深夜に似つかわしくない賑やかしい音をたてて、マンションのドアの鍵が乱暴に開けられた。
リビングのソファに怠惰に寝っ転がっていた僕は、読んでいた本から視線を外し時計をちらりと見やる。
午前一時半。ぎりぎり朝帰りではないだろう。
僕は本を開いたまま裏向きにテーブルに乗せて、わくわくと立ち上がる。
咲ちゃんが帰ってきた。二日ぶりの再会だ。
僕がリビングのドアを閉めると同時に、玄関のドアがばったんと大きな音をたてて閉じた。
深夜に帰ってきたら静かにドアを閉めて、と何度も言っているのに、咲ちゃんはちっとも聞いてくれない。
「咲ちゃんお帰り」
「ミッキー!」
僕の姿を見つけると、咲ちゃんはふにゃりと笑う。
「ミッキーただいま! 咲子さんが帰ってきましたっ、寂しかった~?」
間延びした声でご機嫌にそう言うと、よたよたとした足取りでテキトーに靴を脱ぎちらかして、どたどたと大きな足音を立てて僕の方まで歩いてくる。
今日も咲ちゃんは疲れている。その上、盛大に酔っぱらっている。
ああ、めんどくさい。
咲ちゃんは酔っぱらうととにかくしつこい。楽しそうなのは結構だけど、僕に絡んで離れない。
理不尽なお説教とか、上司の愚痴とか、同級生の結婚とか出産とか、興味のない話を延々と聞かされる羽目になる。
「ミッキー」
僕の目の前までふらふらと歩み寄ってきた咲ちゃんが、重量のありそうな黒い鞄をどさりと床に投げ出して僕の首に両腕を回す。
あれ、と思う間もなくくちびるを塞がれた。
柔らかい舌と同時に、酒臭い息が入り込んでくる。ついでに、煙草の香りも。
ああ、咲ちゃん、ヤバイです。非常にヤバイです。
ふにゃふにゃとした身体が押し付けられているせいで、僕の理性は簡単に焼き切れそうなんです。
それでも僕は努めて冷静に、ねっとりと舌を絡め合わせて、そこに咲ちゃんがいると確認をするための緩やかなキスをする。
おかえりなさい、の儀式だ。今日も無事に帰ってきてくれてありがとう、の気持ちを込めて、丁寧に丁寧に舌を愛撫する。
やがてキスに飽きた咲ちゃんが、ぐいと僕の胸を押して顔を離して儀式は終了。
にっこりと笑った咲ちゃんは濡れたくちびるをぬぐいながら、ただいま、と改めて告げた。
その顔にどきりとする。
とても酔っているようには思えないきれいなきれいな笑顔で、小さい頃に憧れた「咲姉ちゃん」の優しい笑顔そのままだな、と僕は思った。
「お帰り、咲ちゃん」
「うん。あんたまだ起きてたの? 明日学校は?」
「本、読んでたから。それに明日は日曜日」
「バイトは?」
「午後から」
ふうん、とあんまり興味がなさそうに僕の脇をすり抜けようとした咲ちゃんの、二の腕をぐっと掴んだ。
「……なに、ミッキー」
「光秋。もう子供じゃないんだからちゃんと呼んでくんない? はい、上着脱いで」
咲ちゃんのほっそい肩に手をかけて、トレンチっぽい薄いジャケットをするりと脱がせる。
その下のスーツの上着も脱がせて左腕に引っかけると、薄いブラウス一枚になった彼女の身体をくるりと後ろに向けて、うなじに手をかけてネックレスを勝手に外す。
「ピアスも。指輪も」
咲ちゃんはめんどくさそうに眉間に皺をよせて、それでも従順にダイヤのついたピアスの片方を外して僕の開いた手のひらに載せる。
もう片方も、左手の中指にはまった青い宝石のついた指輪も外して順番に僕の手の上に載せていく。
「はい、よくできました。じゃあそのままお風呂へどうぞ」
「えーヤダ、めんどくさい。朝入る」
「駄目」
「やーだ」
「ダダ捏ねないの。いい子だから入ってきて」
「何よ子ども扱いして!」
「大きな子どもでしょ。自分のことも自分でできないくせに」
「あんた八も年下のくせに生意気」
「生意気でいいからお風呂入って。出てきたらお水あげる。ドライヤーもしてあげる」
う、と咲ちゃんが黙った。
髪が傷むのは嫌だけどドライヤーする時間が嫌いな咲ちゃんには効果的な誘い文句だ。
「ね、明日も仕事なんでしょ?」
「明日は、やっと休み」
「御苦労さま。じゃあ今お風呂入ったら、明日いつまででも寝ていられるよ。それに、どうせ僕のところで寝るんでしょ? 咲ちゃん煙草臭いから、お願い」
じっと咲ちゃんの、黒目がちな両の瞳を見つめる。
僕は煙草アレルギーだ。近くで煙草を吸われると全身にじんましんが出て痒くて仕方なくなる。
咲ちゃんはもちろんそれを知っている。だから僕の前では絶対に煙草を吸わない。
禁煙に成功をした、と威張っているが、それは嘘だ。
飲むと必ず煙草臭い息で帰ってくる。キスをしただけで耳の下が痒くなる。吸った、と聞くと逆切れをされるから、そこには触れないようにしている。
バイト先の禁煙中の先輩に聞いてみたら、どうやら飲むとどうしても吸いたくなって仕方ないらしい。咲ちゃんもたぶんそれなんだろう。
同僚に喫煙者が多い咲ちゃんは、ただ仕事をしてきただけの時は理性的にお風呂に入る。どれだけ疲れていても、僕のためにそうする。
入浴を拒否する今日はよっぽど眠たいに違いない。それは判る。
でも煙草臭い咲ちゃんと一緒に眠ると咳が止まらなくて、僕も咲ちゃんも一晩中眠れないんだ。
「……ん、判った」
ついに折れた咲ちゃんが、くるりと僕に背を向ける。
「はい、行ってらっしゃい」
にこにこと笑いながら僕はそんな咲ちゃんを見送る。
申し訳ないな、とは少し思うものの、ちゃんとお風呂に入ると疲れの取れ方が違う、と何かで聞きかじった僕は無理やりにでも咲ちゃんをお風呂に入れるようにしているのだ。
咲ちゃんのアクセサリーをリビングのボックスに放り込んで、上着をハンガーに掛ける。
バスタオルとフェイスタオルを掴むと、シャワーの音と石鹸の香りの漂う脱衣所にそれらを置く。下着とパジャマはどれを選ぶか判らないから、触らないことにしている。
毎日洗濯をして咲ちゃんの下着を干してはいても、持ってくるのとはなんとなく、意味あいがちがうのだ。
廊下に放置されたままの重いカバンを掴むと、リビングに戻ってそれをソファの脇に据え置いた。
対面式のキッチンに回り込んで、やかんに浄水器の水を入れる。
咲ちゃんは刑事だ。どんな仕事をしているのかは、守秘義務っていうのがあるらしく家族にも教えられないらしい。
それが本当なのかどうか、僕には判らない。ただ咲ちゃんが話すのを面倒がっているだけかもしれない。でも知っても僕にはどうにもできないだろう。
何をしているかは判らないけど、咲ちゃんがとんでもなく忙しいってのは知っている。
夜に帰ってこないのは当たり前。
僕が大学やバイトに行っている間にふらりと帰ってきて、シャワーを浴びて着替えを掴むとすぐに出て行ってしまうこともザラだし、たまに休みが取れた日には一日中眠っている。だから三日以上顔を合わせないことだって普通のこと。
帰ってきてくれたときはそれがどんなに深夜でも、どれだけ眠くても起き上がって咲ちゃんを出迎えて、荷物を受け取ってバスルームへと送り出し、簡単な食事を出すようにしている。
咲ちゃんは美味しいと言いながら、多少の苦労はしつつ全部平らげて、少しだけ眠るとまた仕事に出かけていく。
職場で仮眠を取っている、という言葉をどこまで信じればいいのか。
いつか彼女が倒れてしまうのではないかと不安で仕方がないけれど、仕事を辞めて、と言える立場ではないのだ。僕は、ただの大学生だ。
第一、咲ちゃんは仕事が大好きだ。
いらいらとして、殺伐として、情緒不安定になっていて、帰ってきた途端僕に当たり散らすこともあるけれど、それでも続けてるってことは、たぶん、自分の父親、つまり僕の伯父さんと同じ職業である刑事って仕事に誇りを持っているんだと、思う。
咲ちゃんに何をオーダーされてもいいように、カップ二杯分のお湯を沸かし終えたところでリビングのドアが開いた。
バスタオルをそのしなやかな裸体に巻いて、首からフェイスタオルを提げたいで立ちで咲ちゃんが登場をする。
「お茶漬け、食べる? 味噌汁、それともコーヒー?」
「ビール」
「もうだめ。水にしといて」
冷蔵庫を開けて、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出す。大きめのグラスに一杯を注ぐと、どっかりとソファに腰かけた咲ちゃんの目の前に差し出した。
「ケチ」
「ケチじゃない。飲みすぎ」
むっつりとふてくされながら、咲ちゃんが僕の手からグラスを受け取る。
別に明日が休みならビールを出してもいい気がするけど、酒に強い咲ちゃんは飲みすぎなんじゃないかと勝手に心配をしている僕は、あまり飲んでほしくないのだ。
「咲ちゃん。ゴーする?」
「ん」
ドライヤーとなんかよく判らない髪用のクリームを取り出して、コンセントにプラグを差し込んで咲ちゃんの後ろに居場所を定める。
彼女が首に巻いたタオルで、がしがしと濡れた頭を拭う。抗議の声が聞こえたような気がするけど、気にしない。
それが終わると、両手にクリームを伸ばしてさっきよりは水分を飛ばした髪に軽く塗りこんでいく。
トリートメントというものらしいが、リンスとどう違うのは僕にはさっぱり理解できない。咲ちゃんが自分で髪を乾かす時にしているように、僕も倣っているのだ。
タオルで両手を軽く拭うと、ドライヤーのスイッチを入れて小刻みに揺らしながら咲ちゃんの茶色い髪を乾かしていく。
咲ちゃんの髪は短い。耳の下、肩の上あたりでふわふわと揺れるウェーブヘアだ。
あと一時間起きているのならたぶん、ドライヤーもいらないぐらいだろうけど、疲れ果てていて電池が切れたように眠ってしまう咲ちゃんにはあと一時間起きていろなんて、拷問に違いない。
今だって、ドライヤーの熱に暖められた身体が、こっくりと船を漕ぎ始めている。
くるんくるんと指に柔らかい髪を巻きつけながら、丁寧に髪を乾かしていく。
昔から、咲ちゃんの髪を触るのが好きだった。
さらさらとしていて、癖がなくて柔らかく、いい香りがして。小さい頃に母を亡くした僕にとって、女性用のシャンプーの香りが物珍しくてどきどきした。
咲ちゃんが複雑な形に結んでいるのを見るのも好きだった。
成人式のときにふわふわに結った髪が可愛くて、美容師になろうかなと呟いた僕に「ミッキーは勉強が好きなんだし、せっかくだから大学に行けば」と言ってくれたのは他ならぬ咲ちゃんだった。
いい加減腕が疲れてきたところでドライヤーのスイッチを切った。乾き具合を簡単にチェックする。
うん、こんなもんでしょ。
コンセントを抜いてコードを折りたたむと、ドライヤーを定位置に戻して咲ちゃんの隣に腰かけた。
「咲ちゃん、終わったよ」
ソファの手すりに寄りかかって眠ってしまった咲ちゃんが、うん、と小さく答えたものの起き上がる気配はない。
こりゃ大変だ。
こうなっちゃうと、起こすのにものすごく苦労する。しつこくすると逆切れするし。
起こすぐらいなら勝手にベッドに運んだほうが早いかなあ。
一応男だけど、ひょろひょろな僕の腕で咲ちゃんを持ち上げれるか非常に疑問だ。
それよりも、バスタオル一枚で青少年の前に登場するの、止めてほしいんだけど。
胸のあたりで挟み込んでいたタオルのふちがぺろりとはだけて、薄っぺらい胸の、谷間らしき部分が若干御開帳をしている。
正直言って目のやり場に困る。
咲ちゃんの裸なんてもう何度も見ているけど、それでも困る。
恥ずかしがったり隠したりするから見たいんであって、こうもあけっぴろげに「どうぞ」と据え置かれるとやる気がなくなる。
やる気っていうのは、その、襲う気とかなんだけど。
咲ちゃんはずぼらだ。
それはもう病的なほどだらしない。
僕がいるのにも関わらず裸で歩きまわるし(これは一番最初に懇願をしてやめてもらった)、片付けも掃除も死ぬほど苦手だし、料理も、味覚オンチな上に作っただけで飽きてしまうから結局あとは僕の仕事になる。
洗濯も山盛りに溜める咲ちゃんが、僕と暮らす前はどうやって生きていたのか甚だ疑問だ。
まあ僕が咲ちゃんを甘やかすから、彼女のずぼらに拍車がかかってる気がしないでもない。
あーあ。
小さくため息をついて、胸元のずれたタオルをそっと元の位置に戻す。
咲ちゃん、と試しに呼んでみる。咲ちゃんはぴくりとも動かない。
「ね、服着てベッドで寝て。風邪ひくってば」
剥き出しの肩に軽く触れてみる。さっきまで湯気を上げていた肌はすっかりと冷えて、しまっている。
あーもーどうしようかな、と一瞬悩んだ隙に、咲ちゃんのすらりとした両腕が伸びてきて僕の首に絡まった。
そのままぐい、と引かれて、僕は咲ちゃんの身体の上に覆いかぶさってしまう。
「ミッキー」
にやりと笑った咲ちゃんに、くちびるを塞がれた。
咲ちゃんのぬるりとした舌が、僕の歯列を軽くなぞった後に舌を絡め取る。僕は必死にそれに応える。突然のことに驚いたけど、僕は咲ちゃんとのキスを拒否できない。
煙草じゃなくて歯磨き粉の香りのする長い長いキスのあと、頬をほんのりと上気させた咲ちゃんが、ほう、と息を吐いた。
黒目がちな両の瞳を潤ませて、濡れたくちびるでミッキー、と僕を呼ぶ。
「なに、咲ちゃん?」
「咲子さんの胸、見てたでしょ」
「………………見てない」
「じゃあなんでここ、こんなになってるの?」
咲ちゃんの指先が、僕の股間をすっと撫で上げた。
パジャマの上から絶妙な力加減で快感を刺激されて、僕は女の子みたいな声を思わず漏らす。
普段、頭痛がするほど不器用なくせにこういうことだけは器用にしてみせるんだよな。
僕の反応に気を良くした咲ちゃんが、ふふ、と小さく笑った。
「今のキスのせいだよ」
「あーそう? なんでもいいわ。せっかくだし、ね、しよ?」
「咲ちゃん、疲れてるんじゃないの?」
「疲れてる。だからしたいの」
……なんかその理屈はよく判んないな。疲れてるんなら素直に寝た方がいいと思うんだけど。
「こんな時間だし、明日にしよ? 今日は大人しく寝て」
「嫌、今日したいの。今すぐにしたいの」
「咲ちゃん」
「あんたさ、誰に養われてるか判ってる?」
出た。咲ちゃんお得意の脅し文句だ。
確かに、僕は咲ちゃんに扶養されている身分だ。
今年の春に、僕の親父が不幸にも事故死をした。
母はとうに亡く、唯一の肉親だった父を亡くした僕は一人ぼっちになった。
母が死んでから金に苦労していた父は碌な保険に入っておらず、今後の生活の保障はどこにもなかった。
十八にもなる男を引き取るなんていう奇特な親戚がいるはずもない。付き合いの薄かった父方の親族は総じて自分の生活で手いっぱいだった。
母方の親族はそれなりに裕福だったらしいが、母が死んで以来縁が薄かった。
唯一、母の姉である咲ちゃんの家族と、盆暮れの付き合いがあっただけだった。
父は生活の困窮を、伯母や他の親族たちにまったく伝えていなかった。
察するに男のプライド的な理由と、今はもう亡き母方の祖父母の性格的に、それを告げようものなら僕と父はたちまち引き離される懸念があったからだ。
葬式の席で僕のこの先を案じた伯母に問われるがままに現在の預金額を告げると、それだけなの、と目を丸くした。そんな伯母の様子をみて、ああ、僕んちって貧乏だったんだと初めて思い知らされたのだった。
せっかく苦労して入学したけど、大学は諦めて働くしかないなあと僕は覚悟を決めた。
親父が亡くなったというのに、僕は非情なほどに冷静だった。
「ミッキー。あんた、大学行きたい?」
僕の前に仁王立ちになってそう言った喪服姿の咲ちゃんを見て、ああ、昔ちらりと思った美容師になろうかな、と僕は思った。
答えられずにぼんやりと咲ちゃんを見返す僕に、ウチにくる? と聞いたのだった。
「あんた家事得意でしょ?」
まあ、そこそこ。咲ちゃんよりは得意だよ。伊達に長く父子家庭やってませんから。
そう思ったけど、この数日でいろんなことが起きすぎて父の死を悼む暇もなく動き詰めで、前夜も一睡も眠れなくて疲れ果ていた僕は、かすれた声で、うんと言うのが精いっぱいだった。
「それ全部やってくれたら、私がミッキーを養ってあげる。そのくらいの稼ぎと貯蓄はあるのよ」
有無を言わせぬ迫力に、僕は思わず頷いてしまった。
感謝はしつつも、咲ちゃんの勢いに押されただけ、下心なんてまったくないと思っていたけど、
初めて彼女とセックスをした夜に、僕は子どものころからずっとずっと咲ちゃんが好きだったと思い知らされてしまったのだった。
「ミッキー?」
僕の女王様が、鋭く名を呼ぶ。
「言ってごらん? ここの家主は誰?」
「咲ちゃんです」
「生活費は?」
「咲子さんのお給料です」
「後期の学費。出したのは誰?」
「咲子さんです」
「光秋。私のこと、好き?」
「うん」
「ほんとに?」
「好きだよ、好き。咲ちゃんがいなかった生きていけない」
「じゃあ抱いて」
僕の首に回った両腕に、再び力が籠って引き寄せられた。
差し込まれた舌を甘く噛んで牽制をして、腕の中の咲ちゃんが怯んだ隙にぺろりとくちびるを舐めまわす。
腕の中で華奢な咲ちゃんの身体が、びくびくと震えた。
重ねたくちびるの隙間から、咲ちゃんの甘い喘ぎ声がぽろぽろと漏れる。
もう興奮を抑えるのに精一杯な僕は、慌てて身体を起して咲ちゃんの前髪を撫でた。
不満げにこちらを見上げてくる咲ちゃんに、僕はありったけの余裕を込めて微笑んだ。
「……ベッド、行こう? ね?」
「ヤダ。今すぐしたいって、言ったでしょ?」
「咲ちゃん」
「も、我慢できない」
上半身を持ち上げてくちびるを押しつけてくる咲ちゃんを、なんとか押しとどめた。
困った女王さまだ。
全部自分の思い通りじゃないと気が済まないんだから。
できることなら僕の都合も聞いてほしいんだけど。明日の予定とか、体調とか。男にも色々あるんだし。
でもこれ言っても、知ったこっちゃないって一蹴されて終わりかなあ。
「光秋」
「駄目、ソファが汚れる。僕の部屋に行こ……ベッドだったらそのまま寝られるよ?」
「…………じゃあ、連れてって」
甘えるようなしぐさで、咲ちゃんが両腕をのばす。
「抱っこ」
お願い、と小首をかしげて、僕を誘う。
くっそ、可愛いな。どうしようもなく可愛いな。
僕は負けたような気になる。
咲ちゃんはこれを計算でやっているんだろうか。
男らしくさばさばとしているかっこいい咲ちゃんが、可愛らしさを武器にするなんて思いもよらないけど、もしかして僕よりも八年も長く生きている年の甲ってやつなんだろうか。
「…………はい」
簡単に咲ちゃんにしてやられた僕は一旦床に降りて膝をつき、彼女の膝の裏と細い背中に腕を差し入れて、ぐっと力を込める。
「ちゃんと、捕まっててね。転んだらごめん」
その言葉を聞いた咲ちゃんが、眉間にきつく皺を寄せる。
「落とさないように頑張るから大人しくしてて」
やっぱり降りる、とまためんどくさいわがままを言い始める前に、咲ちゃんを抱き上げて立ち上がった。
その、予想外の軽さに驚かされる。
ちゃんとごはん食べてるのかな。ほんとに寝てるのかな。無理しすぎてないのかな。
仕事、辛くないのかな。
「咲ちゃん……」
「なーにー?」
僕の首に両手を巻きつけて、楽しそうに揺られている咲ちゃんがにこにこと上機嫌で返事をする。
その顔に、僕は喉元まで出てきていた言葉を慌てて飲み込んだ。
僕のために無理してない? なんておこがましいにも程がある。
僕の世界には咲ちゃんしかいないけど、咲ちゃんはそうじゃない。
咲ちゃんは自分の人生を生きている。その中に、僕は間借りをさせてもらっているだけ。
第一、養ってもらっている僕が出来るお説教なんて何もない。
「……電気、消して」
「ん」
リビングの出口付近で立ち止まって、咲ちゃんにぱちんとスイッチを押してもらう。
薄暗い廊下を歩いて、僕の部屋の前でまた同じように咲ちゃんにドアノブをひねってもらうと行儀悪く足で扉を開いて、するりと室内に滑り込んだ。
背中でドアを閉めたら真っ暗になってしまったけど、家具の配置は足が覚えているからまったく問題ない。
四歩目でベッドサイドにたどり着くと、ゆっくりと咲ちゃんをその上に下ろす。
バスタオルが巻きついた身体の下から腕を引き抜いて、そっと咲ちゃんに覆いかぶさった。
「咲ちゃん」
「ん?」
「好きだよ。世界で一番、咲ちゃんが好き。大好き。どこにも行かないで」
「……どこにも、行かないわよ? あんたがここに居てくれる限り、ちゃんと帰ってくるから大丈夫」
咲ちゃんの細い指が伸びてきて、僕の前髪を優しく撫でた。
むず痒い様なくすぐったさに僕の背筋がぞわぞわする。
「咲ちゃん」
囁くような小さな声で咲ちゃんを呼んだ。
嬉しそうに両目を閉じた咲ちゃんの、柔らかいくちびるにそっとキスをする。
ちょっと強引に舌を割りいれ、呼吸を奪うように激しく激しく口付けて、バスタオルの上から僕の片手がちょっと余ってしまうサイズの乳房に触れた。
軽く力を込めて、咲ちゃんの胸を揉みしだく。
「んん!」
くぐもった悲鳴が、重ねた口の下から漏れた。その声に、僕の興奮はどんどんと激しくなる。
耳たぶに舌を這わす。中の穴にまでねっとりと舐め上げたあとに、歯を立てて軽く熱い耳に噛みついた。
「咲ちゃん」
「あっ! やあっ……ん、だ…めっ」
「咲ちゃん」
「ぅ、ん!」
耳の穴の中に、直接息を吹きかけるように何度も何度も名前を呼ぶ。時々、思い出したように好き、とも付け加えて。
それだけで咲ちゃんの身体がびくびくと震えて、甘く高い声がひっきりなしに漏れる。咲ちゃんは、僕の声が好きなんだそうだ。
嫌がるように身を捩って、僕から逃げようとする咲ちゃんの右手に自分の左手を重ねて、きつく握りしめた。
首筋をぺろりと舐めながら、胸を撫でていた手を滑らせてバスタオルをはだけさせる。直接触れた咲ちゃんの肌は、うっすらと汗ばんでいて僕の手のひらに吸いつくようだった。
指の腹に軽く触れた乳首が、こりこりに硬くなって僕に興奮を伝えてくれていた。
嬉しくなって、指先でギュッと摘まむ。
「はっ、あん! や、あ…ううん!」
中指と人差し指で左胸の先端を弄びながら、空いた右胸にむしゃぶりつく。
舌先でころころと転がしたあと、くちびるで挟み込んだら、咲ちゃんの身体が弓なりに反れた。
「ひあ!」
悲鳴にも似た声に驚いて、僕は慌てて顔を離す。
思ったよりも強い力で吸い上げてしまったかもしれない。
「ごめん! 痛かった?」
「……ん、ううん」
やばい、力の加減ができないなんて、僕は相当興奮をしているみたいだ。
ちょっと落ち着かないと、入れる前に暴発してしまうかもしれない。
「ごめんね……もっと優しくするから」
「ち、がう、いいの、大丈夫……」
「ほんとに?」
「……あんたの触り方、優しすぎてくすぐったい。さ、さっきぐらいが、」
「このくらい?」
言うが早いか、指先の力を入れて先端をつねるように刺激する。
「ああん! ん、ぅく……や、ミッキー…んん」
「咲ちゃん、気持ちいい?」
「ん、んん……あっああ!」
「咲ちゃん」
「や…だめ、だめだめっ、は…ふ!」
だめ、と繰り返しながら、咲ちゃんが首を子どもみたいに振る。
「気持ちいいの?」
返事を聞かずに、再び白い胸に顔を埋めて蕾をくちびるで挟み込んだ。
「ああ! やっ…だ……ミッキー! んん、ふ、やあっ」
繋いだ手をきつく握り返されて、ちょっと痛い。だけど咲ちゃんが感じてくれてるのが嬉しくて、そんなことどうでもよかった。
「ね、咲ちゃん? 気持ちいい? どう?」
カチカチに硬くなった先端を舌先でつつきながら、咲ちゃんのほうを上目で見やった。
この反応からして、気持ちいいので間違いないとは思う。
だけど確認半分、意地悪半分で聞いてみる。
咲ちゃんは真っ赤に染まった顔を自分の手の甲で覆い隠すと、涙目で僕を睨み上ずった声で早口に答えた。
「気持ちいいわよ、バカっ! あ、あ、ああっや…はんっ!」
嬉しいお言葉をいただけたので、僕は思う存分咲ちゃんのささやかな胸を堪能する。
ひとしきりいじり倒して咲ちゃんが半泣きになったところで、僕は手を滑らせて、足の付け根へと指を這わす。
薄い茂みをかき分けて咲ちゃんのあそこへ触れると、どろりとした熱を帯びていた。
敏感なところに指先が掠めると、咲ちゃんが甘えたような声で僕を呼ぶ。
「ミッキー…………ね、入れて」
「まだダメ」
「な、んで!」
「咲ちゃん焦りすぎ。まだ始めたばっかじゃない」
割れ目をなぞってあふれた水分を指にねだりつけてから、尖った性器をつん、とつつく。
「あっ! や、触んな…いで! は、あっ……」
触んないでって随分と無茶な要望だ。
だけど流されるわけにはいかない。
ここで強請られるままに挿れてしまったら、次の日お腹が痛いと騒いで大変面倒なことになる。三回も同じ経験をしたら、嫌でも学習をする。
小柄な咲ちゃんの中はぎょっとするほど窮屈だ。
ちなみに僕のサイズは日本人標準だ、と思う。なにせ市販の避妊具がぴったりだし。だから断じて僕のせいじゃない。
そもそも、女性のこんな小さな穴に硬くなった男のものが全部入ってしまうってことからまず信じられない。
僕は突っ込むだけだから判らないけど、相応な準備をしないといけないものだってことは知っている。
痛いのは、誰だって嫌なものだし。咲ちゃんに痛い思いさせたくないし。
「いい子だから、もうちょっと待って」
僕はすばやく服を脱ぐと、咲ちゃんの細い足を多少強引に開かせて、その間に陣取った。
上体をかがめて、そっと内ももに顔を寄せる。
「やっ」
悲鳴みたいな声を上げて、逃げようとした咲ちゃんの腰を押さえつけて舌を伸ばす。
穴の中に舌先を差し入れると、くちゅ、と水っぽい音が響いた。
「や、だっ! あ、ミッキー! やめ……ふ、んん!」
咲ちゃんの足にぐっと力がこもって、僕の頭を挟み込む。
息苦しくなった僕は、片方の太ももを握って足を開かせて、シーツに押し付けた。
「だめ……だめ、ミッキー! 待って…待って――っひゃ!」
自由になった顔をぐいと伸ばして、咲ちゃんの中からどんどんと溢れてくる蜜を掬い取るように舐めあげた。
小さな突起を押しつぶすように舌先でつついてから吸い付く。
「んんッ!」
ちゅう、とわざと音を立てて吸い上げる。入り口の辺りに沿わせた指先を、焦らすために少しだけ中に入れてはすぐに抜く。
触れてほしそうにひくひくと蠢くそこに、一気に指を突き立ててから内部をぐるりとかき混ぜて。
そういったことを繰り返すうちに、咲ちゃんの愛液と僕の唾液で、僕の手はべとべとに濡れてしまう。
「……キ、も…や……やだ、ああっだめ、あ、あ、」
咲ちゃんの全身が硬くなって、僕の指をきゅうっと締め付ける。
そろそろ限界みたいだ。
「ね、咲ちゃん」
「やんっなに……あっ」
「もうちょっとだけ、イクの我慢して」
「なん、で! や、あ、やだあ!」
何でって、特に深い意味ない。強いて言えば、もっと咲ちゃんに気持ちよくなってほしいから。
もっと長い時間、僕を感じていて欲しいから。
入れてから発射までの時間に自信がない僕は、ここで時間を稼ぐしかないんだよね。
「やだってば、だめ…ミッキー! やだやだっ」
「やなの?」
「ちがっ、だめ、も、ダメなのぉ……んん」
そんな気持ちよさそうな声で、イヤとかダメとか言われても、全然説得力がないよ。
「何がダメなの?」
「み……あき! や、バカバカ! 嫌いっ」
「嫌い?」
「嫌い! キライキライ!! ああん! それ、やっ!」
嫌いは流石に傷つくなあ。
ただのうわ言で、全然本心なんかじゃないって判っていてもやっぱり傷つく。仕返しの意地悪をしたくなるじゃないか。
「ここ?」
「ひゃっ、そこッ! だめ…キライ、バカ、バカ……ぁ、も、むり!」
「まだダメだよ、咲ちゃん」
「なんでっ、やだ、やあ! なんでぇ!」
「だーめ」
口で弄りながら、中に入れた二本の指をばらばらに動かす。咲ちゃんがベッドを蹴るようにばたばたと暴れる。
僕はちょっと苦労をして空いた手でその身体を押さえつけた。
「ぐちゃぐちゃだよ、咲ちゃん」
「しゃべん…ないで……! バカっ、それだめだって…ばぁ!」
「これ?」
入口付近の柔らかい肉を指先でつつくと、またとろりと蜜を溢れさせて咲ちゃんの身体が硬直する。
「あん! やあっ!」
「イっちゃう?」
「……い、く……あ、やだぁ、やだやだっ! みつ――ああぁぁあっ!!」
咲ちゃんが一層に高い悲鳴を上げて、全身がびくびくと痙攣をさせる。指を受け入れている内部もひくついてきゅうと締め付け、絶頂を僕に教えてくれる。
「あ……あぁ、ん……」
幾度か荒い呼吸を繰り返して、ぐったりとしてしまった咲ちゃんのに指を残したまま身を起こす。
「イっちゃった?」
僕の声に、咲ちゃんは手のひらで口元を覆ったまま思いっきり顔を背けた。
「咲ちゃん」
「……見れば、判るでしょ。バカ」
「まだダメって言ったのに」
「知らない……あんた、言ってることと…やってること、違う、じゃない」
「そう?」
「そうよ」
「入れていい?」
「………………イヤ」
「まだ足りない?」
中に潜んだままの指を、くの字に折り曲げた。くちゃ、と湿った音が響く。
「やっ!」
咲ちゃんが身体をずり上げて、僕から逃げる。
「もっとする?」
「だめ、抜いてっ」
伸ばした細い指で僕の手首を掴むと、排除しようと強く握った。
ぎりぎりときつく握りしめられて、そろそろやばいかなあ、と思う。
これ以上やると、本気の蹴りが飛んできそうだ。
僕は大人しく指を引き抜いて、懇願するようにじっと咲ちゃんの瞳を見つめた。
「入れさせて。お願い」
たっぷり三秒間悩んで、咲ちゃんが小さく頷く。
僕はへらりと笑うと、枕もとに備えてあった避妊具を取り出して素早く装着する。
起き上がる気力もなさそうな咲ちゃんの膝を開かせて、先端を秘部にあてがった。
ぐい、と先っちょを押し込めると、咲ちゃんが喉を仰け反らせて薄く喘ぐ。
「んっ……や、もっと、ね……もっとぉ……」
「うん」
熱くって狭くって、どくどくと脈打つ咲ちゃんの中に、自身を埋め込んでいく。
焦れたように咲ちゃんが腰を揺らすたびに、ぞくぞくとした熱が背筋を抜けて腰が砕けそうになる。
一旦奥まで埋め込んで、またゆっくりとギリギリまで引き抜くと、咲ちゃんの両足が僕の腰に絡みついた。
もっと、と身体でおねだりをされて、僕の意識は弾けるように飛んで行ってしまった。
ずん、と乱暴に突き上げると、悲鳴と一緒に涙がこぼれて咲ちゃんの頬を濡らした。
咲ちゃんは、情緒不安定なんだと思う。セックスの最中に、しょっちゅう泣く。
もう慣れっこになってしまった僕は、お構いなしに腰を打ちつける。
「あ、あ、あッ、ミッキー! はぁっ! やっ…ああん!」
咲ちゃんの口から、引っ切り無しに高い声が漏れる。
嗚咽のようなその声に、僕の胸はちりちりと焦がれるように痛むのだけど、感情から切り離された身体の律動は止められない。
もう何も見ないようにして、僕は行為に没頭をする。
たぶん咲ちゃんは、もっと前から何も見えてないんだと思う。
半分眠った状態でセックスをしているんだと思う。
僕ができることは、早くこれを終わらせることだけかなあ。
そう考えたらちょっと虚しくなったので、気分を盛り上げるためにまた激しいキスをして咲ちゃんの呼吸を奪う。
泣きじゃくりながら咲ちゃんは、僕のキスに応えて、僕の首にすがりついて、何度も僕の名前を呼んで一度だけ好きと喚いて、細い身体で僕を受け止めて、
僕が精液を吐きだすと同時にもう一度びくびくと全身を震わせると、気を失うように目を閉じて動かなくなってしまった。
裸のまんま二人でぴったりとくっつき合って眠って。
翌朝いつもと同じ時間に、僕は咲ちゃんを起こさないようにベッドから這い出した。
死んだように眠り続ける咲ちゃんに、ふわりと布団を被せると、洋服に着替えて部屋を出る。
いつものように朝食を一人で食べて、洗濯をして、掃除をする。頭をからっぽにして身体を動かす。
全部終わったら少しだけ課題の本を読んで、また一人で昼食を食べて咲ちゃんの分を冷蔵庫に入れたら予定通り出かける時間。
部屋に戻ってベッドを覗き込むと、咲ちゃんは朝とまったく同じ姿勢で眠っていた。
まさかほんとに死んでないよね、とちょっぴり心配になって、呼吸を確認する。
浅いけど規則的な寝息がきちんと立てられていて、僕は安堵の溜息をついた。
「咲ちゃん」
頭を撫でて小さく呼ぶと、身じろぎをした咲ちゃんがまぶたをぴくりと振るわせる。
「なんか欲しいものある? お水は置いとくね」
「…………何時?」
「12時半。僕もうバイト行かなくちゃ」
「……帰りは?」
「7時ぐらい。お昼、置いてあるから食べて」
「ん、ありがと……いってらっしゃい」
ね、昨日、好きって言ったの覚えてる? もう一回言ってほしいな。
聞きたかったけど、すう、と寝入ってしまった咲ちゃんに、それ以上声をかけられなくて諦めた。
行ってきますと小さな声で囁いてもう一度髪を撫でると、鞄をひっつかんで家を出た。
咲ちゃんは、僕に好きって言わない。ごくまれに、セックスの最中にぽろっと漏らすことがあるぐらいだ。
僕には「好き?」って聞くくせに、言わせるくせに、自分では絶対に言わないなんてずるいと思う。
咲ちゃんは僕を大事に思ってくれている。大切にはされている。金銭面だけじゃなくて。それは判ってる。
だけど時々不安になる。
咲ちゃんは大人だ。僕みたいに「咲ちゃんだけいれば何にも要らない」なんて状態には絶対にならない。
そんなのたぶん、当り前のことだ。そのおかげで、僕は大学に通えている。
ああ、好きの度合いを数値化してくれる機械があったらいいのにな。
そうすれば、こんな馬鹿みたいなちっぽけなことで、女々しく悩まなくて済むし。
「僕のこと好き?」って、簡単に聞ければいいんだけど、万が一「違う」って言われた時のことを想像して、勝手に不幸になっている自分が大嫌いだ。
冷たい風が頬を撫でて、ぶるりと背筋が震えた。
急激に冷えが厳しくなるこの時期も、大嫌いだ。冷え切った暗い家に帰るのが、寂しくて仕方がない。
世界中のものすべてが嫌いになってしまう前に、僕は思考を止めてただ歩くことに集中をする。
後ろ向きでじめじめした男なんて、きっと咲ちゃんは嫌いだろうから無理やりにでも前を向いて歩いて行く。それが僕にできる精一杯。
バイトを終えて帰宅をして、玄関を開けると温かい空気が頬を撫でた。ついでに、カレーの香りも。
廊下の先のリビングのドアはあけ放たれていて、そこから柔らかい明りがこぼれている。
「ただいま」
恐る恐る声をかけて、靴を脱ぐ。簡単にそれらを揃え、慌て気味にリビングへと足を向ける。
入口で再び、ただいまと声をかけると、ソファで新聞を広げていた咲ちゃんが、首だけをこちらに向けて、に、と笑った。
「お帰り。ごはんできてるわよ」
たったそれだけのことなのに、どうしようもなく胸が痛くなった。
込み上げてくる正体不明の感情をごくりと飲み込んだ。
泣きそうになった頭をぶるりと振って気を落ち着かせ、目を上げてへらりと笑ってみせた。たぶん、今の僕はものすごく変な顔だろう。
新聞を置いた咲ちゃんが、神妙な顔で立ちあがる。
僕の目の前に立って、両手で僕の頬を挟むと、つめたい、と無表情に言った。
「外、寒いのね」
「……うん、寒いよ」
「お腹は?」
「空いてる。ペコペコ」
「ん、じゃあ座ってなさい」
ぽん、と僕の胸を叩くと、咲ちゃんがキッチンへと歩いて行ってしまう。
ああ、もしかして今、子ども扱いされたのかな。
お腹が空いてるから機嫌が悪いと思われたのかな。
でもそれでもいいや。案外、悪くないっていうか、素直に嬉しかった。
甘やかされるのって、こんなにも嬉しい。
世話を焼かれると、愛されているって感じがする。
もしかして咲ちゃんも、僕にこうされるのが嬉しいって、思ってくれているのかな。
大人しく席に着いて、湯気の立つカレーが目の前に差し出された僕は、その空腹を刺激する香りを思いっきり堪能する。
「はい、どうぞ」
「ありがと……。ね、咲ちゃん。僕のために作ってくれたの?」
そう尋ねると、当り前じゃない、というように眉をあげた咲ちゃんが、新聞を片手に目の前の席に腰を下ろす。
「早く食べれば?」
「うん。咲ちゃんは食べないの?」
「さっき起きて食べたとこだからまだいいわ。あとで食べる」
「そう。じゃ、お先にいただきます」
両手を合わせて、添えられたスプーンを手に取る。
一口分を匙の上に乗せて、なんだか妙に水っぽいカレーに嫌な予感を覚えつつ口に運ぶ。
入れたとたんに、むせそうになって微妙な表情になってしまった顔を慌てて取り繕う。
予想を悪い意味で裏切らない形で、カレーの味が薄い。
カレーって、誰が作ってもそれなりに美味しくできると思っていた。親父ですらそれなりのものを作っていたから。
咲ちゃんが料理苦手なのは知っていたけど、まさかここまでとは思ってもみなかった。
「ミッキー?」
広げていた新聞で口元を覆い隠した咲ちゃんが、僕の反応をうかがっている。
「どうしたの? ……美味しくない?」
ちょっと不安げに瞳を揺らした咲ちゃんに、僕は精一杯穏やかに笑って見せた。
珍しい気弱な表情に、ちょっとドキドキしたのはもちろん秘密だ。
「ううん、美味しいよ。咲ちゃんが作ってくれたんだから」
「そ。ならよかった」
ほっと息を抜いた咲ちゃんが、視線を新聞に戻す。
さっき一瞬見せた乙女な雰囲気はどこへやら。
背もたれにどっかり背を預けて、ばさりと新聞を繰るそのしぐさは、なんていうか、オヤジだ。
こういう、ギャップがたまらないんだよな。
もう一口、薄味と言えなくもないカレーを口に運ぶ。
その途中で、咲ちゃんが新聞から顔を上げないまま呟いた。
「ミッキー。自惚れていいわよ」
「……なにが?」
「咲子さんの手料理を食べれるのは、あんただけなんだから」
ああ、そうか。
咲ちゃんってずぼらでめんどくさがりだから、好きでもない相手のために時間を割くなんて器用な真似が出来ないのかな。スキって言いたいのかな。
何度身体を重ねても、そういう、基本的なところは判らない。
だから、スプーンを置いて聞いてみる。
「咲ちゃん。好きだよ」
「……なに、急に」
「咲ちゃんは? 僕のこと好き?」
「うん。好きよ。あんたそんなことも知らないの?」
「知ってるよ。知ってるけど、聞きたかったんだよ」
「あ、そ」
「うん」
「…………あんま変なこと言うと、襲いたくなるじゃない。どうしようか?」
「願ったりだけど、ご飯終わってお風呂入ってからにして」
「あーあ、あんたってダメばっかりね。お母さんみたい」
「咲ちゃんが我がままばっかり言うからだよ」
うるさいわね、と新聞に再び視線を新聞に落してしまった咲ちゃんに苦笑いをする。
改めてスプーンを取って、もうひとくち。
ご飯に水っぽいカレーが染み込んで、さっきよりはマシな口当たりになった気がする。
これなら完食できそうだ。
喜んだのもつかの間、ジャガイモだと思って口に入れたものが、固まったままのルーだった。意外なフェイクに僕は盛大にむせた。
妙に水っぽいのはこのせいか。
ちらり、と咲ちゃんがまたこちらを窺う。
慌てて水を飲んで、聞かれてもいないのに変な所に入っちゃったと言い訳をする。
「ばかね」
にこにこと笑う咲ちゃんに何も言えなくて、僕は笑顔を崩さないように気をつけながら、目の前のカレーらしきものを正しく胃に収めていく。
咲ちゃんは上機嫌で、そんな僕をずっと見ていた。
後片付けはもちろん僕の仕事。
僕の課題の本に夢中になっている咲ちゃんの眼を盗んで、カレーの手直しを抜け目なく終える。薄味の原因はルーが溶けてないだけだったから簡単だ。
後からそれを食べてさすが私とか言った咲ちゃんに、炊事は僕の仕事だから取らないで、って言うべきかどうか、僕は結構深刻に悩んでしまったのだった。
2008/11/01
最終更新:2008年12月31日 15:20