「何度してもしてもし足りなくて、俺ってどこかおかしいのかな」

 総一郎がそんな可愛いことを言っていたのは、確か付き合い始めて二年がたったころだった。
 その後の長い年月がすっかりと彼を落ちつかせてくれたようで、近頃の総一郎はがっつくような求め方をしなくなった。
 夜眠る前に、予定調和のセックスばかりをしている。はっきりと言ってしまえばマンネリなのだ。
 時々それがとても、よくないことのように感じてしまう。
 この五年で、自分は随分と欲張りになったと茜は思う。
 彼がただそこにいてくれればいいと、それだけを願っていたはずなのに。



 遠慮がちな物音で意識が浮上した。
 薄暗い見慣れた室内の中を、ほのかな明かりが照らしている。
 それがノートパソコンのディスプレイのものだと気がつくのに、数秒を要した。
 先ほどから聞こえている規則的な物音は、キーボードをたたく音だと理解するのには、さらに数秒が必要だった。

 ぼやけた視界に映る背中は紛れもなく恋人のものだ。
 浅尾、と声をかけて、唐突に今日が金曜であること、彼がアルバイトの後に寄るとメールをよこしていたこと、
だけど自分が帰宅してすぐにシャワーを浴びたあとの記憶が全くないことを思い出した。
 総一郎の顔を見るまで起きていようと思っていたのに、相当に疲れていたらしい。
 いまだ続く暑さが、茜から体力と食欲を奪っている。
 去年までは総一郎に合わせて規則的に食事をとっていたのだが、今年に入って研究が忙しくなってしまったらしい彼は、
まめに顔を出してくれるものの長い時間を一緒に過ごせなくなった。

 そのこと自体を責めるつもりは毛頭ない。
 研究は化学を志す者にとって大事なことだ。寝食を忘れるほど没頭すべきなのだ。
 許せないのは、それを寂しいと思う自分自身だ。

「あ、ごめん……起こした?」
 総一郎がゆっくりと振り向いてくれる。
 彼からは自分の寝ぼけた顔が見えているのだろうか。こちらからは逆光になってしまい、まったく総一郎の表情は伺えない。
「ん……別にいい。……電気は、」
「ああ、いいよ。十分見えるし」
「だめだ……目がわるくなる」
「そしたら、センセイと同じ眼鏡にするよ」
 彼はいつもそんな軽口を言う。
 近視がどれだけ不便か知らないから、そんなことを言えるのだ。

 もぞもぞと布団から左手を出して、そっと総一郎の洋服を握った。
 どうしてそんな子供っぽい行動をとったのか、よく判らない。
 総一郎はその温かい手を、茜の左手に重ねてぎゅっと握りしめてくれた。
 温もりに安堵する。離したくなくて、その手を引き寄せ頬にすり寄せた。
 センセイ? と、穏やかな声がする。
 うっすらと目をあけると、思いのほか総一郎の顔が近くにあった。
 らしくない茜に驚いているのは、自分だけじゃないようだ。

 多分、自分は寝ぼけているのだ。総一郎もそれを確認するために、茜の顔を覗き込んでいるんだと思う。
 寝ぼけついでに、ずっと思っていたことを言ってしまおう。

「……私は、いつまで君の先生なんだ?」
 驚いたように犬のような両の瞳を見開いて、総一郎が押し黙った。
 その、形のいいくちびるを薄く開いて、慎重に、言葉を選びながら総一郎が返事をよこす。
「俺が浅尾じゃなくなったら」
「浅尾は浅尾だろう?」
 余りに当然なことだ。さらりと口に出してから、遅ればせながら総一郎が何を求めていたのか理解をした。
 彼はその返事をどう受け止めたのか、一瞬だけ浮かべた困ったような表情をすぐに苦笑いの微笑に変えて、視線を手元のノートパソコンに戻した。

 一度だけ懇願されて名前で呼んだ日のことを思い出した。
 柄にもなく緊張をした。
 どうにも口に馴染まなくて、やっぱり呼べない、と思ったまま今日まできてしまった。
 ついでに、あの衝撃的な愛の告白の、夕焼けに染まった実験室を脳裏に描く。
 あそこから始まった。
 何度も手を握られて、抱きしめてもらって、髪を撫でられて、一緒にコーヒーを飲んだ実験室。
 彼がすねて見せたり、自分が感情を露にさせられり、贈り物をしたり、言い争いだってした。
 懐かしい思い出の場所だ。
 途中から記憶はすり替わって、この部屋での出来事が主になる。

 はじめてのキスは玄関で。極限に驚いた彼の顔を今でも覚えている。
 はじめて、総一郎に食事を作ってもらった日のことも。
 彼を殴った日に、コーヒーを入れてもらった。本気で手を挙げたのは後にも先にもあの時だけだ。
 総一郎の18の誕生日に、一緒に朝を迎えた。
 それ以来何度も何度も、求めあってセックスをした。
 大学に合格して、高校から彼がいなくなって。こんなにさみしくなるとは予想だにしていなかった。
 それからも同じ時を過ごせた今日までに、感謝している。
 あまり喧嘩はしなかった。彼のこの優しさに、助けられてきた。

 だけど、時々苦しくなる。
 彼の未来を奪っていいのか、と。
 ほんとうに、未来を重ねられるのか。間違った選択じゃないか。
 だって総一郎はまだ、たったの21歳なのだ。
 五年間を共にして今さらだけど、自分はいつか彼の邪魔になってしまうのではないかと、最近特に思う。

 教師になる、と彼は言った。自分のような先生になりたい、と。
 それだって、嬉しくてくすぐったかったけれど、自分の存在が彼の選択肢を狭めたのではないか、と胸を痛くした。


 もしも、万が一彼と離れてしまったら、自分はどうなるのかとふと考えた。

 もう一度、他の誰かとあんな風に一から始めるなんて到底無理だと思うし、総一郎との思い出を上書きして塗りつぶしてしまうぐらいなら、孤独に耐えた方がいい。
 この温もりは、誰にもすり替えられない。

 そんな後ろ向きなことを考えたら、得体の知れない感情に流されそうになり、茜は慌てて眼を閉じた。
 パソコンの終了音のあとに、ぱたん、とふたを閉じる音がする。
 次の瞬間、繋いだままのものと逆のてのひらが、探るように茜の額をなでた。

 満たされている、と強く思った。だけと次の瞬間には潮が引くようにぽっかりと胸ががらんどうになってしまった。
 胸が痛い。愛していて、愛されているはずなのに、どうにも歯車がうまくかみ合っていないような違和感がくすぶっている。

「センセイ?」
 顔をのぞきこまれながら柔らかく呼ばれて、また満たされてすぐに虚しくなった。
 珍しく心が不安定になりすぎていて苦しい。こんなのはほんとうの自分じゃない。どうしたというのだろう。
 上体を持ち上げくちびるをぶつけて、彼を求める。
 ちょっと驚いたように身を震わせた彼が、それでもゆっくりと熱い舌を絡ませて上手に呼吸と意識を奪ってくれる。
 たっぷりとお互いの舌を味わいつくして、息が苦しくなったころに総一郎は名残惜しげに顔を離して、ほう、とためいきを落とした。

「どうしたの? なんか嫌なことでもあった?」
「……べつに?」
「疲れてる?」
「いいや」
「じゃあ、お腹すいてるの?」
「すいてない」
「眠い?」
 まるで子供扱いだな、と苦笑する。
 言われてみれば、少し眠いような気がしないでもない。
「なぜそんなことを聞く?」
「や、どうしたのかなーと思って」
 どうもしてない、と小さく呟きながら、またくちびるを重ねる。

 ――なにか思うところがあるのは君のほうじゃないのか。
 重なった温もりを引きはなして、よっぽど言ってしまおうかと思った。
 それができなかったのは、キスが心地よすぎたせいと、総一郎の思うところが茜にとって望ましいものではなかったときに、受け止める自信がないせいだ。
 自分はほんとうに弱くなった。
 彼がどこを向いていても手放したくないなんて、ただの醜い執着だ。それは愛というものなのか。
 くちびるが、体温が、かかる吐息が心地よすぎて離れられないだけじゃないのか。
 違うと言いきれない自分の弱さが、どうしようもなく嫌になる。

 今は何も考えたくない。厄介事は後回しにして、今はただこの温もりに身を預けてしまいたかった。
 キスには応えてくれるけれど、背に回った手はそれ以上動いてくれない。
 焦れったくなって、洋服の裾から手を差し入れた。
 顔を離して、くびすじに口づける。
 ぺろり、と煽るように舐めあげると、総一郎の温かい手がそっと背筋を撫で上げて身体がすぐに熱くなった。
 してほしい。抱いてほしい、訳がわからなくなるほどめちゃくちゃに、愛してほしい。

 心の中だけで呟いたはずなのに、もしかして声に出していたのかもしれない。
「する?」
 色っぽく耳元でささやかれて、皮膚があわだった。
「…………うん」
 自分でも驚くほど素直に頷くと同時に、服の間から素肌に熱い手が触れる。
 体温が一気に上昇した。回転を始めていた思考が白く濁る。
 腹を撫でていた総一郎のてのひらが、すると這い上がり乳房を包んだ。指先に掛かる絶妙な圧力が、快感となって全身を駆け巡る。

 なにかを試すように、総一郎のくちびるが茜のそれに軽く触れては離れを繰り返す。
 追いかければ浅く触れて、すぐに離れてしまいもどかしい。
 焦らされているのだと理解したら、生意気だと軽く苛立った。
 いい加減じれったくなったころに突然、熱い舌が割り込んできて口内を好き勝手に動き回った。
 かと思ったら、あっと言う間に寝間着のボタンを外される。
 ずいぶんと手慣れたものだと関心をした。
「センセイ」
 キスの合間に囁かれる声は、間違いなく茜を愛しく思う音で安堵した。

 彼はほんとうに駆け引きが上手くなってしまった。
 嫌味なほど焦らしたかと思えば、するすると淀みない動きで茜の気持ちいいところを的確に攻めて、
熱っぽく耳元で囁いて、あっという間に自分を骨抜きにしてしまう。
 文字通り、骨抜きだ。
 まだキスと軽い愛撫だけなのに、甘いしびれが腰に響いて上体から力が抜けた。

 ぐんにゃりとしてしまった身体から身を離した総一郎が、すばやくシャツを脱ぎ棄ててまた茜に向き合った。
 寝間着の前を開かれて、上半身が無防備になる。
 気恥ずかしくなって、両腕で胸を隠すような姿勢をとったけれど、すぐに解かれてしまう。
 いまさらじゃん、とからかう様な声音で囁かれた。
 確かに今更だ。だけどその声がまた茜の羞恥を誘う。

 むき出しにされた乳房を包みこまれて、くちびるが落ちてくる。
 湿った舌先が、立ち上がりかけた先端に軽く触れた。それだけの刺激で、びく、と肩がふれる。
 含み笑いを漏らした総一郎のくちびるが、乳首を挟みこんで吸い上げた。
「あっ……ん、」
 声が漏れる。その甘さに、また恥ずかしくなる。
 こんなことぐらい、と自分に言い聞かせても、湧き上がってくるぞくぞくとした快感に逆らうことはできない。

 総一郎は伸ばした舌を優しく慎重に、回すように使ってゆっくりと硬くなった頂きを転がしていく。
「やっ……」
 何が嫌なんだろう。自分が判らない。
 優しすぎてじれったい。もっと激しくしてほしいと、心も身体も思っているはずなのに、そんなことは絶対に口にできずに反対の言葉ばかりが出てきてしまう。
 総一郎の肩に両手をおいて、逃げるように身をよじらせた。
 指先に伝わる彼の体温に、また興奮する。
 その手を滑らせて、肩甲骨を撫でてうなじをたどり、後頭部までたどり着く。
 かき抱くように総一郎の頭を抱き寄せれば、乳首をきつく吸われて身体が浮き上がった。
「んぅ!」
 とっさに逃げようとした身体を押さえ込まれて、快感をやり過ごせずに思考が白くなる。
「あっ、や、待て……んん!」

 拒否の声などまるで届かないといったように、吸われた先端を熱い舌が触れてまた腰が揺れる。
 反対の先端も、少しこわばった指で強くつまみ上げられた。
「浅尾っ……ふ、ぅん!」
 全身がぞくぞくする。くすぐったい、逃げ出したい、でももっと欲しい。
 自分の中に矛盾したいくつもの感情がうずまいて、形になる前にすべて解けて消えてしまう。

 するりと衣服をすべて取り払われる。心細さに心がざわついて、奇妙な興奮が湧き上がってきた。
 足の間に割りいれられた総一郎の指先が、敏感な部分を刺激する。
 秘裂を押し広げられ、むき出しにされた花芽を指の先でちょんと弾かれて、息が詰まる。
 もうどこが感じているのかよく判らない。
 とにかく総一郎に触れられているところすべてが気持ちよくて――気持ちよすぎて泣きたくなる。
 自分の感情が制御できない。
 真っ白になる。また意識が飛んでしまいそうだ。
 そう思ったとたんに、攻めが止まって現実に引き戻される。

「センセイ」
 いやだ、そんな風に呼ばないで欲しい。
 愛されているのだと思ったら、今以上に彼のことを愛してしまう。
 それは現在の自分にとってとてもとても、苦しいことだ。
 堪えるように指先に力を入れて、総一郎の気を引いた。薄闇のなかで、なに、と彼が小首をかしげたのがぼんやりとした視界でも判った。
「……も、……」
 その先はとても口に出せなくて、ゆるりとくびを振った。
「もういいの?」
 問われて素直に頷く。暗闇でもその仕草を認めた総一郎が、でも、と小さく言った。
 そのまま彼は上体を折り曲げ耳元にくちびるをよせて、間近で低く囁いた。
「まだ、だめ」
 言い切ると同時にぺろりと耳を舐められて、身体が跳ねた。
 くちゃり、という粘着質な音が、ダイレクトに脳髄に響く。
「あっ、ん……っ!」
 咄嗟に逃れようと身をよじる。無防備になったくびすじに吸いつかれて、また全身が震えた。

 その間も、総一郎の指は柔らかな肉壁をこすり上げて、敏感な場所を刺激する。
 いつの間にか二本に増えたそれは茜の体内でばらばらと蠢いて、どんどんと自分を追い詰めていく。
「あ、ああっ……ん、」
 もう声が抑えられない。彼の肩に置いた指先に力がこもる。
 体温が熱い、と思った。自分の身体も、きっと平素からは考えられないぐらい熱くなっているだろう。
 そう考えた次の瞬間、声も出せないほどの波がやってきた。
 ――息ができない、苦しい、感じすぎて苦しい。早く、もっと、もっと……!

「んん!」
 全身がびくりと痙攣し、あっけなく絶頂が訪れてやっと息を吐き出せた。
 指の動きを止めた総一郎が、ゆっくりと上体を起こした。
 呼吸が整わないままうっすらと瞳をあけると、間近に彼の両目があった。
 総一郎がへら、と笑う気配がする。
 降りてきたくちびるを大人しく受け入れながら、いいようにされている自分を改めて不思議に思った。

 短いくちづけが終わり、茜がぼんやりと視線を彷徨わせながら呼吸を整えている間に、総一郎が手早く挿入の準備を終えて戻ってきた。
 こちらからも何か仕掛けてやろうと考えていたのに、手際の良さに少し驚く。
 恨み事を言う前に、準備が整ったそれをちらりと視界に入れたらどうしようもなく欲しくてたまらなくなった。
 太ももに掛けられた手をそっと振り払って、上体を起こす。
「……なに?」
 問いかけを無視して、総一郎の肩を押してから圧し掛かるように彼にまたがると、そっと彼自身に手を添えて先端をあてがった。
 そのままゆるりと腰を落とす。目の前が白むほどの快楽が、背筋を駆け上がって脳天へと抜けた。

「あっ……あぁ、」
 のろのろと、総一郎が自分の中に分け入ってくる。少しでも長く感じていたいのに、早くそれが欲しくて最奥がうずく。酷い矛盾だ。
 動きが緩慢なせいで、入口がひくひくと物欲しげに蠢いているのが自分で判ってしまった。
「ぁ、ん」
 媚びるような嬌声が漏れたと同時にやっとすべてが収まる。両腕を総一郎の首に回して、顔を覗き込む。
 切なげに両目を細めた総一郎が、そのまま目を閉じてくちびるを重ねてきた。
 腰を軽く揺らすと、重なった口のしたから総一郎の熱い吐息が漏れるのが、たまらなく愛おしいと、茜は思った。

 しばらく密着を楽しんだあと、唐突に肩を押されて上体をベッドに沈みこまされた。
 なに、と思う暇もなく、総一郎の腰が激しく動き、再び頭が真っ白になる。
「あ、あ……、あさおっ……!」
 少しだけ残った理性が、彼を名前で読んでみようとしたけれど口をついて出たのはやっぱり「浅尾」だった。馴染み過ぎていて、こんな状況でとても違う名前など出て気はしない。
 喘いでいるうちに、何も考えられなくなった。
 ただ喉を反らせて甘い声をあげ、強すぎる快楽にさらわれないように総一郎にすがりつくだけだ。
「……く、センセ…も、いい?」
 問われても返事もままならない。やっとの思いで、嬌声の合間に「うん」と紛れ込ませると、総一郎の動きがますます激しくなって苦しくなる。
 苦しいのは肺なのか、胸なのか、判らないまま身体を揺さぶられ続けて、妙に泣きたくなった。

 総一郎が、自分の肩に顔をうずめて低くうめいた。自身の内部でどく、どく、と彼が脈打つのが遮蔽物越しでも判った。
 終わったんだ、という安堵と同時に妙な虚無感が襲ってくる。
 それを誤魔化すように茜は、総一郎の頬にそっと手を添えてキスをねだった。



 心地よいまどろみから意識を浮上させると、隣に恋人の姿はなかった。
 代わりに枕もとの携帯電話がぴかぴかと光り、メッセージの受信を知らせている。
 メールは案の定、総一郎からだった。
 朝一番で実験があるから、起こさずに出ていったこと。時間ができたらまた来ます、と簡潔な連絡だ。

 一読をすると、携帯電話を閉じて放り投げた。再び枕に顔をうずめる。
 不覚にも、寂しいと思ってしまった。そういう感情は、己にはないと思っていたのに、総一郎に甘やかされているうちに、ずいぶんとわがままになってしまったようだ。
 そばにいてくれないと、何もかもが駄目になってしまうような気がする。
 一人で日常を送るのがやっとの体たらくだ。
 近頃どうしてこんなに不安になるのか、茜には何となく判っている。

 ――原因は自分だ。
 この関係を終わらせるべきだという自分と、だけど総一郎と離れたくないもう一人の自分がせめぎ合っていて苦しいのだ。
 じゃあ決断を総一郎に委ねてしまおうと思ったころから、彼の態度が少しずつ変わってきたように思う。
 考えすぎ、よくないマイナス思考だと自分に言い聞かせ、なんとか前を向こうとしたところに、忙しいからあんまり会えなくなるかも、と彼が言い出した。
 結構じゃないか、と思ったはずなのに、だけど実際会えなくなると妙な不安が自分を襲う。
 例えば、総一郎が自分と距離を置きたがっているのではないかという妄執。
 若者らしく、もっと手軽な恋愛を楽しんでみたいのではないかという勝手な想像。
 未来ある総一郎に、自分の存在はきっと重すぎる。
 彼が自分のそばにいるのは、ただの惰性か、もしくは責任感からではないかという憂い。
 でもそれを言い出す勇気も強さも、自分にはない。


 同じことを何度も考えた。飽きるほど考えたのに、今日もまた無限回廊から抜け出せない。
 思考の堂々巡りをしているうちに、一度開いた瞳が重くなってきてしまった。
 そろそろ起きて、持ち帰りの仕事をしないといけない。
 なのに身体が動かない。
 あと少しだけ、眠ってしまおう。
 眠ってしまえば、何も考えずに済む。
 もしかしたらまた、起きたらそこに総一郎がいるかもしれないし、夢の中であの温もりに出会えるかもしれない。

 ああ、せめてそんな幸せな夢が見たいと願いながら、茜は意識も思考も放棄した。



2011/01
最終更新:2011年01月30日 22:09