32 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:11:57
モスクワ通信3 -モスクワ方面軍見聞記- その2 モスクワ郊外の夕べ MidNight in Moskow
Подмосковные Вечера
1943年2月18日木曜日 モスクワ郊外
ドイツは史実より1年遅いが、時期では2ヶ月も早く4月に対ソ奇襲攻撃であるバルバロッサ作戦を発動した。しかし
初頭のポーランドでの激戦によってスケジュールが遅れたことと、南部バクー油田を狙う「ブラウ作戦」が実施されたため
1942年中にはモスクワ攻略どころかモスクワ攻略作戦である「タイフーン」作戦すら発動できなかった。
もっともこのために、ドイツ軍の方はモスクワ正面の補給が幾分楽になり冬季戦でのソ連軍の反撃をなんとかしのいで
北部と中央部の戦線では膠着状態になっていた。
このモスクワ西方にいるドイツ中央軍集団に対峙しているのが正面の西部方面軍(通称モスクワ方面軍)、モスクワ南
部の南西方面軍および北部のカリーニン方面軍である。またモスクワには首都防衛軍が配備され、その兵力の半分は予備
軍としての役割も担っていた。
真田穣一郎少将以下の観戦武官団が初日に案内されたのがこの首都防衛軍本部である。本来なら観戦武官の移動はホス
ト国のソ連側が提供するのが慣例である。しかし、ソ連側の要望で移動は日本公使館の自動車が使用された。邪険な扱い
なのか、或いはそこまでの余裕がないのか。長谷川は多分両方の要素があると思った。
赤軍参謀次長と外務省から派遣された日本担当の高級官僚との儀礼的な会談、首都防衛軍からの簡単な説明の後、観戦
武官団と長谷川は別の部屋に案内される。軍人同士の会合では記者に聞かせられない事案も多く、またソ連側の要望も異
なるからだ。
長谷川はソ連側の担当将校から、『息はしていいのですか』と突っ込みたくなるほどの禁止事項を言い渡された。写真
を撮影した場合は、全てソ連側で現像して許可されるものだけが帰国直前に渡されるとのことだった。
「カラー写真もですか?」長谷川が持ち込んでいるフィルムはほとんどがカラーである。ソ連にその現像機材があるか不
安だったのだ。
「日本公使館に出向いてそこの機材を使用することで話がついている。」将校は冷徹に言った。
長谷川はほとんどの写真は検閲で没収されるだろうと落胆した。
この話には裏がある。日本が支援する白系ロシア人の対ソ謀略組織「オリガ」はNKVD(内務人民委員部)内部にも
浸透している。彼らは万が一、粛正の手が伸びても余人に代え難い技術関係の部門に多くの工作員を持っていた。日本公
使館で現像された写真は、全てコピーされて公使館に残される手はずである。更に検閲官が手心を加えて長谷川にも多少
はお土産を持たせることになっている。
このような手段が取れるのも、帝政ロシアの内務省警察部警備局からNKVDの前身であるチェーカーに必要な人員が
引き抜かれた混乱時に将来を見越して、皇女アナスタシアに忠誠を誓う「オリガ」メンバーが少なからず潜入したからで
ある。
(スターリンも知らないベリヤの変容が
夢幻会へ間接情報としてもたらされたのもこの成果である)
33 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:33:26
昼食の時間になり問題が生じた。真田少将一行の昼食が用意されていなかったのだ。赤軍のレベンニコフ中佐、内務人
民委員会のドルゴフ少佐、外務省の高級官僚が口論ともとれる話し合いを始めた。どうやら、赤軍は内務省が、内務省は
外務省が、そして外務省は赤軍が昼食を手配すると思っていたようだ。
右から左へ、間違いが簡単に訂正される場所でも時代でもない。最終的には、現場ということでレベンニコフ中佐が折
れざる得なかった。
「兵食なら用意できると思います。まだ、分配が完了してりなければですが。」
レベンニコフ中佐の言葉に護衛の二人の兵士が顔を見合う。彼らはまだ昼食が完了していないようだ。
「あんな物が出せるとでも・・」ドルゴフ少佐は思わず口に出した。
「ご心配なく、こちらから無理を言って訪問しています。自分達のことは自分でします。」真田少将は傍らにいる中尉に
目配せをした。その中尉は風呂敷を下げていたがその中から、竹行李に入ったおにぎりを取り出した。
長谷川はそんなこともあろうかと、万が一のために公使館が持たせてくれた非常食であるおにぎりを真田少将一行とと
もに食べた。公使館のありがたみがよくわかる。ただ、紅茶はサモワール付きで、なんとかグレベンニコフ中佐が用意し
てくれた。
「真田少将、行き先は決まりましたか?」何杯目かの紅茶を飲みながら長谷川が尋ねた。
「ヴャジマ近郊の前線です。そこから南部の戦線の視察です。明日の夕刻、列車で発ちます。」真田少将は食後の一服をと
タバコを取り出して灰皿を目でさがしながら答えた。
「私もヴャジマと言われました。そこで2日間の取材許可が出ました。それで、モスクワへ帰されてお終いです。」長谷
川はまた一口紅茶を飲んでから言った。紅茶好きの長谷川は日東紅茶だと思ったがそれは聞かなかった。真田少将は灰皿
をさがすのを諦めてタバコをポケットにもどした。
「結局、同行ということになるでしょう。管轄が少しでも違うとまったく情報を持っていないのがソ連ですからね。」一
泊置いて何か可笑しそうに真田少将は言った。
「同じ建物にいるのにですか?少なく全体を把握する責任者がいるでしょう。」長谷川はわざと朴訥に尋ねた。
「わたしたちは軍、あなたは内務省の縄張りになるんでしょう。わたしも宮仕えですからわからんでもないですが、度を
超えていますね。多分、部署を越えて余計なことを聞き回るのは身の破滅をもたらしますから本能で避けるのでしょうな。」
真田少将は長谷川が取材行動に入ったと察して小声で言った。そして、天井の電灯を少しだけ見上げた。
盗聴があるから用心しろといことか。長谷川は真田少将の動きをそう判断した。
午後は練兵を見学した。これは司令部で合流したグレベンニコフ中佐とドルゴフ少佐が案内した。
「精鋭の親衛師団です。世界最高峰の兵士達です。」横に立っている誇らしげにグレベンニコフ中佐が言う。
南方で数ヶ月兵隊と接した長谷川の目には、幾ら分厚い防寒具に身を固めているにしては動きが鈍いように思われた。ど
の兵士も目ばかりが目立ち、すぐに息があがっている。食糧不足や居住条件に問題があるのだろうかと長谷川は感じた。
そして、赤軍しか知らないグレベンニコフ中佐には比べようがないのだろうと長谷川は思った。
『己を知り、敵を知るか』長谷川は口の中で呟く。
そうだ!オレの役目は国民にそれを知らせることだ。練兵を見ながら長谷川は勝手に熱くなった。
34 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:34:25
練兵の見学の後で捕獲兵器の見学が行われた。
「こらがタイプ三と呼ばれる戦車です。装甲は我々の戦車と比べると紙同様、主砲は紙鉄砲並です。」担当将校は鼻高々
に説明する。じゃ、何で首都前面までドイツに攻め込まれてるんですか?という質問を長谷川はぐっと堪えた。
捕獲兵器の見学は担当将校が熱くなったのと、観戦武官の質問が多く、そのたびに担当士官がグレベンニコフ中佐に尋ね
更にドルゴフ少佐が上級士官の判断を仰いだため予定所要時間を大幅に超過した。すべての予定を終了した時にはあたり
が暗くなりだしていた。
真田少将一行はグレベンニコフ中佐とドルゴフ少佐に今日の別れをつげて公使館からの自動車に乗り込む。長谷川は今
日一日の緊張が一気に緩んでまどろみだした。
突然、自動車が急停車した。後部座席に乗っていた長谷川は前のシートに頭をぶつけた。
サイレンが響き渡っていた。
「空襲警報です。」運転していた書記官が叫ぶ。自動車は幹線道路から狭い路地道へ進入する。
「近くの防空壕でやり過ごしましょう。」書記官は急いで自動車を降りると一行を急がせる。長谷川が空を見上げると幾
筋かのサーチライトが見えるが、その光芒は低く立ちこめた雲に遮られている。
何処から湧いてきたのかロシア人たちも、少し広めの路地を走っている。その流れについていく。しばらく走ると比較
的大きなコンクリート製の建物の中に人々が入っていく。入り口を入るとすぐに地階に降りる階段がある。地下は一寸し
た体育館ほどの広さがありすでに大勢のロシア人達がひしめき合っていた。
隣の人間の体温と息の音で人が密集していることがわかるが、誰も何もしゃべらず無音の空間の床に、長谷川たちは
30分ほど座っていた。やがて、サイレンの音が微かに聞こえてきた。
「警戒解除ですな。多分、少数機の嫌がらせ侵入か、誤報でしょう。こんな冷たいコンクリートの壁にもたれていたらカ
リエスになってしまいます。早く出ましょう。」真田少将は尻をはたきながら起き上がった。
ロシア人も立ち上がった入り口に向かってあわてて動き出した。薄暗い裸電球がいくつかついている中で長谷川は子供
の姿が見えないことに気がついた。
「子供がいませんね。疎開しているんでしょうか。」戦争中だから若い男が極端に少ないのはわかる。中年の男や若い女
も少ないのは徴用の影響かもしれない。中年から老境にさしかかたような女性が圧倒的に多い。長谷川は書記官に聞いて
みた。
「まだ半分以上の児童はモスクワに残って居ると思いますよ。まあ、すぐ分かりますよ。」書記官はにやりと笑った。
路地に止めた自動車に一行が乗り込むと、まだ、周囲を大勢のロシア人が早足で自動車など気にもせず大通りの方へ向
かっているので、書記官は徐行しながら大通りに自動車を出した。そこには、ロシア人が長い行列をつくっていた。防空
壕から出たロシア人はその行列の最後尾に次々と並ぶ。
「食料品の配給です。先頭の方の人間は空襲警報でも逃げずに頑張っていたんでしょう。」書記官は、怪訝そうに自動車
の方を見ている内務人民委員会軍(NKVD)の制服を着た兵士が見ているのに気がついて事務的に言った。
「子供がいないのは留守番ってことですか。しかし、この寒さに何時間ぐらい並んでいるんでしょう。」真田少将に同行
している中佐が途切れることのない人の列を見ながら呟いた。
35 :名無しモドキ:2012/01/30(月) 22:35:06
「三四時間ぐらいが限度じゃないですか。待てる限度があるので行列が無限に伸びることはないみたいですよ。親も大変
ですが、家でもそうそう暖房が効いているとは思えませんから子供も可愛そうですよ。親が食い物を持って帰るまではひ
もじい思いもしているでしょうしね。」書記官はロシア人の列を横目で見ながらしだいに自動車のスピードを上げた。
「モスクワは首都であり重要な工業都市ですからソ連も何かと配給は優遇しているでしょう。ウラルの石炭や鉄鉱石の産
地に工場を移転させようとしているようですが、シベリア鉄道さえあのありさまですからなんとかモスクワの生産力は維
持したいはずですよ。」真田少将は聞かれるともなく解説してくれた。
「ドイツの占領地から流入した難民も各種の急増軍需工場へ動員されているようですから、戦前と人口はそう変化してい
ないのではないように思えます。今は河川が凍結しているので水上交通も途絶しています。鉄道が正常に機能しないと配
給物資の輸送も容易ではないでしょう。」書記官が続けて言った。
書記官は灯火管制用に細工された薄暗い自動車のライトをつけた。長谷川は自動車の後ろを振り返った。真っ黒の中に
かろうじて人が動く姿が見える。
長谷川はあのロシア人達はこれから闇の中で何時間、厳寒に耐えて並ぶのだろう、そして何故、誰もしゃべらないのだ
ろうとその理由を考えていると、ふと、ある疑問が口に出た。
「老人や病気とかで配給を受け取りに来られない人はどうするんですか?」
「配給を受け取るのに並べれられない人間は働けない人間でしょう。ここは働かざる者、食うべからずの国ですから。」
書記官は薄暗い中で慎重に運転しながら答えた。
「おかえりなさい。遅かったですな。」大島公使が公使館玄関を入ったロビーで真田少将一行を出迎えた。
「まあ、詳しいことは食事をしながらでも聞きましょう。ところで、ソ連外務省から観戦武官にとキャビアやチーズ、生
鮮野菜といった貨物列車一台分ほどの膨大な食品が届いたのですが、何か心当たりでも?」事情がわからず不思議そうに
聞く大島に一行は、にやにやしながら顔を見合わせる。
真田少将が事情を説明しおわって、大島公使、タチアナ夫人も含めた一同で思わぬ戦利品獲得をネタに会食をしていると
自動車を運転していた書記官が食堂に入ってきた。書記官は公使に耳打ちする。何事かと一同が緊張していると公使はお
もむろに言った。
「先ほど観戦武官へと通用門の方にソビエト内務省のほうから、トラックで大量のイクラやステーキ用の牛肉を含む食料
品が届いたそうです。」
この分では赤軍からも何か届きそうだが、首都防衛司令部での窮乏の様子から考えると頬かぶりをするかもしれないと
長谷川は思いながら、長い一日を反芻して詳細なメモを書くとベットに入った。
翌日、長谷川は真夜中に近かったそうだが赤軍は意地を見せて、一個小隊ほどの兵隊が押したり引っ張る軍用荷車で食
料品を公使館に届けてきたことを知らされた。
硝煙の味付けがしてありそうな捕獲品らしいドイツやイタリア製をはじめとしたヨーロッパ各国の大量の缶詰。それに
屠殺したばかりの馬肉が二頭分である。
最終更新:2012年02月07日 03:57