――秋の気配だ。
浅尾総一郎は唐突にそう思った。
通いなれた道をぶらぶらと歩く道すがら、普段は気にも留めない自動販売機の中身に「あたたかい」が加わっていると気がついたからだ。
もう10月なのだ。今年が終わるまで、あと2ヶ月と少ししかない。大学生でいられるのは、あとたったの半年だ。
両親や恋人がよく言う「一年はあっという間」が実感としてのしかかってくる。
特に今年は、卒論や試験で何かとあわただしかったせいだろう。
しかし恋人はいつも「社会人になってからが特に」というから、来年からはさぞ驚異的なスピードで時が流れるに違いない。彼女の言うことは大概正しい。
10月。改めて気がつく。もう10月なのだ。
相変わらずぷらぷらと歩きながら指折り数えてみる。
付き合い始めたのが17歳の10月だったから、まるっと5年経過したということか。
長かったようにも、過ぎてしまえばあっという間だったようにも思える。
5年という歳月は、自分たちに何をもたらしただろう。
17のころよりはできることが増えた、とは思う。だけど自分が茜につりあうかと聞かれたら、首を左右に振ることしかできない。
好き、という気持ちだけで隣にいるのが苦しくなったのは、いったいいつからだろう。
正確には思い出せないが、たぶん、自分と彼女の社会的責任の重さの違いに気がついたときだ。
高校生のころは年を重ねればそれだけ小笠原茜にふさわしい自分になれると、漠然と考えていた。
だけど実際は、誕生日をひとつ迎えるたびにその考えがいかに浅はかかと思い知る結果となる。
ただ年を重ねるだけではだめなのだ。
茜に甘えて頼ってばかりではいけないと判っていても、行動が伴わなくていつも反省していなくてはならない。
その葛藤はおそらく、茜のそばにいる限り続くのだろう。いっそ還暦を過ぎてしまえば気にならなくなるだろうがそれは、気の遠くなるほどの未来の話だ。
ため息をひとつ。
茜はたぶん、総一郎の到着を待っているはずだ。
――今から行ってもいいですか? 話があります。
そうメールを送って、茜にしては珍しく早く「○」の絵文字だけの返信が来たのは20分ほど前のことだった。
話があるなんて書かなければよかった。
でもただ行ってもいいかだけをたずねて、疲れてるから今日はダメ、なんて言われたら、せっかくの決意が鈍ってしまう。
今日は、ケジメをつけに行くのだ。
急がなくてはいけない。
もうひとつ息を吐いて総一郎は、小走りに駆け出した。
それから、見慣れた建物まではあっという間に到着した。勢いを殺さぬよう4階までを一気に駆け上がる。
さすがに息が切れる。ドアの前で軽く呼吸を整えて、呼び鈴を鳴らした。
初めてこのボタンを押したときのように胸が高鳴った。走ったせいばかりではない。呼吸が平静に戻っても、鼓動は勢いづいたままだ。
やがてがちゃ、と大げさな音が響いて、ドアノブが半回転をする。
ゆっくりとドアが開いて、隙間から見慣れた顔がのぞく。よく見知ったはずのその顔が、なぜか知らないひとのもののように見えて、一瞬ドキリとした。
「こ、んばんは」
上ずった総一郎の挨拶に、部屋の主はうん、と返事をして中へ招き入れてくれる。
その声音も、心なしか硬く聞こえた。
すれ違いざまに表情を窺おうとしたけれど、逆にこちらの顔色を見られるのも困る。一瞬の逡巡ののち、すっと彼女の目の前を通り過ぎたら、ずいぶんとそっけなくなってしまった。
何もかも気にしすぎだ。気負いすぎて上手く行かない。
いつもどおり、自然体に、と思えば思うほど、そのいつもどおりがどうだったかまったく思い出せないのだ。
いつも、ここに来たらどうしていたっけ。
上着を脱いで、腰を下ろそうと思っても普段どこに、どのように座っていたかが思い出せなくて立ちすくんでしまう。
振り返れば茜も、所在なさげに部屋の入り口付近で壁に半身を預けて佇んでいる。
観察でもされているのかと思ったが、焦点が合っているようなあっていないような、茶色い瞳は総一郎を映していないようだった。
そこでやっと、違和感の正体に思い至った。トレードマークの眼鏡をはめていないのだ。
眠るとき以外はめったにはずさないそれは、もはや彼女の顔の一部になっている。
くるりと部屋を見渡すと、ローテーブルの上にきちんと折りたたまれた眼鏡が鎮座していた。
「あ、もしかして寝てました?」
「うん……少しうとうとしていた」
「ごめんなさい」
「いや」
それだけを言うと、またぼんやりとした表情に戻ってしまう。
様子がおかしいのは寝起きだからか。いったいいつ起こしてしまったのだろう。
寝起きの悪い茜の頭は、現在正常に回転していないに違いない。
こんな状態で大事な話をして、聞いてもらえるのかと不安になる。
だからといって無理やり起きてもらうのも忍びないし、また今度にしようかと後ろ向きな考えが頭をよぎったが、慌ててそれを打ち消した。
きっとここで引いてしまったら、その「今度」は訪れないような気がする。
今日だと硬く決心をしてきたのに、彼女の顔を見ると簡単に揺らいでしまう自分が情けない。
このままでは駄目なのだ。きちんとした大人になると、決めたのだ。
「あの、センセイ」
誠意を持って呼びかける。
呼ばれた茜は眠たそうに瞬きを数度繰り返して、うつろな瞳で総一郎を見つめた。
目が合ってドキリとするが、彼女の弱い視力では総一郎など人影でしかないだろう。見えていない、と思えば何を構えることがあろうか。
「話、あるんですけど……いいですか」
「ああ、うん……あー、コーヒーでもいれようか」
「いえ、後で俺がやりますから、ちょっとここ、座ってもらえますか」
「……うん」
茜はのろのろと足を動かしてゆっくりと総一郎の目の前に立つと、一瞬だけちらりと彼を見上げたのちに腰を下ろす。
総一郎もタイミングを合わせるように、その場に正座をした。
膝を突き合わせて向かい合う二人の間に流れるのは、微妙な沈黙だけだった。
なんだこの空気。
総一郎はいたたまれなくなる。
でもこの重苦しい空気を作っているのは、紛れもなく総一郎自身だ。
やばい、と漠然と思う。
このままでは茜を不愉快にさせるだろうし、なによりこんな空気に自分自身が耐えられない。
「あの、」
「そういえば、メロンがある。実家が送ってきてくれたんだ。切ろうか」
さっさと終わらせてしまおうと顔を上げた総一郎と同時に、茜も口を開いて立ち上がろうとする。
とっさに右手を伸ばして、彼女の手首をつかんで引き止めた。
相変わらずのその温度の低さに驚く。
「それも」
ぐい、と引っ張って茜の注意を引く。びく、と肩を揺らした彼女は、総一郎の顔を見ないまま動きを止めた。
「あとで俺がやりますから、先に、聞いてもらえますか」
「……うん」
少し間をおいてから小さく頷いて、茜は元の位置に戻り、総一郎に倣って正座をした。
「話、二つあります。まず、これ」
かばんから封筒を取り出して見せて、茜に手渡す。
素直に受け取った茜は、やっぱり視線を封筒に落としたまま、これは、と尋ねた。
「採用通知。教採、受かりました。おかげさまです」
「えっ」
珍しく心底驚いた、といったような声を漏らして、やっと茜が顔を顔を上げた。
「えっ」
つられて総一郎も間抜けな声が漏れる。
「……ほんとに?」
「うそついてどうするんです。なに、その反応? 喜んでくれないの?」
「いや、違う……ごめん、驚いただけだ。まさかストレートで合格するとは」
「センセイが協力してくれたおかげです」
「いいや、君の実力だよ」
そう言って茜は柔らかく笑うと、書類を置いて自分の両手を総一郎の手に重ねた。
つめたい指先が、ぎゅっと総一郎のこぶしを握る。
やっと顔を上げた彼女は、総一郎の一番好きな顔で柔らかく笑った。
「おめでとう」
胸がつんと痛くなる。報われた、とたったこれだけのことで思ってしまう。
もちろんまだスタートラインに経つことを許されただけで、終わったわけではないけれど、先ほど一人でこの封筒を開けたときよりも、何倍もの幸福が総一郎を包んだ。
「……ありがとう、ございます。四月から頑張ります」
握りこぶしを作っていた手をくるりとひっくり返して、上に載っていた茜の指に己のそれを絡ませる。
両の手のひらどうしを合わせてぎゅっと握って、指の間が痛くなるほどきつく握って、もうひとつ、と声を絞り出すと、茜の顔から表情が消えた。
「もういっこ、あります。たぶん、すごく、困らせるけど、聞いてもらえますか」
茜は無言で頷いた。そのまま顔を伏せてしまったから、単にうなだれただけのようにも見える。
なんだってお見通しの茜のことだ。これから総一郎が何を言うのか、判っているに違いない。
できれば耳を塞ぎたい、と思ってるんだろう。胸が痛い。自分が少し可哀想になった。この予想が外れていればいい。
「あの、俺……このままじゃいけないって、ずっと考えてたんです。でも自分にはどうにかする資格も勇気もなくて、なんかずるずるしちゃったけど、」
胸が痛い、痛すぎる。緊張しすぎているせいだ。
握り締めた両手が震えている。自分のせいか、それとも彼女が震えているのかさっぱり判らない。
顔を上げてくれないかな、と思う。
どんどんと深くうつむいてしまって、だらりと垂れた長い髪がその頬を覆ってしまっていて表情がうかがえない。その状況がますます総一郎を不安にする。
いつも冷たくかんじられる茜の手から温度が消えた。
「結婚、してください」
茜が息を呑む音が聞こえた、気がした。
静寂が場を支配する。
つめたい空気だ。ああ、やっぱりこういう風になってしまうんだ。
「あの、軽い気持ちじゃないんです。今の俺と結婚したって、センセイにメリットなんてなんもなくて、むしろ迷惑かけ通しになるだろうし、
いろんな人が、たとえばセンセイのご両親とか反対するだろうし、
なんかそういうこと、色々考えたんだけど、だけど……センセイとずっと一緒にいたいんです」
この関係が壊れてしまうなら、いっそ何も言わないほうがいいんじゃないかと何度も考えた。
茜にそういうつもりで付き合ってるわけじゃない、と言われてしまえば、その後の関係に支障をきたす。
自分が茜にとっての「結婚したい相手」じゃないという事実を受け入れるということが、どうしても出来そうにないのだ。
いつか終わりの来るであろう関係に甘んじられるほど、達観もできない。
だから、自分たちに終わりなんてないという約束を取り付けるために、今の総一郎では到底現実的でない「結婚」の二文字を取り出したのだ。
「あ、もちろんすぐにってわけじゃないけど……でもできたら、来年中ぐらいに。就職したら忙しくなるから、一緒に暮らしたいけどケジメはつけないといけないでしょ」
まるで弁明をするかのようにつらつらと言葉を並べる。
でもどれだけ思いを積んでも薄っぺらでしかなくて、発言に説得力を持たせることができない。発言に行動と実力が伴わないせいだ。
「あの、だから……俺と、結婚してください」
お願いします、と言葉を結んで、軽く頭を下げた。もうこれ以上言うべきことはなにも見つからない。
採用通知が届いたら、これを言おうとずっと決めていた。もし不合格なら来年以降に持ち越しにするつもりだった。
採用を祈りながら通知を待った日々は、果てしなく永く思えて苦しい日々だった。卒論の忙しさと相まって、このところろくに眠れていない。
でも今日のこの日のために、茜に言うべき言葉をたくさん考えてきてはいたけれど、いざその時が来てしまうと頭が真っ白になってしまい、ありきたりなことしか伝えられなかった。
茜はどんな表情をしているんだろう。そして何を考えているんだろう。
この沈黙は、何を意味しているんだろう。
どんどんと不安になる。茜と付き合ってるうちに、マイナス思考が伝染したのかもしれない。
以前の自分なら、根拠のない自信がどこからか沸いてきていた。何もかもうまくいく、漠然とそう考えていた。
今思えば、あれが若さというものに違いない。
そうでなければ、高校生の身分で10も年上の、しかも恩師に告白なんてできなかっただろう。実に恐ろしい、そしてうらやましいものだ。
そのノリのまま「いつか結婚しましょうねー」とか「いつ結婚しますか」とか軽く伝えてきておけばよかったんだろうか。
いや、それではただの冗談に取られてしまう。全く意味がない。
とりあえず今ので、総一郎の本気は伝わった――と思う。
問題は、茜の返答である。
恐る恐る顔を上げると、視界に映った彼女のくちびるが小刻みに震えている気がした。
何ごとかを呟くためにそれを動かそうとして、上手くいかないように見える。
襲い来るプレッシャーに耐えかねて、暖かくなり始めていた茜の指をそっと開放した。
このままでは、彼女がもし断りたくてもそうできないかと考えたのだ。
名残惜しむようにゆっくりと、彼女の手から指を滑らせて身を引いて、――完全に離れてしまうその一瞬前に、
離したばかりの茜の手が伸びてきてすばやく総一郎の手のひらを握った。
そしてそのまま、少々乱暴にぐいと引かれて上体が傾く。
危ない、と思ったときには、茜の柔らかい身体が、総一郎の腕の中に納まっていた。
一体いつの間に何がどうなったのやら、彼女のほそい両腕が総一郎の首に回っている。
それにぐっと力がこめられて、ぐえ、という変な声が漏れた。
「セン、セイ?」
「……きみは、ちゃんと、考えたのか」
茜の震える声が、すぐ耳元で響く。吐息がかかってくすぐったい。
おずおずと両手を茜の背に回して、抱きしめた。
総一郎の首を絞める腕に、さらに力がこもる。
それに応えるように、総一郎も腕に力をこめて、ぎゅっと細い身体を抱きしめた。
「考えたよ、すげー考えた。胃が痛くなるぐらい考えたけど……これしか、答がなかった」
「後悔は、しないか?」
「しないと思う」
「…………断定しないのか?」
「ごめんなさい……えっと、後悔しません、ぜったいに」
「私は、君を幸せにする自信がないぞ」
「一緒にいてくれるだけで、十分幸せです。っていうか、それ逆でしょ。
俺だって自信なんてないけど、努力する。たくさん努力する、だから、」
「いい、君はただそばにいてくれれば、いい……」
語尾がかき消える。鼻先が、総一郎の肩口にぐいと押しつけられた。
抱きしめた背中が震えている。彼女の頬があたる、自分の首筋が濡れているような気がした。
「……センセイ、もしかして泣いてる?」
首にうずめられた頭が、左右に揺れた。そういえばベッドの中以外で泣いたところ、見たことがないかもしれない。
「ね、センセイ。顔見せて」
もういちど茜の頭が左右に揺れる。だめだ、と掠れた、情事の時のような声が漏れてどきりとした。
「なんで?」
問いかけても返事はない。
ねぇ、ともう一度呼びかけて、背中をぽんと叩いた。
総一郎の首に絡まった腕から力が抜ける。
ずっと正座をしたままだった足をゆっくりと崩して胡坐をかくと、その隙間に茜の足が忍び込んでくる。
もっと密着をしたいのに、互いの足が邪魔で二つの身体の間に空間ができてしまう。
身体なんていっそなくなって、一つになってしまえればいいのにと安っぽく思った。
そうすれば、彼女が今なにを考えているかも全部判るのに。
「……センセイ?」
しびれを切らして彼女を呼べば、小さく鼻をすする音ののち、小さな声がまた耳元で響いた。
「ひどい顔を、している……動揺した」
「動揺?」
「不意打ちだ。けっ、結婚だなんて、今まで一度も口にしたことなかったじゃないか」
「うん……ごめん」
言っても夢物語以上のものにならないから、とか、断られるのが怖かった、とか、言い訳はたくさんある。
そもそも、茜がそんなに動揺をしていることに驚いた。
そのことを詳しく聞きたくなったけれど、今は、言葉は無粋になってしまう気がした。
腕の中の温もりが、すべての幸せの象徴のように思えたからだ。
「君は、馬鹿だな」
「……うん、知らなかった? 高校生のくせに教師に愛を告白するような、馬鹿ですよ」
「知っていた。でもここまでとは、思わなかった」
ひでぇ言い草。そう呟いたら、小さな声だったにも関わらずきちんと茜の耳には届いたようで、苦笑の吐息が総一郎の肩にかかった。
くすぐったさに笑みが漏れる。
こうして、いつまでも二人で笑っていられる未来にしたい、総一郎は思った。
「もう、君を離してやれないぞ。いいのか?」
「うん……ってそれ、また俺のセリフ」
「ああ、そうか……すまない」
「あの……ちゃんと返事、聞かせてもらえますか。もう一回、言うから、顔あげて」
たっぷりの沈黙のあと、茜が身を起こす。
すかさずに頬を挟んで、両目をのぞきこんだ。
いつもより少しだけ熱っぽい瞳に、また緊張がぶり返してくる。
「ごめん、花とか指輪とか、なんも用意できてなくて……とにかく言わなくちゃって俺、テンパってて」
「いい、なにもいらない……きみだけいればいい」
たぶん、それは茜の本心なんだろう。
無欲に見える彼女が、総一郎だけを欲してくれている。それは、総一郎がずっと願っていた未来の形だ。
「センセイ…………結婚、してください」
「ん……ありがとう」
そう笑った茜の目じりが、きらきらと光っていた。
こめかみの髪をかきあげて、そこにくちづける。ぺろりと出した舌先が少しだけしょっぱくて――どうしようもなく嬉しくなる。
やっぱりセンセイ泣いてるんじゃないか。
その正体が嬉し涙だと確信をしたら、急に鼻の奥がつんと痛んだ。
幸せとは今が永遠に続けばいいと願う瞬間のことらしい。いつか茜が言っていた。
それを聞いてから、何度も幸せを実感してきたが、――今日が最高に幸せだと総一郎は思った。
願わくば彼女も同じ気持ちでいてくれますように。
潤みそうになる瞳をきつく閉じて誤魔化して、そっと茜のくちびるに、自分のそれを重ね合わせた。
2011/01
最終更新:2011年01月30日 22:10