「……だからね、修さん。聞いてます?」
「聞いてる……」
修のうんざりした表情の意味するところを察することなく、目の前の小娘は話を続ける。
先ほどからこんこんと、自分と兄のノロケ話を修に聞かせているのだ。
例えば、テレビを見るときに無駄に距離が近い、だとか。
――はっきり言わないけど、いちゃいちゃいながらテレビを見ているんだろう――
一緒に歩く時、何も言ってないのに手が出てくる、とか。
――はいはい、仲良くお手手つないでお散歩してるのね――
一回、後ろから郵便配達のバイクが来て、危ないって言うより先に手が腰に回ったとか。
――はっきり言わないけど、その後見つめ合っちゃったのね、よかったね――
いい加減に我慢がならなくなった。
兄弟の恋人とはこんなに面倒なものだったろうか。
「……で、何が言いたいの、はっきりお言いなさい」
「…………………………………………航さんの、」
「の?」
「も……って、ど……で、すか?」
「聞こえん」
「元彼女ってどんな人ですか」
意を決したようにはっきりとした、それでもやっと聞き取れる程度の大きさの声音で夏世が尋ねた。
「知らん」
そっけなく告げると、がくりと肩を落として盛大にため息をついた。
今のはちょっとだけコントのようだった、と思う。
「ですよね」
「なんで、そんなこと知りたいの?」
「さっきの話聞いてました?」
「聞いてた。あんたと航お兄様がどんだけラブラブかって話でしょ?」
「違いますッ! だから、わ、航さんが、すっごく女の人に慣れてるような気がして」
「そう? さとぴょん程じゃないと思うけど」
「それはもちろんそうですけど、慣れてるっていうか、扱い方が、ちょっと」
「…………今の聞いてる限りじゃ、航お兄様ってアンタに夢中なのねーぐらいにしか思えないけど? 具体的に言ってよ」
具体的に、と口の中で反芻して、左上を見つめる。
その表情はどんどんと困ったように眉じりがハの字に下がっていき、頬骨の辺りが高潮して、細い首筋までみるみる真っ赤に変わった。
何を、考えているやら。
「……絵のモデルを頼まれるんです」
「ほう?」
「しょっちゅう」
なんで顔を赤くしてモデルの話?
――もしや、ヌード? お兄様ったら!
思わず夏世のヌードを想像する。
いや、この小娘の性格からいくと、ヌードなんて無理ですっ、て断固拒否だろう。
そこで兄が持ち出す提案は、白いシーツを裸体にまとわりつかせる事。
なんと、素晴らしい。個人的に全裸よりエロいと思う。
本当に素晴らしい。
露出するのは片方の肩だけが望ましい。
流れ落ちたシーツを胸の前で両手で押さえつつ、膝は立てて、太ももの内側が見えているのがいい。
そうそう、その恥ずかしそうな顔がいいよ夏世っぺ。
さらさらと筆を動かしながら、「君はボッティチェリのヴィーナスより美しい」なんて言うんだ。
また照れくさそうに顔を背けた彼女に、動いちゃダメだろ、なんて軽く叱って、すすすと近づきずれてしまったシーツをくいと引っ張る。
大きな胸に手が触れてしまって、夏世が小さな声を上げる。
その声に驚いて、思わず夏世を見つめると熱を帯びて潤んだ瞳で彼女が見つめ返した。
……ッ、修、さん、
えぇっ俺!? お兄ちゃんじゃなくて俺!?
……まぁいいか、ごほん。
どうしたんだい、夏世。
…………私、見られてるだけで、……恥ずかしくって、もうっ…………!
そう叫ぶように吐き出して、彼女の両腕が自分の首に回される。
柔らかい身体が、主に胸が密着していても立ってもいられなくなる。
夏世っぺ、なんて大胆なんだ! そんなお前が愛しいよ!!
乱暴にくちびるを塞いで押し倒した。
性急な動作でシーツをめくり上げ、下肢に手を伸ばすとそこはしっとりと湿り気を帯びていて、己の視姦プレイの成功を物語っている。
撫で回すように乳房を揉み上げて…………
「修さん?」
名を呼ばれてはっと我に返る。
夏世が小首を傾げて修を覗き込んでいた。
いかんいかんと盛大に首を振る。
あーとかうーとか、意味のない言葉を紡ぎながら時間を稼ぎ、己の頭を冷やした。
こんな夏世をオカズにエロイ妄想をしたなんて知られたら、末代までの恥だ。
だけど冷やそうと思えば思うほど、焦って、想像の中の夏世がどんどんあられもない姿になっていく。
あー辛抱たまらんっ。
「もーいいじゃん! 俺に聞かれたってわかんないよ!
知っててもにーちゃんが言わない内容なんて怖くて言えるわけないでしょこのバカ娘ッ」
一気に捲くし立てたせいか、夏世は目を白黒させている。
勢いよく立ち上がってくるりと背を向けてリビングを出た。
限界だ。
股間が。
うぅ、夏世っぺのばかー!
廊下で智とすれ違った。
おかえりっと怒鳴って返事は聞かずに自室に逃げ込んだ。
*
修の怒鳴り声が聞こえて、慌てて玄関へとユーターン。
あたかも今帰ってきたように装って、修とすれ違う。
修は、いつもより数倍面白い顔をしてずんずんと廊下を進む。
歩き方が多少不自然な点を除けば、いつも通りおかしい。
今日も平和だ。
うんうんと頷いて、リビングに足を踏み入れる。
困ったようにお盆を抱えて、床にぺたんと座り込む夏世によっと声を掛けた。
顔を上げて不安げにこちらを見やる彼女に、智は笑顔を返した。
「智さん、お帰りなさい」
「ただいま。なに、どうしたの?」
「……修さん、怒らせちゃった……」
「なんで」
なんで? と口の中で繰り返して、彼女は小首をかしげる。
「なんでだろう」
「……あ、そう。何の話してたわけ?」
「な、内緒っ」
「ふーん。相談ごとだったら、修兄より俺のほうが適任だと思うけど?
なにせ人生経験豊富ですから?」
なぜ相談していたと知っているのか、と聞かれるかと思ったが、目の前の単純な彼女は、小さく呻いたあとに、じゃあ、と智を見上げる。
にや、と軽く笑って、ソファにどっかりと腰を下した。
「で、なに? なんでも言ってみなよ」
芝居がかって片手をあげて、先を促すと、その、と彼女が言い淀む。
瞳を泳がせて、迷うようなそぶりを見せたが、結局はポツポツと話し始める。
「航さんのこと、相談してたんです」
智は男友達のポジションを確立したと確信する。
これはある意味で恋人よりも美味しいポジションなのだ。
徐々に熱を帯びてきた夏世の語りにいちいち相槌を打ちながら、真剣に話を聞いているポーズを見せた。
内容は先程、下品にも立ち聞きしたものと相違ないのだが、いかにも初めて聞くような振りをする。
己がモテる最大の要因は聞上手だからだ。
「絵のモデルを頼まれて、その、しょっちゅう」
「へぇ、いいじゃん」
「動いちゃいけないんですよ」
「そりゃ、そうだろうね」
「疲れるんですよ」
「疲れるだろうな」
ここでうかつに、じゃあ断れば、などと言ってはならない。
女性は相談事に解決策など求めていないのだ。
「……疲れちゃったから、ちょっと、眠らせてもらいたいって、お願いしたんです。そしたら……」
先程から興奮して話していたせいで上気した頬が、さらに赤くなる。
剥き出しになった二の腕まで真っ赤に染めて、夏世は視線を落とした。
なんだ、この女、何を言い出すつもりだ。
さすがにちょっとビビった。
下ネタ相談も慣れていたつもりだが、兄とその彼女の生々しい話なんて、できたら聞きたくない。
聞きたくないけど相談役を買って出たのは自分だ。
聞きたくないけど、……ほんとうは、ちょっと興味ある。
「…………そしたら?」
低く呟いたあと、ごくりと唾を飲み込む。その音はやけに大きく響いた。
なんだこの緊張感。
「こ、子守唄を…………」
消え入りそうな声音でそう吐き捨てたあと、ばっと両手で顔を覆った。
「………………はぁ?」
「だからね、子守唄を歌われちゃったんですよ! あとね、デートで行くところって言ったら、動物園と水族館と美術館と博物館なの。
映画とかショッピングとか、温泉とか、あると思うんですよ?
私が言い出せばもちろん連れて行ってくれるけど、どうして航さんの提案はいつもそのローテーションなんですか?」
「……………………」
「わ、私、もしかして、子供扱いされてますか?」
もう28なのに、と泣きそうな顔で、夏世が訴える。
知るか、と言い放ちたかったが、そうはできない理由が智にはあった。
付き合い始めた二人の、あまりの初々しさに頭痛がした。
手が触れただけで真っ赤に染めた顔を背けあい、意識をしすぎてろくな会話が成立していない。
二人でどうぞと食事に追い出せば、航はみなえに彼女を連れて行き、美那絵と三人で会話を楽しむ。
二人っきりになるのを避けているのでは、と思わせる、中学生並みの行動に首を絞めたくなった。
せっかく自分が身を引いたというのに(正確には断られたわけだがそこはそれ)、このままでは駄目になってしまう。
お節介にも、助言をした。相談をされたわけでもないのに。
「あの人のこと、陽だとでも思えば?」
智を凝視したままちょっと両眼を見開いて、ああ、と航は頷いた。
なるほど、と。
「そうだなぁ、そうか、そうだなぁ」
ぶつぶつと口の中で繰り返しながら、智の脇をすり抜けていった。
真面目な兄は、その助言に忠実に従っていたわけだ。
ちょうど当の陽はイギリスへ行ってしまった後だし、溺愛の対象が出来て兄もさぞご満悦に違いない。
その証拠に、二人はとても順調に見えたし、そのおかげで智の古傷はちっとも痛まなかった。
が、このひとの胸は痛んでいたわけだ。
「……ちょっと聞いていい?」
「な、なんですか?」
「まだ、その、やってないわけ?」
ぼす、とクッションが飛んできた。
ひどい、と泣きそうな声が聞こえた。
「マジで? もう3か月ぐらい経つでしょ?」
クッションを払いのけながら、改めてまじまじと夏世を見つめた。
兄の鉄の理性に感服した。自分がこの身体を前にしたら、3日も持たないだろう。
特に、この素晴らしいバスト。
「だ、だから、それを含めて、子供扱いされてるのかな、って。すごくナチュラルに手を繋いだり触ったりするんですよ。でも、なんにもないの」
その素晴らしいバストの前をぎゅっと握りしめて、ちょっと潤んだ瞳で見上げられては困る。
迫りたくなる。襲って、押し倒したくなる。
「航さんの前の彼女ってじゃあどんな人だったんだろうって気になって、修さんに聞いても教えてもらえないし、」
そんな恐ろしいこと、修が答えるわけがない。
このひとはまだ、航の恐ろしさを知らないのか。
なんとなく意地悪な気分になった。
「教えてあげてもいいけどー……」
嘘だ。自分だって航の元彼女なんて知らない。
「ほんとに?」
「うん、その代りさ」
なに、と小首をかしげた夏世の肩を抱いた。いつかのように、鮮やかな手つきで。
あの時と違うのは、素面だってこと。
ちょっと、甘酸っぱい二人に当てられて、人恋しい気分だってこと。
「一回だけ、」
キスさせてくんない。
そう言う前に、身の危険を察知した夏世が肩を引いた。
「また私をからかって! そ、その手には乗りませんからねっ」
顔を真っ赤にして、立ち上がった夏世はそのままリビングを出て行ってしまった。
直前で一度振り向いて、子供みたいにベーと舌を出してから。
まあ、いい判断だ。逃げてくれなかったら本当に襲ってしまったかもしれない。
俺ってケダモノだったのな、と、虚しくなった。
甘酸っぱい恋愛がしたいなぁとプレイボーイにあるまじきことをちょっと思った。
*
――サイアクだ、サイアクだ。智さんなんかに話すんじゃなかった。
どすどすと大きな音を立てながら、廊下をずんずんと歩いた。行先は決めていない。
だけど、航の部屋に自然と足が向かっていた。
部屋の前で立ち止まる。怒りは収まらないが、このドアを見たら頭が冷えた。
今航と顔を合わせて、何を言うつもりだったんだろう。
それでも他に行き場がなくて、おずおずとドアをノックする。
はい、と柔らかい声音が中から響いてきた。
「あの、航さん?」
「ああ」
すぐにドアが開いた。顔をのぞかせた航が、穏やかな笑顔を浮かべて、夏世を見下ろす。
「月山さん」
少し高めのそのトーンが耳に心地いい。
うっとりと聞きいって、信じられないほど高揚していた気分がどんどん落ち着く。
どうしてこのひとは、こんなにも自分を穏やかにさせるんだろう。
「どうしたんですか?」
「いいえ、……顔を見たくなって」
へら、と笑うと、航もにっこりと微笑んで、どうぞと部屋の中に招き入れてくれた。
油の香りが鼻腔をくすぐる。
航の匂いだ、と夏世は思った。
「月山さん」
相変わらず呼び名は月山さん、だが、このトーンで呼ばれるとどうしようもなくくすぐったくて、訂正するのも惜しくなる。
航はほんとうに不思議だ。
そこにいるだけで自分を満たしてくれる。
「スケッチ、させてもらっていいですか?」
はい、と素直に頷きかけて、さっきの智との会話が頭をかすめる。
「ええ、でも、その代り」
「……なに?」
――前の彼女ってどんな人でしたか?
聞こうと思ったけど、不思議そうに夏世を見つめる航を困らせたくなかった。
きっと、ものすごく困って動揺して、意味もなくスミマセンとか言うんだろうな。
その想像だけで満足して、夏世は両手を広げた。
「ちょっとだけ、ぎゅってしてもらえません?」
「ええ、もちろん」
温かい腕に包まれて、なんだか色んなことがどうでもよくなってしまった。
こうやって、話す機会をいつも奪われて、一人になってからとても後悔をするのだけど、今日もやっぱりどうでもよくなってしまう。
頭を撫でるこの手が、あんまりにも暖かすぎるせいだ。
*
「夏世っぺってさ、結局ファザコンなんじゃない?」
「あーそうかも。幸せそうだからもう触るの止めようぜ」
「そうねぇ、火傷したくないしねぇ」
「馬の脚に蹴られるのもやだしなぁ」
「……恋、したいなぁ」
「したいねぇ」
大の男二人がソファで膝を抱えて、ほう、とため息をつく様子は少々情けない。
幸せそうな二人を素直に応援したい気持ちと、羨ましいから余所でやってくれというエゴが自分のなかで闘っている。
いっそ早く結婚してくれたら、こんな醜い自分を知らずに済むのかもしれない。
しかしあの様子では当分無理か、と、弟二人は深く深く息を漏らす。
策士な末の弟に、何か改善策を与えてもらおうと、智はそっと考えた。
余計なおせっかいだとは百も承知だけれども。
++のんびりいきましょう++
2007/10/13
最終更新:2008年12月31日 15:35