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 身体を浮かせていないと呼吸がままならない水準まで、
既に水が迫ってきていた。
時間はもう、ほとんど残されていない。
律はそれを自覚して、真っ青な表情を浮かべる澪に向けて語りかける。

「なぁ、澪。そろそろ、交代する時のテンポとか決めよう。
私は10秒毎くらいに、交互に息継ぎすればいいと思うけど。
忙しないかな?でも20秒だと苦しそうだし。15秒辺りが妥当かな?」

 澪はゆっくりと言葉を返してきた。

「もういい……もういいよ。
この期に及んで助かろうなんて、思えない」

 ある程度想像できた答えだった。
最期の砦だと思っていた唯にさえ、澪は裏切られた。
否、唯を裏切らせたのは律自身だった。

 何れにせよ、蹂躙され尽くされた澪の精神が、
律との協力を選択するとは思えない。
それでも律は、翻意させようと言葉を放つ。
澪を死なせたくなかった。

「約束したじゃん……。一緒に助かろうって。
後で……裏切った事に付いては償うから。
だから……お願いだよ澪」

「約束だって?散々裏切っておきながら、今更約束を守ろうだなんて。
もう、信じられないよ……。
二人助かっても、またお前は浮気する。
しなかったとしても、私はずっと疑ったまま生きていく事になる。
耐えられない、そんなの、耐えられない」

「裏切ってきたからこそ、この約束だけは守りたいんだ。
頼む、これ以上私に……約束を破らせないでくれ。
それに、もう浮気はしてないし、これからもしない」

 今更言葉で説得が成功するとは思っていない。
それでも律は諦めずに言葉を並べた。
悲痛に拉がれている澪を助けてやりたかった。

「信じられないよ……。それと、お前はもう約束を破る事は無い。
二人助かるっていう約束は、私が一方的に破るだけだから。
いや、変更するだけだから」

 澪の瞳に、暗い影が落ちた。

「変更?」

「うん。一緒に死の?」

 律は取り乱す事無く、その声を聞いた。予想できた事だった。
罪悪感に苛まれている今の律にとって、寧ろ甘言にさえ聞こえる。
だが、律は誘惑を断ち切って、その提案を一蹴する。

「駄目だ。生きて償いたい。澪に生きていて欲しい、
澪に幸せになって欲しい。
だから、死ねない。私は死ねない。澪も死なせない」

「ごめんね、律。私はもう、限界なんだ。
それに今のお前はただ助かりたいから、
一時的に都合の良い事言っているようにしか聞こえない。
それどころか……唯達とやり直したり、次の浮気相手見つけたり……。
そういう事したいから、助かりたいようにさえ見えるよ。
ほらね、限界だろ?」

 水はもう、口元にまで迫っている。
律は浮いていても、呼吸する事さえ厳しくなってきていた。
言葉を放つ事さえ、そろそろ澪の協力が必要な水準だった。

「澪……」

「ごめんな、律。誰にもお前の事は渡さない。
だから、私は……お前を地獄まで連れて行くよ」

 澪は水中へと潜った。
そして、包丁を手に取る姿が、水面越しに律の瞳に映る。

 お前の勝ちだムギソウ、そう律は叫んで全てを投げ出したかった。
だが、必死に堪える。最後まで諦める訳にはいかないのだ。
それこそが、自分に課せられた罰だろうと、弱気な心に言い聞かせた。

 律も澪の後を追うようにして水中へと潜った。
そうしなければ、あっという間に澪に刺殺されてしまうだろう。

 水中で包丁を持った澪と組み合う。
動きが緩慢なせいか、刃を押さえる事には然程苦労しなかった。
動きが遅い点は律とて同様だが、動体を見切る事が容易になっている。
だが、息継ぎまで行っている余裕は無い。
そんな隙を見せれば、致命傷は免れないだろう。
そして澪の説得を試みようにも、水中では言葉すら放てない。
結局、溺死するか刺殺されるか、という運命にあった。

 次第に律は息苦しくなってきていた。
このまま、傷付けた澪に償えないまま終わるのだろうか。
否、傷付けたのは澪だけでは無い。
いちごや梓や紬、そして唯といった面々が脳裏に浮かぶ。
彼女達も傷つけてきた。
自分だけが傷を負わずに済む訳が無かったのだ。


(そうだよな……ムシが良すぎるよな。
私が一番悪いのに……。だからこれは、私に向けた罰か。
なら、甘受してもいい。でも……)

 巻き込まれている澪の事を思った。
罰ならば自分だけが傷つけば良いのにと、律は思った。

 その時、律は唐突に閃いた。
澪の信頼を取り戻せるかもしれない、と。
ただ、実行は躊躇われた。
強い心理的抵抗があった。

 しかし、刻一刻と限界は近付いてきている。
自分も、澪も。
律は覚悟を決めた。

(これだけやったのに、傷も負わずに済ませようなんて、
始めから虫が良すぎたんだ)

 律はもう一つの包丁を手に取った。
途端、澪の顔に警戒が走る。だが、警戒は無用だった。
律は柔らかく微笑むと、自分の右胸へと刃先を立てる。
そして──肌を切り裂いた。
薄く血が滲み、澪の顔に驚愕が浮かぶ。
続いて、左胸にも同じように傷を付ける。

 次は性器だった。胸よりも、更に強い抵抗が訪れる。
だが、罪悪感が嘘で無いならばできるはずだと、自分に言い聞かせて。
斜めに二度、クロスを為すように傷を付けた。

 澪が驚いている隙を見計らい、水上へと浮上する。
呼吸の為では無い、澪に語りかける為だった。
澪が静聴してくれる事を祈るしかない。
包丁で攻撃されたり鎖を引っ張って妨害されたりすれば、水泡に帰す。
それは賭けだった。

 水上に頭を出した律は、大声で叫んだ。

「澪っ、これで浮気はもうできないっ。
身体に傷が付いているんだ、こんなの澪以外には見せられない。
それなら、信じられるだろ?」

 浮気をしないと言って信じてもらえないなら、
浮気ができないようにすれば良い。
律が閃いた案は自傷を伴うものだったが、
澪だけ愛するという覚悟を示す事もできる。

 ただ、これだけでは不足だった。
身体を見せない浮気ならば、未だ律はできる事になる。
だから律は続けて言った。

「勿論、これだけじゃないっ。
性交を伴わない浮気だって、できなくなるようにする。
澪は……私の事、見た目で判断しないって信じてるから……。
私がどうなっても、きっと私の事愛してくれるって信じてるから。
だから……」

 律は刃を見詰める。
今までの自傷とは比較にならない程、躊躇が湧き上がってくる。
しかし──肉体的かつ精神的な──痛みを乗り越えられなければ、
澪からの信頼を取り戻せないだろう。
律はそう思い、刃を顔に当てた。
また、躊躇いが湧いてきた。
しかし逡巡している時間は無い。澪は未だ水中なのだ。
澪を愛するという強靭な意志と、罪悪感という業への贖いを原動力に変えて。
律は、額から鼻筋を通り頬へかけて、斜めに切り裂いた。
間違いなく痕が残り続けるだろう程に、深く。

 鮮血が、水面へと滴り落ちた。

「あはは、やっちゃった。
でも澪は……私の顔に傷が付いても、好きでいてくれるよね。
これでもう……セックスしない浮気もできないや。信じてくれる、よね?
もう……一つ」

 顔へ刃を先程とは対象に添えた時、足を強く引かれた。
手元が狂った律は、今度は浅い傷しか付けられなかった。
見下ろすと、律の足を引っ張る澪の姿が映った。
律はその力に任せた。そして後は澪の判断に任せた。

 水中へと引き摺られた律は、澪の胸に抱かれた。
説得は失敗したのだろうか。
このまま、澪の胸に抱かれたまま溺死する運命なのだろうか。
律は不安になったが、抱かれていた時間は一瞬だった。
すぐに澪は水面へと顔を出して、叫んでいた。

「ごめんっ、律。私が信じてやれないばかりに……。
大切な顔に傷が……。律の顔に……。
私のせいで……必ず責任は取るから。傷物にした責任、取るから。
律の事、愛し続ける。信じ続けるからっ」

 水の中で、律は笑みを浮かべた。
澪からの信頼を得る事ができた、それが嬉しかった。
消えない傷痕の見返りは大きかった。
再び水中へと潜ってきた澪に口付けてから、律は再度浮上する。

「ありがとうっ。本当に有難う。
でも、責任とかは考えなくていいよ。悪いのはほら、私だから。
この傷は澪のせいじゃない。私のせいなんだ。当然の償いなんだ。
当然の、罰なんだ」

 叫んでから、再度水中へと戻った。
今度は澪の方から口付けてくれた。

 律と入れ代わりに浮上した澪の叫びが、水中にまで響いてくる。

「責任を取るっていうのは……ずっと側に居るって意味だよ。
同性だから法的な結婚はできないけど。それでも、側に居るから。
律の事、大好きだよ。改めて約束するよ、一緒に助かろう」

 潜ってきた澪と三度目の口付けを交わして、律は浮上する。

「そういう意味なら、大歓迎。
澪が私と再び歩む道を選んでくれるのなら、この傷だって誇れるよ。
勲章だ、って。今までごめん。そして、これからもよろしく」

 既に律の関心は、勝利したも同然のゲームからは逸れていた。
澪からの信頼を再び得られた喜びに浸っていた。

 後はもう、消化試合だった。
呼吸と口付けを、交互に行うだけなのだから。




「信じられない……」

 ムギソウは驚愕の面持ちで呟く。
逆転があるとは思っていなかった。
増してや、律が自傷するとは予想だにしていなかった。

 女であるにも関わらず、律は自分の顔まで傷付けた。
そうまでして、澪の信頼を取り戻したかったのだろう。
それは即ち、ムギソウの敗北だった。

「これはもう……仕方ないかな」

 ムギソウは手元の、律と澪を半々に模した人形を放り投げた。
もう無用だろう。

「この二人の絆は本物だった。
結局、他の誰も引き裂く事なんてできやしなかった。
こんなの、負けてもしょうがないって思えるよ。
神聖と言いたいくらい」

 口付けと呼吸が繰り返される画面を眺めて、一人呟く。
澪に対する嫉妬の念は、羨望へと姿を変えている。

「羨ましいな。そこまで愛してもらって」

 暫く眺めた後、時計を見やった。
制限時間まで、後少しのところまで近づいてきていた。

「そろそろ救出の準備、行おうかな」

 ムギソウは立ち上がった。
と、同時に、今更になって一つの懸念が芽生えた。
それは、ここに至るまで干渉も連絡もしてきていない協力者の存在である。
このまま不干渉を貫いたまま、姿を消すのだろうか。
そう平和に終わる気が、ムギソウにはしなかった。

 準備の周到さや映像の選定から、協力者には相当強い執念が感じられる。
それにゲームの指示を出しておきながら、
ゲームの進行過程や結果に興味を示さない事が有り得るだろうか。

 もし、結果を確かめる為にここに向かってきているとしたら。
ゲームをクリアした二人を見て、果たして讃えるだろうか。
ムギソウは逆に、律と澪が更なる危険に晒される気がした。
強い執念の下、ゲームをクリアされた事に逆上しないとも限らない。

「二人が……危ない」

 特に律の事を想った。
顔を傷付けてまでクリアしたのに、その後に殺されてはあまりにも不憫だった。
愛憎入り乱れていた律への感情から、今はもう憎しみが薄れている。
顔すら自傷して澪を愛し続けるのなら、それは認めざるを得ない事だった。
加えて、顔に対する自傷それ自体が、自分を捨てた贖いにも感じられていた。

「行こう」

 ムギソウは手に、鍵と縄梯子を持った。
勿論、協力者が律達を襲撃するとは限らない。
二人を讃えに姿を見せるかもしれないし、
このまま正体を明かさないままかもしれない。
それはムギソウ自身分かっていた。否、そうであればいいと望んでいた。

 だが、この逸脱した状況の中、根拠の無い楽観で安堵は得られない。

「それにどうせ、制限時間まで極僅かだし。警戒だけならタダだし」

 ムギソウは部屋のドアを開いた。
この部屋は、外からは一見壁に見えるようドアが偽装されていた。
とは言っても、元からそういう造りだったのでは無い。
この部屋を監視用として活用するにあたり、
ドア外側のドアノブを外して、大きなポスターを張り巡らせたに過ぎない。
警戒が必要だとは思っていなかった。だから偽装は最小限に留めた。
この程度の用心でさえ、不要だと思っていたくらいだった。

 しかし今となっては、もっと警戒すべきだったと思っている。
それ程までに、協力者に対する猜疑の念が芽生えていた。


「待っててね、りっちゃん、澪ちゃん」


 ムギソウは──琴吹紬は、ポスターを破り部屋を出た。



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最終更新:2011年10月23日 00:40