まずいことになった。ここまでの喧嘩は久しぶりだ。
「聡!なんてことをしてくれたんだ!」
姉である田井中律が俺の部屋のドアを開け放ち
怒涛の如く入り込んできたのはついさっきのことだ。
「い、いきなりなんだよ!大体ノックしろっていつも……」
「んなこと、この際関係ない!これ壊したのあんただろ!?」
俺は、律の手に有る物を見る。
それは、カチューシャだった。
なんとも不自然な形状に折れ曲がっており、もう使えそうに無い。
「あちゃー……こりゃまた酷いな。」
「人ごとのように言ってるけど、あ・ん・たがやったんだろ?」
……はて、覚えが無いな。
「知らねえよ、そんなこと。大体そんなカチューシャ、
いくらでも替えがきくじゃん。」
正直に言うと、俺は苛立っていた。何の根拠もないのに
俺が壊したことにされていて責められているというこの理不尽な状況に、だ。
「大体、そんなファンシーな柄のカチューシャのどこが良いんだよ。
姉ちゃん、もうそんなカチューシャ付けてないじゃん。
今、頭に付けてるのは違うやつだろ。だったら別に……」
そこまでまくし立ててから気付いた。律の様子がおかしい。
いつもだったら、俺がこんな反論をした時にすぐに言い返してくる。
それが今は、目を伏せてとても悲しそうな顔をしている。
俺は動揺してしまった。こんな律を見ること自体、初めてかもしれない。
「……そうかもしんないな。
お前にとっては、これはただのガラクタにしか見えないのかもしれない。」
けれど、と律は続ける。
「私にとっては、宝物だったんだよ。本当に大切で、何物にも代えられない。
……見損なったぜ、聡。」
パタンと扉の閉まる音が鳴り、部屋は静寂に包まれる。
(……まずいことになったな。)
これはかつてない大喧嘩だ、という確信があった。
律の悲しそうでもあり、失望したようでもある目。
それを思い出すだけで、とてつもなく鬱屈とした気分にさせられる。
あんな目をさせるつもりなんて無かった。
あんな口をたたくつもりなんて無かった。
自分が謝っておけば済む話だったのに、余計な意地を張ってしまった。
そして、このザマだ。
「情けねえ……」
頭の中で、律の顔がグルグルと回る。
うーんうーん、と悩んだ末に寝ることにした。
幸いと言うべきなのか、時間はそろそろ12時をまわろうとしていたし
一日時間をおいたら喧嘩はスムーズに解決に結びつくかもしれない
とも考えたからだ。
だが、布団の中に入っても、律の悲しそうな顔が頭から離れない。
いつもあんなに世話になっているのに。
いつもあんなに励まされているのに。
俺は律に何もしてあげられない。
「情けねえ……」
今日何度、俺はこの台詞を呟いたのだろう。
しかし、人間はなんだかんだで眠れてしまうものらしい。
ものの十分もしないうちに、俺は自分が眠りに落ちていくのを感じた。
その夜、俺は夜に目を覚ます。
そこで見た景色を俺は忘れられないだろう。
そこに存在しているはずのかべ。
そこに付属しているはずのドア。
そこで支持しているはずの天井。
……それら全てが失われている。
「はあっ!?」
俺は心底驚いた。何せ自分がいる場所が
「何故に、地面?」
そう、空地だったからである。
SIDE:聡
(この空地は一体?)
それを知りたかったので、俺はまず体を起こして周りを見渡した。
それなりに広々とした所だった。
ちょうど隣に家が建っていて
この場所だけがぽっかりと空いているのを鑑みると
ここにも新たに家が建てられようとしているのではないか、と考えられた。
次に、位置を正確に把握すべきだと判断し、俺は起き上がる。
歩いて敷地の外へ出て、振り向き、区画全体を見つめる。
瞬間。俺は戦慄した。
何にだって?隣接している家には非常によく見覚えがあることに、だ。
「まさかここって……!?」
そう。そのまさかだった。
「俺の家があった場所……!」
正直言って、信じられない。そんなことがあり得るのか。
「いや、あるわけない!」
俺は衝動的に自分の頬をつねる。強く、つねる。
痛みはないはずだと思っていた。夢の中ではこんな風にしても
痛みを感じないという話を以前聞いたことがあるから。
しかし
「いってええええええええええ!?」
襲い掛かってくる、とてつもない激痛。
「じゃ、じゃあこれは?」
夢じゃない、と?そういうことなのか?
いや、絶対にありえない!
「確かに俺はベッドの上で眠ったはずだ!」
おかしい、絶対におかしい!
俺は、混乱しきっていた。
起きたらなぜか外にいた?
起きたら自分の家がなくなっていた?
隣の家はあるのに?
なんで……?
「ッ……!?」
突如、頭に激痛が走った。
(いきなり、何、だ……?)
その疑問の答えを得られることも叶わず、俺の意識はフェードアウト。
最後に自覚できたのは、自分が倒れたために起きたであろう
「ドサッ」という音だけだった。
※少年の意識がなくなったことを確認して、男はその場を離れる。
男は、杖を持ち黒服を着ている。極め付きに、頭には黒い洒落た帽子。
世間一般の紳士へのイメージをそのまま具現化したら
こうなるのではないだろうか。
(これで、良い。)
紳士はしずかにほくそ笑む。
(あの少年は、これからちょっとした冒険をすることになるだろう。
その下準備はもう整った。あとは、あの子次第……。)
紳士は歩いていき夜の闇に溶け、その姿は見えなくなった。
SIDE:???
私は、うきうきとした気分で家に向かっていた。
だって、私もやっと……
「やっとお姉ちゃんになれるんだー!」
この喜びは、言葉に出来ない。
何日も前からずっと楽しみにしていた。
(どんな風に可愛がろうかな?
どんなことをすれば喜んでくれるかな?
あっそうだ!友達にも教えないと。「今日から私はお姉ちゃんなんだよ」って!)
音楽教室からの帰り道、私はほんとうに嬉しい気分だった。
その嬉しさで、スキップしたり鼻歌を歌ったりしながら家へと向かっていたんだ。
だから、気づいたのは偶然だったのかもしれない。
「あれー?」
家が建てられる予定の空き地で、誰かが倒れているのを見る。
男の人、かな?おとーさんと比べたら、まだ背とかも全然小さいけど……。
「どうしんたんだろー?」
その人の所へ、私は近づいていく。
「ねえ、おにーちゃん。だいじょーぶ……!?」
私はそう声をかけて気づいた。その人の顔色がとても青白いことに、だ。
「そ、そんな。どうしようどうしよう……」
あたふたと慌てる。
そこで、良いことを思い付いた。
「そうだ。私の家に連れていけば良いんだ!」
しかし、私ひとりでは、その人を運ぶことなんてできなかった。
うー、と悲しくなってしまう。
そこで、ピンと思いついた。
「おとーさんなら……!」
「待っててね、おにーちゃん!」
私は家に向かって走っていく。家といっても、ホントの家じゃない。
私たちは、もう少しすると新しい家で暮らすことになる。
家族は、私、おとーさん、おかーさん、そして……私のきょうだい、だ。
「おとーさん!」
私は、大急ぎでドアを開けて中に入っていく。
少女はいったんドアを閉め、父の姿を探す。
そのドアに、表札が付いているのがわかる。
そこにある名前は……
「田井中」
はたして過去と未来はつながるのか、それとも?
――チュンチュン
「……うーん?」
ガバリ、と起き上がる。
まさか鳥の声で目覚めるとは。かつてないことだ。
「……顔、洗お」
ボーっとした動作で、ベッドから出ようとする……が。
「あれ、これって?」
床とベッドとの間にある段差が存在していないことに違和感を覚える。
「んな、馬鹿な。一体どういう……」
驚いて、つい後ろに手をやってしまう。
……フニュ。
「んー?」
柔らかい感触。漏れ聞こえる幼い声。
「……はい?」
恐る恐る、振り返る。嫌な予感をひしひしと感じながら。
「ふあー、おはよ~」
幼い少女が、そこにいた。
「……うおおおおお!?」
俺はズザッと後ずさる。そこで、俺が横になっていた場所が布団だったということを
ようやく実感した。
「な、なんで逃げちゃうの~?」
オロオロとする少女。心なし、目には涙が浮かんでいるような……。
「お、俺はロリでもないしぺドでもない! 断じて、違う!!」
ブンブンと首を振りながら、弁解する。
というより、自分に言い聞かせる。
「うう……」
そこで、ハッとする。少女は今にも泣き出しそうな気配を醸し出していた。
「やっ、ち、違う! 怒鳴ってるわけじゃない、怒ってるわけじゃないんだ!」
自分でももう何を言っているのか、分からなくなってくる。
ただ、目の前の子供に泣いてほしくなかった。
なぜだろう、強く強くそう思った。
「ごめんな、不安にさせちゃったか?」
少女の方に近づきながら、俺は少女に声をかける。
(いきなり後ずさって声を張り上げたら、そりゃ怖がるよな)
自分の行動を省みて、悔いた。
「ううっ……!」
未だに怖がっているらしい少女の頭に手を載せて
「大丈夫だよ」
とにかく、優しく声をかけた。
「……もう、平気か?」
頭を撫でながら、俺は少女に問いかけた。
「んーん、だいじょーぶ!」
少女は笑顔になっていた。うん、安心だ。
「良かった」
俺もたまらなく嬉しくなった。
「うん、よかった!」
少女もそう繰り返した。
俺たちは、あははと笑う。
「――律~、どこだい?」
そこで、誰かの声が聞こえた。
「あっ、おとーさんだ」
「……君の、かい?」
「うん、やさしくて……大好き!」
ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねる少女を見ながら
「まてよ……この声って?」
俺は、思案していた。
そこで、この声を最近どこかで聞いたことに慄く。
「まさか、そんな――」
そして、今呼ばれた少女のものと思しき名前。
……じゃあ、この子は、まさか!?
「ここか?」
ガチャリという音とともに開けられたドア。
現れた顔を見て、俺は――
「嘘だろ……?」
絶句、した。
「おお、なんだ。随分と仲良くなったなあ」
「えへへー、すごいでしょっ!」
談笑にふけっている親子。
俺はそんな二人を、なんともいえない気持ちで見つめている。
「ははっ、すごいなー、律は。流石、お父さんの子だ!」
「へへー、さすがー」
よしよしと頭を撫でられながら、律は男性のセリフを反芻する。
「……すみません」
俺の発したか細い声は、彼らの耳に届いてくれたらしい。
「なんだい? ああ、泊めたこととかは気にしなくていいよ。
僕は別に、お礼とかは――」
「いえ、そのことではなく」
コホン、と一息ついて
「あなたたちの苗字は、田井中ですか?」
そう、問うた。
男性は、驚きの表情を浮かべた。
「……もうこの家のことを知ったのかい?」
「すごーい、おにいちゃんってもしかして……」
少女はえーとうーんと、と考えながら
「えすぱー!?」
と続けた。
「いや、そういうんじゃないよ」
俺は苦笑して、彼女に伝える。
「ただ、なんとなく、ってところかな」
言い訳としては苦しいような気がしたが
「おお、そうだったのか」
男性はあっさりと納得してしまった。
そんな姿を見て、俺は確信した。
この人たちは、この二人は――
(全く、変わってないな)
人を執拗に疑わない点とかが、特に。
「おにいちゃん、えすぱーじゃないんだ……でも、すごい!!」
……そうか。道理で、この子を悲しませたくないと強く思ったわけだ。
よく見たら、トレードマークが無いだけで、他の部位はそっくりだ。
「ああ、申し遅れたね。まあ、苗字は君に言われてしまったが――」
コホンと一息ついて
「僕の名前は、田井中想。この子の父親、さ」
「わたし、田井中律!」
告げられた名前は、俺の予想通りのものだった。
正直言って、信じられなかったが、事実らしい。
「……ははは」
乾いた声を漏らしてしまう。開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。
『ありえない、なんてことはありえない』
どっかの漫画に描いてあった台詞が、頭の中でぐるぐると回る。
「……そういえば、君の名前はなんだい?」
そう問われて、俺は躊躇する。どう伝えればいいんだろう。
「えーと、その」
だめだ、やっぱりこんなの――!
「だいじょーぶだよ」
そんな声にはっとする。少女が俺をじっと見つめていた。
少女は笑顔で
「へいきだよ」
と続けた。
その時俺は――
(大丈夫だ、聡)
(心配すんな、私がついてっから!)
「ねえ、ちゃん……?」
あいつの姿を、そこに見た。
「んん? どしたの?」
だが、そこにいるのはやはり年端もいかない一人の少女だ。
「いや、なんでもない……でも、ありがとう」
俺は視線を男性の方に向けた。そして、はっきりと告げる。
「俺、田井中聡っていいます」
フルネームで、だ。
「ほお……私たちと同じなのか。田井中という苗字とは、珍しいね」
「ええ、でもありえないというわけではないでしょう?」
きっぱりと言う。ありえないことは、ありえない――!
「ほう、じゃあこれも何かの縁だな」
またしても特に疑うことなく、男性は認めてしまった。
俺はそんな彼に苦笑する。このころから、なのか。
「しばらくの間、うちに泊まりなさい」
しかし。次に飛び出したセリフに度肝を抜かれる。
「……はい?」
「君はどうも他人という気がしない」
にっこりと笑いながら、男性は続ける。
「あの、えーと」
そんな彼に対し、二の句を継げないでいる俺。
「どうやら……律も君になついているらしいし」
「えへへー」
少女がすり寄ってくるのを感じるが、俺は反応してあげることができない。
「君の事情はあえて訊かん! 家にしばらくの間、泊まっていきなさい」
男性は、そう言い放った。
「ええええ!?」
俺はそこで我慢できずに、声を上げてしまう。
「そ、そんなんでいいんですか!? け、警察とか、そういうところへは?」
「僕が、嫌だ」
俺のしごく真っ当と思われる意見に、満面の笑顔で返してきた。
「……」
本日、二度目の絶句。本当に、昔からこうだったのか……。
「――きょうからいっしょなの?」
気付いたら、少女が上目遣いでこちらを見上げている。
「……ああ、そうなる、ね」
「やったー!」
嬉しさのためか部屋中をバタバタと走りまわる少女。
そんな姿を見て苦笑しながら、俺は考える。
(警察、と俺は提案したけど……考えてみたら、ここにいるのが一番いいのか)
俺は、一人でうんうんと頷いた。
「それでは……これから、しばらくお世話になります」
「うん、気がねなくどうぞ」
「へへっ、よろしく~!」
三者三様の声を響かせて。
奇妙な生活が、始まった――
「……あの」
挨拶が終わって、部屋を出ようとする男性に俺は声をかけた。
「うん? なんだい?」
「ああ言ってもらえたのは嬉しいんですけど……本当に、いいんですか?」
実のところ自分なりに納得したとはいえ、やはり不安は付きまとっていた。
そんな俺をみかねてか、男性は優しい声で俺に語りかけてくる。
「……朝起きたら、律が僕のベッドからいなくなっていてね」
彼の声はどこか楽しそうだった。
「僕はちょっと焦った……けれど、なんとなく安心していた」
「そ、それはなんで?」
「君がいたからだ」
きっぱりと断言する。
「なんとなく確信していた。律はそこにいる、と」
なんとなく、と連呼する割には、彼の口調ははっきりとしたものだった。
「僕の勘は見事に当たったわけだ……部屋に行ってみたら、律は君と
楽しそうに笑い合っているときた」
その時のことを思い出したのか、彼はふふっと微笑する。
「それを見て僕は嬉しくなった。君を連れてきたのは間違いではなかった、とね」
そう言って俺の顔をじっと見つめてきた。
「君がいなくなると、律も寂しがるだろう」
俺は楽しそうにゴロゴロと寝転がっている律を見た。
「いっしょ~」
部屋の壁と壁の間を、往復しているらしい。
「……たしかに、とても楽しそうですね」
「ふふっ、かわいいだろ」
愛しそうな視線を娘に向ける男性を見ていると、複雑な気分だった。
(まあ、この人が俺を知っているわけないんだけどな――)
「さて、そろそろ僕は行くよ」
彼は俺にそう言って、ドアを開けて出て行こうとする。
「律と仲良くしてやってくれ。君だったら安心だ」
バタリとドアが閉められた。
さて、こうして少女と俺は二人っきりになったわけだけど……。
「ねえねえ、なんかしてあそぼ?」
なついてくる少女に、俺はどう接していいのやら。
さっきまでは普通の女の子だと思っていたから、落ち着けたわけで――
(……姉ちゃん、なんだよな)
信じられないけれど。
「ねーえ」
無邪気にすり寄ってくる少女に、俺は複雑な気持ちを抱かざるを得ない。
「あそぼー」
しまいには、俺に抱きついてきた。
「……よし!」
俺は覚悟を決める。この子と向き合う覚悟を、だ。
「じゃあ、君は何をしたい――」
「だめー!」
いやいやとかぶりを振られた。
「……えっ?」
出だしから失敗? い、いや、でも特におかしなことは言って……
「……んっ!」
自分を指さし、主張する少女。
俺はそれを見て、合点する。そういうことか。
「ああ、ごめん……じゃあ、どうする」
一息ついて
「――律ちゃん」
やべえ、恥ずかしい。
「……うん! じゃあね、じゃあねー」
俺が恥ずかしさに震えそうになっているのもどこ吹く風、
彼女は一生懸命に考え出した。
「――そうだ! 外にいこ~!!」
そして、しばし考える素振りを見せた後、言った。
「……うーん」
俺は震えるのをやめ、しばし逡巡する。外へ行っていいのだろうか……おかしなことにはならないか。
でも――
「よし、行こうか」
興味は、あった。俺がまだいないこの時代に
どんなことがあったのか。
どんなものができたのか。
それを知りたいという欲求が首をもたげてきたのだ。
「やったー、しゅっぱーつ!」
少女はそう言って勢いよく部屋のドアを開けるやいなや、
おとーさんに言ってこよーっと! と、一目散に走り出していってしまった。
「……やれやれ」
俺は嘆息する。猪突猛進なあの気性は、昔からだったのか――
「もしかして、誰も変わってねえのかなあ……」
父もあんなだし、あの子もそうだ。
どこか、複雑だった。今日、幾度となくこんな気分になっているような気がする。
(はあ……)
溜息をつきながら、俺は少女の後を追う。
……いや、もう「少女」はやめよう。「律」と呼ばないと、あの子は怒っちゃうだろうし。
(それはそうと……)
ここに俺が来てしまった、ということは、だ。
(現実の俺は?)
どうなっているのだろう……不安だったが、今は仕方無い、か。
「姉ちゃんとは、結局喧嘩別れってわけか」
それだけは、本当に心残りだ。
「じゃあね、おとーさん! いってきまーす!」
「いってらっしゃい。お兄ちゃんの言うことをよく聞くんだよ?」
「はーい」
「じゃあ、おじさん。行ってきます」
ペコリと俺は、男性に頭を下げる。
「行ってらっしゃい。それはそうと――」
「はい?」
「いいよ、君も僕のことを『おとうさん』と呼んでくれ」
おもむろにとんでもないことを言い出した。
「……えっ?」
「さっきも言っただろ? 君は他人という気がしない」
「……はあ」
「君の事情は詮索しない。家に帰れない理由があるんだろう?」
(……というか、ここが家なんですけどね)
心の中で、ついおかしな突っ込みを入れてしまう。
「だから、だ。しばらくはここを自分の家だと思うといい」
男性の目はどこまでも優しかった。
「……ほら?」
彼が期待していることは、明白だった。
(……まあ、いいか)
「じゃ、じゃあ、行ってきます」
恥ずかしさのため、言い淀んだ後に
「――おとうさん」
そう、言えた。どこか懐かしい響きのように、感じた。
「うん、行ってらっしゃい。律をよろしく頼むよ」
男性――いや、おとうさん――は満足そうに頷いて、俺を送り出してくれた。
「おそーい」
家を後にして道路に出ると、律が頬を膨らませていた。
「ごめんごめん。ちょっと、おとうさんと話をしていてね」
「むー……今回だけ、特別だよ」
律はそう言ってぷいっと横を向いてしまったが、どうやら許してくれたらしい。
「ふふっ、ありがとう」
俺はそんな彼女がとても微笑ましい。
そういえば、こんなことが前にもあったなあ――
懐かしい気分に浸りながら、俺と律は歩き出す。
しかし歩き始めた当初、律の機嫌は悪かった。
「……ごめん」
「べつに、おこってないもん!」
明らかにプンスカ怒りながらそう言われても、まるで説得力がない。
「さっき、許してくれたじゃんか」
「だから、おこってないもん! しんぱいしただけだもん!」
彼女は足を速めて、先に進んでしまった。
(……しかたない)
俺は溜息をついて、ある決意をする。
これで機嫌を直してくれるかどうかはわからない。
でも――
「律ちゃん」
俺は、彼女を追いかけていた。
そして――
その、小さな、本当に小さな手に優しく触れた。
「……えっ?」
「ごめんな。俺のせいだ」
きっちりと謝る。
「だから、仲直り」
彼女の手を包みこむ。
「だからさ」
「……うん」
律はようやく落ち着いたらしい。どこか嬉しそうな表情で、手を見つめていた。
「……どっか行きたいところとか、ある?」
しばらく手を繋ぎながら一緒に歩いた後で、俺はそう尋ねた。
「えっとね~」
先ほどとは違い、律の声は明るい。良かった――
「よし、きまり!」
どうやら、思いついたらしい。
彼女は満面の笑顔で――
「こうえん!」
と答えた。
「ぶらんこ、ぶらんこ♪」
どうやら律は、ブランコがお気に入りらしい。
近くの公園に辿り着くやいなや、鼻歌を歌いながらこぎだした。
「気をつけろよ~」
「おにいちゃんも、のろ~!」
水を得た魚のようにとても活発にこぎながら、律はこちらに手を振ってくる。
その満面の笑顔を見ていると――
「分かった、いいよー!」
どうしても期待に応えたくなってしまうのだった。
律は満足そうに頷いているし。
甘いな、俺も……。
けれど、俺が一緒にブランコに乗ってあげるのは――
「あいかわらず、だっせー女!」
少し、先の話になりそうだった。
「か、返して……!」
「へっ、こんな本読んでるからだっせえんだよ!」
どうやら、一人の少女が少年たちに取り囲まれているらしい。
「そ、それはパパのくれた大事な――」
「んなことしらねー! なあ、こいつの髪もむかつかねえ?」
「そうだな。やたらと長えし……切っちゃうか」
少女を押し倒し、どこからか鋏を取り出す少年。
周りの取り巻きはそれをにやにやと見つめている。
「やだ……やめて」
少女はぶるぶると震えている。少し距離はあったが、その様子はよく分かった。
「ママがほめてくれたの……きれいなかみって」
「うっせえよ。もう、やっちまおーぜ!」
ひひひ、と笑う少年たち。子供の笑みとは思えない。
「……」
俺はベンチから立ち上がる。無言のまま、少年たちに近づいていく。
いくらなんでもひどすぎる。限界だ。
「おい、そこの――」
しかし、俺が言い終わる前に
「なにやってんだ、おまえらー!」
律のキックが炸裂した。
「うわっ!?」
少年たちはいきなり現れた少女に、度肝を抜かされたようだ。
「な、なんだよお前。か、かんけいないだろ」
蹴られた少年が、背中をさすりながら律を非難する。
「かんけいあるよ!」
律は毅然と言い放った。
心なし、体が震えているようだ。
「おんなのこをいじめるなんて……ゆるせない!」
言って、律は少年たちにとびかかっていった。
「……さて」
律一人に対して、相手は同い年であろう少年四人。
そこで、俺の取るべき行動は――
「あ、あの?」
「危ないから、ちょっと向こうへ行ってようか」
「だ、大丈夫なんですか?」
少女はおどおどと俺に言った。
俺は、この子が何を心配しているのかすぐに分かった。
「平気だよ、あいつは」
後ろで熱戦を繰り広げている律の姿。見なくても分かる。
320 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 14:48:10 ID:devKlC0p
数分後。
「おまたせ~!」
そこには、とことことこちらに歩いてくる、律の姿が。
「お疲れ。結果は……まあ、見なくてもわかるか」
後で応急手当だけでもしてやるか。
慈悲ってやつだ。
「しっかしまあ、強いな律は」
「えへへー、ほめてほめてー」
「よしよし。すごいぞ」
頭を撫でてやると、律は気持ち良さそうな顔になった。
「あっ、そ~だ!」
撫でられながら、律は俺が連れてきた少女の方を向いた。
「え……?」
「はい、これ!」
見ると、律の手には一冊の本が――
「あっ!」
「大事なものなんでしょ?」
「あ、ありがとう……!」
律から本を受け取り、感極まって泣き出す少女。
よしよしと、律はそんな少女の頭を撫でてやっていた。
321 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2009/08/08(土) 14:53:22 ID:devKlC0p
「髪、さらさらしてる~。長~い!」
撫でてやりながら、律はそんな感想を漏らしていた。
「さて……」
そろそろ俺には、確認しなければならないことがある。
「は、はい?」
「君の名前を教えてくれないか?」
俺は少女と視線を合わせ、問い質す。
「あの、えーと……」
少女はしばし迷う素振りを見せた。
そんな彼女を見ながら、俺はある予想をしていた。
長い黒髪、現在につながる整った目鼻立ち。
おそらく、この子は――
「秋山澪、です」
恥ずかしがりながら、少女は名前を教えてくれた。
つながった。
「みおちゃん? かわいいなまえ~!」
律は未だに顔を赤らめている少女―秋山澪―に抱きついた。
「えっえっ?」
そんな澪は、いきなりの律のスキンシップに困惑の色を隠せない様子だ。
(なるほど……)
俺は、一人合点する。
(これが、きっかけだったのか)
現在につながる、二人の親友の。
「ほら、律。それくらいにしとけって」
俺は今も澪に抱きついている「姉」をそうたしなめる。
「えー、ケチ~!」
「ケチじゃない。ほら、澪ちゃんも恥ずかしそうだろ」
「うっ、うう~……」
見ると、澪は今にも泣き出しそうだ。
彼女は目に、大粒の涙を湛えている。
(……今はマシになったんだな)
これだけで泣いてしまいそうになるほどの泣き虫だったのか、「澪姉」は。
「ほら、律。謝りな」
俺は、律を促す。
「むー、分かったよ!」
彼女は俺に対しては不満そうにそう言ったが――
「ごめんね、澪ちゃん」
澪にはとても優しそうに語りかけたのである。
「い、いや、もうへいき」
澪は恥ずかしそうに、そんな律に告げる。
「顔、赤~い! かわいい~!」
律はなぜかそんな澪を見て、喜んでいた。
(いや、しかし……)
澪の赤らんだ顔を見ながら、俺は動揺していた。
(この頃から、破壊力たけえ)
そして、幼い少女に赤面しそうになっている自分に気づき、愕然とするのだった。
「と、ところでどんな本を読んでるんだ?」
俺は、澪に質問を振った。自分を落ち着かせるためでもある。
「こ、これ」
おずおずと差し出された本の題名。
『タイムマシン』と読めた。
その題名を見て、俺は寂しくなる。
(やっぱり、心配だな……)
特に、姉ちゃんだ。あんな風に喧嘩別れしてしまったまま
ここに飛ばされたのだから。考えると、溜息をついてしまいそうになる。
「ねえ、だいじょぶ?」
そんな声にはっとする。律が俺の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
「あ、ああ。ごめんな」
また、重なった――「律」と「姉ちゃん」が、だ。
まあ、同一人物だから当たり前っちゃあ当たり前だけど……。
「……ねえ、みおちゃん。いっしょにあそぼ?」
律が俺から視線を外し、澪に声をかけた。
「えっ、いいの……?」
おろおろと反応する澪。
「いいっていいって。人が多い方が楽し~し!」
きっぱりと言う律。
面白いくらいに正反対な二人だった。
(だからこそ、魅かれあったのかもな)
そんなことを、想像した。
俺の友人も元気かな、などとまたさみしいことを考えながら。
それから、俺たちは大いに遊んだ。
先延ばしになってしまったブランコ遊び。
3人乗りは、流石に危なかった。
けど、楽しかった。
その後、律と澪は滑り台へ。
笑顔で滑り落ちてくる二人を俺は抱き上げる。
澪も満面の笑顔を浮かべてくれていて、俺は嬉しくなる。
その後、近所の駄菓子屋へ。
そこで買ったグミを三人で分け合って食べていく。
自然と笑顔になれる、そんな穏やかな時間だった。
そして、どんなことにも終わりはつきものであるように――
「それじゃあね。バイバーイ!」
「ば、ばいばい……」
『暗くなってきたから』という理由で、俺たちはそれぞれの帰路についた。
「たのしかったあ!」
帰り道、律は満面の笑顔を浮かべている。
「そりゃ、よかったな」
俺もそんな彼女を見て、気分が高揚するのを感じた。
「みおちゃんとまたあそびたいなあ……」
うっとりとした目つきでそんなことを言う律。
どうやら、二人は相当に相性がよかったとみえる。
「ああ、そうだな」
俺も、この時代の「澪姉」にもう一度会ってみたくなった。
あっ、そうだ。言い忘れていたか。
あの悪ガキ共の応急手当はしておいてやった。
駄菓子屋のばあちゃんに、包帯をはじめとする様々な救急用具を借りてきたのだ。
全員、完璧に気絶していたので少し心配になったが、そこまで重傷を負っては
いなかったので安心する。傷口を消毒し、包帯を巻いていった。
「どうして、こんなやつらの……」などと文句を言いながら、律も手当てを
手伝ってくれた。澪もオロオロしながらも、サポートしてくれた。
やっぱり、このころから二人は変わっていない。
だから、俺は二人の「姉」を尊敬しているのだ。
(帰れんのかなあ……)
そんなことを考えて夕焼けを見ていると、とてつもない不安に襲われた。
「どしたの?」
でも、そんな不安も――
「ううん、何でもないよ」
律の顔を見ていると、吹っ飛んでしまうのだった。
そう言って、二人で穏やかに笑い合う。
このとき、俺は気づいていなかった。
「ふふ……順調らしい」
そんな穏やかな時間が、長く続くことなどありえないということに――。
「いっただきまーす!」
「いただきます」
「……い、いただきます」
食卓に響く三者三様の声。
律は喜々としておかずに箸を伸ばし、父は魚の骨をのんびりと取り出している。
で、俺はといえば……。
「ほら、律。こぼしちゃってるよ」
「わっ、ホントだ!」
「少し、落ち着きな」
律のシャツを拭いてやりながら、俺は注意を促す。
「えへへ~、美味しいんだもん!」
世話を焼かれながらも、律は笑顔である。その奔放さが羨ましい。
「――本当に仲が良いな、君たちは」
父はそんな俺たちを優しく見つめている。
その瞳に、俺達の姿をとどめようとしているかのようにも見えた。
「ふふっ、だってお兄ちゃんってなんか――」
律はそう言った後
「ほんとにきょうだいみたいなんだもん!」
と、続けた。
そう言われて、俺は感動していた。
(やっぱり、分かるものなのか)
絆ってやつは、あらゆる理屈を飛び越えて、人と人とを繋げてくれる。
そんな詩人めいたことを考えて、少し恥ずかしくもなった。
「今日ね~、公園で――」
「ほう……そんなことがあったのか」
「それでね、みおちゃんって子となかよくなったんだよ!」
「それは、よかったなあ……いつか一緒の所へ通えるといいね」
「うん!」
穏やかな父娘の語らい。二人の顔に浮かぶ笑顔。
見ていると、どこか寂しい反面、嬉しさもあった。
(でも、やっぱり……)
いつかは、終わってしまうのだろう。こんな日常も。
(俺がここにいること自体、おかしいんだしな)
「ごちそうさま~!」
「ごちそうさま」
「……ごちそうさま、でした」
食後の挨拶を終えて、俺たちは思い思いの行動を取る。
まず、俺は――
「……いいんですか? 俺、食費とか払わないと――」
父に、気になっていたことをぶつけていた。
「言っただろ? 今の君は、僕たちの家族だ」
「……」
いくらなんでも、甘すぎやしないか。この人にとって俺は、見ず知らずの他人なのに。
けれど――
「明日あたり、僕の手伝いをしてくれるかな? 君が作ったら、律も喜ぶだろうし」
父親らしい面を覗かせても、いた。
「ええ――喜んで」
幸い料理だったら、姉ちゃんと一緒に挑戦していた。
普段から二人して、料理の腕を競いあっていたものだ。懐かしい――
「それはよかった。じゃあ、明日よろしく」
ニッコリ笑って、父はソファーの上で横になった。
「どうすっかな」
食卓から離れて、俺は色々と考える。
現実への帰還、この時代に飛ばされたわけ、姉ちゃんとの確執……
懸念事項は多い――
「おにいちゃ~ん!」
食後だというのに、律は変わらぬスピードで俺に飛びついてきた。
ここは俺に宛がわれた部屋だ。布団の上で、律はゴロゴロしていたらしい。
「なんかしよう!」
そんな律のはしゃいでいる様子を見ていると――
「……ま、いいか」
心配事なんて、吹き飛んでしまうのだった。
「私ねー、もうすぐきょうだいが出来るんだ~!」
一緒にトランプ(ただし、7並べに限る)をしていると
律はおもむろにそう言った。
「……えっ?」
「おとうとかなー、いもうとかなー?」
楽しそうに笑っている律を見ながら、俺は動揺の色を隠せない。
「い、いつ!?」
俺は律に顔を寄せる。
「え、なになに?」
「そのきょうだいは、いつ頃生まれる予定なんだ!?」
たぶん、俺の顔は必死だったはずだ。
「う、うーんと……たしか」
俺の必死さをみかねてか、律は考えだしてくれた。
「あっ、そうだ!」
ポンと手を打ち
「あと、三日!」
嬉しそうに、告げた。
それを聞いて、皮膚が粟立った。
(ま、待てよ……三日?)
となると――
(俺は、どうなる?)
この時代にいる、俺は?
「お、おにいちゃん……だいじょーぶ?」
はっと気付くと、律の心配そうな顔が眼前にあった。
「あ、ああ、ごめん。大丈夫」
にっこりと笑ったつもりだったが、ぎこちないものになってしまったのだろう。
律の顔から不安の色は引いていない。
「ほんとに?」
「う、うん。ほんとに!」
でも、こんなこと律に教えられるわけがない。
誰か――
(誰か、教えてくれ!!)
叫びたくなる衝動を必死に抑えた。
「……おにいちゃん」
律は未だに苦悩している俺を見て、声をかけてきた。
「な、なに?」
動揺しながら返事をする俺に――
「おふろ!」
予想外の提案が打ち出されたのだった。
――ザパン。
「きもちい~!」
浴室に律の楽しそうな声が響く。
「そ、そうだな」
俺も困惑気味に声を返す。まさか、こんなことになろうとは――
「いいよ、一緒に入ってきなさい」
あっさりと提案は受け入れられた。
「わーい!」
律の歓喜の声とは対照的に――
「ほ、ほんとうに!?」
困惑の色にまみれた俺の声。
「だって君たち、ほんとうにきょうだいみたいじゃないか」
そんな俺達に、父はあっさりと言い放った。
そして、この状況である。
「いい湯だな~♪」
節をつけて、律が幼い声で歌い始めた。
「ははっ……」
俺は苦笑することしか出来ないでいた。まさか、再び姉と共に
風呂に入ることになるなんて――
(いや、今は兄妹? ってことになるのか)
余計、複雑だった。
「おにいちゃん、頭洗って~!」
ザパンと浴槽から出て、律はシャワーの前へと移動する。
「……いいよー」
俺の声は、はたして明るく発せられていただろうか?
浴室にゴシゴシという音が生まれる。
「~♪」
律は気持ち良さそうに、俺の手に身を任せている。
「――気持ち、いいか?」
「うん! すごく!!」
満足そうに頷く律。そんな彼女に苦笑する俺。
(そういえば)
姉ちゃんも、髪の毛に関連するものが好きだったっけか。
ドライヤーとかには、ものすごく拘っていた。
それに――
「おにーちゃん?」
俺の思考は律の声に中断させられた。
「ああ、なに?」
そんな律に返事をする。
「あと三日で、わたしにはきょうだいがうまれるけど」
律の口から再び告げられる、厳然たる事実。
それを聞かされて、俺は溜息をつきたくなる。
(……でも、律にとっては嬉しいことなんだよな)
そう思うと、聞いてあげられる程度の余裕が生じた。
「でもね!」
クルッと後ろにいる俺に振り向く律。
「おにいちゃんは、おにいちゃんだよ!」
小さな口から、一生懸命な言葉が紡がれた。
「だから、だいじょうぶだよ!」
そう、律は言ってくれた。
(……)
実を言うと、俺は感動に打ち震えていた。
拙い言葉だとは思う。いったい、何がどう「だいじょうぶ」なのか。
そういったことが全く以て、明確ではないから。
けれど、今の俺には――
「ありがとう」
何よりも素晴らしい激励の言葉だった。
「うん、良かった!」
律は満足そうに微笑んでいる。
「おふろにつれてきて!」
えへへっと笑い声を漏らす律。
「……もしかして」
俺を励ますために――?
「うん! おとーさんがいってた!
『おふろには人を変える魔法がある』って!」
満足そうにそう返してくれる律。そんな彼女を見て――
「律は、良い子だな」
愛しさが込み上げてきた。
「でしょー、へへっ!」
得意げな顔を見ていると、現実のあいつとまた重なる。
でも――
「ああ、ほんとうに」
不思議と寂しさは感じなかった。風呂の魔法、だろうか。
「おやすみ~!」
「おやすみ、なさい」
「ああ、おやすみ。律はお兄ちゃんと一緒に寝るのかい?」
「うん! そ~するの!」
「そうか。仲良く、な」
「わかってるって!」
自信満々に、律は言葉を返す。
そして、早々と俺の部屋へと飛んで行った。
「……じゃあ、俺も」
「待ってくれ」
部屋を退出しようとする俺に、父が声をかけた。
「もしかして、あの子から聞いたのかい?」
何を、とは言われなかったが、それでも俺には分かった。
「――ええ」
「そうか……」
どこか複雑そうな表情を浮かべている。
「聡くん」
「は、はい」
「律と、目一杯仲良くしてあげてくれ。あの子はずっと寂しがっていた」
「……もちろんですよ」
俺ははっきりとそう告げる。今は、これでいい。
「それを聞いて、安心したよ……」
安堵の表情を浮かべる父に、「それでは」と言って部屋を出た。
続く――
最終更新:2010年01月19日 14:58