(シリアス注意)
※
本当の事なんて、一生言うつもりはないんだ。
望んでも手に入らないのは分かってる。
望むこと自体、間違ってるのも分かってる。
おかしいのは私なんだ。
だから、あの子を巻き込みたくない。
とても優しい子だから。
あの子はきっと、普通に恋をして、結婚して、普通の幸せを手に入れる。そういう子だ。
それが一番だと思う。
だからこれは、一生言わなくていい事だ。
※※
カタ。
小さな物音に聡の意識は浮上する。
瞼を上げると、見慣れた天井がそこにあった。
そのまま視線を横にやると、つい最近父が買ってくれたスチール製の本棚の前に、律の後ろ姿があった。
聡「……姉ちゃん?」
律「―――あ。悪い、起こしちゃったか」
律はこちらを振り返ると苦笑した。
日はほとんど暮れていて、部屋の中は薄暗い。少し開け放った窓から入り込む風が、カーテンを静かに揺らしている。
聡はゆっくりと上体を起こした。
聡「どうしたの?電気も付けないで」
律「あー、いや。ちょっと辞書借りてこうと思って。聡寝てたし」
聡はベッドから降りると電気を点けようとして、…何故だろう、何となく――――やめた。
聡「何の辞書?」
律「英和」
聡「ちょっとどいて。―――えーと英和……あっ、あった。はい」
本棚から辞書を抜き取ると律の胸元に差し出す。
律「おッ、サンキュー。借りてくな」
聡「ちゃんと戻してよ」
律「ほーい」
律は背を向けると辞書を片手にドアの方へと歩いて行く。
ふと、その歩みが止まった。「そいや聡」と振り返る。
律「今日可愛~い女の子と二人で歩いてるの見ちゃったんだけど。あれってカノジョ?」
にやっと笑う。
聡「え?は…?」
何の事かすぐには分からず、寝起きの頭で思考を巡らせると思い当たる事があった。
聡「ち、違う違うッ!……あれはただのクラスメイトだし!つーかアイツは新庄狙い…とと」
律「…なんだぁ、違うのか」
聡「違います」
律「聡に彼女が出来た時は女心というものをしかとレクチャーしてやろうと思ってたのに」
聡「いらないし!…ていうか姉ちゃん絶対からかうから出来ても言わない」
律「なにさー。けち」
律はつまらなさそうに唇を尖らせると、ふいと顔を背けた。「でも、」と続ける。
「―――そしたらもう、一緒に映画行けないなぁ」
その口調は先程までと変わらないものだったが、聡は何故かどきりとした。
律はそのまま背中を向けて部屋を出て行こうとする。
何となく、何か言わないといけない気がした。
でも何を?
分からない。
だって俺、全然ガキだもん。分かんないよ。
なぁ、姉ちゃん、どこかへ行っちゃうの?
律と居るとたまに、怖いような、寂しいような、もどかしいような―――複雑な感覚に襲われる事があった。
それが何なのか、はっきりと分からないのは、聡がまだ中学生だからだろうか。
大人になれば、分かるのだろうか。
でも。
聡「―――俺、ずっと姉ちゃんと映画行くよ」
律の肩がぴくりと震えた。聡は続けた。
聡「姉ちゃんが呼んだらどこでも行くし、姉ちゃんが悲しい時は一緒に居るし、困った時は助けるし、…えーと」
律「聡…?」
聡「と、とにかく、俺は変わらないから。ずっと!」
律は驚いたように聡を凝視している。
聡も目を逸らさなかった。
何故、こんな事を言っているのか、自分でもよく分からない。
部屋の中はもうすっかり日が落ちて真っ暗だ。
窓から流れ込んでくる湿った空気がやけに肌に纏わりつく。心なしか、息苦しい。
まるで海の中にいるようだと、聡は思った。
今、自分は暗いの海の中を手探りで進んでいる。―――何が正解で、何が外れなんだろう。
ただ一つ言えるのは、律が悲しいのは嫌だという事。
律「――――いいな、それ。」
先に視線を逸らしたのは律だ。
顔を伏せて自分の指の爪を見つめている。親指の爪を人差し指でカリッと掻く。
律「…このままずっと居られたら幸せなんだけどな」
聡「ずっと幸せだよ、姉ちゃんは」
間髪容れずに言うと、律はきょとんと顔を上げた。大きく見開かれた瞳が聡に向けられる。
ふとその口元が緩んだ。
律「なーんか太陽みたいだな、聡は。」
聡「え?」
律「あーあ、聡が何かすごく眩しいよー。くやしいのぅくやしいのぅ」
聡「は?何言ってんのさ、姉ちゃんだって――」
律「聡のバカバカ馬鹿やろうー」
聡「ちょっ…、姉ちゃん??」
真剣に話をしていたつもりなのに、律の様子に聡は混乱する。
もしかしたら、自分はからかわれているのだろうか。
何か文句でも言ってやろうと口を開いた時だった。
「―――変わらないものなんてきっとないよ」
聡は言葉を呑み込んだ。
目の前の律はもう笑ってはいなかった。口元をぐっと引き結んで、痛々しいほど真っ直ぐで真剣な瞳をこちらに向けている。
聡にはその顔が、今にも泣き出しそうなものに見えた。
律「変わらないものなんて、ないと思う」
聡「…」
心臓が激しく脈打っている。
律「――――あ、でも変わらない事もあるな」
細い指が伸びてきて、聡の髪を優しく撫でた。
身体が、小さく震える。いつの間にかズボンの横をぎゅっと握り締めていた。動けない。
律は聡の髪に絡めていた指を離すと、ゆっくりと視線を外した。
「私はずっと、聡の姉ちゃんだ。」
※※
律が部屋を出て行った後も、聡は暫く立ち尽くしていた。
心臓の音がやけにうるさい。頭が混乱していてうまく思考を整理できない。
「……」
おぼつかない足取りでベッドまで行くと、そのまま身体を投げ出した。ギシッとスプリングが軋む。
無性に泣きたかった。
自分と姉は今、一体何を話していたんだろう。
いや、考えるな。考えなくていい。
もう寝てしまえ。
次に顔を合わせた時にはいつもの自分達に戻ってる。明日からはまた、いつもと変わらない日々が待っているんだ。
(この扉は、まだ開けない方いい。
―――そんな気がする)
窓の外の夜が、ベッドの下の闇が、じわじわと聡を浸蝕していく。
―――呑み込まれる。
聡はぎゅっと瞼を閉じると、いつしか深い眠りへと墜ちていった。
夜が、深まっていく。
※※
最終更新:2010年01月19日 15:05