476 :taka:2014/11/16(日) 12:16:20
フィリピン マニラ 海軍病院 1945年 2月
「いろいろ、お世話になりました」
軍医の前に居る黒い海軍正装を着こなした士官が頭を丁重に下げた。
「先生の、病院の方々のお陰で、部下たちの多くが生きながらえました
私自身も命を救われております。本当に、感謝の言葉が尽きません」
士官の詰め襟から見える首筋には、僅かな引き攣れができている。
彼が昨年に行われたフィリピン沖決戦に置いて、搭乗していた摩耶から脱出する際に負った傷だ。
摩耶は米軍の猛攻に耐え激戦を連ねたものの、武運つたなく海底へと去っていった。
部下たちの話では、彼は甚大な損害によって傾斜する艦内にギリギリまで残留。
負傷者の救護や連絡が行ききっていない部署への連絡を行い、一人でも多くの部下を救う為奔走した。
その為脱出が遅れ自身もかなりの怪我を負ったのだが、こうして退院する事ができるまで回復した。
あの時は、陸軍も海軍もなかったなぁと軍医は回想する。
普段は海軍と険悪な陸軍も、レイテ沖海戦が終結後直ちに偵察機や索敵機を発進させ生存者の救出を行った。
勿論、海軍も余裕のある機体を全て動員して開戦後の海域を捜索し漂流する生存者たちを救出した。
(この時、米軍の救出目的の潜水艦と鉢合わせし、双方の救助者の山を見て互いに見てみぬふりをしたエピソードもある)
「海軍は嫌いだが、今のアイツラは軍神だ」と言い、移動用の大発で狭い海峡などを捜索した陸軍部隊も居たという。
摩耶の生存者達も捜索用の二式大艇に発見され、近くを航行していた駆潜艇によって救出された。
「私は報告と次の任務の為に本土へ戻らねばなりません。飛行機で戻りますので比較的安全でしょう。
まだ治療が必要な部下たちの事、よろしくお願いします」
軍医も礼を返し、ふと、思い出した事を聞いてみた。
入院中、彼がよく見ていた家族の写真の話だ。
見せてもらった事がある、彼と美人の妻、中学生位の息子とまだ小さな娘の四人家族だった。
「私の家は神戸にありましてね。いい街ですよ。本土に戻りましたら、是非遊びに来てください」
そう言って、彼は診察室を辞して行った。
士官を見送った後、診察の書類に目を通していた軍医は彼の息子と娘の名前を何となく呟いた。
「確か……息子さんがセイタで、娘さんがセツコ、だったかな?」
おはり
最終更新:2016年08月16日 10:59