「もういいよ」
「じゃあ勝手にしなさい!」
田井中の家リビングは、緊張感した空気に包まれていた。
「ちょっとお母さん、聡も―――…」
律は慌てて二人の間に割って入った。
だが聡は無言でリビングを出ると二階へと上がってしまった。
※※
律「…―――――お母さん、聡はいいの?」
弟が二階から降りてくる気配はない。
父は残業で遅くなるということで、食卓は母と律の二人きりだった。
放っておきなさいと母は不機嫌そうに言った。
(意地っ張り…)
きっかけはほんの些細な事だった。
ただ、母も聡も今日は少し機嫌が悪かったのだ。
いつもなら笑って流せた事が、気がついたら口論へと発展していた。
めずらしい事だった。
(しょうがないな…)
食事が終わるとテレビを観ている母の目を盗んで
律は聡の食事を二階へ持って運んだ。
コンコン。
部屋のドアを2回ほどノックして小声で呼びかける。
律「聡、食事持ってきたぞ」
……。
中から返事はない。
律「聡…?」
もしかして寝ているのだろうかと律はドアノブをひねった。
ひょい、と中を覗いてみる。
律「あれ……?」
部屋のどこにも、聡の姿はなかった。
※※
…―――駄目だ、眠れない。
律は布団の中で寝返りをうった。
父も母もとうに眠りについている。
この家で、聡の不在に気付いているのは律だけだ。
(早く帰って来いって聡―――…)
廊下に耳を澄ませながら、もどかしさに苛立った。
時間が経てば経つほど、良くない想像が頭の中を支配していく。
律「―――ああもうっ」
律はガバッと身体を起こした。
※※
軽く着替えを済ませると、こっそりと家を抜け出した。
律「あ」
玄関前の聡の自転車が無い。
律は門を出ると、とりあえず歩き始めた。
あてなどない。
それでもじっとしているよりはマシだ。
…―――聡のバカ。
寒さに襟元の服をたぐり寄せて、律はぽつりと呟いた。
まずは近くのコンビニに行った。
店の前には何人かの若者がたむろしていたが、聡の姿はなかった。
次に向かったのは学校だ。
周りをぐるりと一周してみたが、やはり聡の姿はなかった。
律は思い付いた場所を転々としていく。
聡は見つからない。
―――まさか、何か事件に巻き込まれたのでは?
―――どこかで死んでいるなんてこと…
思考が悪い方へ悪い方へと転んでいく。
律「聡…」
早く顔を見て安心したい。
夜の住宅街を歩きながら、律は子供の頃の事を思い出した。
夜中に目を覚ますと隣りに寝て居たはずの母の姿がどこにも見当らない。
急に不安になる。
もしかして自分は置いて行かれたのではないかと。
あの時の心細さに似ている。
(聡のバカ…)
公園前まで来た時、律の心臓は大きく跳ねた。
公園の入口にある電話ボックスの横。
見覚えのある自転車を見つけたのだ。
律は思わず駆け寄った。
律「―――聡のだ…」
消えかけているが『田井中聡』としっかり読める。
律は辺りをキョロキョロと見渡した。
律「…聡、――――聡っ」
声を殺して名前を呼ぶ。
…――返事はない。
返ってくるのは静寂のみだ。
律「聡っ」
もう一度呼んでみる。
が、やはり返事はなかった。
「どうしよう…」
不安が現実のものになっていく。
「どうしよう…」
震える唇に指を押し当てた。
律はただ呆然と立っていた。
…――――――じゃり。
「…―――姉ちゃん?」
律はハッと声のした方を見た。
公園から姿を現したのは、他でもない聡だった。
律「…―――聡…」
聡「えっと、姉ちゃんどうした、の?」
律「…お前、どこ行ってたんだよ」
聡「あっ…と、ちょっとそこのトイレ…」
聡は気まずそうに視線を泳がせながら歩いて来る。
律「……」
聡「あ、えっと」
律「……」
聡「ね、姉ちゃん…?」
はああ、と息を吐き出して律はその場に崩れ落ちた。
聡「あれ??姉ちゃん?!」
律「よ、よかったぁ~~~~……」
安度のあまり涙が出てきた。
聡が無事で本当に良かった。
ぽろぽろと涙を零す姉に聡はどうしたらいいか分からずオロオロとしている。
律はその額を軽くはたいてやった。
聡「いてっ」
律「お馬鹿!心配させんな」
ぐずっと鼻をすする。
聡「ごめん、…」
聡はしゅんと俯いた。
たくさん文句を言ってやろうとしたのに、聡の申し訳なさそうな顔を見たら思わず笑ってしまった。
「帰ろっか」
今頃気がついたが、夜空がとてもきれいだ。
空一面に星が輝いている。
ぶらぶらと歩く律の横で聡はカラカラと自転車を押していた。
聡「今日さ、学校でちょっと嫌なことがあって」
…――何かむしゃくしゃしてた。
聡はぽつりと言った。
律「…まあ、そういう時もあるよなぁ」
聡「うん…」
律「でも、本当に心配したんだかんな?携帯は部屋に置きっぱなしだしさ」
聡「ごめん。…―――――――あのさ、母さんは?」
上目遣いでおそるおそる聡は聞いてくる。
律「気付いてないよ、全然」
聡「……そっか」
律「あ。今ほっとしたなぁ?根性のないヤツめっ、うりうり」
拳を作って聡の頭を軽くぐりぐりする。
聡「や、やめろって…」
自転車で両手がふさがっている聡はうまく抵抗ができない。
律は聡から身体を放すと「ん。」と右手を差し出した。
聡「え、なに?」
律「手、つなごーぜ」
聡「え、何で?」
律「何かそんな気分だから」
聡「俺自転車おしてるんですけど…」
律「いーじゃん頑張れ!」
聡「頑張れって……、…――――やだよ、恥ずかしいし。」
聡は目を逸らして少し顔を赤くする。
律「誰も見てないって」
ほら、と右手をひらひら揺らす。
聡は少し迷ってから、おずおずと左手をハンドルから離した。
律はその手をぎゅっと掴まえた。
聡「……」
律「聡、手あったかいな」
聡「…姉ちゃんは冷たいのな」
律「んー、ちょっと冷えちゃった」
聡「…」
もしかして随分と探してくれてたのだろうかと、聡は隣りを歩く姉を見て思った。
申し訳ないのと同時に、どこか嬉しく思う自分もいた。
握った手に少し力をこめる。
少しでも姉の手が暖かくなるようにと。
律「聡、お腹空いてないか?」
聡「うん、空いてる」
律「ちゃんと聡の分のご飯もあるから、家帰ったら食べな?」
聡「うん」
律「お母さんと明日仲直りしろよーっ?」
いきなり握った手をぶんぶんと振る。
思わず自転車のバランスを崩しかけた。
聡「ちょッ…危ないって」
律は楽しそうに笑っている。
聡も自然と笑顔になった。
「姉ちゃんありがとな」
〈おしまい〉
最終更新:2010年01月19日 16:32