゃはははは! 夏世っぺってヘンな所で男らしいよな!」
「僕、倒れた人初めて見た」
「おぅ、陽。良かったな」
そんなのん気な話し声が遠くに聞こえる。
実際の物理的距離も遠いのだが今の夏世の健康状態の所為でますます遠い。
リビングが急にしんとして、気まずい空気が流れる。
「えーと」
「……す、すみません……お仕事、行ってください」
「い、いや、何か、欲しいものありますか?」
「…………ごめんなさい、じゃあ、……冷たい、タオル……」
「ちょっと待ってて」
パタパタとスリッパの音がして、航が消える。
目の前がまだ真っ白だ。
気持ち悪い。
ぎゅっと目を閉じた。
――えーと貧血の時は、頭を低くして、膝を。
そっと膝を立てる。
今日はスカートだったけれど、航の持って来てくれた(のであろう)ブランケットのおかげで、気兼ねなく膝を立てられた。
そっとブランケットに鼻を埋める。
片岡家の、というか、何故か、航の香りがした。
ひやりと、額が冷えた。
うっすらと目を開けると、航がいつの間にか戻ってきていた。
「手、見せて」
言われるがままに右手を差し出す。
優しくタオルを巻き取られ、ソファの隣に座り込んだ航がごそごそと救急箱を漁る気配がする。
ケガの具合を見ると貧血が酷くなる気がして、されるがままにしたまま目を閉じた。
「痛かったら言ってください」
消毒液の香り。
そっと傷口に触れられて、少しだけ痛む。
「出血の割りには深くないみたいだ。すぐ治りますよ」
緩やかな口調が心地いい。
だけど相変わらず気分は最悪だ。
目を閉じている間に、意外な器用さで航は夏世の指に絆創膏を張り終えた。
「出来た。気分はいかがですか?」
「…………へいき、です」
「まだ、顔、真っ青ですけど」
「…………うん」
「あの、もう少し、頼ってもらっても、大丈夫ですから」
「……え?」
「さっき、智が言ってた、倒れる時。
いきなり倒れても、智ならちゃんと支えられると思うから……」
「あぁ……」
「あと、僕にも」
そっと、絆創膏を張り終えたばかりの右手に、航のあたたかい手が重なる。
「頼ってもらって、大丈夫ですから。一応、男だから」
じっと覗き込まれて、張り詰めていた何かがぷつんと切れた。
目じりがじんわり熱くなる。
「きもち、わるい……」
右手をぎゅっと握った。
少しして、強く握り返された。
ゆるく肩を撫でられる。
「吐く?」
「吐かない……」
「他に、欲しいものは?」
「…………そばにいて」
左手を、航の手に重ねた。
両手で包み込んだ彼のその手を、頬にそっと添えた。
「ええ……ここにいます」
ところで二人は忘れていた。
仕事場からはリビングは丸見えなのだ。
出歯亀が三人、ここにいる。
「どうよあれ?」
「いいんじゃねーの?」
「智兄、少女漫画的には、どう?」
「90点だな、ベタだけど女はか弱い自分が好きだ」
「あ、陽くん。次はアレがくるの? スケッチしとこっと」
「おぅ、しとけしとけ。でも切り傷で貧血はないよな」
「ないよね」
今日も片岡家は平和です。
たぶん。
++たまには あまえたい++
070227
__
最終更新:2008年12月31日 14:01