※
本当の事なんて、一生言うつもりはないんだ。
望んでも手に入らないのは分かってる。
望むこと自体、間違ってるのも分かってる。
おかしいのは私なんだ。
だから、あの子を巻き込みたくない。
とても優しい子だから。
あの子はきっと、普通に恋をして、結婚して、普通の幸せを手に入れる。そういう子だ。
それが一番だと思う。
だからこれは、一生言わなくていい事だ。
…――――だけど。
※※
「―――しまった。学校に辞書忘れたぁ…」
珍しく問題集を机に広げていた律は、思わず溜め息をついた。
握っていたシャーペンを放り出して、椅子の背にもたれかかる。
椅子がギシッと悲鳴をあげた。
窓の外はもうほとんど日が落ちている。
見れば夕方と夜の色が空にグラデーションを描いていてとても綺麗だ。
反対に、律の気分は落ち込んでいた。
長い溜め息をついて、背中を曲げると机に額をくっつけた。
そのまま、ずずずと体重をかける。
「…………あ、聡に借りればいいのか……」
ぼそりと呟いて、律は椅子から立ち上がった。
コン、コン。
聡の部屋を軽くノックする。
暫く待ったが、中からの反応はない。
確かもう帰って来ていたはずだが。
律は首を傾げると、ドアノブを握った。
少し開いたところで、電気が付いていない事に気が付いた。
律「聡…?」
律は中を覗きこむと、小さく名前を呼んだ。
部屋の中は薄暗い。
窓は開きっぱなしで、そこから流れ込む風が、カーテンを通して律の頬を掠めていく。
聡はベッドの上に居た。仰向けになって寝転んでいる。
制服は着たままで、鞄は無造作に横に放ってあった。
律「聡、寝てるのか…?」
律はその枕元まで歩いて行くと、静かに腰を下ろした。
そっと聡の顔を覗き込むと、薄く開いた唇からすーすーと寝息が漏れていた。
律「聡」
呼んでみるが、全く起きる気配はない。
律は、まじまじとその寝顔を観察した。
意外に睫毛が長い。
ニキビひとつないその肌は、律よりもずっと日に焼けて黒かった。
まあ、普段からあれだけ外を走り回っているのだから、当然といえば当然だろう。
視線を移すと、頬の辺りに何かで引っ掻いたような傷があった。
近所の猫に引っ掻かれたのだとすぐに推測できた。
まめにちょっかいをかけては、傷をつくって帰ってくるのだ。
猫に威嚇される弟を想像して、口元を緩ませる。
律「………」
ふと、夕方の事を思い出した。
ずんと胸が重くなる。
…――――今日、クラスメイトらしき女の子と2人で歩く聡を見掛けた。
学校帰り、ショッピングモールに立ち寄る途中の事だった。
背が低めの聡よりも更に低い。
並んで歩くその姿は、どこからどう見てもかわいらしい中学生カップルだった。
楽しそうに話をする聡は、道路を挟んだ向こう側の律に気付いた様子はなかった。
――ああ、その時が来てしまったのか。
律はそう思った。
覚悟はしていても、酷く胸は痛んだ。
こちらの胸中を知ることなく、目の前の聡は穏やかな寝息を立てている。
そっと手を伸ばす。
その少し癖のある柔らかい髪を、指に絡めた。
聡からは外の匂いがする。
土と、草と、―――太陽の匂い。
聡が太陽なら、私は月だ。
律は身を乗り出すと、その寝顔にそっと自分の顔を近付けた。
肘のところのスプリングが、小さく軋む。
聡「――――うーん…」
律「!」
聡が身じろく。
心臓が跳ね上がった。
律は慌てて聡から体を離すと、本棚のほうへ駆け寄った。
とっさに蹴飛ばしてしまった時計が、カタンと音を立てた。
心臓が激しく脈打っている。
―――今、何を?
私は今、何をしようとした?
とうの昔に決めたはずだ。
決めたはずなのに、なんで―――
「…ええーと、辞書辞書…」自分を誤魔化そうと小さく呟いた。
目が、並んだ本の上をただ意味もなく滑っていく。
棚に添えた指が、小さく震えてしまっている。
ほんと、何やってんだ。
泣きたい。
「…―――姉ちゃん?」
背後でごそりと動く気配がした。
律の心臓が跳ね上がる。
できるだけ、平静を装って振り返ると、横になったままこちらを見る聡と目が合った。
律「―――あっ、悪い、起こしちゃったか」
無理やり笑顔を作ったが、多分引きつっているはずだ。
まだ震える指を、無理やり両の手を握り合わせて、ぎゅっと抑え込んだ。
背中を、嫌な汗が伝っていく。
聡は目元をこすりながら、ゆっくり身体を起こした。
聡「どうしたの?電気も付けないで」
眠たそうに目を瞬かせている。
いつもの聡だった。
途端、律の全身からどっと力が抜けた。
良かった、気付かれてない。
良かった。
律「……あー、いや。ちょっと辞書借りてこうと思って。聡寝てたし」
ははっと渇いた笑いを漏らす。
聡「何の辞書?」
聡はベッドから降りると、眠そうに頭を掻きながら歩いてくる。
律が英和だと答えると、「ちょっとどいて」と日に焼けた細い腕が、律のすぐ目の前をかすめて本棚へと伸びた。
律はどきりとして、慌てて一歩後退する。
初めは本棚を探す聡を見ていた律だが、後ろめたさから、すぐに視線は落ちた。
聡が電気をつけなくて助かった。
今、明るい場所で聡の目を見る自信がない。
聡「あっ、あった。はい」
聡は本棚から辞書を抜き取ると律に差し出した。
それを受け取る。
律「お、サンキュー。借りてくな」
聡「ちゃんと戻してよ」
律「ほーい」
律は聡に背を向けると、逃げるようにドアへと歩き出した。
だがすぐに、歩みを止める。
そんな余裕なんてないはずなのに、どうしても気になって、律は振り返った。
律「そいや聡、今日可愛ーい女の子と二人で歩いてるの見ちゃったんだけど。あれってカノジョ?」
からかうような表情を作る。
聡は、きょとんとしている。
聡「え?は…?」
記憶を探るように視線をさまよわせて、すぐに思い当たったらしく、慌てて口を開いた。
聡「ち、違う違うッ!……あれはただのクラスメイトだし!つーかアイツは新庄狙い…とと」
顔を赤くしながら慌てて口をつぐむ。
律「…なんだぁ、違うのか」
「違います」と聡は何度も頷いて同意する。
思わずほっとしたが、すぐに自己嫌悪にかられた。
そんな自分を取り繕って、律は続けた。
律「聡に彼女が出来た時は、女心というものをしかとレクチャーしてやろうと思ってたのに」
聡「いらないし!…ていうか姉ちゃん絶対からかうから出来ても言わない」
聡は顔を真っ赤にして言う。
少し、傷ついた。
そりゃそうか。
聡だってもうお年頃だもんな。
彼女とかそのうち作るつもりだよな。
…そりゃそうだ。
「なにさー、けち。」つまらなそうに唇を尖らせたが、ふいにその視界が歪んだ。
律(やば…っ)
慌てて顔を背けた。
惨めさで自分が歪んでいくようだ。
何か、やだなぁ。こんな自分。
必死に込み上げる涙をこらえながら「でも、」と続ける。
律「―――そしたらもう、一緒に映画行けないなぁ」
誰にも分からないように吐いた、弱音だった。
律は部屋を出て行こうとする。
本当に今日の自分は最低だった。
1度頭を冷やした方がいい。
「―――俺、ずっと姉ちゃんと映画行くよ」
背後からの予想外の返事に、ドアノブへと伸ばした律の手がぴたりと止まった。
聡「…姉ちゃんが呼んだらどこでも行くし、姉ちゃんが悲しい時は一緒に居るし、困った時は助けるし、…えーと…………………………と、とにかく、俺は変わらないから。ずっと!」
律は何も言えず、ただ聡の顔を見つめていた。
聡は手を握ったり開いたりと落ち着きなく動かしていたが、それでも慎重に言葉を選んでいるようだった。
その必死さが、向けられた眼差しから伝わってくる。
「…」
互いに視線を合わせたまま、長い沈黙が落ちた。
カチ、カチ、カチ、と目覚まし時計の針の音が聞こえる。
部屋は真っ暗に落ちている。
いつの間にか、すっかり夜になっている事に、律は今頃気が付いた。
聡の向こう、月明かりに照らし出された白いカーテンが、音もなく揺れている。
綺麗だな。
律はまるで場違いな感想を抱いた。
…まるで夢の中にいるみたいだ。
律は視線を手元へとうつした。
親指と人差し指の爪を、意味もなくこすり合わせる。
ほんの一瞬。
ずっとこのままいられるんじゃないかと。
希望を抱きそうになってしまった。
そんな事あるわけないのに。
律「――――いいな、それ」自嘲気味に、諦めを吐く。
律「……このままずっと居られたら幸せなんだけどな」
だけどそれは、すぐに聡によってすくい取られた。
聡「ずっと幸せだよ、姉ちゃんは」
はっきりとした声だった。
律は今度こそ驚いて聡を見つめた。
何も言葉が出てこない。
律は先程から、核心から遠くないとはいえ、あやふやな事しか話していない。
なのに、どうして聡からこんなにもしっかりとした反応が返ってくるのかが、不思議だった。
2人の会話は少し妙だ。
聡は気付いているのだろうか。
律は、目の前の弟を観察した。
くもりのない透き通った瞳を真っ直ぐ向けている聡。
―――ちがう。
多分、聡は何も分かってはいないのだろう。
ただ本能で、必死に律の気持ちをすくい取ろうとしている。
必死に歩み寄ろうとしている。
自分を頼って欲しいと言っているのだ。
少し泣きそうになった。
聡の真っ直ぐさが、律は好きだと思う。
ついその優しさに、甘えたくなってしまう。全部吐きだしてしまいたくなる。
だけど。
律「…―――なーんか太陽みたいだな、聡は。」
聡「え?」
律「あーあ、聡が何かすごく眩しいよー。くやしいのぅくやしいのぅ」
律は聡に歩み寄ると、その頭をぽかぽかと軽く叩いた。
聡「は?何言ってんのさ、姉ちゃんだって――」
律「聡のバカバカ馬鹿やろうー」
聡「ちょっ…、姉ちゃん??」
聡は律の行動が理解できずに、動揺している。
ごめん、聡。
やっぱ言えないわ。言えるわけない。
自分の勝手に聡を巻き込めない。
なあ、聡。
「―――変わらないものなんてきっとないよ」
律は静かに告げた。
「変わらないものなんて、ないと思う」
もう一度繰り返す。
それは一体誰に向けての言葉なのか。
聡が驚いたようにこちらを見ている。
今、自分はどんな顔をしているのだろう。
…―――分からない。
「でも変わらない事もあるな」
癖のあるその髪を優しく撫でた。
聡はただ、無言で律の顔を見つめている。
(そんな顔しなくていいのに…)
律は聡の髪に絡めていた指を離すと、視線を外した。
…―――忘れるな。
この子はあんたのなんだ?
あんたはこの子のなんだ?
…そうだよ。
「…―――――私はずっと、聡の姉ちゃんだ。」
それは他の誰でもなく、自分自身への警告だった。
終わり。
最終更新:2010年01月19日 15:20