関係あるとみられるもの

因幡てゐ(東方永夜抄ほか)
綿月豊姫(東宝儚月抄ほか)

住所

白兎神社         鳥取県鳥取市白兎603
道の駅 神話の里白うさぎ 鳥取県鳥取市白兎613 
JR山陰本線「末恒駅」下車 徒歩20分
JR山陰本線「鳥取駅」下車 日ノ丸バスに乗車(約40分)。バス停「白兎神社前」下車すぐ

白兎海岸(はくとかいがん)

かつての因幡国(いなばのくに)、現在の鳥取市の西部において、日本海に面する砂浜海岸。
連綿と続く白砂の浜辺と、透きとおるマリンブルーの海水浴場として県内外に知られている。
特にサンセットビーチは絶景で、西方に浮かぶ淤岐嶋(後述)の景勝と相まって大変美しい。
近年、大陸から様々な漂流物が流れつくようになり、悪い意味で国際色豊かにもなっている。

さて、本記事をお読みいただくにあたり、まず冒頭のグーグルマップを見ていただきたい
白兎海岸の付近には、「白兎神社」があり「道の駅白うさぎ」があり「白兎営農会館」が
存在することがお分かりいただけると思う。

この海岸だけが「白兎」の名を冠しているのではなく、
ここら一帯が「白兎」という地名なのである。

むろん全国にも類を見ない不思議な地名であるが、
いつ、なぜこのような地名で呼ばれるようになったのか。
まずは同地の歴史をふりかえり、経緯を紐解いてゆきたい。

内海村(うつみむら)

茫漠たるネットの海を泳ぎ、拙記事に漂着なされた時点で教養深いこと疑いなき諸兄であるから
ここまでの前書きですでに「勿体つけんなヴォケ!」とお怒りのことかとも思う。すみません。
じゃけん先に結論から言ってしまう。

この一帯が白兎の名を関している理由、それは、

「この地こそが、記紀神話『因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)』の舞台である!」

…と、主張しているからである。なぜなのか。


現在「白兎」の地名を持つ一帯は、元々は内海村(うつみむら)という名だった。
半農半漁のささやかな村だった。

古い記録を辿ってみると、
鎌倉時代に成立した『法隆寺本古今目録抄(又の名を聖徳太子伝私記)』の一節に、

「因幡国気多郡大原郷宇津美之里(うつみのさと)の能曾姫なる女性が、
 聖徳太子の供養のために生絹や綿、御衾(おふすま)を調達した(要約)」

と記されているが、この宇津美之里(うつみのさと)が、当地ではないかとも考えられている。
だとすれば、少なくとも鎌倉時代にはこの地に人が住んでいたことになる。

戦国中期には山名久通、山名豊数宛にしたためられた文書(中村文書)の中に内海の地名がみえ、
戦国末期には亀井茲矩(かめいしげのり)が領主となり、内海村南部(内海谷)の湖を抜いて
水田を開墾したり、荒廃していた神社を再建したりといった善政を敷いた記録が残されている。
江戸期は鳥取藩に属し、村高は300~400石余(郷村帳)、戸数は60戸余(因幡志)を数えた。
山陰を結ぶ伯耆(ほうき)街道沿いという好立地から、茶屋や宿屋も出て、それなりに賑わった。

江戸時代に入ると、鳥取藩の支配下に置かれた。歴代の藩主達もこの地はお気に入りで、
馬の遠乗り(今風に言うならばドライブ)の際に、ちょくちょく立ち寄ったとも伝わる。

産物としては香附子(こうぶし)、イ貝、サンダワラノリ、ワカメなど浅瀬の幸がよく採れた。
塩も盛んに作られ、後世には衰退してしまったたものの、地引網漁も行われていたとされる。

内海村にはまた、日本全国の一般的な村々の例に違わず、「氏神」として祀る神さまがいた。
中世において「氏神」はその土地を鎮護する土地神さまであり、また、より純粋な意味では
氏族共同体の祖神、すなわち「自分達のご先祖様」を神格化し祈りを捧げる対象であった。
内海村の人々が信奉する氏神様は、その名を「白兎大明神」と言った(賀露神社文書)。
そしてこの神さまこそ、神話に登場する「因幡の素兎」であると、内海村の人々は信じていた。
そしてこれを裏付けるように、近隣の土地を気多前(けたのさき)、淤岐島(おきのしま)、
高尾山、身干山、恋坂(石分坂)、水門(みなと)など、神話どおりの名前で呼んでいた。

繰り返しになるが「氏神」は単に土地神様というだけではなく、より純粋かつより古くは、
自分のご先祖様を神格化して祀るものである。

ゆえに太古より内海村に暮らしてきた人々は、
妖怪兎を先祖に持つ人々だったということになる(冗談全分)。

時は流れ、中世から近代へとうつろう中で、明治22年、内海村は単独村としての歴史に幕を下ろす。
近隣の伏野村、三津村、小沢見村、内海中村、御熊村の5村と合併して新たに末恒村を形成した。
末恒村の中で旧村名は字(あざ)となり、公式な住所表記としては、同所は「末恒村字内海」となった。
明治30年頃から養蚕が栄え、明治40年代には国鉄の路線が開通し、素朴な村は次第に近代化していった。
さらに大正14年、白兎海岸が海水浴場として整備される。元々神話の地としてそこそこ知られていた所に
海水浴場も出来たことで、以後白兎海岸と白兎神社は観光地として飛躍的に知名度を高めることとなった。

さらに時は流れ、昭和28年になると、末恒村は鳥取市と合併し鳥取市の一部となることが決定する。
この際、末恒村成立前の村名を字として残していた伏野、三津、小沢見、内海中、御熊の5地区は、
この字名をそのまま継承し「鳥取市伏野」や「鳥取市三津」、「鳥取市小沢見」等と名を改めた。
しかしながらこの時、内海だけは「鳥取市内海」とはならず、新たに「鳥取市白兎」へと改称した。
その背景には当時すでに白兎神社・白兎海岸が内外に知名度を高めていたことがあると考えられるが、
内海の人々が古来「白兎大明神」を崇敬してきた歴史を顧みれば、「流行りものに乗った」というよりは
温め続けて来た地域アイデンティティを復古させたと捉えた方が、より適切と言えるかも知れない。

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最終更新:2018年01月09日 20:54