関係あるとみられるもの

パチュリー・ノーレッジ(東方紅魔郷)
秋姉妹(東方風神録)

住所

秋葉山本宮秋葉神社下社  静岡県浜松市天竜区春野町秋葉山 
①JR東海道本線「袋井駅」より遠鉄バス気田行「犬居下」下車 徒歩10分 
②遠州鉄道電車「西鹿島駅」より遠鉄バス秋葉線「秋葉神社」下車 徒歩1分

秋葉山本宮秋葉神社上社  下社より徒歩2時間
秋葉山秋葉寺       下社より徒歩1時間半


秋葉山(あきはさん)


参道から見上げる秋葉神社上社


 天竜水域の上流部、赤石山脈の最南端に立つ山。標高866m。上古の時代より霊山として信仰を集めたとされる説もあるが、開山時期には謎も多い。「秋葉」は「あきば」と読まれることも少なくないが、本項における「秋葉山」は「あきはやま」と読み「秋葉山本宮秋葉神社(後述)」も「あきはさんほんぐうあきはじんじゃ」と読むのが正しいようである。なお「秋葉山秋葉寺(後述)」については「あきはさんしゅようじ」と読む。

 秋葉山本宮秋葉神社の社略縁起によると、秋葉山にはじめて社殿(お堂)が創建されたのは和銅二年(西暦709年)であるとされる。享保2年(西暦1717年)に著された『秋葉山略縁起』では、養老二年(西暦718年)に行基によって開山されたとされる。はじめ「大登山霊雲院」と号されたが、大同・弘仁年間(西暦806年~823年)に嵯峨天皇によって七堂伽藍が建立され「秋葉の山に色つくて見え」と詠まれたことから「秋葉山秋葉寺」に改称されたと言う。ただ、ありていに言ってこれらは江戸時代ごろに加上(歴史を古く見せようとすること)されたものである可能性が否めない。もともと「秋葉信仰」が発祥したのは長野県の戸隠地方や新潟県の長岡地方であることが近年の研究により明らかになりつつあり、遠州の文献において「秋葉」の名が登場するのは西暦1500年代後半になって以降である。

 中世(少なくとも室町末期)以後の秋葉山には「秋葉山秋葉寺」が鎮座し、修験道の神である「秋葉三尺坊大権現」と仏教の「観音菩薩」とを祀る両部信仰(りょうぶしんこう)の霊山として栄えたことはまぎれもない事実である。人々は三尺坊大権現への畏敬と観音菩薩への畏敬を混淆(こんこう)し、事実上一柱の神さま=「秋葉さま」として深く崇敬した。「秋葉さま」には火災防止=火防(ひぶせ)のご利益があるとされ、日本各地から信者がお参りにやってくるようになった。そのブームは爆発的なもので、一時には伊勢神宮に匹敵するものだったらしい。諏訪から浜松にのび東海道に接続する「遠信古道」は、いつしか「秋葉街道」と呼ばれるようになった。柳田国男は「秋葉街道」という名称があまりお気に召さなかったのか、「我々から言うならば寧ろ諏訪路とも、遠山通りとも呼んでみたい」と記している(『東国古道記』)。

 複数の宗教がおおらかに共存していた秋葉山の状況が一変したのは、明治元年に「神仏分離令」が発布されたことに端を発する。たまに誤解している方がいるが、「神仏分離令」は「おたくの寺院は仏教寺なのか神社なのか白黒はっきりさせなさい。まぎらわしいんで。」というお触れであり、別に「仏教、殺すべし!」みたいなサツバツとしたものではない。しかし「和を以て貴しとなす」を体現するように神道と仏教と民間信仰とがおおらかに混ざりあってきたわが国において、いきなり「ジャンルを確定せよ」と要請すること自体がどだい無茶苦茶な話でもあり、日本各地で物議をかもすことになった。秋葉寺も例外でなく、「時代は神社だろ!還俗して神主になるべきだ!」と主張する修験側(秋葉三尺坊リスペクト派)の僧侶と「ここは昔から秋葉"寺"だっつてんだろこのハゲ!」と主張する寺僧側(観音菩薩リスペクト派)の僧侶の間で対立が起こった。当初、秋葉山にあった18坊のうち6ヶ寺が前者の立場、12ヶ寺が後者の立場だったらしい。数に劣る6ヶ寺の主張が退けられ、論争に敗れた修験側の僧侶達は方々に逐電(脱走)した。

 しかし秋葉寺でこのような紛争が起きているさなかにも、世間では「神仏分離令」が拡大解釈されるようになっていき、やがて仏教寺そのものを廃滅に追い込もうとする「廃仏棄釈運動(あくまでも民間の運動である)」へと発展した。その背景には、これまで何かとアコギな商売をしていた"一部の"仏教寺への反感、伊勢神道にルーツを持つ天皇家への忠誠心、勢力拡大を狙う"一部の"神主らによる対立煽り等があったとされる。

 仏教への風当たりが日に日に強くなっていた明治5年、政府の教部省より秋葉寺あてに通達が出る。それは「秋葉さまに正一位の神階を差し上げます。神階を持ってる以上は秋葉寺ではなく秋葉神社と称するように。ちなみに「秋葉さま」と言うのは古来より火之迦具土大神(ひのかぐつち)の神の別名であり、仏さんの観世音菩薩はもとより、三尺坊とか関係ないから。偉いのは火之迦具土大神(ひのかぐつち)だから。勘違いしたらあかんで。」という内容のものだった。なんでそんな通達が出たかと言うと、明治維新直前の慶応3年に秋葉寺の「叶坊」という僧侶が、(恐らく寺にハクをつけるために)「秋葉さまに神階を授けてほしい」と請願していたからである。請願当時は、こんな世情になると予想だにして無かったんじゃなかろうか。しかし、このような決定が出てしまった以上は「お上には逆らえん」と観念した秋葉寺は、ついに火之迦具土大神(ひのかぐつち)を祀る「秋葉神社」と観世音菩薩を本尊とする「秋葉寺」に分離することを決める。ところが翌明治6年、同じ教務省より今度は「檀家が1軒もなく住職もいない寺は廃止な。」とのお達しが出ると、分離ほやほやの「秋葉寺」がこれにひょっこり引っかかり、あえなく廃止されてしまう。檀家が無いのは江戸時代より朱印地として自活や寄付で収益をまかなっていたためであり、住職がいないのは明治5年に住職「舜瑞」が死亡し、後任選定の真っただ中だったためである。「舜瑞」が殺害されたとか、よほど何かの陰謀でもない限り秋葉寺が消滅したのは不運としか言いようが無い。秋葉寺にあった本尊や、仏像・仏具の主なものは袋井の可睡斎に運ばれ、残りは廃棄された。

 もちろんこれで納得できるわけもなく、廃止された「秋葉寺」の僧侶らは寺の復興に向けて奔走した。これに地元の人らも協力し、明治13年にはついに秋葉寺再建の許可が下る。これを受け秋葉山の中腹8合目ほどの場所に秋葉山秋葉寺(あきはさんしゅうようじ)が再建され、往年と同じように「秋葉三尺坊権現」及び「観世音菩薩」が祀られることとなった。ところがこの再建された「新秋葉寺」の僧侶の中には、そもそも政府のお達しに従って「秋葉神社」を分立したこと自体を快く思っていない僧侶も多く、「自分たちこそが正当な秋葉寺の後継者だ」と主張し2度にわたる争訟を起こした。1度目は西暦1906年のことで、明治初期に政府が国有林創出のために収奪した旧秋葉寺の入会林野や寺社所有林が「秋葉神社」に返還される際に「我らこそが旧秋葉寺の正当な後継者であり、土地の返還を受ける権利がある!」と主張して確認訴訟を起こした。2度目は西暦1925年のことで、御料林(皇室財産)の一部が秋葉神社に払い下げ(売却)されることになった際、秋葉寺も「我らに売ってくれ」と払い下げを願い出た。これらの訴えはいずれも退けられたが、この時裁判所が根拠としたのが上述した明治5年の教務省のお達しであった。すなわち、公的には旧秋葉寺と新秋葉寺の人格的な同一性は認められず、秋葉神社こそが旧秋葉寺の後継者であるとみなされていることになる。
 なお、2度目の訴えが却下された後、「秋葉神社」が土地の払い下げを受ける権利を「新秋葉寺」に譲り、それと引き換えに「新秋葉寺」が旧秋葉寺と新秋葉寺に法的・沿革的な関連性が無い事を認め、二度と同じような争訟を起こさないよう約束することで決着したようである。


秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)


上社正門

 秋葉山の山頂付近に上社を、山麓(ふもと)に下社を構える神社。元々は秋葉山頂付近に旧「秋葉山秋葉寺」を承継する社が一社あるのみだったが西暦1943年に山林火災によって消失、その後戦時及び戦後の世相もあって再建がかなわなかった。そのため山麓に下社を造営し、祭祀を継続した。西暦1986年に山頂付近の社の再建がかなったため、山頂の神社を上社、山麓の神社を下社とした。

 上社と下社の標高差は755m程度で、徒歩で巡礼する場合約2時間程度の山歩きが必要となる。山頂間近まで自家用車が通行可能な林道が伸び駐車場も整備されているため、徒歩で登らなくとも上社を参拝することは可能である。全国に800社以上を数える秋葉神社の総本社であり、火災防止=火防(ひぶせ)のご利益で非常に名高い。記紀神話の火神「火之迦具土大神(ひのかぐつち)の神」を主祭神として祀る。火之迦具土大神(ひのかぐつち)は、『古事記』及び『日本書紀』に登場する火の神で、燃えたつ火ないし爆裂する火山をモチーフにした神ではないかとされる。太陽の化身である天照大神を火神とみなさなければ、記紀神話上最強の火神と言っても良いのではなかろうか。「神産み」の段においてイザナギとイザナミとの間に生まれるが、出産時に母神のイザナミの火傷を負わせてしまう。この火傷が元でイザナミは死んでしまったため、怒ったイザナギによって斬り殺される。ただ生まれて来ただけの火之迦具土大神(ひのかぐつち)自体が別に何か悪いわけではないが、こういった経緯から「母殺し」「父に誅殺された神」といった不名誉とともに忌まわしい神であると見なされることも少なくない。

 秋葉神社において火之迦具土大神(ひのかぐつち)が祀られるようになった直接の経緯は、上述のとおり明治5年に教務省により「秋葉さまとは火之迦具土大神(ひのかぐつち)のことだから、今後秋葉寺は神社に改名して火之迦具土大神(ひのかぐつち)を祀りなさい」とのお達しがあったことによるものである。この「秋葉さま=火之迦具土大神(ひのかぐつち)」という発想の論拠は次のとおりである。

①西暦987年に成立した『日本三代実録』に「貞観十六年(西暦874年)五月十日、遠江国正六位上岐気ノ保ノ神に従五位を授く」とある。
②西暦930年代に成立した地名辞典『和名類聚抄』には「山香郡に大岑・与利・岐階・気多の四郷が置かれている」とある。岐階=岐気ではないか。
③保(ホ)とは火(ホ)のことではないか。
④すなわち、岐気ノ保ノ神とは「岐階の火の神」という意味ではないか。
⑤岐階とは、秋葉山を含む地域の古名である。
⑥以上を統合すると、西暦870年代以前より秋葉山では「秋葉さま」が火の神として祀られていたのである。
⑦三尺坊の伝承は古いものでも鎌倉時代以降で、西暦870年以前のものは存在しない。よって本来「秋葉さま」とは三尺坊のことではない。
⑧日本神話で火の神と言えば火之迦具土大神(ひのかぐつち)のことである。よって今後は火之迦具土大神(ひのかぐつち)を崇拝しなさい。

 この仮説のうち、①~⑤までは西暦1789年に完成した内山眞龍著『遠江国風土記伝』中の考察を「詳しい人が言ってんだから間違いない」くらいの感覚でまるっと鵜呑みにしたものであるが、そもそも内山眞龍は「按ずるに(ちょっと妄想してみたんだが)」くらいの前置きで、特に論拠を示して仮説を組み立てているわけではない。それを元に⑧の結論まで持って行くのは、かなり苦しいと言わざるを得ない。「藍さま=白面金毛九尾の狐である」くらいには苦しい。

上社

下社


 しかし、火之迦具土大神(ひのかぐつち)を祀るようになったことで「秋葉神社」は古来の伝統を全く捨て去ってしまったわけではない。そもそも明治5年の通達においても「秋葉さまの主体は火之迦具土大神(ひのかぐつち)である」ことを確認・要請しているだけで、三尺坊が"合祀"されていることについては何ら否定されているものではない。上社の境内には「天狗の皿投げ」という一風変わったアトラクション(としか言いようが無い)があり、空中に固定された輪に向かって皿を投げるようになっている。皿が輪の内側をうまく通過したらなんかいいことが起こるらしい。そのルーツとして「昔秋葉山に天狗が住んでいて皿投げで願力を競った云々」と紹介されていることから、修験道の伝承の名残が残されていることがわかる。また、例年12月15日・16日には「火祭」が開催され、神官によって弓の舞、剣の舞、火の舞が行われる。この祭祀は京都の上賀茂神社等で見られる御阿礼祭(みあれまつり)という神事から始まり、神=火之迦具土大神(ひのかぐつち)を降ろして舞を奉納するものであるとされる。しかし「火祭」自体が仏教における護摩業(密教の修行)がルーツであるとも言われ、同日「秋葉山秋葉寺」でも同じく「火祭」として火渡(ひわたり)の業が行われることから、本来の秋葉山の「火祭」の姿は「奉納」と「修行」という二つを合わせたものではなかったのだろうかとも推測される。


天狗の皿投げ



秋葉三尺坊大権現(あきはさんじゃくぼうだいごんげん)


 「秋葉山秋葉寺」に祀られる修験道の神。平安初期の越前蔵王権現堂で修行したり(秋葉寺の伝承)、平安中期の戸隠で修行したり(『信濃名僧略伝集』)、室町時代の尾張圓通寺で修行したり(圓通寺の伝承)、サンジェルマンか!ってくらい荒唐無稽な逸話が歴史上散見されるため実在の人物がモデルかどうかは定かでない。修行が好きなのは確かである。

 三尺坊は、実在性のみならず経歴も非常にフワフワしている。おおむね信州(長野県)の戸隠で生まれ、越後(新潟県)の岩野蔵王堂で住職をやっている時に覚醒、自在に空を飛べるようになったとされる。そして「今後私の名を呼ぶと、火事が起きなくなる」という予言を残し白いキツネの背にまたがって飛び去ったという。自分で飛べよ。

 全国を飛び回った三尺坊は、最終的に遠州(静岡)の名もなき山に降り立つ。そのとき現れたガマガエルの背中に「秋葉」の字が浮かんでいたことから、この名もなき山を「秋葉山」と名付け、以後この地に「秋葉山秋葉寺」を開いて布教に務めたという。言うまでも無く、嵯峨天皇が「秋葉山」と名付けたという縁起とは矛盾する。三尺坊が秋葉山に到来した時期についても、大同四年(西暦809年)とも永仁二年(西暦1294)とも元亀二年(1571)とも言われる。伝承によって700年以上もズレてるのがすごい。

 原始的な三尺坊信仰においては三尺坊は修験者の姿をしているが、次第に天狗信仰と結びつき「カラス天狗」の姿で現されるようになる。一方で、三尺坊は27歳(岩野蔵王堂の住職時代)の時に荒行満願の夜に法力により嘴(くちばし)と羽毛が生えて迦楼羅天(かるらてん)に神変したとも言われる。迦楼羅天(かるらてん)とはガルーダのことである。三尺坊を観世音菩薩の化身として見た場合にはガルーダ、修験道の神として見た場合にはカラス天狗であるとすると、『東方三月精』における「ルシフェル=アマツミカボシ」のように「ガルーダ=カラス天狗」と言える、のかもしれない。

 また、秋葉山に大火事が起こった際には「火生三昧」という呪文のようなものを唱えて猛火を止めたことにより、以後火防鎮守としてまつられたとも伝えている。すなわち、たとえ上古の時代に岐気ノ保ノ神なる神さまが火の神として秋葉山に祀られていたという仮説が正しいとしても、江戸時代~現代に至るまで"秋葉さま"として崇敬を集め、霊場としての秋葉山の発展をもたらした「火災予防」のご利益は、三尺坊由来のものである所が最も大きいと言えるだろう。


 東方projectにおいては『東方非想天則』のアリス、比那名居天子らのストーリーモード中で敵キャラとして登場するパチュリー・ノーレッジ火符「アキバサマー」を使用する。スペル名の「アキバ」は「秋葉」を「サマー」は「敬称の"さま"」と「夏」をかけている可能性が高いと言える。陰陽五行思想において春が木の季節、夏が火の季節、秋が金の季節、冬が水の季節、それぞれの季節の節目が土であるとされている。なぜ西洋の魔法使いであるパチュリーが東洋の神さまをモチーフにしたスペルカードを使用したのかは不明であるが、『東方文花帖』において節分祭を企画していることなどから、パチュリーというより紅魔館自体に「郷に入っては郷に従う」タイプの柔軟な思考があるのかもしれない。友人のレミリア・スカーレットも味噌汁を飲んだり納豆を好んで食べたりと日本文化に全く抵抗を見せず馴染もうとしている。一方でレミリアは月面探査ロケットにつけられた「住吉三神」の和風名を嫌い、ミンタカ、アルニラム、アルニタクへの改名を行ったことから(『漫画版 東方儚月抄』)、紅魔館の先進的で柔軟な発想自体、パチュリーが持ち込んでいるものなのかもしれない。

 また、技としての火符「アキバサマー」は、パチュリーがゆったりとしたジャンプを繰り返しながら時計回りの青い光と反時計周りの赤い光とを回転交差させるものである。二本の赤と青の光が何を示すのかは不明だが、仮説として赤=火、青=水を示し、業火と交差する水、すなわち「鎮火=火防」を示している可能性もあるだろう。また逆に、温度の低い赤の炎と温度の高い青の炎をかけあわせ、燃え盛る火炎を表現している可能性もある。前者の場合は火防の神である「秋葉三尺坊大権現」が、後者の場合は本質的には火防の神ではなく火の神である「火之迦具土大神(ひのかぐつち)」が、より強くモチーフ化されていると考えられよう。

 なお、これらは推察に基づくものなので重ねて注意されたい。アキバサマーのモチーフがユダヤ人律法学者のアキバ・ベン・ヨセフさんである可能性も否めないわけで。

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最終更新:2015年05月11日 13:37