教育者として、必要なことは何だと思いますか?
 柔和な微笑みで端正な顔面を彩って、その男は問うた。
 片手はハーブティーを口元へ運びながら、正しく同僚に問いかけるような気軽さで。

 「え? うーむ……ハハ、どうも分かりかねますなァ。“そっち”は本業でないもので」

 この男は苦手だ。 
 接待用に取り繕った笑顔で話を濁すが、どの道眼前の彼が満足できる回答など己は持たないと知っている。
 彼ほど出来過ぎた人間はいない。文武両道、その価値観や倫理観も引っ括めて真に怪物と呼ばれるべき人間だと思う。
 異質なまでの矜持を有しつつ、その上で手段を選ぶということが決してない。
 斯く言う自分も相当に悪どい真似を重ねてきた自覚は一応ある。
 ――いや、違う。比べること自体意味がない。
 これと肩を並べられる人間があるとすれば、それはもう立派な“化け物”に違いないのだから。

 「いえ、それである意味正解ですよ。教育という物に正解はない。生徒達を萎縮させ、本来の才覚を発揮するのを妨げてしまう“恐怖”とて一流の教育者が使いこなせば立派な教鞭になる。
  優れた教師が教えれば生徒は必ず結果という形で応えるものです――本人の意志や価値観までは別として、ですが。しかし中には、生徒の自主性を重んじるというやり方もある……敢えて教師が介入せず、柵を設けてではあるが好きにさせるやり方だ」

 紅茶を啜る音が響く。
 完成された作法と動作は英国の紳士や貴族と比較しても遜色なく、只管に洗練されている。

 「でも、私だって暇なわけじゃない。仮に半年ほど前の私に此度のお話を持ち掛けたなら、きっと笑い飛ばしているでしょう」
 「…………」
 「事情が、変わりましてね」

 苦笑して漏らす意味深な発言の意味合いを、しかしもう片方の男は薄々察していた。
 彼の言う通り、本来ならこんなことをする必要は微塵もなかったのだ。
 そして今もそれは同じ。必ずしも要るファクターではなく、無視するならそうしたところで何ら不利益の出ない、取っ替え引っ替えの幾らでも効く選択肢の一つというだけ。
 なのに何故、このプランが選ばれたかと云えば――その意図は、神と彼だけが知っているのだろう。

 「詳しくは割愛しますが、私はとある出来事に触発された。
  教育者としてお世辞にも褒められた理由ではない……むしろ、切っ掛けだけを見たら不謹慎と呼んでもいいでしょうね。
  だが、やってみる価値はあると感じた」

 もう一人の男も、ここでハーブティーを一口啜る。
 鼻孔を擽るハーブの香りは甘美だったが、美味しいとは思えなかった。

 「どうかよろしくお願いしますよ、坂持先生。その為に貴方を“引き戻した”んですから」
 「……ハハ、分かってますとも」

 紡がれる言葉の一言一句を聞く度思う。
 この男は完成されている。隙無く整えられ、誰にも乗り越えることの出来ない才人だ。
 だがそれ以上に異常者だ。職業柄壊れた人間を見るのには大分慣れたが……こういう手合いだけは関わりたくない――この男と初めて邂逅したその日、坂持金発はそう思うようになった。

 「戦闘実験第六十八番プログラム……通称“プログラム”。
  私のような若輩者が出しゃばるよりかは、先生のようなベテランに教鞭を執って頂いた方が良いはずですから」

 悪夢は、繰り返される。
 何度も何度も――夜が訪れる限り、決して途絶えることはない。

 「了解」

 そうしてパンドラの匣から溢れ出した悪意の化物は、うら若き子どもたちを腹の中に飲み込んでしまった。



 (……なんだろう、これ)

 ぎしぎしとパイプ椅子が軋む音を立てる。
 精一杯の力で頑張ってみても、身体を背凭れへ縛り付けているロープの結び目は微塵すらも緩んでくれなかった。
 どうやらここは学校の教室らしいが、見慣れたE組の木造校舎でないことは明らかだ。
 机は一台もなく、二十数脚のパイプ椅子が等間隔に並べられ、そこへ人間がロープで縛り付けられている。
 一言で言って異質な空間だ。教室にテロリストが乱入してくる幼稚な妄想の中のような光景が、実際に今目の前にある。

 「参ったな……」

 小声で口にしながら隣をちらりと見やる。
 隣が気心の知れた相手であったのは幸運か不運か。
 みんなのイケメンリーダーこと磯貝悠馬。
 潮田渚と同じく、彼もこの異常事態に巻き込まれてしまったようだ。 
 いや、彼ら二人だけではない。
 列を隔ててはいるものの、見知ったクラスメイトの姿がちらほらと見受けられる。
 しかし流石に暗殺教室の生徒達、これしきの異変で一々取り乱して騒ぎ立てるほどヤワな作りはしていない。
 知り合いといえば、幾度か矛を交えてきた理事長の息子も混ざっていたが……彼も些か特別なので割愛する。
 その他の人達について知っていることは何もない。
 庶民的観点で想像すると、真っ先に誘拐という単語が浮かんでこよう。
 しかし、触りほどとはいえ社会の裏側を見た身からすると、それで済めば、などと思ってしまう。

 彼の危惧は事の本質を的確に射抜いていた。
 だが、それを知らせる悪魔の手によって教室の扉が開かれたその時、既に子どもたちに出来る事は何一つとしてなかった。

「はーい、静粛にー。HRを始めるぞー」

 入ってきたのは血色の良い顔をした男だった。
 妙齢の女性がそうするように髪を肩口まで伸ばし、両足が胴体の付属品のように短い。
 くたびれたカーキのスラックスとグレーのジャケット、臙脂色のネクタイは全てくたびれた印象を受ける。
 襟元に桃色のバッジを付けていることから、どこか施設の職員だろうか……なんて考えを渚が懐いた矢先。
 てめえは、と誰かが吼える。
 その怒号には信じられない程の憎しみが籠もっており、暗殺という形で“闇”の片鱗を見た渚すらも一瞬怯む。
 男は飄々とした笑顔でそれを受け流すと、本物の教師がするように教卓へ両手を置いた。

 「どうだ、よく眠れたかー? ん? 先生、お前らが良い夢を見られたことを心から祈るぞぉ。ひょっとすると人生最後の睡眠時間だったかもしれないんだからなあ、はは」

 ――――ぞわり……。渚の背筋を、冷たい何かが這い回る。
 感覚としては、質こそ違うが鷹岡明……最悪の教師に近いものだ。
 この男は駄目だと本能が告げる。
 直感的にそう感じ取った者は他にもいるようで、皆一様に警戒や恐怖の感情を彼へ示していた。
 かつかつ、チョークが黒板へ文字を綴る聞き慣れた音が無気味に響く。
 やがて、『坂持金発』という如何にも偽名めいた名前が顕れた。

 「はい、というわけで。私が皆さんの新しい担任になりました、坂持金発といいまーす。よろしくなー」

 冗談めかして言う彼に、教室中から批判の声が殺到する。
 尤も渚は口を開こうとしなかった。
 ここで感情を発露させてはいけないと、本能が警鐘を鳴らしていたからだ。

 「静粛にー。これから皆さんを集めた理由を説明するんだぞー。聞き逃しても知らないぞ」

 ぱんぱん。坂持が手を叩いてそう呼びかけると、教室内は少しずつ静かになっていった。
 確かに苛つく男ではあるが、こんなところへ連れて来られた理由は気になる。
 しかし――誰もが、次の瞬間後悔した。
 彼の言葉に耳を貸さず、喧騒で掻き消してしまえたなら……と。ありもしないイフを夢想した。

 「えっとな。今日はお前らに、ちょっと殺し合いをしてもらいたいんだ」

 意外にも、騒ぎ立てる者はいなかった。
 覆い被さってくる突飛すぎる絶望に、一人余さず呑み込まれていた。
 笑い飛ばすことさえ出来なかった。何故なら、教壇の坂持にちっとも冗談を言っている様子が見えなかったからだ。
 にやにやと笑うその顔面。あれには哀れみが混じっている。
 可哀想になあ、でも仕方ないよなあ。だから精々頑張ってお互い潰し合ってくれよぉ――

 「逃げようと思っても無駄だぞ。前の“プログラム”よりちょっとルールは緩くなってるけど、会場から出ようとしたり、禁止エリア……まあ詳しくは後で配るルールブックを読んでくれ。兎に角そこに侵入したら、蜂の巣だからなー」

 蜂の巣、というのは比喩ではあるまい。
 逃亡を図った瞬間、灼熱の鉛弾が自分の身体を穴だらけにする光景を渚は想像してしまった。
 あまりにも間近へやって来た死の気配。
 “殺す”ということに慣れた自分達ですらこうなのだ、他の者達は更に強烈な衝撃に曝されていることだろう。
 ……それこそ、たったひとつの椅子に何としても座ろうと思うに違いない。
 事実教室には鬱屈とした空気が漂い始めていた。
 恐怖、疑心暗鬼、怒り、嫌悪、絶望――色とりどりのこころが混ざり合って、カオスの色彩を生み出している。
 坂持はそんな子どもたちを慮ることもなく、さっさと話を進めてしまう。

 「まあ、真面目に殺し合ってる分にはそんなこともないだろうから、安心していいと思うぞー」

 次いで坂持は、後ろの人に回してくれ、と言いながらデイパックを最前列へ渡し始めた。
 重さはそれぞれ違うが、中にはずっしり重いものもあるようだ。
 これから何をするのか想像すれば、中に何が入っているかは自ずと分かるだろう。

 「それはお前たちが殺し合う為の道具だ。少し当たり外れもあるけどな、その分当たりを引いたらとんでもなく有利になる」

 じゃあ、外れを引いたなら?
 ……答えは聞くまでもない。

 「見事“プログラム”を勝ち上がり優勝した優秀なやつには、ここから生還する以外にも沢山の褒美をやるぞー。……おいおいそう不思議そうな顔をするなよ。ちょっと事情が違うんだよ」

 ふざけやがって。誰かが言った。
 声には出さないが同意見な者は決して少なくなかったはずだ。
 富と名誉は確かに大きな報酬だろうが、自分や他人の生命を危険に曝してそれとは安すぎる。

 「ああ、最後に一つ。
  会場の中には、ほんの幾つかだけど、とーーっても危ないところがあるっていうから気を付けてなあ。世の中には知らなくていいこともあるんだぞ。深入りはしないようになー」

 ここに来て、突然坂持は要領を得ないことを言い始めた。
 危ないところ……妥当に考えれば転落の危険があるような高所なんかが浮かぶが、どうも的を外している気もする。
 その違和感の回答を得る前に、渚たちは強烈な眠気に襲われた。
 見れば坂持はガスマスクらしきものを装着している。
 睡眠ガスか何かが教室に投入されたようだ――抵抗できないまま、無力に一人また一人倒れていく。

 「それじゃあ、頑張れよー」

 意識が消える前に、そんな声が聞こえて。
 最後に脳裏へ浮かんできたのは、どこか頼りない、けれど大好きな怪物(せんせい)の姿だった。


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最終更新:2014年06月15日 23:35