雨の匂いの残る夜。
 ヘッドライトとテールランプが、濡れた路面に反射して少し眩しい。

 黒塗りの公用車の赤いランプが、大仰な門に吸い込まれていく。
 電動のそれがすべて閉じてしまうと尾形は、一歩後ろに直立していた笹本を振り返った。
「任務終了だ。お疲れ」
「お疲れ様です」
 ぺこんと軽く下げた頭を起こしたのち、笹本がほう、と息を抜く。
 ちらりと腕の時計を見やった。
 19:04。
 予定よりも一時間も早い。だが行動予定表には直帰と書いてきた。
 このまま解散、で問題はない。
 だが。
「飯でも、いくか?」
 ごく自然に聞いていた。まるで男の部下にそう尋ねるように。
 笹本は驚いたように両目を見開いた後、すぐにそれを細めてはい、と頷いた。

 あいにく、若い女性が喜ぶような店は知らなくて。そう言いながら俺もいよいよ年を取ったなと思ったが、笹本は、あたしも知りません、と笑った。
 結局、二人で適当な居酒屋を見つけて暖簾をくぐる。
 笹本はまったく抵抗がなさそうについてきた。

 過去に女性の部下がいなかったわけじゃない。
 だけど笹本は、それまでの女性とはまったく違った。もちろん、いい意味で。
 今まで出会ったどの人間よりも潔い、と最初に抱いた印象は今でも変わらない。

 だからと言って彼女だけを特別扱いはしていない。当然だが。
 ただ、未だ古い体質の警察内部には、有能な彼女を快く思わない人間も大勢いる。女のくせに、などという言葉がまかり通る。
 笹本を庇う発言を幾度も繰り返えした。それ自体は苦痛ではない。
 自分も、相当な無理や無茶を重ねてきたし、そのたびに上司が庇ってくれていた。そうやって育てられてきた恩を今度は部下に返していくのが会社組織というものだ。

 一つ、笹本の有能さを上司に伝えるたびに、一つ、彼女に対する信頼が増えて行く。時を同じくするたびに、彼女の人柄や思考に好意を抱く己を知る。
 人間的に彼女が好きなのだ、と誰かに言い訳をしてみるものの、自分は男で彼女は女。それは一歩間違えば恋愛感情だ。
 幸い、もう若くはないのだから、恋焦がれる、などということはない。
 笹本に触れてみたい、という欲望がまるっきり湧いてこないといえば嘘になるが、理性で抑え切れてしまう程度だ。

 女性の部下との付き合いは慎重すぎるほど距離を保って当然だ。
 下手をすればセクハラになってしまう。
 何より、こんな職業に付く以上、大切なひとは作らない、とずいぶん昔に誓ったし、それは周知の事実だ。
 笹本とどうこうなるわけには行かない。


「メンタルヘルス?」
 三杯めのジョッキを持ち上げて、笹本が聞き返してきた。
 まるっきり顔色を変えずに琥珀色のビールを流し込む笹本を見て、飲ませ甲斐があるんだかないんだか、と苦笑いを浮かべながら頷いた。
 学生時代体育会系だったらしい彼女は、男と同じかそれ以上のペースで酒を煽る。
 笹本はザルを越えてワクだ。網目に水滴も引っかからない。以前石田がそう評した。

 なんですかそれ、と興味なさそうに尋ねた笹本に、先日面倒な講習を受けて無理やりに詰め込んだ知識を説明をしてやる。
 定期面談と同じようなもので、何か悩み事はないかと部下にいちいち尋ねる、無駄な慣習であること。
 明日時間を取ってもらおうと思っていたけど、改めて向き合ってさあどうだと詰め寄れば余計なプレッシャーを感じるだろうから、公私混同は承知の上でついでに聞いてみただけ。
 もちろん、正直に話せなくて当然だから、課長や総務に直接話してもいいし、専用のフリーダイアルや相談窓口、メールでも受け付けていて、そのお知らせがイントラネット上に載っているから知っていて欲しい。

 長話が苦手な自分にしては要領よく解説が出来たものだ。
 隣を見やると、笹本は、やっぱり興味がなさそうにへぇ、と言った。
「管理職ってそんなことまでするんですか。大変ですね」
 ごくりと喉を鳴らす笹本に、給料のうちだから、と曖昧な表情を作った。
「ご心配なく。メンタル面は相当鍛えてますから」
 残量が半分ほどになったジョッキをかたんと豪快に置いて、くちびるを綺麗に歪めて笹本が笑った。
 まあ、そうだろう。通常の神経ではオリンピックなんて行けないし、女だてらでSPに志願も出来ない。

 判ってはいるが、尾形には一つ、気がかりがあった。
「…………腕の傷は?」
「あー。……綺麗に消えましたよ。後遺症もなし。見ます?」
 ジャケットを脱ごうとした笹本を、首を振って制する。
 もしも止めなかったら、彼女はこのままそのブラウスも大胆に脱いで、上腕をここで晒したのだろうか。
「ならいい。……その、」
「精神的後遺症もまったくなし。切り替えには自信があります」
 言葉を選んだ尾形の意図を見透かしたように、笹本がさらりと言ってのけた。
 その返事に、深く深く安堵をする。

「他に何か、職務上で困ったことはないか、参考までに聞かせて欲しいんだが」
「困ったこと……そうですね、忙しすぎて合コンに行けません」
「申し訳ないが、それは如何ともし難いな」
「ですよね」
「笹本は……あー、こんなこと聞いていいのか判らんが、決まった相手は、いないのか?」
「いたら合コンなんて言いません」
「……ああ、そうか、そうだな」
「出来てもすぐに振られるし」
 思わず笹本の顔をまじまじと見つめた。
 振られる? 笹本が?
 気の強い笹本が男をこっぴどく振るシーンは想像が付いても、彼女が振られる理由はなかなか理解が出来ない。

 どうして、と聞こうとして、さすがにそれはプライベートに足を突っ込みすぎかと思いとどまった。ひょい、と枝豆に手を伸ばす。
「――――係長って、」
 ぐい、と顔を近づけてきた笹本が、トーンを一段落とした。
「あたしに、すごく気を使ってますよね」
 思わずグリーンのさやを取り落とした。

 ああ、やっぱり見抜かれていた? 女のカンは怖いとは常々思っていたが、男前な笹本もやっぱり女性だった。

「それって、あたしが女だからですか?」
 そうだ、その通りだ。
「できたら、ふつうがいいんですけど」
「……普通?」
「そう。石田さんと話すときみたいに」
 石田と同じに扱え、だと?
 出来るわけがない。今だって、整った顔が近すぎて知らず緊張をしている。
 酔っているのかもしれない。この程度で酔うなんて弱くなったものだ。
 最近、忙しくて飲む暇もなかったせいか、それとも、やっぱり年のせいか。
「別に何を聞いてもらっても構いません。言いたくなかったらヤダって言えますから」
 白い歯を見せてにか、と笑うと笹本は、元の距離に戻ってまたジョッキを煽る。

 カウンターの中の店員にビールをもう二つ注文して、少し動悸が治まった。
「…………じゃあ聞くが、笹本が男を捨てるほうじゃないのか?」
「あ、ずばっときましたね。表現を変えればそうなるかな」
「ほう?」
「忙しいじゃないですか。まめに連絡とか、無理じゃないですか。1週間の放置プレイとか、普通ですよね? そうすると愛を疑われるわけですよ。で、面倒になります。
 それを悟った男が、別れようと言います。あたし見栄っ張りなので、判ったじゃあね、と言うと、男が泣き出したりするから、カケラだけ残っていた愛とか情とか、綺麗に消えてなくなります。爽やかでしょ」
 男の言い分を聞いているようだ。
「……会っている間だけ、すきだったら駄目なんでしょーか」
 笹本がその細い指先で、紅のないくちびるを撫でた。
 かり。行儀悪く一瞬だけ親指の爪を噛んだ。どう思います、と猫のような瞳がこちらを向いて、不覚にも、どき、とした。

「さあな。俺にはよく判らん」
「……ですよねー」
「でも」
 言いかけたところで、お待たせしましたーと背後から間延びした高い声が響く。振り返ると若い店員がジョッキを両手に立っていた。
 それを尾形が受け取ると、笹本がいつの間にか空にしたジョッキを彼女に差し出す。
 ありがとう、と笹本が落ち着いた声音で店員に微笑む。
 向き直った笹本と、肩が触れた。あ、と声をあげて、笹本が慌てて身を離した。
「すみません」
「いや」
 会話が、途切れた。
 
 テーブルに視線を落とした。
 この、カウンター席というのは、向かい合うよりは気が楽だがいかんせん距離が近すぎる。
 週末の居酒屋は見事な混雑で、ここの席しか空いてなかったから仕方がない。別に、嫌なわけじゃない。むしろ嬉しく思ってしまうのだから、問題なのだ。

 無言のまま、ジョッキを傾ける。
 笹本もそれに倣う。
 黙ることには慣れている。喧騒の中の沈黙は心地いい。
 さっき自分が取り落としたさやを拾う笹本の指を見ながら、気がつけばぽつりと聞いていた。
「誰か、紹介するぞ」
「え?」
「よければ」
 彼女が、自分の知る誰かのものになれば、もう少し冷静になれるんじゃないかとふと思ったのだ。
 この想いはただの勘違いだ。所謂つり橋理論だ。
 緊迫した日常を共有するから、感情を制御できなくなってしまうんだ。

「たとえば?」
「……刑事課とか、地域課とか?」
「お断りします。警察ってマトモな人間いないじゃないですか。あたしもですけど」
「そうか?」
「ええ、係長以外」
「……………………それは、どうも。査定上げといてやる」
「あ、お世辞だと思ってます?」
「ん?」
「本気ですよ」
 頬杖を付いた大きな瞳が、射るようにこちらを見上げていた。
 一、二…三。思わず瞬きの数を数える。

 本気? どういう意味だ?
 アルコールに軽く鈍った頭を回転させて考える。笹本の目が、語るその意味を。
 文字通りに受け取って、ありがとうと言えばいいのか。
 だけど冗談にさせない空気が、確かにここに流れている。

 五回目の瞬きのあと、笹本はゆっくりと目線を外してジョッキを握った。
「……すみません、酔ったみたいです」
「笹本が?」
「はい」
「酔うのか。知らなかった」
「酔います」
 それはなぜなのか、聞いてやったほうがよかったのかもしれないが、尾形はそうかとだけ呟いた。

「これ飲んだら、出るか」
 笹本は、はい、と低く頷いた。
 その横顔が寂しげに見えたのは、きっと、見苦しい勘違いだ。


*

「どうぞ」
「……ありがとう」
 湯気を立てるコーヒーを目の前に、尾形は内省する。飲んだ後に部下の部屋に上がりこむなど、上司としても男としても失格だ。

 送る、と申し出たのは自分だった。
 案の定笹本は一人で帰れると断った。襲われたら伸しますから、と。
 襲った相手が気の毒だから、などとさっさと歩きだしてこちらのペースに巻き込んだが、名残惜しかったのは他ならぬ尾形だった。

 建物の下で、じゃあと口に出す前に常套句を出された。
「お茶でも、飲んでいかれます?」
「いや、いい」
「……相談が、あるんですけど」
「相談?」
「さっきの、メンタルヘルス」
 大きな瞳でまっすぐに見つめられると、辞退の余地を失う。
 情けなくのこのこと、ここに上がりこんでしまったのだ。

 マグカップを両手で包みこんで、笹本がじっとその立ち上る湯気を見つめる。
 一口ご相伴に預かったところで、彼女が顔を上げた。
「係長……お願いが、あります」
「聞こう」
「ちょっと、こっち、向いてもらえます?」
「ああ」
「動かないで」
 胡坐をかいた膝に上がりこんで、笹本が身を寄せてくる。
 ぎゅっと、ワイシャツを握って、尾形の肩に顔を埋めた。
「……さ、」
「少しだけ! お願いします。……あの時、居心地良かったから、忘れられなくて」
「……」
「覚えて、ます?」
「…………ああ」
 ぎゅっと、細い背中に手を回して力をこめた。


 あの時。
 笹本が、四係に配属されてきて間もないころ。
 任務中に、笹本が切り傷を負った。
 警護に当たっていた代議士が、包丁を持った男に突然切りつけられたのだ。
 その代議士の一番近くにいたのは笹本だった。
 彼女は、任務を全うした。
 犯人はすぐに取り押さえられ、事なきを得た。

 稀に起こる程度の事件だった。
 しかし笹本はよくやった。
 予定を切り上げた代議士を送り届けてから帰庁をすると、薄暗い廊下の片隅の、飲料の自販機前の黒くそっけないベンチに腰掛けてぼんやりと虚空を見据える笹本に遭遇した。
 お疲れ、と声をかければ、虚ろな瞳が尾形を捕らえる。
「……あ、」
「よくやったな。明日、課長からもお褒めの言葉がもらえるぞ」
「……」
 自販機に小銭を投入して、温かい缶コーヒーのボタンを押した。
 取り出したそれを軽く持ち上げて、笹本に向き直る。
「隣、いいか?」
 笹本が頷いて、身をずらす。

 腰を掛けて、笹本が両手で握っていた未開封の缶コーヒーを奪い自分の缶を握らせた。
 彼女が握りしめていたスチール缶は、すでに冷え切っていた。
 笹本が驚いて顔を上げる。
「…………よくやったよ、本当に」
 プルタブを引き上げた。ごくり、と甘すぎるそれを喉に流し込んだ。
「怪我がなければベストだったが、新人にしては上出来だ。痛むか?」
「…………いいえ」
「そうか」
 かち、と重苦しい音をたてて、笹本もプルタブを引き上げる。
 だけどそれに、口をつける気配はない。
 片眉をあげて隣の笹本を伺うと、震えたくちびるが動いた。
「……あたし、」
「ん?」
「怖い、です」
 ――ああ、そうか。

 このまま、笹本は異動を申し出るのでは、と思った。
 まあ、無理からぬことだ。誰もが一度は通る道で、特に珍しいことではない。
「……今日は、たまたまだったかも知れません。偶然、あの男が目に入ったんです。演説に聞き入ってて怪しいそぶりもなかったのに、なぜか、気になったんです。それだけなんです」
 缶コーヒーを握る手が、小刻みに震えている。
「次回こんな幸運に遭遇できなかったら、と考えると、怖いです」
「笹本」
 思わず、細い肩を抱きしめていた。
「大丈夫だ。お前には適正がある。俺が認めている。俺を、自分を信じろ」

 要は集中力の問題で、気を抜かず警護に当たれば必ず、日常の中の不自然な矛盾を見抜ける。
 自分の集中力は、笹本自身が一番よく知っているはずだ。
 そんなようなことを、淡々と告げた。
 腕の中の笹本は、身じろぎもせずに大人しく力を抜いている。
 微かな吐息が胸をくすぐった。

 そっと後頭部を撫で上げた。
 尾形を仰ぎ見た笹本の両目が驚きに丸く見開かれている。
 顔が近い。
 衝動的にその形のいいくちびるを塞ぎたくなったが、尾形は唾液を嚥下してそれを堪えた。
 ゆっくりと、笹本の身体を開放する。

「……落ち着いたか?」
「…………はい」
 居住まいを正して、笹本は缶コーヒーを煽った。
 一口それを飲み下すと、ありがとうございます、と小声で謝辞を述べる。
 手を伸ばして、ふわふわとしたその頭に乗せ、勢いのままくしゃ、と乱すように撫でた。
 あ、と小さく抗議の声を上げた笹本が、尾形を見てふわりと笑った。
「もう、大丈夫です」
 その瞳にはもう、不安の色は浮かんでいない。すっかりいつもの笹本に見えた。
 尾形も、微笑を浮かべて頷いた。
 

 確か水曜日だった、と脈絡もなく思い返す。
 人肌って安心するんですね。あの時と同じように、腕の中で大人しく力を抜く笹本がそう呟いた。
 記憶の片隅に、あの不安げに揺れる瞳が浮かんだ。
「…………笹本?」
「今忙しいです」
「あ、ああ。………………酔ってるのか?」
「酔ってます。それが何か?」
 酔ってる人間は、酔ってるなんて言わないだろう。たぶん。
 何かあったんだろうなと勝手に推察をして、まあ好きにさせてやるかと尾形も力を抜いた。

 柔らかい、身体。暖かい。猫かなにかを抱いているみたいだ。
 途切れそうになる理性を必死で残しながら尾形は、どのくらい経ったかなと思考を巡らせて、密着をする笹本の身体から意識を反らした。
 おそらく五分程度のことだろうが、恐ろしく長く感じる。
 拷問のようだ。
「笹本」
「なんですか」
「そろそろいいか?」
「もう、少し」
 この会話も三回目だ。
「いい加減にしないと、襲うぞ」
「…………………………どうぞ?」
 冗談のつもりだったけれど、笹本のさらりとした返答に、わずかに残る分別がどこかへ飛んでいった。

「っていうか、むしろお願い、します」
 最後まで聞かずに、シャープな顎へ指を添えてこちらを仰がせて、くちびるを塞いだ。
 腕の中で笹本が、びく、と小さく揺れた。
 あまいくちびる。その熱さに、溶けてしまいそうだった。

 舌を差し入れて口内を犯しながら、顎に添えていた指でそっと首を撫でて胸元へと移動させる。
 ブラウスのボタンを外す。女性ものの小さなそれに少し苦戦を強いられた。
 その気配を察した笹本が、重ねたくちびるの下で小さく笑った。

 顔を離して、するりと左肩から滑り落とす。
 肩に程近い上腕の辺りに、顔を寄せた。
 薄闇でもわかるほど白いそこに、傷跡らしきものは一つもない。
 そっと撫でる。凹凸のない、手なじみのよい肌はいつまでも触っていたくなる。
「…………消えて、ますよね」
「そうだな」
 ぺろりと舌を這わすと、笹本の口から小さく声が漏れた。

 消して甘いとは言えないその声に、彼女の中の「女性」を感じて、どくんと胸が高鳴った。
 背を抱いて細い身体を床に倒す。柄にもなく、緊張をしている。
 笹本は、と見下ろすと、やはり緊張をしているようで、尾形と目線を合わせようとしない。

 やはり、こんなことよくないのでは、と急に理性を取り戻した。臆病なことだ。
「嫌だったらやめる」
 声をかければ、やっと笹本がこちらを向いた。
「…………絶対、嫌なんて言いません」
 潤んでいても尚その鋭さを失わない瞳に、こんなに気が強くては生きにくくないのかと心配にすらなる。
 しかしこれも笹本の魅力か、とくちびるを緩めると、彼女は安堵したように柔らかく笑った。
 くちびるを塞いで何度もキスを重ねながら、もどかしく衣服を脱ぎ捨てる。
 骨ばった指で、恐る恐る乳房に触れると、手に余る予想外の大きさに戸惑った。

「……笹本は、」
「え?」
「着やせを、するのか」
「……………………あの」
「あ、いや、なんでもない」
 実用性を重視したシンプルな下着から零れた膨らみの柔らかさを楽しむ。
 色づいた中央の蕾をくちびるで吸い上げると、笹本がこらえきれずに高い声を上げた。
「あっ……ひゃっ……ぁ、んんっ!」
 その甘さに、理性が飛ぶ。
 本能のままに笹本の身体を貪り、彼女を快楽の淵へと追いつめる。
 下肢に手を伸ばして秘列をなぞると、そこはもうぬるぬると蜜を溢れさせていて、尾形を待ちわびていた。

 差し込んだ指でぐちゃぐちゃと内部の様子を伺えば、控え目に嬌声を洩らしながら笹本が、びくびくと身体を震わす。
「か……ちょ…! ん……」
 やはりいやなのか、と愛撫の手を止める。
 切なげに眉根を寄せた笹本が、何かを訴えるように尾形を見上げていた。
「………………あ、」
 言葉を探して視線を彷徨わせ、ぐっと、その白い指が尾形の二の腕を掴んで引いた。

「……どうした?」
 少々これは意地が悪いか、と自覚しつつ、求めて欲しくなって笹本に問いかけた。
「……あ、も……くだ、さ…い……」
 伏し目がちな、途切れ途切れの哀願に、簡単に陥落をして尾形は、自身を早急に笹本の内部に突き立てた。
「あっ」
 熱くぬめる笹本の内部は、ただ愛などという生温い言葉では表現しきれない温度で尾形を包み込んでいた。
 仕事以外にこんなにも夢中になれる瞬間を得られた充足を実感する。

 笹本が何か言葉を紡ごうとくちびるを震わせながら、苦しげに喘ぐさまにますます欲情を強くして、一層激しく突き上げた。
「ああっ! あ、んん……っ!」
 ぐちゃぐちゃと蜜が絡み合い淫靡な音を立てる。
 息を弾ませた笹本の手が、すらりと伸ばされ尾形に縋るそぶりを見せて、すぐに床に下りた。
 律動を一旦停止して、その細い両の手首を握って自分の首に回させる。羞恥に頬を染めた笹本のくちびるを塞いで舌を絡ませた。 

「…………いくぞ」
「は、い……ぅ、んっ……ん!」
 久方ぶりの快楽に、尾形は抗いきれなかった。
 どくどくと本能のままに笹本の内部に己を吐き出した。
 


「責任は取る。心配するな」
 手早く後始末を終えて、未だ息を整え切れていない笹本に声をかけた。
 最初にくちびるを重ねた瞬間に覚悟を決めたのだ。
 だけど意外にも笹本は、いいえと言いながら瞳を閉じた。
「……責任なんて止めてください。あたし、ピル飲んでますから大丈夫です」
「……」
「もともと、倒れて吐くほど酷いんです。でも生理休暇なんて、取るつもりもありませんから」
 お気になさらず、とさらりと告げられれば、自身を否定されているようにすら思う。
「係長は大事なひと作らないんでしょう?」
 ああ、いつか石田や隣の係の人間に見せた弱さが、ここまで筒抜けているのか。
「それでもいいんです。あたしも、同じです。だから責任なんかよりも、」
 笹本がのろのろと気だるげに身を起して、尾形に対峙する。その大きな瞳に囚われた。
「……また、抱いてもらえます?」
 両眼を見開いて笹本を見返した。
「恋人は欲しくないんです。会っている間だけ、好きでいさせてください」

 今は仕事に熱中をしたい。そんな自分には、恋とか愛とかなんて重荷でしかない。でも人肌は恋しくなる。これが一番簡単で時間のいらないストレス解消方法。
 判るでしょう? そう、猫のように光る目が告げていた。

 言葉にしない笹本の信念が、尾形の胸を鋭く貫いた。
 囁こうとした愛を、見事に先手を取られて封じられた。

「…………もちろん」

 そう嘯きながら、必死で胸の痛みを抑えつけた。力ずくで。

 いつか、笹本がほんとうに大切な人間を見つけるまで、彼女にとことん付き合おうと尾形は決めた。
 その相手が自分だったと、どれだけ遅れてもいいから彼女が思ってくれればいいとどこかで願いながら。


*

 自分は馬鹿だと、心の底から思った。
 身体だけでいいなんてまるで三流小説だ。そんな安っぽい女じゃないと思っていた。
 だけど尾形には、馬鹿になり下がるだけの魅力がある。

 初めて出会った日からずっと尾形が好きだった。
 上司としてなのか男としてなのか、次第に境界が曖昧になっていた。
 でも仕事に人生を捧げる尾形を、好きである事実だけは揺るがない。
 だから、重荷になるなんてまっぴらだった。自分を好きになる尾形なんて想像が付かないし、笹本が敬愛する彼じゃない、と矛盾した思いを抱いた。
 責任、などと尾形が口にした瞬間に、本能で彼を否定していた。

 あたしも同じだから、とは、すべてが強がりだったわけではない。
 仕事に夢中になればなるほど、男からは嫌われる。嫌というほど知っている。
 でも尾形は違う。仕事を愛する自分を、愛してくれている。
 たとえそれが、束の間の逢瀬の間だけだとしても、認めていてくれている。

 彼に抱かれてその希薄な、愛に酷似した何かを感じるたびに、笹本は強くなれる錯覚を抱けるのだ。

 だけど身体を重ねる都度、あの日の自分の言動を後悔する羽目に陥った。
 尾形に対する感情ははどんどんとその質量を増していくのに、彼の温度は常に一定だ。
 愛されないことがこんなに苦しいなんて、思いも寄らなかった。

 しかし自分で決めたこと。今さら、誓いを反故にはできない。
 ――愛しているだけで十分じゃない? それ以上なにが必要?
 必死に自分に言い聞かせる。
 終わらせるには、始める以上の多大で不毛なエネルギーを要する。
 だから無理が生じて駄目になるまではとりあえず現状を維持していこうと、生ぬるい関係に身を浸し続けた。

 彼のお荷物にならないための、方向性の間違った気遣いも相変わらず続けている。
 合コン、結婚、と恥ずかしげもなく何度も口にする。若い新人が来る、と聞けば、原川と期待をあらわに噂話に興じたりもする。
 その新人に本気で期待していたわけじゃなかったけど、失礼にもがっかりする結果に終わった。
 同時に安堵もした。尾形以上に好きになれる男が簡単に現れては困るからだ。

 
 その日、珍しく嬉しそうに頬を緩ませる尾形に、声を掛けられた。
「新人が来るぞ」
「…………また、七三じゃないですよね」
「さぁな。俺がドラフト一位で指名してきた新人だ、期待していい。可愛がってやってくれ」
 ドラフト一位? 思わず片眉を上げた。
 こんなにも尾形の期待を背負う新人とはいかほどのものなのか。ちりりと胸が痛んだ。

 気が狂いそうに欲したその位置を、最初から手に入れていた井上を、笹本は面白くなく見ていたのだ。
 いつの間にその感情が入れ替わったのか、今でも笹本は思い出すことができない。

 ほう、と息を吐けばそれがうっすらと白く染まり、冬の気配を身近にした。
 公安の事情聴取も無事終えた。同じく不当とも言える拘束を受けた井上を見上げると、彼はやれやれ、というように首をすくめた。
「お疲れ様っした」
「うん。………………井上、ありがと」
「ん?」
「あんたがいなかったらって考えると、ぞっとする。あそこで浴槽に繋がれたまま何もできなかった未来なんて、想像したくない。そんで、その後も。あんた凄いよ」
「いえ……俺も、一人じゃ無理でしたよ。笹本さんとバディ組んでてよかったっす」
 犬のように井上が笑う。
 その人懐っこい笑顔に、苛立っていた気分が不思議と落ち着いた。

「……あんた、これから予定ある?」
「お誘いゼロです」
「じゃ、飲みにでも行くか」
「いっすね」

 井上と二人で飲むのは初めてだ。
 今日は感謝と敬意を表して奢ってやろうと思いながら、笹本は、ほう、と息をまた吐いてその形を楽しんだ。
 隣で井上が同じように息を吐くのを、なぜか嬉しいと感じながら。








++はじまりはおわりへのカウントダウン++
2008/01/18
最終更新:2008年12月31日 15:37