両親は驚きこそしたけれど、私の決めたことに文句はつけなかった。
憂は私の妹として平沢家に居つくことになり、小学校にも私の1学年下で通う事になった。
最初のうちは、憂がもとは人形だという意識がつきまとうこともあった。
けれど和ちゃんの作ったデータは全くもって人間らしくて、
すぐに私は、憂が本当は人形だということを、ただ知っているだけになった。
唯「……」
憂はほんとうに可愛い妹で、
やっぱり、それだけなんだと思う。
必死で自分に言い聞かすように、そんなことを思う。
その時点で私はもう、言い訳もできなくなっていた。
どうしてそう思うようになったか、理由すらもわからない。
思いつくことと言えば、憂は何もかも私の理想を満たしていたこと、だろうか。
とにかく、想いをずっとずっと我慢して、私たちは高校生になった。
元から家をあけがちだった両親が、さらに帰ってくる頻度を減らすようになった。
夏のある日、私は和ちゃんと会う機会があった。
和ちゃんは私の行く所よりうんと頭のいい高校に行ってしまって、
昔より顔を合わせることは減ってしまった。
それでも私は、和ちゃんがいちばんの友達だと思っている。
私のために勉強して、憂に命を吹き込んでくれたのだから。
そのときに結ばれた私たちの絆は、まだ弱まっていないはずだ。
私はうきうきした気分で、待ち合わせの喫茶店についた。
和ちゃんはすでに二人掛けの席に座って、コーヒーの匂いをぼーっと楽しんでいた。
唯「ひさしぶり、和ちゃん」
和「あら、唯。もっと遅れてくるかと思ったわ」
相変わらずのやさしい表情で、和ちゃんは私を迎えた。
唯「和ちゃんが誘ってくれたのに、遅れるわけないよ」
和「……そうね。唯が遅れるのは唯から誘ってきた時だけだったわね」
唯「だから、もうっ」
私も真似してコーヒーを頼む。
ただ苦いのは飲めないから、甘いカフェラテを注文した。
唯「そゆえば、和ちゃんから呼んでくれるなんて久しぶりだね」
コーヒーが来るまでは他愛のない話をして、
私はウェイターさんが去ったあと、ちょうど気付いたかのように和ちゃんに言う。
和「言われてみれば、そんな気もするわ」
和ちゃんは素知らぬふりをした。
唯「憂も呼んであげればいいのに。私と二人きりがいいってこと?」
話したくないことなら、それでもいい。
私はくねくね身をよじった。
和「憂……憂ね」
けれど、和ちゃんはつっこみを飛ばすどころか、深い表情をしてしまう。
私は腰の動きを止めた。
唯「憂がどうかしたの?」
なるべく明るい口調で私は尋ねる。
和「何でもないわよ。……憂のことじゃないわ」
唯「じゃあなに?」
和ちゃんは窓の外に目を向け、コーヒーを一口飲む。
和「実はね。私の弟が一人暮らしを始めたのよ」
唯「……へえっ?」
てっきり憂の話をされると思っていた私は、ぬけた声を出してしまった。
頭がまわらなくなり、私はあわててカフェラテを口にする。
唯「うーん、えっと。確か弟くんって」
和「まだ中3よ。……すごく大事な時期よね」
唯「だよね。どうして一人暮らしなんて?」
和「……」
和ちゃんはスプーンをカップの中でぐるぐる回す。
和「……唯は、考えたことないわよね」
からん、と高い音がした。
思えばそれは、私に対する警告音だったのかもしれない。
和「言葉さえ知らないんじゃないかしら。……近親相姦って」
唯「……」
もしかしたら、私の知っている中で一番複雑な言葉かもしれない。
和「ごめんなさい、変なことを言ったわ。忘れて」
唯「……しってるよ」
私は和ちゃんの言葉を遮った。
本当は、知らないと言いたかった。
私がそんな難しい言葉を知っているなんて、憂への気持ちを疑われてもおかしくないから。
この気持ちは、誰にだって悟られるわけにはいかない。
唯「近親相姦でしょ。知ってる」
和ちゃんは私の目を覗きこんだ。
透徹した瞳が、視神経を通して私の脳をさぐっている。
「なにか」を疑っているのか、それとも私が知ったかぶりをしていると思っているのか。
やがて、あきらめたように溜め息を吐いて、和ちゃんは顔を上げた。
和「……唯も色んなことを知るようになったのね」
唯「まあ、ね」
唯「近親相姦かあ……」
和ちゃんは居たたまれないような顔をしていた。
唯「弟くんが、和ちゃんと?」
和「……違うわ。私はただ、受け入れてただけ」
唯「違うって言うの、それ?」
和「大きな違いよ。……私がどれだけ苦しんでたか分かる?」
唯「分からないな、そんな苦しみなんて」
私はつい、尖った口調になっていた。
そのことに素直に苦しめる和ちゃんが、うらやましくて。
唯「どうでもいいじゃん。今はもう別居して、解放されてるわけでしょ?」
和「解放……そうよね。解放されたのよね」
和ちゃんは横髪を払いのけ、薄く笑う。
和「そのはず、なんだけど」
唯「……」
喫茶店の冷房はすこし効きすぎている気がした。
私はカップに口をつけ、熱いカフェラテをぐびぐび飲んだ。
唯「っふぅ……けどさ」
唯「和ちゃんはさ、どうして弟くんを受け入れたの?」
俯いたままの和ちゃんに、そんなことを訊いた。
和「……ただ、怖かっただけよ」
和「あの子の姉として、年長者として注意できなかった。拒絶できなかった」
和「そうしなきゃ、距離が離れてしまうような気がして、ね。……子供ながら情けなかったわ」
唯「子供ながら、って……」
和「……」
私は口をつぐんだ。
和ちゃんは目を閉じて、静かにカップに口をつけただけだ。
唯「……軽音部の子の話なんだけどね」
和「あら、また何かあったの?」
何事もなかったかのように、私たちはまったく関係のない話を始めた。
和ちゃんの心の触れてはいけない部分に触れてしまった気がした。
けれど私はそんなことをしでかしたにも関わらず、奇妙な高鳴りを感じていた。
――――
私は和ちゃんを送った後、すぐに家へ帰った。
洗濯物を取りこみ終えた憂が、重たそうに衣服の塊を運んでいた。
憂「あ、お姉ちゃんおかえり!」
家事を任せてほったらかして、自分は友達と遊んでいた私に、憂はにっこり笑って迎えてくれる。
唯「ただいま、憂」
憂「今日暑かったね。のど渇いてない? お茶いれるよ」
私が後ろめたさを感じながら答えると、憂はまた嬉しそうに笑って、
抱えていた洗濯物をソファに置いて台所に向かおうとする。
唯「ねぇ、憂」
憂「なあに、お姉ちゃん。あ、和ちゃんどうしてた?」
唯「……憂。お茶はいいよ」
憂「そう?」
憂は持っていたグラスを戸棚に戻して、私のほうに向きなおった。
唯「お話があるの。聞いてくれる?」
憂「お話? うん、聞かせて」
私は憂の前にやってくると、ぐっと体ごと抱き寄せた。
余計な言葉は言いたくなかった。
憂「お、お姉ちゃん?」
きつく抱きしめれば、あとは一言だけで伝わるはずだから。
私は憂の匂いを鼻腔に感じながら、そっと口を開いた。
唯「……すき」
憂「……」
深い呼吸を一度。
唯「好きだよ、憂」
そして、また言った。
憂は小さく震えていた。その震えを止めてあげるように、さらに憂を近くに寄せる。
最終更新:2011年06月10日 21:43