手拭いを忘れた、と気がついたのは上級生と入れ替わりに汗臭いクラブハウスに入る直前だった。
 同級生に一言断りを入れてから、多少距離のある武道場まで面倒ながらも小走りで戻った俺の目に飛び込んできたのは、
その入り口に腰を下ろして、退屈そうに頬杖をついた剣道部の主将だった。

 剣道の強豪高で女だてらに主将を張る彼女は、この学校の名物のひとつだ。
 数少ない剣道の特待生で一年生の時にインターハイに出場、惜しくも準優勝、去年はついに優勝をもぎ取るという恐ろしい強さの上、
作り物のような美人とくれば、目立たないはずはない。

「なにしてんスか、主将」
 武道場の入口三歩手前で声をかける。
 この恐ろしくも美しい主将を目の前にして、平然と振舞える一年生は恐らく俺だけだろう。俺にはそれだけの価値と実力がある、と自負をしている。
 何せ、主将から一本をとれる一年生は今のところ俺だけだ。
 とはいえ、一本は取れても二本目は絶対に取らせてもらえないので勝てたことはない。でもそれも、今だけのこと。すぐに追い越すつもりだ。

 主将はこちらをちらりとも見ず、うーん、と気のない返事をよこす。
「あれだよ」
 くい、とあごをしゃくった拍子に、高い位置に結われていた髪の束が、ゆらりと踊った。

 視線の先をたどると、校舎が乱立したために偶然生まれた死角のような中庭に、もう一人の名物である副主将と制服姿の女が立っている。
 女が、何ごとかを一生懸命しゃべり、副主将が神妙な顔でそいつを見下ろしている。
 会話は聞こえてこないが、その様子はイマドキ珍しい告白のシーンそのものだ。

「……出歯亀っすか」
「言うね。微妙に違うけどそんなところだね」
 俺の呆れ混じりの声音に、主将がやっとこちらを仰ぎ見て苦々しげに笑った。
 そんな表情も、たまらなく綺麗だったりするから困る。
 細めた瞳は夕陽を反射してガラス玉みたいに光るし、形のいい赤いくちびるから覗いた白い歯が究極に爽やかだ。
「いいんですか」
「なにが」
「副主将。頷いてますけど。あの子、ものすごく喜んでますけど」
「そんなの。宗近の自由じゃないか」
 さてと、と勢いをつけて立ち上がる。
 頭一つ分小さい主将が、またくるりと背を向けた。
 その後ろ頭を眺めながら、出来上がりほやほやのカップルが、中庭から渡り廊下を横断して、こちらへ到着するのを辛抱強く待った。

 副主将はこの時代珍しいほどの日本男児だ。女に歩幅を合わせるなんてことは、恐らくないに違いない。
 なぜならば、普段から厳めしい顔をさらに厳しく歪めて、大股ですたすたと歩みを進めてあっという間に主将の隣に立ったからだ。小柄な女子生徒は小走りになりながらもまだ遥か遠くにいる。
 副主将は夜叉のような顔で彼女を見下ろし一言、「これで満足か」と重々しい口調で吐き捨てるように言った。

「うん」
 すぐ隣の副主将をちらりとも視界に入れないまま、主将が頷く。
「今度こそ、大事にすることだね」
 赤いくちびるから漏れた言葉は、驚くほど冷たく響いた。

 三歩離れた場所に立っていた俺にもはっきりと聞こえるほどの舌打ちを零して、副主将はまた大股で去っていく。最後に、俺の方を鋭く睨んで。
 会話の意味が判らず、呆然とそれを見送る俺の耳に、アスカぁと間延びした高い声が飛び込んできた。
 視線を戻せば、さっきの女が小走りでやっとここにたどり着いて、主将のくびにがばりと抱きついたところだった。

「飛鳥、あたしまだどきどきしてる。嘘みたい、夢みたい!」
「夢じゃないさ」
「うん。ほんとにありがと! あたしすごく嬉しい、幸せ……!」
「そうか。宗近のこと頼むよ。口べたで不器用だがまっすぐでいい奴なんだ」
「判ってるよ、任せといて!」
「……そうか」
 主将の首にかじりついていたその女には見えなかっただろうけど、彼女の横顔に惹きつけられていた俺には見えてしまった。
 いつもは勝ち気に吊り上っている眉が、複雑そうに顰められている様子。
 潤みかけた瞳が、涙をこぼさないようにか知らないがキツく閉じられて、ふう、と形のいいくちびるから吐息を漏らした、その一部始終を。

 息を吐ききった主将はぽん、と女子生徒の背を叩くと、さあ、と普段通りの凛とした声音で告げた。
「宗近と一緒に帰るのだろう? あいつは着替えが早いから、もう行った方がいいな」
「そうだね、行かなくちゃ。飛鳥、付き合ってくれてありがと、また明日ね!」
「うん、また明日」
 花がこぼれるような笑顔を見せた彼女を見送り、ひらひらと片手を振る主将の後ろ頭を、相変わらず俺は見つめていた。それ以外、視線の定めようも身の置きようもない。
 
「さて」
 短い制服のスカートを翻して、件の彼女が渡り廊下を曲がったところで主将がこちらを振り向いた。
「付き合わせて悪かったね」
 目が合ってしまった動揺を一瞬隠せなかった俺を余所に、開口一番そんなことを言う。
「いえ」
 努めて無表情に俺は答えた。
 別に付き合ったつもりはない。立ち去るタイミングを逸しただけだ。ついでに、見てはいけないものを、聞いてはいけない会話を聞いてしまった罪悪感で居心地が悪い。

「ところで特待生」
「はい……っていうか、自分もでしょうが」
「うん、そうだな……っと、コテツ?」
 名字は今着ている胴着の胸元に刺繍がしてある。まさか下の名前で呼ばれるとは思っていなかった俺は、改めて動揺をしてとっさに返事ができなかった。
 幼いころからたたき込まれた剣道のおかげで、冷静さには自信があるはずの俺がやっと返事ができたのは、たっぷり五秒後のことだった。五秒あったら、この恐ろしく強い女との決着はついているだろう。

「……です」
「覚えやすくていい」
 申し分なく爽やかに、白い歯を零して主将は笑った。

 ――それは、副主将の名前が「ムネチカ」だからですか。

 喉元まで出かかった問いをなんとか飲み込んだ。
 今その名前は地雷だと、素早く判断をしたからだ。

「虎鉄。時間があったら自主練習に付き合ってくれないか」
「はい」
 是も非もなく頷いてから、ふと思いいたって言葉を付け足す。
「ああ、でも。今の状況の、説明をしてくれるなら」

 たかだか一年坊主の生意気な発言に、一瞬だけ両目を見開いた主将が鮮やかに笑った。
 いいとも。嫌がられようとも語ってやろうじゃないか。
 先ほどの塞ぎこんだような溜息から一遍、目に焼きつきそうなほどの華やかさで笑った彼女の明るい表情に、俺も嬉しくなる。胸が高鳴る。次の瞬間に、張り裂けそうに傷む。
 紛れもなく、これは恋だ。
 とんでもない高根の花に、俺は情けなくも恋をしている。
 時間をかけたら何とか手に入る可能性があるかもしれないけど、間違いなく一生かかってしまいそうな高値の花に。

 今だって、小走りに追いついて手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、俺はそう出来ない。そういう距離があるのだ。

 手は伸ばさないけれど、遅れずにあとに続いて扉をくぐった。


「腐れ縁という言葉を知っているか」

 武道場に入った主将が真っ先に口にしたのは、その言葉だった。
 ええ、もちろん。
 素足の裏を板張りの道場にぺたぺたと張り付けながら、俺は答えた。
「私と宗近は、まさにその腐れ縁というやつなんだ。イトコ同士、家が同じ敷地内、同い年、通う道場が同じ――まァ、敷地内の祖父のところなんだが」
 それは知っている。二人の祖父は、この界隈では有名な剣道の道場の師範だ。
「通う高校まで同じになった。必然だな、私たちも特待生だから」
「はい」
「子供のころはむしろ私の方が力が強かったんだ。あの宗近を、よく泣かせていたよ。
 昔から、お互いだけがライバルだった。……それは、恋愛感情に酷似している」
「ああ……はい、判ります」
 痛いほどそれはよく判る。自分自身がそうだからだ。
 強さへの憧れが強いほど、強いものに惹かれてやまない。相手が同性であってもそうだ。異性だったらなおさら、錯覚のように恋心を抱くのも無理はない。

 中学の頃は、近隣の同世代に敵などいなかった。
 特待生として入学したこの高校の、同学年も同じく相手にならなかった俺から一番最初に鮮やかに一本を取っていったのはこの女だった。
 その衝撃は未だに忘れられない。
 背もさほど高くはなく、必要な筋肉もついていないような細い腕が振り下ろした竹刀は、疾風のような速さで俺の面を打ちつけたのだ。
 油断をしていたのだ。相手が主将とはいえ女だったから。
 「天才」の称賛を受け続けていた俺は、とっさにそう判断をしてもう一戦を申し入れたのだ。

 改めて対峙したこのひとの、一戦前には気がつかなかった気迫に、数年ぶりに後ずさりそうになった。
 一瞬の気の緩みをつかれて今度は見事な突きを食らい衝撃的に二本目を奪われた。俺の長く伸びた鼻は音を立ててぽきりと折れたのだった。

 それからだ。この女のことが気になって仕方ない。これは、恋愛感情に酷似している。

 それでも俺が恋心を憧れとして消化していたのは、あの無骨な副主将の存在があったからだ。
 割って入ってはいけない空気が、二人の間には流れている。
 主将は副主将に全幅の信頼を寄せているし、主将に下心を持って近づく輩には副主将が無言の圧力を与えてた。肝心なところでぼんやりしていそうなこの女の、防波堤を務めているのだと思っていた。

「ただ、問題があった。私たちはイトコだ」
「……それが? イトコは結婚だってできるでしょう?」
「母親同士が、双子なんだ。普通のイトコより近しい。そして血が濃くなると奇形が生まれると主張する祖父に逆らえる人間が我が家にはいない。
 幼い頃から宗近だけは駄目だと言い含められて育った。私はそれを、従順に飲み込んだ。おかげで宗近に対する恋愛感情は持ち合わせていない。
 だけど、」

 言葉を切る。
 息をのみこみ、ゆっくりと吐きだす。
 一連の動作がスローモーションで行われている。余計な緊迫感を、俺に与える。
 まるで、対峙をしているかのような緊張した空気が、がらんどうの武道場を支配していた。

「宗近は、違った。そういうことだ」

 主将が自分の竹刀を取り出す。ぶん、と一度だけ振りおろした。
 柄を握り締めるこぶしが、必要以上に力んでいる、ように見えた。
 その一連の行動が何を意味するのか、他人の気持ちに敏くない俺には全く理解が出来ない。

「……まさか副主将に女の子あてがったんですか?」
「いくら私でもそこまではしないよ。宗近は目立つから、好きだと名乗りを上げる女の子は後を絶たない。
 付き合っているのかと聞かれればNOと答えて、取次ぎを頼まれれば断る理由がない。
 近くで待っててくれと頼まれたのは、さすがに初めてだけど」
 言葉を切って、主将はくるりと振り返る。
 素足が板張りの床にこすれて、きゅ、と高い音を立てた。
「私の取次ぎだと宗近は断らない。『忙しいから相手できないし、好きになれないかもしれないけどそれでもいいなら』と但し書きをつけて、交際を始める。その言葉の意味を、女の子は後に思い知る。
 仲良く一緒に帰るけれどそれ以上のことはしない。たとえば、電話をかけたりメールを送ったり、休日に会ったりとか、普通の恋人同士のような関係は望めない。だって宗近の興味は剣道にしかない。宗近が自分から話しかけることすら滅多にない。
 無関心は実に苦痛だよ。絶えられなくなった彼女が自ら離れていく。
 別れたという噂を聞いて『私なら大丈夫』と名乗りを上げる女子が私に取次ぎを頼む。
 高校に入学してからの二年間、これを繰り返してきた」

 俺の顔をまっすぐに見つめたまま、主将は一息に言葉を吐いた。
 作り物のように整った顔のその表情は、擦りガラスから差し込む茜色の西日が逆行となって窺えない。
 泣きそうな顔をしていればいい。
 俺はそんな酷薄なことを思った。
 淡々とした声音で、こんな残酷な事情を話すのになんの感情も浮かべてないような、機械のような人間じゃないと信じたかったし、何よりも俺がその顔を見たかったからだ。

「宗近にも相手の女の子にも、私は酷いことをしている。宗近は私への当て付けで女の子と付き合う。私はそれを知っているのに取次ぎを断らない。
 こんな利己的な私など早く見限ればいいのに、宗近にはそれができない。関係が、距離が、血が、濃すぎるせいだ」

 ほう、と逆光でも判るほど大きな深呼吸をして、主将は肩をすくめた。

「以上、状況説明おわり。しゃべりすぎてしまったね、虎鉄は聞き上手だ」
「主将、質問です」
「ん?」
「自分のことを思い続けている男が、一番身近にいるのはどんな感じですか」
「…………少しだけ息苦しい、かな。だけど宗近は家族だから」
「家族」
「そう。気兼ねが要らないしあれでいて頼りになるんだよ」
「ブラコンってことですか」
「……そうかも、しれないね」

 言い得て妙だ、と呟いた主将は、すぐに声を漏らして小さく笑った。
 ぴりりと張っていた空気が一瞬にして緩む。
 俺もつられて、口元だけで笑った。

「さあ始めようか。胴衣を用意して」
「あ、もうひとつ、いいですか?」
「うん?」
「主将が恋人を作ったほうが早いと思うんですけど。副主将よりもむしろ目立つでしょうが」
「ああ、うん……目立つとモテるは同義語でないらしくてね。言いよってくる男がいないんだ。まあこんなじゃじゃ馬のような女、相手にしたくない気持ちも判る」
「違います、副主将が牽制してるんですよ」

 俺の言葉に、主将は小首をかしげた。どうやら判っていないらしい。
 さっきもただ隣に立っていただけの無害な俺を、副主将は両眼を見開いてわざわざ睨んでいった。
 俺じゃなければ竦み上がっていたかもしれない。
 幸い、剣道を教わっている親父が同じような眼をするので、俺はさらりとそれを受け流せた。下心はおそらく見破られてはいない、ハズだ。
 その一連の作業は、主将に見つからないように行われているわけか。ご苦労なことだ。
 一人深く納得をする。

「主将は自分から行動しないと」
「……私は自分より強い男じゃないと駄目なんだ。興味が持てない」
 拗ねた子供のような声音。そんな一面を初めて目にする。
「そんなの。副主将以外いないじゃないですか」
「そのとおりだ」
「副主将には彼女を作れっていうのに?」
「うん。昔から私が我がままを言う係で、宗近が従う係だった」

 ひでぇ。思わず漏らした声に、主将が声を上げて笑った。
「そう。私は酷い女なんだ。宗近が実に気の毒だと思わないか」
 笑いながら、胴衣を取り出して着々と身につけていく。
 俺もそれに倣いながら、思います、などと軽口を叩く。主将がまた笑う。
 今まで見ているだけ、一方的に声をかけられるだけだった主将が、こんなにも近くで笑っている。気が緩んでいたと、自分でも思う。

「じゃあ」
 ほんとうに気が緩んでいた。後から思い出しても、赤面が出来てしまう。
 不遜な態度の新入生。クールな天才。俺が周りに与えてきた印象は、それらのはずだった。
 まったく間逆の言動だ。

「俺が一本取ったら、俺と付き合ってください」

 さらりと言い捨てて、手拭いを巻きつけた頭の上に面をかぶり面紐をきつく引く。身が引き締まる。
 慌てて面紐を引いた主将も同じのようだった。
 双方の呼吸が深く一定になる。
 姿勢を正して対峙する。剣先を交えて、間合いを取る。

 だけど違和感を覚える。
 主将の気が乱れている、と直感的に悟った。

 気勢を発する。びく、と珍しく主将の肩が震えた。
 その隙に、一歩踏み込んで面を打ち据えた。

 一瞬の沈黙の後、竹刀を取り落とした主将がうめき声を上げてうずくまる。
 小手を纏ったままの両腕を、頭頂に当ててさらに呻く。俺は慌てて主将に駆け寄って膝をついた。
「すいません! 俺、主将相手だと力の微調整とかできなくて!」
「しなくていい……!」
 あったーとかてててとか意味不明な言葉を歯の隙間から漏らしながら、面紐を解いていく。
 頭を振って面を外した主将の瞳は、痛みからか真っ赤に染まっていて、俺の罪悪感をさらに煽った。

 自分も素早く面を取り外して、主将に改めて向き直る。
「……大丈夫ですか?」
「相当痛い。が、大丈夫だ。身長差の恐ろしさを改めて思い知ったよ」

 ――宗近は胴が得手だから。

 さらりと言い切ったあとに、自分でその言葉の意味に気がついたのだろう。
 一瞬神妙な顔をして、すぐに作り笑いになる。
「虎鉄が、妙な冗談をいうから油断をした。あれは卑怯だ」

 似合わない作り笑い。
 このひとは、自分で気が付いていないけれど結局、副主将の隣で一番綺麗に笑うのだ。
 部活の合間中、スキあらば盗み見ていた自分が言うのだから間違いない。
 
「冗談じゃ、ありません。本気です」
 笑みを消した主将が、両眼をゆっくりと瞬かせる。どうやら頭のほうの処理能力が追いついていないらしい。
「主将」
 頭のてっぺんに乗ったままの腕を掴んで引き寄せる。
 ふらり、と細い身体は簡単に傾いだ。胴胸に、汗の浮かぶ主将の頬がぺたりと張り付いた。

「こここ虎鉄!?」
「副主将がいるから諦めてきたけど、一目ぼれだったんですよ。そんな事情聞いたら、つけ込んででいい気がするじゃないですか」
「よくない、よくない!」
 腕の中で主将が小さく暴れているが、気にせずに肩を強く抱く。
「主将より強い男じゃないとダメなんですよね? 俺、今一本取ったじゃないですか」
「偶然だ!」
「でももうすぐ追い越す予定だし」
「……っ! ~~っ!!」
「あと二月ぐらいで。俺、打倒主将目指してめちゃくちゃ努力してますよ」
「努力とは己でアピールするものではない……っ!」
 最後にもう一つ拳に力を込めた後、呆れたように主将はぐったりと息を抜いた。
 それをいいことに、俺は朗々と言を続ける。

「それに、副主将の牽制に勝てるの、俺だけだと思いません?」
「………………大した自信だよ、まったく」
「だって俺成長途中だし伸びしろ残してるし。第一、男女の差異は埋められないんだから女子には本気出すなって親父の教えだし」
「それで、私に二本取らせていたわけか?」
「いや、主将は例外っスよ。俺が本気出せる唯一の女子。でもすぐに追い抜きます。
 だから、」

 ぐい、と肩をひいて、両頬を真っ赤に染めた主将と向き合う。

「俺と、付き合いませんか」

 痛みに両目を潤ませて、羞恥に頬を染めて、動揺に肩を震わせて主将が俺を見つめる。
 今まで、こんなに真剣なまなざしをこのひとから受け取ったことがなかった。
 俺の胸も、緊張で高鳴っている。
 主将に聞かれてしまいそうだけど、同じように緊張をしているハズの主将の鼓動が聞こえないということは俺のも漏れているわけではなさそうだ。

 数秒も続いた沈黙に耐えかねて、だけど続ける言葉も見つからず困ってしまった俺は、とりあえず想いの丈を行動で表すべく、尖った顎に小手を装備したままの手を添えてこちらを仰がせた。
 そのまま、瞳を閉じて顔を寄せる。
「……っ! ま、て……!」
 くちびるが触れ合う寸前のところで、正気に戻った主将が両腕を突っ張って俺を拒否する。

 ち。

 聞こえるほどの大きさのわざとらしい舌打ちに、額までを赤く染めた主将が眉を吊り上げた。
「まだ、何も言ってないうちに手を出すやつがあるか!」
「なら早急に返事をください。主将が好きです、アンドユー?」
「あ、う……判らない」
 するりと、俺から逃げるように身を滑らせた主将が、ぺたん、と板張りの床に越を下ろした。
 その様子に平素の威厳は見当たらず、まるで小さい子供のような座り姿だった。

「虎鉄は強い。じきに私を抜いてしまうだろう。それは認める。でも好きかなんて聞かれても判らない。だってさっきまで、お前には嫌われてると思ってたんだ」
「は? なんですかそれ」
「お前、女に負けたことなんかないだろう?」
「ええ。主将だけです。でもそんな理由で嫌ってたらただの負け犬じゃないですか」
「それだけじゃない。たまに視線があうと、睨むような目をしていた」
「俺的にはアツいまなざしだったんですが」
「いいや、睨んでいたぞ」
「だから誤解です。好きだって言ってるじゃないですか」
「何で告白してる立場の人間がそんなデカイ態度なんだ!」

 ついこの間まで中学生だったくせに生意気な、とかなんとかつぶやいた主将は、頬を膨らませてぷい、と顔を背けた。
 他人を子ども扱いしている高校生のやる行動ではない。

「じゃあ今日は返事いらないっス。今度俺が勝ったら付き合うって約束してください」
「お前、実は馬鹿だろう」
「嫌なら負けなきゃいいんですよ。当分負けるつもりないんでしょ?」
「当り前だ」
 赤いくちびるを少し尖らせて、主将は大きく頷いた。
 頷いたってことは言質取ったってことでいいだろう。都合よく解釈をさせてもらう。
 納得した俺は途切れることなく持前のずうずうしさを発揮した。

「とりあえず今日の一本の報酬に、名前で呼んでいいですか?」
「え?」
「飛鳥」
「よよよ呼び捨てなど言語道断だ! 一年坊主だろう!」
「なら――――飛鳥、先輩。これならいいですか。二年の先輩も呼んでるし」
「好きにしろ、もう」
 今度は子どもの我がままに呆れる表情だ。
 こんな短い間に色んな顔をするこの人から、目を離したくないしもっと色んな表情をさせたいと思う。
 まるで、好きな子ほど虐めてしまう小学生男子のようだ。

「飛鳥先輩」
「……なんだ」
「飛鳥先輩」
「……」
「飛鳥先輩、飛鳥先輩」
「う、うるさい、呼ぶな。やっぱりだめだ」
「さっき飛鳥先輩がいいって言ったじゃないですか。朝令暮改は横暴ですよ飛鳥先輩」
「だめだだめだ! 気恥かしくて耐えられん。次に呼んだら素手に小手を入れるぞ!」
「一方的な暴力は反対です、飛鳥先輩」
「虎鉄!」

 澄んだ声で俺の名を怒鳴りながら、竹刀を振り上げて立ちあがった飛鳥先輩に、それからたっぷり五分間も追いかけられた。
 防具をつけたままということもあり、疲れ果てて床にへたり込んだ所に、下校を促すチャイムが鳴り響いて、帰るぞ、とまた怒鳴った。
 帰ってからまた爺様のしごきがあるのに無駄な体力使わせて。
 愚痴る彼女に、俺だって親父のしごきあるしと反論をしたら、ローキックを食らった。
 足技など、剣士にあるまじき行為ではないのか。


 それから。
 たっぷり二週間。飛鳥先輩は俺との対決をのらりくらりと避け続けた。
 避けるがいいさと開き直ってそれを受け流し、俺は親父に倍のしごきを要求し、素振りの回数も増やし、朝連も三十分早く参加をし、地道な努力を重ねた。

 その結果。三週間後に副主将の愚鈍な取り計らいで実現した一戦に、俺は見事勝利した。人生最高に劇的な一戦だった。
「飛鳥先輩」
 部活動中は一応「主将」と呼び続けてきたが、改めて名を呼んでみた。
 周りの人間がぎょっとして、特に審判を務めていた副主将の無表情が凍りついたような気がしたが、天才はそんな瑣末なこと、気にしないのだ。
「ああ、うん。強くなったな、驚いた」
「油断か動揺か手抜きか、どれもしてないですよね?」
「…………さあね、言わないよ」

 しれっとした声音の表情は、どんなものだったのか。
 飛鳥先輩は面を外さないままだったから、結局それは判らないままになってしまったけど、恋人の称号を手に入れた今となっては、どうでもいいことだった。







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最終更新:2010年05月15日 00:52