なによ、これ。
黒髪がべたついた夜風で靡くのを鬱陶しげに払って、フランチェスカは不機嫌そうに呟いた。不機嫌「そう」ではない、事実彼女は未だかつてないほどに不機嫌だった。予想だにしない事態の一つや二つ起こるならいいが、これは幾ら何でも飛躍が過ぎる。
第一、ここは何処だ? 自分はフィレンツェの町にいたのではなかったか? ……あの顔ぶれはどう見たって東洋人が殆どだった。あの坂持という気味の悪い男だってそうだ。ちょっと高台になっている場所から遠くの町並みへ目を凝らしても、見えてくるのはイタリア様式とてんで異なった家々ばかり。全くもって、理解が出来ない。
誘拐されたというのも考え難い話だった。自分はいつも同行者をつけていた。セスというその男はそんじょそこらのチンピラや小悪党なんかよりずっと腕っ節が強い筈だし、あの男がヘマをやらかすとはどうも思えないのが正直なところだ。
磯の香りが鼻につく。普段なら風情の一つも味わう場面だったかもしれないが、こんな状況とあっては気取ることも出来やしない。それどころではないからだ。怒り以上に、状況は急を要する。
「まずい、ね。早くしないと、本当に大変なことになりそう」
爪を噛み、自分に言い聞かせるように言った。
坂持の語ったことが狂言だとも思えない。殺し合いは今自分がこうしている内にも刻々と進行しており、もしかすると既にいくつかの命が喪われたかもしれない。そう考えるのが妥当だろう。
フランチェスカの身体は未成熟だ。“外の世界”でなかったならまだしも、この状態で暴漢にでも襲われたなら抵抗できない。首に腕でも回されればそれでお終い、どう足掻いたって生き抜ける未来はない。
他にも脅威は山程ある。銃にナイフ、毒物だって危険だ。高所から突き落とす等など、人間が人間を殺す手段なんて腐るほどありふれている。自分でさえ、これだけ多くの危機に曝されているのだ。彼女の脳裏に、大切な親友の顔が過る。
ああ、無理だ。あの優しい子ではこのゲームを生き抜くことは出来ないだろう。怯えて震えている姿が目に浮かぶようだった。ともすれば自分以上に非力な彼女が、宜無く殺され荼毘に伏す……それだけは、何としても回避しなければならない。
どんな手段を使ってでも。何を犠牲にしても。フランチェスカは、実にスムーズに黒い感情を自覚し、受け入れた。
「レーニエ……」
白い髪の毛、白い肌。
目を瞑れば姿形は容易に思い描ける。
私の大切な親友。彼女を追って外の世界へ出たことがこんな混沌に巻き込まれた原因だとしても、レーニエを見捨てることなんて絶対に出来ない。何ならあの子一人だけでも生き残らせてやる覚悟はある。――死なせてなるものか、強くそう思う。
だが幸いか、フランチェスカは一時の激情に突き動かされて不帰の道を疾走する愚か者ではなかった。いざという時の指針としてレーニエを他人を殺し尽くしてでも守ることを念頭に置く。しかし彼女だって好き好んで殺人を犯す趣味はない。
坂持金発の言いなりになるのが癪だというのも一つ。当たり前の倫理観が存在するのも一つ。
そしてフランチェスカ自身が自覚しているか否かは定かではないが、そんな手段に訴えたところでレーニエは悲しむだけだと、誰よりも知っているのが一つ。レーニエは優しい娘だ。誰かを踏み台にして自分だけいい思いをするなんてこと、絶対にあの子は望まないだろう。涙を流して、犠牲になった全てのものに謝り続ける姿さえ目に浮かぶ。
それもまた、胸糞悪い。だから、やれる内は精一杯やってやろうと思った。
セスはいない。つまり旧知の人物はそれこそレーニエのみで、後は全て東洋人の名前ばかりだ。
とりあえず、このまま一人で行動するのは危険過ぎる。
なんだか腰巾着のようで嫌だったが、自分の力量を弁えれば誰かの力を借りるという結論に辿り着くのは自明だ。セスに同行してもらっていたように、坂持を倒そうと思う人間と一緒に動くことが出来ればそれに越したことはない。
一度頷くと、フランチェスカは地図を広げた。今自分が居るのは会場の斜め端、G-7の海エリア。より正しくは砂浜にいる。高台から見える町並みはF-6エリアのものか。兎も角、建物のある方へ移動してみるのは悪い判断ではないように思えた。
支給された果物ナイフを念のため携帯しつつ、靴に砂が入らないよう注意して砂浜を歩く。
やがてそこを抜けると今度は草原だ。臆せず進む。虫の声はしなかった。
草原も抜け、いよいよG-7エリアを抜けるか否かというところまで来て、フランチェスカは不意に足を止める。
「…………」
人の姿があった。
別方向からではあるが、恐らく彼も街エリアへ向かうつもりなのだろう。学生服に眼鏡のどこか冴えない様相の少年だった。しかし他人と会えるのは願ったり叶ったり。もし何かあれば走って逃げるなりすればいい――ここは一先ず、こちらから接触してみるべきだと踏んだ。敢えて大きく物音を鳴らすと、簡単にその人物はフランチェスカへ気付いたようだ。
彼女の幼い容姿を見て一瞬怪訝そうな面持ちを見せたものの、彼はすぐ彼女の方へと歩き始める。いや、小走りだ。なんだか場違いに思えてくるスピードで、フランチェスカへ向かってくる。
――、そのとき。フランチェスカは、なぜだか嫌なものを感じた。
こちらへ近付いてくる少年の目が、淀んでいる風に見えたからだ。勿論実際にそうというわけではない。あくまで雰囲気だ。正直なところ、フランチェスカは人選を間違えたかと思った。……そして次の瞬間、それは確信へと変わる。
同時、彼女は走り出していた。踵を返し、舌打ちを一つ打って。本当に何て日なの、と悪態もつきながら。
少年の手に、光る何かが握られているのを見た。月明かりに一瞬照らされたそれは、自分の果物ナイフなんかよりもずっと立派なダガーナイフだった。間違いない、彼はゲームに乗っている! 幸い距離はまだあった。少女の脚力でも地形や曲がり角を活かして上手く逃げ果せることが出来ればまだ望みはあるはずと、一抹の希望を追って足を弾ませた。
――が。
「ぐ、ううっ……!」
気が付けば、フランチェスカは組み伏せられていた。後頭部を押さえつけられ、口の中に土の味が広がる。そのまま身体を仰向けに起こされると、白く細い首を少年の右手がぎゅっと締め上げ圧迫した。
「が……、あ…………」
気道が確保できない。少年はダガーを突き立てやすくするためにこういう手段を取ったのだろうが、彼女の矮躯にとってはこれだけでも十分決め手となり得た。口端から透明な涎が溢れ出し、それと同時に意識が薄れる感覚を覚える。
ここで、終わるのか。フランチェスカは茫然とそう思った。嫌だ。こんなところで終わるのは、嫌だ。レーニエを助けなくちゃならないのに、こんなところで、こんな輩に殺されるなんて納得できるわけがない。
死にたくないと思うよりも強く。まだやっていないことがある、と思った。
喉の奥から泡が溢れてくる感触を覚えた時には、もう駄目なのかと感じた。ダガーの切っ先は漸く狙いを定め終えたのか、高く掲げられている。綺麗な月が、この時ばかりはとても恨めしく思えて堪らなかった――――
「ううッ!?」
しかし、フランチェスカは不運であったがそれ以上の幸運を有していたらしかった。
ダガーが振り下ろされる瞬間。まさにギリギリの一瞬、明後日の方角から金属の矢が飛来し、少年の腕へ見事に突き刺さったのだ。拘束が緩み、すかさず息を整えようとするも上手くいかない。
が、もう心配する必要はなかった。少年は腕を射抜かれた痛みに悶え、その様子を見ながら不敵に微笑む三人目の男がゆっくり距離を詰めてきていた。その手にあるのはクロスボウ。これから射出された矢が、少年を見事射止めた訳だ。
「子供相手に、ちっと大人気ないんじゃないか」
「誰だ……誰だ、君は……!」
未だ血の溢れ出す傷口を押さえ、額に脂汗を浮かせて少年は口角泡を飛ばす。
明らかに冷静ではない様子を見て「格好悪いな」と誰にも聞こえないよう漏らしてから、助太刀に入った人物も名を名乗る。
本人としても危機一髪だった。あと数秒遅れていたなら、間違いなく少女は殺されていただろう。
だから――少しくらい、格好つけてみたくなったわけだ。
「三村信史。“第三の男(ザ・サードマン)”とはこの俺のことよ……なんつってな」
信史は名乗り終えると、少年には目もくれずフランチェスカへ駆け寄り上体を起こさせ背中を擦る。
ゆっくり息を吸って吐けと言うと彼女は小さく頷いて、げほげほと咳き込み泡混じりの唾液を吐き出した。そうしている内徐々に呼吸は落ち着き始めたが、暫く休ませてやるのが安牌の筈だ。
どこか人目につかない場所へ運んでやるか。信史は一人で立てるとか細い声で言うフランチェスカを無理におぶると、それから未だ呻く少年へ顔を向け、ボウガンも突きつけて警告する。
「とっとと消えろ。そうすりゃ、命までは取らねえぜ」
「………………、っ!」
一瞬逡巡する様子を見せた後に、少年は忙しなく何処かへ走っていった。
俺が背中を撃つとは考えないのかねえ、なんて冗談を零して信史はそれと反対の方角へ行き先を定める。
情報交換をしたいのも山々だが、様子が落ち着いてからにしたって遅くはあるまい。
背に軽い少女の体重を感じながら、第三の男は殺し合いゲームとの奇妙な縁を否定するように唾を吐き捨ててやった。
▼
「はあ……はっ…………くそッ……!」
腕から止めどなく溢れてくる血潮を片手で抑えながら、竹林孝太郎は夜の海岸線を進んでいた。
止血するにも、さっきの男が後ろから追ってきている可能性を考慮すればそう簡単に立ち止まることは出来ない。もう少し歩いて、出来れば周囲から死角になっているような場所で応急処置を施したいところだ。
取り繕った冷静さでもって行動指針を決定付けようとする竹林だったが、その心中は正直なものだった。苛立ち、不安、恐怖といったありとあらゆる負の感情がぐずぐずに渦を巻いて止まることを知らない。
無理もないだろう。凡そ竹林が“プログラム”の参加者として選別された時頃は、彼にとってこの上ない程に最悪のそれだった。長く時間を共にしたE組を抜け、慣れないことばかりのA組へ返り咲き……しかし隠し切れない仲間への罪悪感と、家庭の鎖に雁字搦めに拘束された文字通り試練と言う他ない苛酷に苛まれていたのだ。
彼が逆境を乗り越え成長し、仲間と絆を取り戻す未来は憐れにも奪われた。
此処にいる竹林は“救われなかった”竹林。限界まで増幅されたストレスは疑心暗鬼と強い恐慌状態を生み出し、彼を殺人という禁断の道へ駆り立てた。そして――皮肉にも。聊か他に劣るとはいえ、殺すための手段ならば彼は山程保有していた。
あと少しだった。
誇張なしに、あと三秒もあれば首尾よく一人目を殺せていたのに。
邪魔さえ入らなければ、傷は負ったかもしれないが得られる成果はあったというのに!
激情が沸々と音を立てて煮え上がり、自分の行いを見つめ直す余裕すら与えない。幼気な少女を殺そうとしておきながら、竹林の脳内に自責の念が芽生えることは遂になかった。あるのは仕留め損ねた怒りのみ。
「あいつの、せいでッ……」
ボウガンの男。
ヒーロー気取りのいけすかない野郎。
三村信史……その名前までは知らないが、竹林の脳裏に彼の面影は強く強く刻み込まれた。
次に会ったなら必ず殺す。ボウガンを使ってくるというなら、こっちだってそれなりの得物を手に入れてから臨めばいい話だ。射撃訓練の成績だって良くはなかった。それでもそんじょそこらの素人連中なんかよりは、ずっと上だと信じている。
少年は歩んでいく。
戻ることの出来ない狂気の道を、振り返ることさえ忘れて歩んでいく。
暗殺教室(ひだまり)の思い出を忘却して。ただ、己の為だけに殺すと決めた。
【一日目/深夜/D-8 海】
【竹林孝太郎@暗殺教室】
【所持品:基本支給品一式、ダガーナイフ@現実、ランダム支給品2】
【状態:腕に刺傷(未処置)、強い苛立ち、狂気】
【スタンス:優勝狙い】
▼
「……この辺でいいか」
信史は浜辺の端に放置されていた、元は海の家だったと思しき廃墟に周囲を見渡しながらさっと入り込むと、埃のあまり積もっていない畳に背負った少女を横たえた。呼吸は安定していて、歳の割には殺されかけたというのに動揺が少なく見える。
黒髪だが、日本人離れした雰囲気を醸す娘だ。
少女は暫くぼうっと天井を見上げていた。何かを想うような瞳。何を考えているのかは窺い知れないものの、きっと殺し合いに同じく巻き込まれた知り合いのことを考えているんだな、と何となく察しはつく。
改めて指摘するほど野暮ではない。色々落ち着くまでどれひとつ作業でもしようか――背伸びをしつつそう思った矢先、少女の綺麗な声が信史の鼓膜に聞こえた。彼女は問う。
「どうして、助けたの?」
「どうしても何もな。俺に言わせりゃ、クサい物言いだが男として当然のことをしたってとこか」
外の世界とは、綺麗なものではない。
だからこそ少女――フランチェスカは、親友を連れ戻すべく走ったのだ。セスのような例外はあくまでも数少なく、さっき自分を殺そうとした、ああいう輩が大半であるとばかり思っていた。
そも、倫理云々を抜きにし自己を再優先すれば必然的に、殺し合いに乗る方がメリットは断然高くなる。どんなに鍛えた人間だって、急所を撃ち抜かれればそれで死ぬ。一撃必殺に望みを託した方が余程有意義なことは日を見るよりも明らかだ。
「いや、もっと単純な話になるか。俺は、あの坂持って野郎が気に喰わないんだ」
ニヤリと笑って信史は堂々と言った。そこについては、フランチェスカも同意である。アレほどに悍ましい人間はこれまで見たことがないし、奴の言葉に従って動かねばならないという時点で屈辱的が過ぎた。
……ああ、なるほど。ここまで言われれば、さしものフランチェスカだって三村信史の意図は図り知れる。
要するに、彼はそれだけだ。効率論で考えた場合どんな行動が有効かも知っている。知った上で、否を唱えている。坂持金発が気に食わない、あんな奴の為に汗水垂らして殺し合いをしてやるなんて絶対に御免だ――という、ただそれだけの意地。
「“前”は色々失敗したけど、今回は上手くやる。なんてったって邪魔っ気な首輪がないんだ。上手くやれば案外簡単に奴らの根城へ突入する算段がつくかもしれない……」
「……前?」
「こっちの話さ」
三村信史は、敢えて自分の辿った顛末を語らない。
語ったところで実りのある話とは思えないし、精々がとある男への注意を促すくらいの効き目にしかならない。だから誰にも語ることはなく、胸の中にカンフル剤として留めておく。
前回のプログラムで命を落としたこと。友人を守れなかったやるせなさ。何もかも覚えているし、今思い出したってむかっ腹が立つ。――今度こそは、必ず勝ってやる。最高のダンクシュートで、坂持金発を地獄の底へ叩き落としてやろうじゃねえか。
「俺は三村信史。信史でいい」
「……フランチェスカよ」
こうして、“第三の男(ザ・サードマン)”三村信史は、今度こそ勝利するためにもう一度反逆の道を征くと決めた。
【一日目/深夜/D-8 海の家】
【三村信史@バトル・ロワイアル】
【所持品:基本支給品一式、間宮のボウガン@ミスミソウ、矢(残り10本)、ランダム支給品2】
【状態:健康】
【スタンス:対主催】
【フランチェスカ@BITTER SWEET FOOLS】
【所持品:基本支給品一式、ランダム支給品×3】
【状態:疲労(中)】
【スタンス:レーニエの保護を最優先】
時系列順に読む
竹林孝太郎 Next:[[]]
三村信史 Next:[[]]
フランチェスカ Next:[[]]
最終更新:2014年06月19日 19:17