関係あるとみられるもの

今泉影狼(東方輝針城)

住所

奈良県東吉野村小川地内 (近鉄大阪線「榛原駅」下車、奈良交通バス「東吉野村役場前行」終点下車徒歩5分)

ニホンオオカミ像

※ニホンオオカミ像。若干怒っていらっしゃるようにも見える

奈良県東吉野村小川地内県道16号のかたわらに立つ、ニホンオオカミのブロンズ像。
地方自治体としての東吉野村が誕生したのは昭和33年のことで、それ以前像の立つ一帯は
「小川」と呼ばれ、さらに古くは「鷲家口(わしかぐち)」と呼ばれる集落だった。

このニホンオオカミ像は、この地がまだ鷲家口と呼ばれていた明治の終わりに
同地で採集されたニホンオオカミの勇姿を等身大で再現したものである。

ちなみにこのニホンオオカミ像のモデルとなった個体は、
「二ホン・ホンド・ワシカグチ」の表記でその頭骨と剥製が大英博物館に寄贈され、
その後同博物館の分館へ移され、ロンドン自然史博物館の完成後はそちらに移蔵された。
2014年に東吉野村の議員有志が“返還”のお願いにロンドンまで行ったそうであるが、
少なくとも2018年現在は「ロンドン自然史博物館」の閉架に仮剥製の姿で眠っている。

ちなみに仮剥製とは、羽を広げたりポーズを取ったりさせていない剥製のことである。
つまり通常人に見せることを予定していない剥製で、なんかこう、自重でひしゃげている
普段はロッカーのような所に収納されているが、頼めば見せてくれるらしい。

なおこの個体は「ポチ」とか「影狼」といった独自の名前がつけられているわけではないので、
以下本頁では仮に「二ホン・ホンド・ワシカグチ」と呼称していくこととする。便宜上な。
「二ホン・ホンド・ワシカグチ」が採集されて以後、ニホンオオカミの生体が人類の前に姿を
現したという確実な記録はなく、ゆえに「最後のニホンオオカミ」だと認知されることもある。

本頁で記載する「ニホンオオカミ像」及び像に併設された石碑は、
wikipedia等いくつかのサイトで「ニホンオオカミ終焉の地碑石像」と記載されることがある。
しかし、現地には単に「ニホンオオカミの像」と表記された像と、「ニホンオオカミ像」という
看板と「ニホンオオカミ像について」という石碑があるだけで「ニホンオオカミ終焉の地」という
扇情的な表現はどこにも用いられていない。

東吉野村観光協会のHPにも「ニホンオオカミの像」という表記がされているのみである。

そもそもこの個体が「人間に発見された最後のニホンオオカミ」であるからといって
この個体の死をもってニホンオオカミが絶滅したとするのは、人間本位的すぎん?とも言える。
事実として西暦1910年の福井県でニホンオオカミらしき生物が撮影された写真も現存しており、
「二ホン・ホンド・ワシカグチ」以後もニホンオオカミが生きていた可能性を示唆している。
※ただし、写真に写った生物は「チョウセンオオカミ」ではないかとも推測され、定かでない。

もっとも、像や石碑が立てられたコンセプトが個体としてのニホンオオカミの終焉ではなく、
「動物史学上の人間とニホンオオカミとの最後の接点」であることの端的な説明として
鷲家口を「ニホンオオカミ終焉の地」と表現することは反証が無い以上、誤りとは言えない。

ラストエンペラーやラストスペルよろしく「最後のなんちゃら」と言うと、寂しさと気高さを
併せ持つ雰囲気になるような気がして素敵なので、以後本頁においても積極的にそういう感じを
かもし出していきたい。

二ホン・ホンド・ワシカグチ

猛烈な近代化を遂げる日本が列強「ロシア帝国」との激戦の最中にあった、1905年(明治38年)。
アメリカ合衆国インディアナポリス出身の動物学者、マルコム・プレイフェア・アンダーソン(1879~1919)が
諏訪出身の旧制第一高(現東大)生、金井清(かないきよし。1884~1966年。後に諏訪市長)を
通訳兼助手に伴って奈良県を訪れたのは、年明け間もない1月10日のことであった。

アンダーソンはイギリス人貴族のベッドフォード伯爵(第11代)から出資を受けて活動していた
「東南アジア小型哺乳類収集団」に属する、研究員の青年である。1904年に来日を果たした後は、
北海道、富士山、名古屋などを旅行しながら野生生物の標本採集を行ってきた。
むろん奈良を訪れた目的も同様であった。奈良に来る前日は、愛知県の大府にいたようである。

奈良県に降り立ったアンダーソンらはまず、狩猟許可を得るために奈良県庁に出頭したが
そこで、「桜井の辺なら、狩猟を生業とする人々が多いから標本採集に適しているやで!!」との
とってもザックリした情報を得たものと思われる。翌日には桜井へと移動しているからである。
多分もっと山深く、猟を生業とする人々の多い場所なら他にいくらでもあったと思う。
奈良県南部には雄大な吉野山地があり、さらに紀州まで足を延ばせば熊野の原生林が広がっているからな。

1月11日。鉄道にて桜井へとやって来たアンダーソンらは、『皆花楼(かいかろう)』に宿をとる。
余談だが、この『皆花楼』は西暦1879年の開業と伝わっており、なんと2019年現在も営業を続けている。
建物はそらもう古いが、庭に四季の花々が咲き、ビジネスホテル並のお値段で夕食もついてくるお得なお宿である。

※皆花楼。明治、大正、昭和、平成を生き抜き降り積もった星霜が趣を呼んでいる。

1月12日。アンダーソンらは一旦松山(現奈良県宇陀市大宇陀)まで遠征し、宿をとる。
1月13日。鷲家口(現奈良県東吉野村小川)に到着し、『芳月楼』に宿をとる。
以後、ニホンオオカミ発見の日まで同地に逗留することとなる。

滞在を始めて10日目の1月23日。土地の猟師(本業はイカダ職人で猟師は副業とも言われる)らが
アンダーソンの元にニホンオオカミの幼体の死骸を持ち込む。この死骸は、猟師らが仕掛けた罠に
二日くらい前からかかっていた二ホンオオカミであり、今朝がた撲殺したものだという。

ニホンオオカミの標本獲得は正直アンダーソンらが予定していなかった嬉しいハプニングで、
本物であれば思わぬ大収穫である。しかしながら、猟師に見せられた獲物は小柄な幼体で、
これが本当にニホンオオカミなのかどうかの確信を、十分に得ることはできなかった。
しかも金十数円を要求する猟師に、交渉役の金井が「8円50銭しか払わぬ」と譲らなかったため、
たっぷりと時間をかけた交渉は不調に終わり、死骸は猟師達によって引き上げられてしまう。

ちなみに猟師が引き上げた後のアンダーソンの落胆っぷりは、半端ではなかったらしい。
縁側に片膝を立てて腰かけ、斜陽の中でずっとしょんぼりしていたという。

「普段無口だったアンダーソンさんが『十数円でもいいから買っておけばよかったんだよ…』と
 独りごとを言うさまは、33年たった今でも忘れられないね(笑)」

と後に金井は回顧している。

程なく、あれほど「数十円にはまかりならん」と強弁していた猟師らがおずおずと宿屋に舞い戻り
「8円50銭でいいから買ってくれ。」と申し出た。金井の見立てどおり、猟師らが帰ったように
見せかけたのはブラフだったのである。かくして交渉は成立。金井とアンダーソンは狼の死骸を
譲り受け、さっそく標本の制作に取り掛かる。皮を剥ぎ腹部を切開すると、特に寒い冬だったにも
関わらず、臓器の腐敗がはじまっていた。すなわち「今朝撲殺した」という猟師の弁は嘘であり、
実際数日前には、このニホンオオカミは撲殺されていたものと思われる。

当時、ニホンオオカミは商用価値の低い害獣とされ、このニホンオオカミもまた鷲家口で猟師達に
殺害された後にそのまま現場に遺棄されていたようである。ところがその後、里に戻った猟師らは
あやしい外国人が、動物の死骸を高値で買っている」という情報を得たため、
慌てて鷲家口まで死骸を取りに戻り、アンダーソンらに売りさばいたのではないかと推測される。
ともすれば、生物学上貴重な標本となったこの個体の命日は、1月23日の数日前だと推定される。

以上の経緯で採集されたのが「二ホン・ホンド・ワシカグチ」であるが、採集された当初は、
恐らく誰もこの個体が"最後のニホンオオカミ"になるとは想像していなかったように思われる。
そもそも二ホンオオカミの生息数が劇的に減ったのは明治元年よりも以降のことであり、
それ以前、ニホンオオカミは里人にとってイノシシやキツネやタヌキやクマと変わらない程度には
ごくありふれた生き物だった。それが半世紀も経たぬ間に、地上から忽然と姿を消したのである。

なぜニホンオオカミがここまで劇的に減退してしまったのかについては、
「日本の近代化によって住処が奪われた!」といったような説明がされることがあるが、
感傷的ではあってもおよそ理に適っているとは言い難い。
いくら日本の近代化が目ざましかろうと、開国後50年やそこらで里山が消滅したわけではない。

実際の所、ニホンオオカミが消えた理由は、江戸末期から二ホンオオカミに「狂犬病」が蔓延し、
さらに明治期なって西洋から持ち込まれた「ジステンパー」等の流行的伝染病が折悪くかみ合って、
ダブルパンチを食らった所が大きいと推定されている。加えて人為的な駆除や山林開発に伴う
生態系の崩壊が、ニホンオオカミの劇的な衰退に拍車をかけたものではないかとは考えられる。

なお、二ホンオオカミの絶滅理由については民俗学の大家、柳田国男も考察を加えており、
その主要因を「何らかの要因で狼の群れが分断・崩壊したためではないか」と推測している。
本来は群れで行動する二ホンオオカミであるが、それがなぜか明治初期頃から単独での生活を
好んで選択するようになり、この"孤狼化"が結果的に種全体の破滅を産んだのだという。
「はぐれ狼」や「一匹狼」といった語があるように、"孤狼"は本来狼社会における例外的な
ライフスタイルだったにも関わらず、多くの狼がこぞって選択することで、社会が崩壊した、
とも言い替えられよう。

"孤狼"には「見つけたエサを全部自分一匹で独占できる」という経済的なメリットがある一方、
「嫁(生殖相手)を見つけにくい」という、種としては滑稽なくらい致命的なデメリットがある。
結果、二ホンオオカミは世代を経るたび個体数を減らし、やがて絶滅してしまったのだという。
今般世界中の先進国を脅かす「少子高齢化」問題は、なんと狼社会がパイオニアだったのである。
そしてさらに、「群れで生活する生き物」と認知されたきた二ホンオオカミが孤狼化したことで
しょんぼりと一匹、山林の風景に同化するよう歩く狼の姿は、人の目からはよりいっそう劇的に
個体数を減らしたように見えたのだという(筑摩書房『定本柳田国男集第22巻』ほか)。

理論としての妥当性はともかく、オオカミが自ら孤立を選んだと言う動物側の主意主義的な発想は
とても面白い考察だと思う。人間も伝統的イエ制度の崩壊以降、核家族化→単家族化→一人家族化と
"孤人化"の道を爆進しているしね(こじつけ)。

余談ではあるが、二ホンオオカミを見つめる人々の視線は柳田の記録した『遠野物語』の中の
いくつかの話からも読み取ることができ、多くは急激に姿を消してゆくニホンオオカミの様相が
一種の感傷をもって描写されている。


ニホンオオカミ

脊椎動物亜門哺乳類綱ネコ目(食肉目)イヌ科イヌ属に属する生物。個体の体長は生体で115cm、
体重15kg程度にしかならず、他国のオオカミと比べて実はかなり小さかったと考えられている。
ぶっちゃけ柴犬とかとそう変わらない。山林の多い日本では、小躯の機動性が重視されたのかも。

しっぽは約30cmで内側に湾曲し、肩高は約55cm程度、耳は小さめだったと考えられている。
あまりぱっとはしない風貌である。しかしながら、いくら小さいとは言っても群れで連携をなし、
知的な集団行動をとったであろう二ホンオオカミが、人類の脅威であったことは想像に難くない。
オオカミへの畏敬は日本人の心に深く刻まれ、信仰の対象とされることも少なくはなかった。

上述した『遠野物語』においても

「狼の経立(ふったち。遠野の人々は長く生き、半妖怪化した動物のことをこう呼んだ。)は後ろ
 から見ると小さいのに、正面から見ると馬の子くらいの大きさがある」

「その唸り声は、どこまでも響き本当に恐ろしい」

と語られる段があることから、外見以上の霊的オーラを感じていたということが解る。
現代風に言えば、"威圧感"とでも言うべきものを二ホンオオカミ達は持っていたのである。

ただ、このように信仰の対象とされたことが骨や皮を簒奪するための狩猟動機を生み、
ニホンオオカミの絶滅にさらにワンパンかました可能性があることは皮肉である。

なお、激おこぷんぷん状態のニホンオオカミは遠野の人々が恐れたように大変な脅威であったが、
平常の二ホンオオカミはむしろ大人しく、臆病で、温厚な性格をしていたとすら言われている。
縄張りを荒らすとか挑発するとか、余程人間から刺激しなければ基本無害だったという話もある。
まあ、普通に家畜を襲うので害獣ではある(ニホンオオカミに"所有権"の概念は無いだろうが)。

物語上のニホンオオカミは、人語を理解する「山の神」やその使者として描写されることが多い。
キツネやタヌキが人間サマをおちょくる親しみやすい(迷惑な)存在として描かれるのに対し、
ニホンオオカミは神がかった、ある種の「富貴」を伴った存在として描かれることが多いのが、
特徴の一つだと個人的には思う。

なお、
古来、様々な文献に「山犬(やまいぬ)」という名の妖怪が登場することがあるが、
ニホンオオカミこそが、この妖怪の正体である可能性が高い。

口伝や物語に登場する「山犬」の身体的特徴、あるいは絵画として残された「山犬」の姿は、
ニホンオオカミのソレと合致するところが最も大きいためである。

一方で、「山犬」とは読んで字のごとく「山にいる犬のような姿形をした生き物」のことなので、
ニホンオオカミだけでなく、野生化したイエイヌ(野犬)、タヌキやキツネ、イタチ、マミから、
ともすればニホンカモシカやイノシシの幼体、あるいは既に絶滅したイヌ科の亜種、異種配合種、
モロの君など、雑多な「犬っぽい連中」と、ニホンオオカミとをひっくるめ「山犬」という概念に
まとめていた可能性も高いのではないか、と編集者は思う。

そもそも江戸時代以前の人々が現代の生物学に基づいて野生動物を分類していたわけがなく、
例えばタヌキやアナグマやハクビシンらを総称して「貉(むじな)」と呼んでいたわけで、
タヌキやムササビやモモンガを総称して「貒(まみ)」と呼んだりしていたわけである。
少なくとも、「山犬」という動物学的分類上のイヌ科生物が存在したという証拠はない。
すでに幻想入りしただけかも知れないけどね。

以上、何が言いたかったのかと言うと、今般東方界隈では

「なにがわふー椛だ!何がわんわんおだ!」とか
「影狼さんを犬扱いするな!」 とか
「響子ちゃんかわいい!」 とか

といった犬≠狼議論について昼夜熱い議論が交わされているが、
ぶっちゃけわが国では古来犬と狼とを明確に分けてなかったよてなかったよ、ということである。
影狼さんを犬と表記することが誤りではないし、魔狼と化した凶暴な響子ちゃんも全然アリ
かわいけりゃなんでもいいよ、ということである。
(個人の感想です。あと響子ちゃんは本当は犬の妖怪ではなく山彦だけどそこはどうでもいいです)。

とくに白"狼"天狗の椛は"狗"符「レイビーズバイト」を使うなど、
わりと自分で犬と狼とを混同している。とてもわふみが高いのである。

ちなみに
上海アリス幻樂団の楽曲集第3弾『夢違科学世紀~Changeability of Strange Dream』の
ブックレットでは、メリーが「河童も山犬も3DCGで見られる」と語っており、山犬が独立した
妖怪の1種族として扱われていることがうかがい知れる。よって、純然とニホンオオカミの要素を
残したまま妖怪化した影狼さんと、山犬とは、同一の根源から派生した近縁種とも考えられよう。

幻想郷史とニホンオオカミ

3面ボス  竹林のルーガルー
今泉 影狼(いまいずみ かげろう)
Imaizumi Kagerou
種族:狼女
能力:満月の夜に狼に変身する程度の能力
落ち着いた性格の持ち主。
それは狼に変身しても冷静さを失わなかった。
迷いの竹林には月の住人が屋敷を構えている為か、
月に関係する妖怪が多くいるようだ。
彼女もその一人である。
ちなみに、外の世界では絶滅したニホンオオカミ女である。
満月の日は毛深くなるのが気になるようで
肌をかくし、ひっそりと暮していた。
打ち出の小槌の魔力に冒され、凶暴になっていたところ霊夢達に
成敗された。
今はもう大人しい。
『東方輝針城』おまけテキストより

東方projectには種族名が「ニホンオオカミ女」とされる今泉影狼が登場する。
「ニホンオオカミ女」が長年生きた二ホンオオカミが人間の女性の姿に変貌した存在なのか、
生粋のワイルドハーフなのか、犬神のように後天的要因で半獣化したものなのかは不明である。
"今泉"の姓については動物学者の今泉吉典(1914~2007年)にちなむと考える説もあるが、
偶然の一致の可能性もある。なお、今泉吉典が「ニホンオオカミ」の名を創生した(名付け親)と
表記するサイトが散見されるが、これは誤りである。今泉氏の功績によりニホンオオカミの呼称が
定着したと言うのは事実ではあるが。

影狼が自身のアイデンティティというか尊厳を二ホンオオカミに求め、外界から流れ着く文物に
よって氏の功績を知り、“名付け親”と認識し、敬意を込めて今泉姓を呼称しているのかもしれない

また、上述のテキストには「外の世界で絶滅した」とも明記されているので、
東方projectの世界では二ホンオオカミは(外界で)絶滅が確定したとされいることも分かる。

もちろん、現実世界においても「二ホンオオカミは絶滅した」というのは科学的定説である。
しかしその一方で、1905年に「二ホン・ホンド・ワシカグチ」の死骸が採取された後も、
ニホンオオカミにかかる人々の目撃証言は、時代を超えて現代までおよそ絶えたことがない。
特に戦後の1970年代にはかなり大規模な「ニホンオオカミ残存説」ムーヴメントが発生し、
ロマンとニホンオオカミを求めて山林に入る人も続出した。余談にもほどがあるが、
1970年代に刊行された『ドラえもん』第2巻、第11話「オオカミ一家」においては
1970年代まで細々と生き延びていたニホンオオカミ一家がのび太の活躍によって守られ、
無事22世紀まで種を保つこととなっている。ただし、のび太が保護するニホンオオカミは
二足歩行だったり、どう見ても大陸オオカミの風貌だったり、指の関節を自在に曲げたり、
明らかに人間よりデカかったりするので、本当に二ホンオオカミなのかどうかは疑わしい。

話がそれまくったが、藤子・F・不二雄氏をはじめニホンオオカミの生存を信じる人々は
フィクションや希望的観測も含め、わりと多数いたのである。21世紀に突入した現代でも
二ホンオオカミの生存をガチで信じている人は、実はけっこうな数いたりする。

原作考察に戻ります。東方projectの書籍作品、『東方香霖堂』において、
「外界で絶滅した生物は幻想郷に姿を現す」とされている(佐渡島の記事を参照いただきたい)。
ならば二ホンオオカミは、外界から消失したのと同時期に幻想郷で数を増やしたと考えられる。

ここで気になるのが、二ホンオオカミが外界から姿を消した時期である。
上述のとおり、ニホンオオカミの減退と滅亡は明治初期から明治終期のわずか40年余りの間に
起こった出来事であるが、これは日本の初期近代化の時期であり、夜と朝のように新旧の価値観が
入れかわる「黎明の時間帯」でもあった。より具体的に言えば、日本人が神や妖怪の存在を否定し、
「科学主義」という新たな思考的主柱を取り入れた時期であった。

東方projectの世界観ではこの時、いち早く危機を察知した妖怪の賢者・博麗の巫女らによって
明治17年(西暦1885年頃)に博麗大結界が創生され、以後幻想郷は多くの神や妖怪、
それにわずかな人間らを受け入れながら現在まで存立しているとされる。

このような「妖怪・神」の外界からの消失のムーヴメントと、二ホンオオカミの減退とが時期的に
合致しているのは、果たして偶然の産物としてだけ解釈しえるだろうか。

古来より人語を理解し、高い知能を持っていたとも考えられている霊的生物=二ホンオオカミが、
近代化する人間社会、その行く末を見通した時、自ら博麗大結界を越えて幻想郷へと移住した。
ニホンオオカミのドラマティックな消滅からはそんな”裏設定”も妄想し得るのである。

繰り返しになるが「日本が近代化したからニホンオオカミが滅んだ」という思考は、
キツネやタヌキなど他の野生生物らが現代まで外界でそれなりによろしくやっている様相から
逆引きすれば、理由としてはあまりにも抽象的すぎるのである。

※影狼さんが見たかもしれない吉野山の原風景


  • 面白かったです - 名無しさん 2015-06-08 19:47:37
+ タグ編集
  • タグ:
  • ニホンオオカミ
  • 東方
  • 聖地
  • wiki
  • 今泉影狼
  • 犬走椛
  • 幽谷響子
  • 奈良県
  • 東吉野
最終更新:2019年02月22日 21:50