鈴の音のような音楽が漏れ聞こえた。
ずいぶんと控えめなその歌声は、この建物が宿主の財力相応に古びていても、隣の部屋で眠る賓客には届かなかったはずだ。
だけど生憎、悪魔は耳がいい。鼻声交じりのその歌声は、夜空に溶ける前に綺麗にカーティスへと贈られた。
カーテン越しに薄いガラスへと頭をぶつけて耳をそば立てる。
途切れ途切れのそれは、母親が小さな子供へ歌う子守唄だった。
声の主はもちろん、あの娘。チェルシー=アン=ブラウン。
あんず色の長いふわふわとした髪。可愛らしい高い声。細く、だけど女性らしい白い身体。あめだまのような、丸く大きい瞳。だけどそこには確かに強い意志が宿っている。
――好みだったから。
そう笑った彼女には頼りなげなそぶりは一切なく。
ただ静かに、自分の運命を受け入れようとしているアンを見て、人間とは無力な癖に、どうしてかくも強くなれるのかとカーティスは不思議に思った。
三日後には、アンの魂は自分のものだ。
魂は悪魔の生きる糧であり、力の源で、命そのものだ。
今までいくつのそれを体内に取り込んできたか、もう覚えていない。
どんな色だったかも、味だったかも。その瞬間の高揚感すらも。
体内に取り込むまでは、相手に執拗な執着をして見せたりもするのに、手に入れた瞬間にどうでもよくなってしまうからだ。
悪魔は気まぐれだ。それが、悪魔だ。そのはずだ。
チェルシー=アンと契約を結んでもいいと思ったのは単純に面白そうだったからだ。
また過ぎれば忘れてしまう程度の、些細な娯楽のつもりだった。
でも今夜のことは、彼女のことは、この先時折思い出すのだろうなと予感があった。
かつて抱いたことのない感情を持て余たカーティスは、静かに錠を外して窓を開け、身を乗り出して夜風に頬を撫でさせた。
歌声はぴたりと止んで、息を殺す気配がする。
ゆっくりと隣を見やれば、驚きに目を見開いたアンが、自分と同じように窓から身を乗り出してそこにいた。
「いい月夜だね」
口元だけで微笑んで、カーティスは満月には少し足りない上弦の月を指差した。
「そう思わないかい」
返答を求められて我に返ったチェルシー=アンは、あわてて笑みを作って頷いた。掠れ声の、ええ、という小さな返答も心地よく耳に響き、カーティスは大いに満足をする。
ついでに見えた、こっそりと涙をぬぐう仕草には気がつかないフリを決めた。彼女にはこちらの顔が見えていないのかも知れないが、生憎悪魔は夜目が利くのだ。
「眠れない?」
「……いえ、月が余りも綺麗だから、月光浴をしていたんです」
月は人間にも悪魔にも平等に力を与える。こんな夜に、勇気がほしくなるのは極めて正しいことのように思えた。
そう、と頷いて、窓枠に頬杖をついてアンを見つめた。
吸い込まれそうな夜空を見上げたアンが、こちらを見ないまま口を開く。
「カーティス、お願いがあります」
「なんだい?」
「できたら満月の下がいいです。三日後は、ちょうど満月だし」
主語の見当たらないその言葉に、一瞬だけ眉根を吊り上げたカーティスは、すぐにああ、魂を取る時の話か、と思い至る。
月光の下で眠るように魂を手放すチェルシー=アン。
行き過ぎた少女趣味に思えたが、なぜかその絵は容易に脳裏に浮かんだ。
すばらしく彼女に似合うだろう、とも感じた。
「…………いいよ、そうしよう」
ぱ、と顔を輝かせこちらを向いたアンが、ありがとう、と言うと同時にくしゃみを漏らす。その余りの可愛らしさに、カーティスの頬は知らずに緩んだ。
ちらりと見やったアンは質素な生成りの夜着を身にまとっただけの薄着だった。それでは夜霧もしのげまい。
「約束するさ。安心して、もうお休み」
「あ、あの、もう少し、お話をしてもらえませんか。眠れそうになくて」
おずおずとしたアンの申し出に、今度は目尻まで緩んだ。
「いいけど」
そこで言葉を切ると、アンが小首をかしげて不思議そうにこちらを見つめる。
あめだまのようなそのまっすぐな瞳は、食べたらどんなに甘いのだろうとカーティスは考えた。
「窓を閉めてこちらにおいで。身体が冷えるからね」
「ああ、そうですね。カーティスが風邪をひいては大変です」
嬉しそうに頷いたアンは、すぐに伺いますと言い置いていそいそと窓を閉めた。
「……悪魔は風邪なんてひかないよ」
いまだ窓を開いたままのカーティスは上機嫌でぽつりとこぼしたけれど、生憎普通の人間であるアンの耳には届かないだろう。
*
宣言どおりに、すぐにドアが控えめにノックされて、どうぞとカーティスは声をかける。
若草色のショールを肩に引っ掛けたアンが、静かに室内へと身を滑らす。
こんばんは、お邪魔します、と律儀に頭を下げる彼女に、ここは君の家だよと意地悪く返事をして微笑んだ。
木製のチェアに腰掛けたアンが聞きたがったのは、不老不死の薬や美しさの秘密、金の在り処などではなく、カーティスが渡り歩いた国や土地や、出会った人・悪魔や天使のことだった。
およそ悪魔への質問らしからぬそれに、カーティスは苦笑いを漏らしながら思いつくままにぽつぽつと答えた。
そういえば、とアンが立ち上がったのは、秋の終わりに森を飛び回って葉を落とし、冬を呼んで回る妖精に出会った話をしていた時だ。
頬を撫でられたのは一瞬だったのに、身が切れるかと思うほど冷えた妖精の手に驚いた、と言葉を終えたとき。
「そういえば」
それまで興味深げに相槌を打つだけだったアンが前触れもなく立ち上がり、一歩踏み出してベッドに座るカーティスの隣に歩み寄った。
距離の近さに少し驚いている隙に、カーティスの手のひらは捕えられて彼女の柔らかな指に包み込まれてしまった。やんわりと抵抗をする暇も与えないその素早さにぎょっとする。
「アン?」
「悪魔にも、体温はあるのですね」
まあね、と口元だけで微笑みながらカーティスは、この娘が欲しい、と思った。
欲しくて欲しくて、たまらない。
突然の強烈な欲求と、それをどこかで否定する理性に驚いた。
欲しい、けれど、簡単にそうしたくない。
その感情の正体が判らない。
今まで、欲しいものはストレートに手に入れてきたはずだ。
「……カーティス? どうしました?」
不思議そうに見つめるその瞳が、潤んだらどんなふうにきらめくだろう。鈴のような声が甘く喘いだら、自分の心はどんなに満ち足りるだろう。彼女の柔らかな肌はどんなふうに溶けるのだろう。
一度そう思ってしまえば、ふとよぎった自制などないにも等しかった。
「ねえ、アン。悪魔に魂を売るってことがどんなことか、君は知っているかい?」
当の悪魔にきらりと光る眼でまっすぐと射抜かれて、アンがびくりと肩を小さく震わせる。
とっさに引こうとした指を強く握りこんでそのまま引き倒す。
転がり込んできたアンの背中を、強く抱きしめて腕の中に閉じ込めた。
身動きを封じられたアンが、息苦しそうな声を洩らす。
「……カー、ティスっ……!」
「アン。君にその覚悟が、ほんとうにできている? でなければ穏やかな死は望めないよ」
「できて、います。契約を交わしたでしょう? あなたの目は私が持っていますし、もう占いも済ませてしまいました」
これ以上なにを、と声を震わせるアンの頬を撫でて、顎に指を添えてこちらを仰がせる。
「魂を売るってことはね、身も心も、すべてを僕に投げ出すってことなんだ」
それは時と場合によるだろう。契約書には記載されてはいなかった。だけど生憎、悪魔はうそつきなのだ。こんなうそ一つでアンが手に入るのなら、お安いものだ。
無理やりに心を縛って身体を奪う方法もなくはない。だけどそれは、カーティスがほしいアンではない。
「……覚悟は?」
耳元にくちびるを寄せて、低く尋ねる。びく、と身体を揺らしたアンが、小さな声で呟いた。
「できて……います」
語尾をかき消すように、カーティスは彼女のくちびるを塞いでしまった。
アンがあげた小さな悲鳴をすべて呑み込んでしまって、舌を割り入れて呼吸を奪う。
ぬるりとした生暖かい舌先を己のそれで、つん、とつつけば、腕の中でアンが盛大に肩を震わせた。
なだめるように背を撫でながら、深い口づけを繰り返す。
だんだんとこわばっていたアンの身体から力が抜けていく。
初々しいその様子を愛しく思いながら、くちびるを解放する。あかく色づいたくちびるは、忙しない呼吸を繰り返していた。
ぼんやりと焦点の合わない瞳を覗きこんで、大丈夫、と問いかけながら前髪を撫でる。
「あ、ええ……大丈夫、です」
「それはよかった」
潤んだ瞳をゆっくりと瞬かせながら、アンはこちらを見上げている。とろんと溶けたその両目で見つめられ、ごくりと唾を飲んだ。
彼女が酔ったのは、悪魔のキスにか。それとも。
従順なその様子に気をよくしたカーティスは、軽くキスを落とすと、そのままくちびるを滑らせて頬をたどる。
ぺろり、と赤い舌を出して耳朶に這わせれば、アンがまたびくりと身を震わせた。そのまま耳の中へぴちゃりと湿った音を立てて舌を突き入れる。
「あ、ぅん……ひゃ…んんっ」
甘く高い悲鳴をあげながら、身を捩って快感から逃れようとするアンの背をぐっと抱き寄せて、執拗に耳を、あごを、くびすじを濡れた舌でちろちろとくすぐった。
時折くちびるで熱い肌に吸い付きながら、服の上から膨らみにそっと触れる。
女性特有のその柔らかな感触。
すぐに直接触れたくなって、夜着のボタンに手を伸ばす。
外気がつめたく素肌に流れ込んだアンが、何か小さく抗議の声をあげたような気がしたが、頓着せずにすべてのボタンを外してしまった。
そっとくつろげると、白い肉体が月明かりの中にぼんやりと浮かび上がる。
無言のままそのうつくしい曲線を見下ろした。
カーティスの視線に気がついたアンが、慌てて胸元をかき合わせた。
それよりも一瞬早く両手を捕らえたカーティスは、そのまま顔を落として鎖骨にくちづける。
「っ…カーティス……あの、」
「ん?」
恥ずかしいです、と消え入りそうな声で呟いた彼女の姿に、欲望が沸きあがってくる。
そう、と意地悪く呟いて、ふるふると立ち上がりかけている胸の突起に吸い付いた。
「ああっ」
抗議のような声を無視して、濡れたくちびると舌先でそこをこね回す。
先ほどよりもさらに忙しなくアンは身を捩じらせて口付けから逃れようと背を弓なりに反らした。
夜着の裾からそろりと伸ばした手を差し入れる。
肌なじみのいい柔らかな足を撫で上げて、そっと下着の上から秘部へ触れると、そこは若干の潤いを帯びて悦びを表わしていた。
何かを確認するようにその上から割れ目をなぞると、アンがもどかしげに腰を震わせる。
粗末な布地をずらして、直に触れた。控えめに溢れ出た蜜を指先に絡めて、そっと内部に侵入をする。
「……あっ、な…に?」
「痛くない?」
予想よりもずっと掠れた声が出て、己の余裕のなさに内心苦笑する。
息を弾ませながらアンが、ゆっくりと首を左右に振ったので安心してカーティスはぐいと指の中ほどまでを沈ませた。
幾度か抜き差しを繰り返すと、そこは別の生き物のような温度と収縮でカーティスを誘い込む。
「あ……ん、んんっ……」
アンのくちびるから漏れる高い声の、余りの甘さにくらりとした。
堪えられなくなったカーティスは、腕を引いてその細い身体をベッドに押し倒した。
「え、きゃっ……!」
驚いて両目を見開くアンのくちびるをまた奪い、意識をとろけさせていく。体中の力が抜けきったところで、魔法のようにすばやく、彼女を覆う下着をするりと抜き去った。
口内に溜まった唾液を舌伝いで彼女の中へ押し込むと、ごくりとそれを嚥下する様子がうかがえた。
ゆっくりとくちびるを離して、細い片足を抱え上げて入り口に自身をあてがうと、身をかがめて頬をばら色に上気させた白い顔を覗き込む。
不安そうに瞳を揺らした彼女に、なぜか、胸が熱くなる。
めちゃくちゃにしてしまいたい、という欲望と、泣かせたくないという悪魔には似つかわしくない願意が同時に沸いてきて、カーティスは己の心が制御できなくなりそうな錯覚に陥った。
「大丈夫」
自分にも言い聞かせるように優しく声をかける。
「力を、抜いて」
両目を軽く閉じて頷いてみせたアンの、熱くぬめる内部へと自身を潜らせる。
短く喘ぎながらカーティスを受け入れる彼女の魂を、早く手に入れたいとカーティスは思った。
ずん、と最奥まで挿入を果たすと、はずみでアンの首にかかる彼の目が、白い胸の上で揺れた。
「あ……あっ…、カーティス……! カーティス!」
悪魔の名を幾度も呼ぶ途切れ途切れの声と、二人の体液が混ざった水音と、カーティスの荒い呼吸が宵闇に溶ける。
腕に引っ掛けたアンの白い足が、人形のように揺れている。
手に入れた、と思った。カーティスの胸は歓喜に打ち震えた。
何か飛びっきり甘い甘い言葉を囁いてやろうかと思ったけれど、そんな余裕もなくただ目の前の快楽をむさぼるべくカーティスは、本能のままに身体を揺らし続けた。
*
額にかかる髪をかき上げたら、空になった眼窩をぐるりと纏う包帯が指の先に引っ掛かった。
汗に濡れたそれが心地悪く、カーティスは乱雑に頭から剥ぎ取った。その拍子に、後ろでひとつに纏めていたサンディブロンドが、さらりと頬に落ちた。
すでに出血は止まっていた。用済みになった包帯を、枕元にぽとりと落とす。
生成りのそれは、不要だといくら主張しても聞き入れなかった契約者によって無理やりに巻かれたものだった。
巻きつけてくれた当の本人は腕の中でくったりと全身の力を抜いて無防備に眠り続けている。人形のようなその身体を見下ろし、カーティスはそっと息を吐いた。
浅い寝息。ばら色に上気した頬。汗で張り付いた薄い夜着。その胸元から除く、赤い花を散らした白い肌。細いくびにぶら下がる己の目。ぐちゃぐちゃに乱れたあんず色の髪。
未だ情事の痕が色濃く残るその身体にそっと肌掛けを被せたら、まぶたがぴくりと揺れてあめ玉のような瞳がぼんやりと開かれた。
「…………カーティス……?」
控えめとはいえ散々に喘いだせいで、掠れてしまった声がなんとも艶っぽい。
目元だけを柔らかく緩めて、カーティスはそっとあめだまの瞳を覗き込む。
「なんだい?」
「……あなたの髪は、とても綺麗ですね」
腕の中のアンがくすぐったそうに微笑む。
それはどうも、と呟いたその声の色に、何がおかしいのかくすくすと笑い肩を揺らす。
その笑顔が、春の陽のように眩しくてカーティスは目を細めた。
「君は、」
「…………?」
何かを伝えようとして、だけどすぐに言葉に詰まって仕方なくアンの額を撫でた。
少し驚いたように両目を見開いた彼女は、うっとりと心地よさそうに瞳を閉じて彼の温度を楽しんでいるようだ。
「……まだ夜は深い。眠るといいよ」
カーティスの言葉を聞いていたのかいないのか、よく判らないタイミングでアンが穏やかな寝息を立て始める。
そういえば。今日は自分の話ばかりをしていて、彼女のことは何も知らないのだなとカーティスはふと考えた。
例えば、何故占い師などになったのか、とか、占いで何を得たのか、とか。家族や恋人はいないのか、とか。
他人に、まして人間などにあまり興味のない自分らしからぬ質問の類だ。
明日起きたら、一つずつ彼女に問おうと悪魔は決めて、久方ぶりの安寧な眠りに身を預けた。腕の中の緩やかな温度は、彼を深い深い眠りへと誘ってくれた。
**
うたた寝から緩やかに覚醒を促したのは、さめざめとした湿っぽいすすり泣きの声だった。
低い革張りのソファに行儀悪く横にまますっかりと寝入っていたカーティスは、ゆるゆると首を回しながら身を起こす。
枕もとには、両手で顔を覆って乙女のようにむせび泣く、博識屋店主の姿がある。
見なかったふりをしたい。
心底願ったが、放っておくのもめんどくさいので仕方なく声をかける。第一、バイト中の居眠りを咎められたら何の反論もできない。
「…………君、なにをしてるの?」
「いえ、いいんです、カーティスさん! 何もおっしゃらないでくださいいいいい」
そうは言ってもね、と居住まいを正したらぐいと首が絞められて、絶命時のカエルような変な声が漏れた。
枕もとの男が、カーティスの黒いネクタイをしっかりと掴んで、ハンカチ代わりに涙と鼻水をぬぐっていたのだ。
「君ね、離してくれないかな」
さて、どうやってこの男をイビろうかと思案を巡せたカーティスは、彼の黒い手袋にしっかり握られた数本のサンディブロンドを見つけてしまった。
はたと気がつけば、後ろで括っていたはずの長髪はさらりと肩に落ちていて、視界の端に入る横髪の一束が耳の辺りですっぱりと切り取られている。
――やられた。
カーティスは舌打ちをする。
ここの店主の手癖の悪さは、重々承知していたというのに油断をした。
誰にも話したことがない、甘くて痛くて重い秘密の記憶を抜き取られた。
久方振りに懐かしい夢を見てしまったのも、こいつのせいか。
お陰で胸が痛い。とっくに完治した怪我のせいではなく、もっと奥のほうがつきんと痛む。
「マーサくん」
穏やかに名を呼ばれ、店主はびくりと肩を震わせた。
伏せていた顔をゆっくりと上げて、引きつった笑みを真っ青に染まった顔に無理やり浮かべながら、カーティスに目を向ける。
「とりあえず、ネクタイを離してくれないか」
「あ……あ、あ、ハイ…………」
カーティスの言うまま、操り人形のように従順にネクタイから手を離した瞬間に、片手で店主の頭を掴んだ。
「ぐおっ」
指先に力をこめる。めりめりと音がしそうな勢いで、こめかみを締め上げられた意地汚い博識屋店主は、前髪の下のギョロ目から相変わらずだらだらと涙を流している。
「勝手に人の記憶を覗き見だなんて。やることが下品だね」
「あ、おっ美味しそうだったもので、つい! 味見を! あだだだ」
「つい、で許可も取らずにぺろりと行くわけか」
「ごっごめんなさ」
「後始末はどうつけるつもりだったのかな? ん?」
「ひぃぃぃぃ」
カーティスはさらににこやかな笑みを浮かべて、店主の前髪をぐいと引っ掴んで隠れていた両目をむき出しにさせる。
「僕の記憶は安くない……相応の対価はいただくよ。ああ、君のギョロ目は遠くがよく見えそうだね」
長く鋭く伸びた爪を、じりじりとギョロ目に近付けてゆく。
店主は瞬きも出来ないほど追い詰められて、ただブルブルと身を震わせて絶叫をした。
「ももも申し訳ありませんっ。何でも! 何でもいたしますのでどうかお許しをっ! 神さま仏さまカーティスさまっ」
「いや僕悪魔だし。第一、そうやって謝罪の言葉を流暢に口にされるとドン引きするんだよね」
「あああああ! いたいぃぃっっ! ではっ! こここんな情報はどうですかっ」
「……ほほう、どんな?」
「百余年前、国一番の占い師になるはずだった少女の人生っ」
眼球まであと五ミリと言うところで、長い爪の動きがぴたりと止まった。
「………………いかがです?」
冷や汗を浮かべたままにたりと笑う店主を見据え、悪魔はしばし思案の表情を浮かべる。
まばたきを三度繰り返して、カーティスは大仰に溜息をついた。
「……………………やめておく」
ぽつりとそれだけを呟くと、指の力をすうと抜いた。その隙に、マーサはカーティスの腕を振り払って後ずさり、取り合えず身の安全を保障できそうな位置へと距離を置く。
「よく考えたら、そんな大きな目では右目とバランスが取れないね。サイズアウトも甚だしい」
博識屋にはすっかり興味がなくなった様子で、カーティスが言う。
渡りに船、とばかりに、マーサが幾度も首を大きく縦に振った。
「そうでしょう! そうでしょうとも! カーティスさまにはもっと相応しい目がございますっ」
「そうだね……僕と同等以上の力を持った悪魔が、不幸にも目玉を落としたという噂が入ったら教えてくれるかい…………それで手を打つよ」
「ははははいっ」
大げさに返事をしてみせた店主に向かって、くちもとを上げて表面上だけにやりと笑う。
「頼むよ」
短くそれだけを言うと、くるりと踵を返した。
アンの人生は、彼女の口から語られなければまるで意味がない。いまさらそれを知ったとして、何になるというのだろう。
純金のドアノブを握った瞬間、背後から焦ったようなお声がかかる。
「どちらへ!?」
「夕食に招かれているんだ。今日は失礼させていただく。
…………そうそう。僕の記憶の仔細はくれぐれも他言無用だよ」
アルバイトのくせに態度が不遜だ。自覚はあるものの、これ以上の感傷に陥りたくはなかったカーティスは、返事を待たずにさっさとドアを開けて博識屋を後にした。
あの時。
がくんと軽くなった骸から出てきた魂に。
柔らかく口づけをして飲み込んだ。
あの甘さを、
あの心地を、
色を形を温度を感触を、
この曖昧な命が続く限り忘れられないと思った。
だけど、飲みこんで己の物としてしまった判断が、正しかったのかどうか、カーティスには今でも判らない。
カーティスが飲み込んだチェルシー=アン=ブラウンの魂は、彼の中ですっかりと溶けて混ぜあわさり、一つになってしまっている。
もう分離することも叶わない。
おかげでアンは転生を果たせない。
融合を望んで、二度と巡り合えなくなったのは実は最大の不幸だったのではないか。
この百余年、幾度も自問してきたが、回答は未だ見つからぬままだ。
後悔、もしくはそれに近いものと自己弁護を繰り返し勘考している。
でも。
もう幾ばくか後には、得難かった正解が手に入るかもしれない。
淡いけれど確信めいた予感に、悪魔はにたりと口が裂けたように笑った。
あの二人に張り付いていれば欲しかったものが見られるような気がしたから、毛嫌いしていた馴れ合いに身を置くようになったのだ。
ふと落とした視線の先に、月光が落とした影が長く伸びていた。
その影の背に生えた翼が、まるで悪魔の象徴そのもののように尖って見えて、カーティスは愁眉を浮かべる。
ふと夜空を見上げると、そこには人にも悪魔にも等しく力を与える満月がぽっかりと浮かび上がっていた。
己の中の、愛しい彼女のにもこの力が届けばいいと願いつつカーティスは、子守唄を口ずさみながら、月夜の夜道をらしくなく急いだのだった。
++わたがしのようなきみへささぐうた++
2008/08/01
最終更新:2008年12月31日 15:42