関係あるとみられるもの
住所
岩手県遠野市土淵町山口(JR釜石線遠野駅より健脚で徒歩2時間半。駅で電動自転車がレンタルできる(有料)。本数は少ないが付近まで路線バス有)
蓮台野(デンデラ野)
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺及火渡、青笹の字中沢並に土渕村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。
その近傍に之と相対して必ず連台野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。
老人は徒に死んで了ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。
その為に今も山口土淵辺いては朝に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。
「遠野物語111」
青笹村の字糠前と字善応寺との境あたりをデンデラ野またはデンデエラ野と呼んでいる。
ここの雑木林の中には十王堂があって、昔この堂が野火で焼けた時十王様の像は飛び出して近くの木の枝に避難されたが、
それでも火の勢が強かった為に焼焦げている。
堂の別当は、すく近所の佐々木喜平どんの家でやっているが、村中に死ぬ人がある時は、あらかじめこの家にシルマシがあるという。
すなわち死ぬ人が男ならば、デンデラ野を夜なかに馬を引いて山歌を歌ったり、または馬の鳴輪の音をさせて通る。
女ならば、平生歌っていた歌を小声で吟じたり、啜り泣きをしたり、あるいは高声に話をしたりなどしてここを通り過ぎ、
やがてその声は戦場の辺りまで行ってやむ。
またある女の死んだ時には臼を搗く音をさせたそうである。こうして夜更けにデンデラ野を通った人があると、喜平どんの家では、
ああ今度は何某が死ぬぞなどと言っているうちに、間も無くその人が死ぬのだといわれている。
「遠野物語拾遺266」
蓮台野とは本来、墓場や火葬場を著す言葉である。天皇の火葬塚のある
京都市北区船岡山(紫野)をはじめいくつかの地域で地名として名残を留めている。
そして遠野にも、かつての「蓮台野(訛化してデンデラ野)」であったと伝えられる場所がいくつか存在している。
しかし遠野の「デンデラ野(以下、遠野の蓮台野を指しデンデラ野と呼ぶ。)」は、他の地域とは異なり墓場や火葬場を意味しない。
遠野伝承の「デンデラ野」には、必ずその付近に「ダンノハナ」と呼ばれる場所がある。そしてこの「ダンノハナ」こそが墓場や火葬場なのである。
では、遠野の「デンデラ野」とは何か。それは老いた者が村集落で暮らすことを許されなくなり追放される場所、いわば「姥捨山」である。
かつて厳しい生活環境にあった遠野では、60歳を過ぎた者は口減らしのため「死んだもの」として扱われ、デンデラ野という「墓」に連れて行かれた。
もっとも、連れて行かれた側もただいたずらに死を待つわけではない。動ける者は日中里に戻り、農作業などを手伝う報酬に僅かな食糧を得て分け合っていた。
この様子をもって里人は、朝デンデラ野から死人(ということにされた老人)が里に来ることを「墓発ち」、夕方デンデラ野に戻ることを「墓上がり」と呼んだ※。
すなわち遠野伝承において「デンデラ野」は、「生きながらに死んだことにされた者達の暮らす場所」「現世であり幽世である場所」として登場するのである。
※これには異説があり、ハカとは「墓」ではなく遠野の方言で「仕事」を意味するのだという意見もある。
これによれば、「ハカ発ち」とは「仕事に行く」という意味で「ハカあがり」とは「仕事を上がる」という意味になる。
確かに、仮に追放されているからといって直ちに「死人」に擬制し、かつ、そうした解釈を日常的に運用する必要はないのだから、
ハカ=仕事という解釈は合理的であり、リアリズム的であると言える。翻せば、ハカ=墓と解釈するのは極めて幻想的だとも言える。
東方projectにおいて連台野の名は、秘封倶楽部「蓮台野夜行 ~ Ghostly Field Club」のブックレット中で次のように登場する。
「メリー、蓮台野にある入り口を見に行かない?」
蓮子は古い寺院が写っている写真を差し出した。見たこともない寺院だった。「これが冥界よ。」
「で、こっちの写真。山門の奥を見て……」「ほら、門のここ。向こう側。明らかに現世でしょ?」
蓮子はなぜか、「冥界」から見た「外界(外界の蓮台野)」の写真を持っていた。そしてメリーを誘い、実際に見に行こうと誘った。
冥界側から見た外界は夜の平野に一つの墓石が立っているとされている。
蓮台野で一番彼岸花が多く生えているお墓が入口よ。何故か突然そう言ってしまった。
勇ましく出発したまではよかったんだけど、蓮台野に着いた時、急に冷静になってしまったわ。そう言えば、蓮台野って墓地だったわね―
「2時30分ジャスト!」墓石を4分の1回転させたその時、秋だと言うのに目の前に一面桜の世界が広がった。
以上のように、東方project「蓮台野夜行 ~ Ghostly Field Club」において蓮台野は墓地であると明記され、描写されている。
他方で上述のとおり、遠野のデンデラ野は通常の「墓地」ではなく「生ている死者の住む地」「現世であり幽世である場所」と意味づけられた空間である。
同作の1曲目には「夜のデンデラ野を逝く」と冠された曲が収録されているが、果たしてここで言われるデンデラ野(二人が訪れた場所)が、
その語のとおり遠野のデンデラ野そのものを現すのか、あるいは
京都紫野の蓮台野をあえて"遠野風"に言い直して、蓮台野が単なる墓場ではなく
「冥界との境界点」であるという語義が強調されている、つまり一種の表現技法が駆使されているのかは考察の余地の残る所だろう。
また、メリーは次のようにも述べている。
「私は山門は三門って漢字が正しいのよ。と言おうか迷っていた。」
蓮台野は、外界、幻想郷、冥界の三点が結節する場所、なのかもしれない。
秋になると、遠野のデンデラ野にも彼岸花が咲く。
当地を訪れれば、この世にあってこの世にあらざる場所の雰囲気と悲しい歴史に思いを馳せることになるだろう。
最終更新:2015年03月27日 05:52