※「時をかける聡(時を越えて)」の他作者による完結編です
〈1〉
「聡君ってちっちゃいしかわゆいし、なんか守ってあげたくなっちゃう感じだね」
隣の唯が言う。
「昨日もずっとりっちゃんの横から離れなかったものね」
うーん。まあ、女の中に男が一人だとああなるのも仕方ない。
「聡はお姉ちゃんっ子だからな。な、律?」
…お姉ちゃんっ子っていうか、普通に仲いいだけなんだけどさ。
「私より背、小さかったです。…あ、いや、悪いわけではなくて」
そういや聡、梓より小さいな。まあこれから伸びるだろ。
「…―――でもあいつ、ああ見えて芯は私よりずっとしっかりしてるし男らしいぞ」
全員が、一斉にこちらを見た。
その顔がにやっと笑う。
(しまった)
完全にブラコン扱いだ。
〈2〉
帰り道。
律は歩く歩調は変えずに、後ろの気配をうかがった。
(…―――誰か付いて来てる)
まずい、と思った。
今日は部活のあとに中学時代の友人と会っていたせいで、いつもより帰りが遅くなってしまった。
近道だからってこんな時間に人気のない公園を通り抜けようだなんて。
律はポケットから携帯を取り出すと素早くメールを打つ。
『聡公園やばいかも来て』
即送信。
そうしている間にも後ろの気配は近付いて来る。
まだ公園の出口までは距離がある。
(もう少し…もう少し…)
荒い息遣いが聞こえる気がする。
いや、気のせいだ気のせい。
出口まであと数メートルのところまで来ると、律は一気に走り出した。
同時に後ろでも走り出す気配。
あと少しで出口、―――というところで腕を掴まれた。
律「………ぁっ……、っ…!」
言いしれない恐怖が襲う。
律は必死にあらがった。
男だ。顔は見えない。
力の差は恐ろしいほど圧倒的だった。
公園の中にぐいぐいと引き戻される。
自分の息遣いと男の息遣い。必死の攻防戦。
鞄も落ちた。
(やばい怖い――――――聡!)
キキッと耳をつんざくブレーキの音がした。
軽い衝撃のあと強い力から開放される。
勢いでしりもちをついた。
同時にガシャンと何かが倒れる音。
目を開けると聡が男を地面に押さえ込んでいた。
その横には倒れた自転車。タイヤがカラカラと空回っている。
多分そのまま突っ込んで来たのだろう。
力では男に敵わないのが分かっていたのか、聡はすぐに男から離れるとこちらへと走って来た。
聡「……姉ちゃん!」
座り込んだ律の腕を掴み、素早く横に落ちている鞄を拾う。
聡「走れ!」
〈3〉
聡に引っ張られるままとにかく走った。
聡「…………追って来ないみたいだな……」
周囲を確認した聡は安堵の息を吐くとこちらを振り返った。
聡「………姉ちゃん大丈夫?」
心配そうに覗きこんでくる。その制服のボタンが二つ飛んでいる。
二人は細い小道に身をひそめていた。
律「…意外に、声出ないもんだな…」
息を整えつつ笑おうとしたが顔はひきつった。
聡「俺もちょうど家着いたとこだったから、メール見てすぐ来れた」
律「そっか…」
聡「…………」
それきり会話が途切れた。
聡は律が落ち着くのを待ってくれているようだった。
遠くの方で救急車のサイレンが聞こえる。
暫く時間をやりすごし、聡はゆっくり立ち上がった。
聡「――――――そろそろ帰ろっか。母さん心配するだろうし…」
律「えっ、もうちょっと…」
とっさに聡の学ランの袖を引っ張る。
聡はいつになく心細そうな顔の姉を見下ろした。
聡「大丈夫だってば。俺いるし」
律「……………………分かった」
姉としてあまり情けない事を言うのも気が引けた。
聡から差し出された手に自分のそれを重ねると、ぐいと引き上げられた。
その小柄な身体からは想像しない力強さだったので律は少し驚いた。
そのまま二人歩き出す。
律「聡、自転車さ…」
聡「ん?姉ちゃん家まで送ったら取りに行くよ」
律「えっ?――さっきの男、まだ居るかもしれないのに?」
律はさっと青ざめた。
もしまた遭遇すれば、聡と男の体格差だ、どうなるか分からない。
聡「流石にもういないって」
律「だめだ、絶対だめ!……………明日朝早く起きて二人で取りに行こう?な?」
律は聡の手をぐっと引っ張って歩みを止めさせる。
うんと言うまで離さないとプレッシャーを掛ける。
聡「えー…?……うーん、自転車心配だけど…分かった」
聡は困った顔をして渋々首を縦に振った。
律はほっと胸をなで下ろした。
また歩き出す。
聡「…姉ちゃんもさ、自分が女だって事もうちょっと自覚しろよ」
律「すみません」
聡「あんまり遅くなる時は連絡くれたら俺迎えに行くし」
律「………聡、」
聡「なに?」
律「ありがとな」
聡「え?まあ、任せてくださいよ。へっへー」
律「……」
聡「…………ちょ、姉ちゃん泣くなって」
律「…私、男は聡と父さんがいればいいや」
ズッと鼻をすすって唇を尖らせる。
聡は思わず苦笑いした。
聡「両極端だなぁ」
そう言って少しぎこちない動きで律の頭を撫でる。
律が驚いて顔を上げると、聡はさっと手を引っ込めてあさっての方向を向いてしまった。
中学生のくせに…
と思ったが不覚にも安心してしまった。
聡の手は、意外に大きい。
〈4〉
本格的に熱っぽくなってきた。
ごほ、と咳をする度に喉の痛みが酷くなる。
マスクのせいか息が籠ってぼうっとする。
バイトが終わる頃にはもうすっかり日は落ちていた。
あとは家に帰るだけ。
だが足元はふらふらだ。しかも頭痛も酷い。二日酔いか。
ここ一週間ほど毎日のように酒を飲んでいた。
そうしないと、絶望に押しつぶされそうだったからだ。
最悪だ、と呟く。
おぼつかない足取りでコンビニに寄り、夜御飯を買う。
店を出て数メートル程歩いたところでしゃがみ込んでしまった。
何人もの人が目の前を行き交って行く。
だが彼に声を掛ける者は誰もいない。
(…まるで透明人間だな)
それをぼんやりと眺めながら、ごほっとまた咳をした。
こんなところに居てもしょうがない。
壁に手をついて何とか立ち上がる。
その視界に、見覚えのある少女が映った。
ぼうっとしていた頭が一気に冴える。
自然と少女の方へと足が赴いた。
少女は公園へと入っていく。
その後を追う。小さな背中を目の前にしながら、ただ歩く。
声を掛けたい。
でも、出来ない。
昔みたいに話ができれば。
…そんなの無理だ。
俺はここにいるのに、どこにもいない。
居場所がない。
―――助けて。
怖いんだ、助けてよ。
前を行く少女は公園の出口近くに来ると突然掛け出した。
彼は焦った。
置いて行かれる。一人になってしまう。
熱で正常に回らない頭はそれだけでいっぱいになった。
気がつけば少女に追いつき、その細い腕を掴んでいた。
「………ッ…!」
少女は声にならない悲鳴をあげて抵抗する。
それは彼の心を酷く傷つけた。
とにかく話がしたい。
それにはまず彼女を落ち着かせないと。
公園のベンチが目に入る。
少女をそこへ連れて行こうとした。
その瞬間、強い衝撃が彼を襲った。
地面に背中を強く打ち付けた。誰かが身体の上に乗っている。
誰だよ邪魔すんなよ。
そいつの服を掴んでどかせようとした。
ブチブチとボタンが飛ぶ音。
そいつと目が合った。
憎くてしょうがない相手だ。
そいつはさっとこちらから距離をとると、少女の手を取り走り出した。
彼女が行ってしまう。
のろのろと身体を起こす。
「いっ、て…」
背中が痛い。
もう追う気力も体力もない。
頭がくらくらして泣きそうだ。
どうしてこんな事になってしまったんだろう。
俺が何をしたというのだろう。
姉弟が消えた公園の入り口を見た。
「姉ちゃん―――…」
誰にも届くことのない言葉が聡の口から洩れた。
〈5〉
あの時、聡はまだ中学一年生だった。
姉とふとしたことから喧嘩になり、後悔の念に駆られながらも眠りについた聡は、
目を覚ますとどういう訳か十三年前にタイムスリップしていたのだ。
行く宛てのない聡は、若き日の父の好意で田井中家に迎え入れられた。
先への不安はあったが、父と幼い姉の優しさに触れて聡は救われた。
だけどそれも束の間。
「私ねー、もうすぐきょうだいが出来るんだ~!」
幼い律が無邪気に言ったその言葉は、着実に聡を追い詰めていった。
―――結局、田井中家にいたのはたった三日間だけだった。
聡は誰に告げる事なく家を出た。
出て行くと言えば、きっと父は反対しただろう。
引き止められれば意思を貫ける自信はなかった。
聡だってできればここにいたい。
だから、仕方がなかった。
それからは大変だった。
数え切れないほどの野宿も経験した。
コンビニの裏で食べ物をあさり、公園の水で身体を洗う。
あまりの辛さに何度あの家に戻ろうと思っただろう。
だけど、あと十三年待てばこの世界の聡は消える。
そうしたら、自分はあの家に戻り事情を説明しよう。
簡単じゃないかもしれないがきっと信じてもらえる。
いつかまた田井中聡として生きれる日が来るんだ。
その想いだけが聡を支えた。
だけど、その予想は大きく外れることになる。
その日…―――つまり今から一週間前、聡がタイムスリップをするはずだったあの夜。
姉弟が喧嘩することはなく、夜が明けてもこの世界の聡が消える事はなかったのだ。
朝、田井中家を仲良く出て行く二人を見て聡は愕然とした。
そして一つの結論にたどり着いた。
もし、未来は上塗りされるものではなく、枝分かれ状に増えて行くものだとしたら…
もし、ここが聡が生きていた世界とは別のところだとしたら?
だとしたら、聡には絶望しか残らない。
〈6〉
「はは…」
誰もいない公園の入り口を見つめながら、乾いた笑いが洩れた。
居場所を失い、風邪をひいて、あげく姉に拒絶されて。
もう動けそうにない。
聡はベンチに仰向けに寝転んだ。
視界に広がる星空は残酷なほどに綺麗だった。
「気持ちわる…」
激しく動いたせいで熱が上がったかもしれない。
まあ、いいか。
いっそ、このまま死んでしまえればいい。
明日なんて来ない方がいい。
そう願って目を閉じた。
〈7〉
「どうかどうか俺の自転車が無事でありますように…!」
翌朝、律と聡はいつもより少し早い時間に家を出た。
隣りを歩く弟はなむなむと手を合せている。
その様子を横目でちらりと見て律は笑った。
まもなく公園が見えてきた。
朝という事もあって昨日を思い出して恐怖することはなかった。
公園に入ってすぐに倒れている聡の自転車が目に入る。
聡「あ、あったあった!良かったぁー」
律「なかったらどうしようかと思ったな」
聡は自転車に駆け寄るとハンドルを取って起こした。
聡「うし!どこも壊れてないな。あっ!」
律「どした?」
聡「がーん。ちょっと傷いってる…」
あははーと律は苦笑した。
ふと、周りを見渡す。
公園には律と聡以外の人の姿はない。
律「……」
聡が自転車を押して戻ってくる。
聡「どうしたの?」
律「ん?いや、何でも。んじゃあ、学校行きますか」
聡「おー」
二人は公園を出ると逆方向に別れた。
聡の背中を見送ってから律も桜高に向かって歩き出す。
なぜだろう、後ろ髪を引かれている気がする。
理由は分からない。
〈8〉
「あ、あったあった!良かったぁー」
「なかったらどうしようかと思ったな」
自転車を見つけて嬉しそうにする姉弟を、聡は少し離れた木の影から見ていた。
そこには聡が失った幸せな日常が広がっていた。
見ているだけでこんなに辛いのに、目を離すことができない。
結局あのベンチの上で一晩を明かした。
どんなに絶望しても朝は来るし、そう簡単に死ぬなんてできない。
それはこの13年間で聡が嫌というほど思い知ったことだ。
二人はまもなく公園を出ていった。
楽しそうな声が遠ざかっていく。
聡は念のために充分時間をおいてから出ていった。
聡「ぅ、…」
急に動いたせいか吐き気が襲ってきた。
口許を押さえてそれが通り過ぎるのを待つ。
ちくしょう、風邪だって全然治っていない。
中腰で吐き気に絶える自分はとても惨めだろう。
あの家でとても幸せだった時のことを思い出す。
父さんがいて、母さんがいて、姉ちゃんがいて――――。
会いたい。
家族に会いたい。
「――――――あの、大丈夫ですか?」
その声にハッとなった。
誰かなんて見なくても分かる。
(何で戻って来たんだ?)
聡は今、マスクもしていない。
口許を押さえたまま、目だけでそちらを見た。 律だ。
〈9〉
先程公園を去ったはずの彼女がそこにいた。
気遣わしげな視線をこちらに向けている。
聡「……」
律「ええっと。取りあえずそこのベンチに―――…」
律の手が聡の背中へと伸びてきた。
一瞬、昨夜の拒絶された記憶が過ぎり、ビクリと身を引いてしまった。
律も驚いて伸ばしていた手を引っ込める。
律「あっ、ごめんなさい」
聡「……」
それには応えず、重い身体を引きずって自力でベンチまで行く。
そこに腰を下ろすと深呼吸をした。
律「…大丈夫ですか?」
律はベンチの側に所在なさそうに立っていた。
目が合った。真正面から姉の顔を見たのは本当に久しぶりだ。
それだけで泣きそうだった。
慌てて片手で顔を覆う。
聡「……君学生さんでしょ………学校行かなくて、いいの?」
律「今はお兄さんの方が心配なんで」
聡「…俺は、大丈夫だよ」
律「そうは見えないです。凄く辛そう。誰か呼んできたほうがいいんだったら、」
聡「いや、本当に大丈夫だから……ありがとう…」
律「………」
ベンチの隣りに彼女が腰を下ろしたのが分かる。
無言のまま時間が過ぎていくが、何故か彼女が立ち去る気配はない。
聡は迷った。
彼女と接触するのはあまり良くない。
だけど彼女の隣りは懐かしく、自然と心が安らいだ。
律「―――あの、変な事を聞いてもいいですか?」
どこか思い切ったような声だった。
聡は何も答えなかったが律は続けた。
律「昔、私たち会った事ありますよね?」
聡「!」
思わず律の顔を見た。
その反応に確信したのか彼女の顔がぱあっと華やいだ。
律「やっぱり、もしかして………お兄ちゃん?」
聡「………」
律「やっぱりそうだ、お兄ちゃんだ!昔、一緒に遊んでくれたよね!私だよ、律!…あ、ごめんなさい、気分悪いのに私…っ」
聡「…―――――違うよ」
律「え?」
聡「…人違いだよ。俺は…君を知らない」
律「……」
律は大きな瞳を更に見開いた。
聡「…申し訳ないけど…」
律「嘘だよ、なんか分かるもん」
聡「嘘じゃないよ」
聡は立ち上がった。
律に背を向けてそのまま歩き出す。
律「お兄ちゃん、」
聡「………もう大丈夫だから。ありがとう」
そう言ってその場を去る。
背中に痛いほどの彼女の視線を感じる。
最後に話ができただけで嬉しかった。
〈10〉
「やっぱり、もしかして、お兄ちゃん?」
律がそう言った時、少しだけ彼の顔は落胆したように見えた。
だけど律は確信していた。
顔なんてとうに忘れてしまっていたが、女の勘みたいなものがぴんと来たのだ。
この人は幼い頃、少しの間あの家で過ごした人だ。
同時に、律にとっては初恋の人。
「…―――――違うよ」
律の予想に反して、彼は静かに否定した。
「…人違いだよ。俺は…君を知らない」
嘘だ、と思った。
だったらなぜそんな悲しそうな顔をするのだろう。
「…申し訳ないけど…」
「嘘だよ、なんか分かるもん」
彼が言おうとした言葉をむきになって遮った。
まるで雲を掴もうとしているようなもどかしい気持ちだった。
「嘘じゃないよ」と彼は言って立ち上がった。
律に背を向けてそのまま歩き出す。
彼女は焦った。
「お兄ちゃん、」
「………もう大丈夫だから」
背中を向けたまま彼は言った。
「ありがとう」
最後に小さく、さようならと聞こえた気がする。
何故かこのまま彼を行かせたくなかった。
気付いていた。
彼は聡によく似ている。
その背中が遠ざかって行く。
彼が孤独のままなのは嫌だ。
だけど、どうしたらいいのか分からない。
結局のところ律は、彼が何者なのかを知らない。
公園の向こうに消えて行く背中をどうする事もできずに見つめていた。
「馬鹿やろう…」
気がつけば律は泣いていた。
〈ラスト・彼の名前をよぶ者〉
もう自分のアパートにも戻るつもりはなかった。
水すら喉を通すことなく聡はただ歩き続けた。
風邪は治るどころか酷くなる一方だ。
身体はもう限界だと悲鳴をあげている。
だけどそれを無視して聡は徹底的に自分を苛め抜いた。
さすがに気力だけではどうにもならなくなってきて、駅の裏側の人気のない場所に腰を下ろした。
このまま死ぬのだろうか。
もし死んだとして、誰が自分の遺体を引き取ってくれるのだろう。
…誰もいない。
後悔がある。
それは姉の事だ。
あの夜、彼女とは喧嘩したまま別れてしまった。
あの時の傷ついた顔が今でも脳裏に焼き付いている。
あれからどうなったのだろう。
聡が消えたあと、―――父は、母は、姉は、どうしただろう。
きっと必死に自分の事を探してくれたに違いない。
学校の友人達も心配してくれただろう。
―――いや。
もしかしたら別の聡が来て、今頃はあの家で楽しく暮らしているかもしれない。
聡だって本当はそうなるはずだったのだから。
………。
「……だとしたら……ほんとに行く場所ないじゃん……」
は、と自分で笑った。
いや、それでいいのかもしれない。
家族が悲しい思いをするよりはずっと良い。
―――どうか、みんな幸せに。
とても眠かった。疲れていた。
聡は静かに瞼を閉じた。
意識がだんだんと遠ざかっていく。
―――――し…!
遠くで誰かの声がする。
―――――さと…し…!
誰かが呼んでいる。
誰だ?
眠いんだ、邪魔しないでよ。
―――――さとし…!
もういいんだってば。 本当に…
「――――――聡!」
今度ははっきりと聞こえた。
一気に現実へと引き戻される。全ての音が戻ってくる。
何か、柔らかいものに包まれている。
聡はゆっくりと瞼を上げた。
先程と変わらない駅の裏側だった。
下には硬い地面の感触。
「聡、さとし…っ」
誰かに強く抱き締められている。
十数年ぶりに自分の本当の名前を呼ばれている。
聡はのろのろと顔を上げた。
―――律が、泣いていた。
学校はどうしたのだろう。
ずっと後をつけて来たのだろうか。
…――――いや、違う。
彼女とは少し雰囲気が違う。
聡が知っている顔よりほんの少し大人びている。
「姉、ちゃん………?」
掠れた声でそう聞くと、律は何度も頷いた。
大粒の涙が聡の顔に降って来る。
―――これは夢だろうか。
いや、夢でもいい。
「…姉ちゃんの大事なカチューシャ…壊しちゃってごめんな…」
ずっと気になっていたことを言った。
「馬鹿…!そんなんもうどうでもいいんだよ…っ」
また強く抱き締められる。
「やっと会えた、会えたよ、聡、…会いたかっ、た…」
ようやく、現実だと理解しはじめた。
おそるおそる彼女の背中に手を回してみる。
触れる、幻じゃない。
涙が込み上げて来た。
「俺、も…会いたかった…っ」
力の限り抱き締めた。
律は何度も名前を呼んでくれる。
ずっと、自分は田井中聡だと誰かに知って欲しかった。
名前を呼んで欲しかった。
聡は小さな子供のように泣いた。
例え夢でもこんなに嬉しいことはないと思った。
最終更新:2010年01月19日 18:01