第7話「離岸流」


 ―― -3日 PM1:25――

「教授はもうすぐ戻ってくると思います。お掛けになってください」
 案内をしてくれた男の子に促されて、わたしはソファーに腰を下ろした。
 歳はわたしと同じくらいだろうか。
 にこにこと愛想よく微笑んでいるのが印象的だ。
「ナノハさん、でしたっけ。紅茶淹れますね。ミルクティーでいいですか?」
 フラットと名乗ったその男の子は、わたしの返事を待たずに、てきぱきとお茶の準備をしている。
 手持ち無沙汰になってしまったので、部屋を見渡してみる。
 右も左も本棚だらけだ。
 背表紙に書かれているのは英語だろうか。
 わたしには内容の予想も付かない。
 さすがは教授と呼ばれる人の部屋というだけのことはある。
 ところで、あちこちに置いてあるエアメールは何だろう。
 そこそこ大きな小包で、日本語を音写したローマ字みたいな単語が並んでいる。
 教授っていうくらいだから、日本とも色々やりとりしているのかな。
「はい、どうぞ」
 フラット君がわたしの前にティーカップを置いた。
 それと同時に部屋の扉が開く。
 入ってきたのは赤いコートの男の人。
 黄色い肩紐と長い髪を靡かせて、気難しそうな顔をこちらに向ける。
 その姿は、記憶の中の彼となかなか一致しなかった。
 戸惑いながら、とりあえず言葉を口にする。
「十年ぶり……ですね」
「そうなるな」
 彼は表情を崩さずに、私の向かいに腰を下ろした。
 すかさず、フラット君が彼にも紅茶を渡す。
 その顔はにこにこを通り越してにやついていた。
 わたしだけでなく、彼もそれが気になったらしい。
 紅茶を飲もうとした手を止めて、フラット君の方を見る。
「なんだ」
「教授も隅に置けませんね。こんな可愛いガールフレンドがいるなら教えて……」
 一閃。
 目にも止まらないスピードで彼の腕が伸びる。
 気づけば、フラット君の顔はアイアンクローの餌食になっていた。
 わたしにはリアクションする間もなかった。
「私の耳がおかしくなったのか、お前の頭がおかしくなったのか、どちらだ?」
「お……おれ、俺です……」
 アイアンクローから解放されると、フラット君はおぼつかない足取りで部屋を出て行った。
 彼は小さく口元を歪めると、わたしに向き直った。
「失礼。彼は性格に多大な難がな」
 たった数秒のやりとりで、わたしの中に出来ていた、今の彼のイメージが塗り替えられた。
 気難しくて近寄りがたいなんていうのは誤解だったらしい。
 それでも、昔の姿とはとてもじゃないけれど重ならない。
「教授――ですか。まるで別人みたいでびっくりしました」
「それはこちらの台詞だ。あんな小さな子がここまで成長するとは。
 ……そういえば、まともに会話するのは初めてだな」
 言われて、記憶の糸を手繰り寄せる。
「確かに……」
「私は日本語が話せなくて、君は英語が話せなかった」
 改めて、彼はティーカップを傾けた。
 わたしもそれに倣って、紅茶を口にする。
 微かな甘さと風味がいっぱいに広がる。
「――では用件を聞こうか」
 彼に真顔で促されて、わたしも思わず背筋を正す。
 ここには思い出話をするために来たんじゃない。
 もっと大切な理由があるんだ。
「第5次聖杯戦争が起きて――聖杯が破壊されました」
「それは把握している」
 何てことはないという風に、彼は言った。
 気難しさを刻み込んだような表情には少しの変化もない。
「五十年も早かったせいで、他の教授達は大童だったよ」
「……その後です」
 なに、と彼の眉が動く。
 無言だけど、説明を要求しているのが伝わってくる。
 わたしは間を置かずに言葉を続けた。
「破壊された聖杯の残骸の一部を、次元犯罪者がこの世界から持ち出したようなんです」
 彼は、苦々しく短い単語を吐いた。
 あまり上品とはいえない罵りの言葉だ。
「冬木の聖杯は厄介ごとしか生まんな。幹部達が聞いたら一瞬で胃潰瘍を起こすぞ。
 で、そのことを管理局とやらは知っているのか」
 彼は苛立ちを露わにしていた。
 わたしは、正直に首を左右に振って答える。
 魔術協会の存在を知っているのは、管理局でも一握りの人間だけ。
 他の部隊を動かす要請なんて、とてもじゃないけど通らないだろう。
 それにまだ不確定なことが多すぎる。
「とりあえず、状況を話してくれないか」
 問われるままに、これまでの状況を簡潔に伝える。
 わたしは、半年前の第5次聖杯戦争に関わった。
 大きな影響を与えることはなかったけれど、その結末までを見届けた。
 全ては解決した。
 そんなわたしの思い込みが砕かれたのは、今からほんの数日前のことだった。
 とある次元犯罪の容疑者の、第97管理外世界への不自然な渡航記録の発覚。
 日付はよりによって聖杯戦争終結の直後。
 そして、聖杯の存在を知る者にとってはあまりにも決定的な――
 わたしは何も言わず、上着の左裾を肘までずらした。
 左の前腕部に浮き上がった、三画の聖痕。
 サーヴァントの召喚によって令呪に姿を変える、聖杯顕現の証明だった。
 彼は暫くわたしの左腕を睨んで、溜息混じりに口を開いた。
「そちらではなく、こちらの人間による行為の可能性は?」
「六割……いえ、五割」
 半々か、と彼はもう一度溜息をついた。
「正直、別の魔術師に話を持ち込んでくれれば助かったのだが」
「ごめんなさい……。わたしが知ってる倫敦の魔術師は貴方だけだったんです」
 彼は天井を仰ぎ、深々と息を吐いた。
 わたしは黙って彼の言葉を待つことしかできない。
「……わかった。幹部や他の教授には私から話をつけておく。
 君は君なりに事態の収拾を図ってくれ。ただし――」
「分かっています。魔術と協会の存在はぎりぎりまで明かしません」
 ここがお互いの妥協点だ。
 わたし達が聖杯をどうにかするには、魔術協会の支援が不可欠になるだろう。
 けれど、協会や魔術の存在が広まることは、ここの人達にとっては不利益にしかならない。
 理想的なのは、わたしに出来る範囲だけで解決してしまうこと。
 そうできればどんなに良いか――
「でも、もしわたしの力だけで止められなかったら、管理局の力を借りないといけないかもしれません」
「万が一の場合に提供可能な情報の範囲も幹部達と話し合おう。
 その結論が出るでは苦労をかけることになる」
 わたしはこくりと頷いた。
 苦労なんて覚悟の上。
 背負う覚悟があるからこそ、倫敦までやってきたんだ。
 彼は残った紅茶を飲み干して立ち上がった。
「時間だ。すまないが次の講義がある」
 それを聞いて、わたしも慌てて立ち上がった。
 開けて貰った扉を潜って廊下に出る。
 ひんやりとした空気が、わたしの肌を静かに撫でた。
「ありがとうございました、ウェイバーさん」
 彼に向き直って一礼する。
 今日初めて、わたしは彼の穏やかな表情を見ることができた。


 ―― 三日目 PM2:40――

 目蓋を開くと、そこには白い天井が広がっていた。
 見覚えがあるような、初めてみるような。
 どこからか消毒液の臭いがする。
 着衣は妙に軽装で、普段は二つに結っている髪も解かれていた。
「――あ」
 数秒経って、ティアナはようやく、ここが病室であることに思い当たった。
 朦朧とする頭で、眠りに落ちる前の記憶を手繰る。
「そうだ、あの後自分で歩いていこうとして……」
 ようやくライトニング分隊と合流したところで、気が緩んで倒れてしまった。
 ティアナは片手で顔を覆った。
 結局迷惑を掛けてしまうなんて。
 情けなさで顔から火が出そうだった。
 しかもダメージが回復しきっていないせいか、まだ記憶が曖昧だ。
「……情けない」
 それにしても、静かだ。
 耳鳴りがしそうなくらいに音がない。
 自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。
 四人部屋だというのに、寝ているのはティアナ一人だけだ。
 一応、隣のベッドだけは誰かが使っていた形跡がある。
 今は空っぽなのだが。
「……」
 呼吸どころか心臓の音まで聞こえそうな気さえした。
 ふと見ると、枕元に待機状態のクロスミラージュが置かれていた。
 手に取ってコンディションを確認する。
 ――幸いにも、損傷らしい損傷は一つもない。
 よかったと呟いて、ティアナは口を噤んだ。
 クロスミラージュが、そして自分が無事だったのは、スバル達が頑張ってくれたからだ。
 圧倒的な力で倒されても諦めず、立ち上がって戦い続けたからだ。
 対して自分はどうだったのか。
 あの狂戦士に威圧されてばかりで、最後にようやく放った攻撃も掠り傷すら与えられなかった。
 いや、役に立たないだけなら良かった。
 恐怖に負けた不用意な攻撃で、皆の足を引っ張ってしまったじゃないか。
 それさえなければ、スバルとエミヤ三尉に余計な負担を掛けずに済んだかもしれない。
「情けないよ……ほんと……」
 三尉のことを信頼できないなんて粋がっていたことが恥ずかしかった。
 役に立たず、足を引っ張った自分が何をした?
 無様に二度も気絶して、迷惑を掛け続けてしまった。
 スバルみたいに、ぼろぼろの体で立ち上がることなんかできない。
 三尉みたいに、あの紅い槍に正面から身を晒すことなんかできない。
 なんて――非力。
 ティアナはクロスミラージュを胸に抱き込んだ。
 両目の端が、焼けるように熱い。
「お兄ちゃん……」
 静かな病室の中、ティアナは声を押し殺して、ベッドに身をうずめた。
 震えるその両肩は、誰にも支えられることはない。
 窓から流れ込む涼やかな空気に、ティアナは気づかない。
 独りきりで肩を震わせて、微かな声を漏らすだけ。
 壁を隔てた廊下にはその声すら届かない。
 しかし、たった一人だけ。
 たった一人だけ、彼女の声を聞き届けていた。
「ティア……」
 病室の外、スバルは壁に背を預け、床に視線を落とす。
 聞こえてくるのは、人の声ともつかない小さな音。
 けれどスバルは理解できた。
 胸に抱いた紙袋を静かに抱きしめる。
 袋の中身は、二人分の軽食と飲料。
 包帯を巻かれた右手が、左の二の腕をきつく握った。
「こんなところで何してるんだ?」
 不意に掛けられた男の声。
 スバルがはっと顔を上げと、赤毛の青年が不思議そうな表情をしていた。
「エミヤさん……」
「えっと、ティアナ、はもう起きたかな」
 衛宮士郎は病室のドアを開こうと手を伸ばした。
「駄目っ!」
 小さく、しかし鋭く、スバルは叫んだ。
 伸ばされた腕を掴んで引き止める。
 スバルは、驚く衛宮士郎の顔を見て気まずそうに目を逸らした。
「今は……駄目です」
 それ以上は何も言わない。
 俯き気味に視線を彷徨わせながら、引き止めた腕を握っている。
 衛宮士郎はスバルと病室のドアを交互に見て、すっと身を引いた。
「分かった。今は入らない」
 空いた手で、スバルの頭を軽く撫でる。
 そして、病室からほど近い長椅子に腰を下ろした。
 廊下に静けさが戻る。
 時間が止まってしまったかのような静寂。
 この場にアナログ式の時計があれば、時を刻む音が大きく鳴り響くだろう。
 数分か、それとも数秒か。
 沈黙に耐えかねて、スバルはちらと衛宮士郎を見た。
 彼は正面にある窓の外の風景を眺めているようだった。
 その表情があまりにも穏やかで。
 スバルは思わず、彼の傍まで歩み寄っていた。
「――えっと、エミヤ三尉。何か考えごとですか?」
 紙袋を椅子に置いて、衛宮士郎の隣に座る。
 開けた間は一人分。
 我ながら唐突な質問だったかな、とスバルは思った。
「士郎でいいよ。そうだな……皆が無事で良かった、かな」
「あ、わたしもそう思います、シロウさん」
 それっきり、会話は続かなかった。
 廊下を包む静けさに身を任せるように。
 二人は言葉を交わすこともせず、窓の外を眺めていた。
 窓とはいえ、元より風景を楽しむために備えられたものではない。
 明り取りとしての意味が強く、床からかなり離れた位置にある。
 椅子に腰掛けた状態では、見えるのは青空と白い雲くらいだ。
 窓枠に切り取られた空を見上げたまま、衛宮士郎が口を開いた。
「俺はちょっとした検査だけで、夕方には帰れるんだってさ」
「えっ、わたし達は一晩検査入院ですよ? ずるーい」
 大きな声ではなかったが、スバルは普段の調子で反応した。
 と、思い出したように、隣に放置していた紙袋を膝の上に持ってくる。
「そうだ、今のうちに食べちゃおっと」
 紙袋をごそごそとまさぐる。
 そうして取り出したのは、売店で売っているような菓子パンだった。
 勢いよく包装を破くスバルの姿は、まるでおやつを与えられた子供のようだ。
「……検査入院なのに、そんなの食べて大丈夫なのか?」
「シャマル先生からオッケー貰ってますからー」
 衛宮士郎の心配をよそに、スバルは丸い菓子パンに噛り付いた。
 ひと齧りでパンの三割は減っている。
 小動物のように頬を膨らませ、幸せそうにパンを頬張る。
 中に入れられていたチョコレートが口元に付いているのも気にしていない。
「どうかしました?」
 パンを殆ど食べきった頃になって、ようやく横からの視線に気付く。
「いや、ちょっとデジャヴを」
「……?」
 最後に残ったひとかけらを口に押し込む。
 それで満足したかと思うと、今度は袋からスポーツ飲料のボトルを取り出した。
 キャップを捻り、一気に呷る。
「……ぷはっ」
 衛宮士郎はスバルの食べっぷりにしばし気をとられていたが、不意に廊下の奥へと目を向けた。
 たったったっ。
 近付いてくる足音。
 スバルも釣られて視線を動かす。
 六課の制服に身を包んだなのはが、息を切らせて駆けていた。
「スバル! 大丈夫? 怪我は?」
 なのははスバル達の前でしゃがみこむと、包帯を巻かれたスバルの右手を取った。
 そのあまりの動揺ぶりに、スバルは逆にうろたえていた。
「な、なのはさん……どうしたんですか」
 こんな隊長を見るのは初めてだった。
 心配してもらえた嬉しさよりも、慣れない状況への戸惑いがずっと大きい。
 スバルは、少し遅れて来たヴィータのほうを、助けを求めるような目で見た。
 バリアジャケットは既に解除していて、六課の制服に着替えている。
「あたしも知らねーよ。紅い槍の男と戦ったって報告したら、急に病室へ行くって言い出したんだ」
 そして、ヴィータは衛宮士郎を睨んだ。
 長椅子に座る衛宮士郎の太腿に膝を乗せ、顔と顔を突き合わせる。
 十センチあるかないかという距離で睨みつけられて、衛宮士郎は身を引こうとした。
 しかし当然ながら、背もたれと壁に阻まれて、距離は少しも離れない。
「てめぇ、あたしに全部話したわけじゃなかったんだな?」
 目の前の人物だけに聞こえるような声で、ヴィータは言った。
 声量こそは抑えてあったが、込められた怒気は隠しきれていない。
 数時間前、崩落した地下道の中で、ヴィータはサーヴァントというモノについて教えられた。
 過去の英雄を召喚し、条件付で使役する規格外の使い魔。
 宝具と呼ばれる強大な威力の切り札を持ち、ただの人間には太刀打ちできない存在。
 ――この説明は決して誤りではない。
 だがヴィータは、なのはの動転を目の当たりにして、それらが全てではないと直感した。
 サーヴァントにはもっと危険な事実が隠されているに違いない。
 更に言えば、サーヴァントと"聖杯"には何らかの関係があるはずだ。
 ヴィータはそう確信していた。
 なのはがその正体を隠したがる"聖杯"
 そして、なのはをあそこまで動転させる"サーヴァント"
 ここまで材料が揃っていて無関係などあるものか。
 どういう理由があって、なのは達がこのことを秘密にしているのはまでは分からない。
 ならば、聞き出すまでだ。
「ま、待てって。確かに全部は話さなかった。けど……」
「けど、何だよ」
 ヴィータは衛宮士郎を逃がさないように、その両腕を掴んだ。
「わぁ……」
 横合いから変な声が聞こえる。
 ヴィータは眉をひそめ、動きを止めた。
 さっきから周囲の雰囲気が妙だ。
 衛宮士郎もそれを感じ取っているのか、どうにも落ち着いていない。
 恐る恐る、二人揃って、真横へと首を向ける。
 なのはとスバルが、まじまじとこちらを見つめていた。
 それどころか、スバルに至ってはほんのりと頬を紅潮させている。
 数秒の思考。
「……お前らっ!」
 向けられる視線の意図を悟り、ヴィータは思わず立ち上がった。
 衛宮士郎への怒りは、新たに湧き上がった憤慨にあっさりと塗りつぶされている。
「わー、ヴィータちゃん大胆なの」
 わざとらしく囃し立てるなのは。
 こちらはふざけているだけなので、幾分かはマシだ。
 問題なのはもう一人。
 視線を泳がせるスバルの表情は、現状を明らかに誤認していた。
「えっと、その、ヴィータ副隊長……」
「スバルッ! そこっ、正座ッ!」
 威嚇する猛犬のようにヴィータが吼えた。
 病院だぞと嗜める衛宮士郎の言葉も届いていないようだ。
 急激に騒がしさを増した病室前の廊下。
 そこに、ドアの開く音が混ざった。
 まず、衛宮士郎となのはがそれに気付いた。
 少し遅れて、スバルもドアのほうを向く。
 ヴィータは最後まで説教をしようとしていたが、周りの様子に気付いて、口を閉じた。
「もうっ。うるさくて眠れないじゃないですか」
 患者服のティアナが、開けられたドアから身を乗り出していた。
 微かに赤くなった目を擦りながら、病室前に集まった面々を見渡す。
「ティア……もう大丈夫?」
「あんな怪我、大したことないわよ」
 不安そうなスバルに、ティアナは屈託のない笑みを見せた。


 ―― 三日目 PM3:00――

 執務室のデスクに、大きな封筒が投げるように置かれた。
 厚みは三センチから四センチほどはあるだろうか。
 とてもじゃないが郵便ポストには入らないほどの大きさだ。
 材質も明らかに上質で、量販店で売られているのとは比べ物にならない。
 はやては唐突に渡されたそれと、それを渡してきた赤いコートの少女を見比べる。
「これは?」
「魔術協会からの連絡事項よ」
 封筒を手に取って裏返してみる。
 なんと、古風なことに封蝋で封がされていた。
 印璽の刻印も本格的で、否応無しに中世ヨーロッパを思わせる。
「デジタル全盛のご時勢になぁ」
「魔術師はそういうのに頼らないの。といっても、その封筒はどこぞの教授の趣味らしいけど」
 少女は赤いコートを脱いで、来客用の椅子に座った。
 保守的な組織とは聞いていたが、そういう人物ばかりなのだろうか。
 一抹の不安を抱きながら、はやては封筒の口に指を引っ掛けて封を開けた。
 封蝋が砕け、赤い蝋の破片がデスクに散る。
「うわぁ……」
 はやては心底絶望的な声を上げた。
 一目で心が折れたと言わんばかりに、デスクに突っ伏してしまう。
 書類の厚さも然ることながら、問題はその内容だった。
 文頭から文末まで、全てが流れるような筆記体の英文で記されていたのだ。
「なんや……これ拷問?」
「日本語に訳してくれる親切心は発揮されてなかったみたいね」
 少女の言葉には、わずかに同情の色があった。
 いくら難題とはいえ、隊長が目を通さないわけにはいかない。
 はやては半死人のように一番上の書類と睨めっこを始めた。
 二割ほど読み進めた頃だろうか。
 どこからか、リインフォースⅡが飛んできた。
「はやてちゃん! 大変ですー!」
「どうしたん、リイン。私もすっごく大変なんよ」
 話半分で聞き流そうとするはやて。
 リインはデスクに勢いよく着地すると、はやての裾を何度も引っ張った。
「スターズ分隊が運んできた重要参考人が目を覚ましたんですよぉ」
 はやての耳が、ぴくりと動いた、ように見えた。
 書類をデスクに勢いよく叩きつけ、バネのごとく身を起こす。
「そっちの方が急務! うん、そうや!」
 はやては書類を置き去りにしたまま、リインを掴んで椅子を蹴った。
 掛けられていた上着を引っ掴み、嵐のように執務室を出て行く。
 数秒置いて、開けっ放しの扉から顔を出す。
「遠坂さん、悪いけど書類の和訳頼める? じゃ!」
「ちょ、ちょっと!」
 少女が立ち上がるより早く、はやては廊下の彼方へと走り去っていた。
 取り残された少女は、デスクの書類を一瞥して、額を押さえた。
「まるで疾風のような方ですね、リン」
 こん、こん、こん、こん。
 開けっ放しの扉を四回ノックして、漆黒のスーツに身を包んだ人物が執務室に入る。
 まさしく絵に描いたような金髪碧眼。
 背丈は小柄で、かなりの細身だ。
 それでいて見事にスーツを着こなしている。
 見かけだけでは、華奢な美少年なのか男装の麗人なのか区別が付かない。
「今の全然ジョークになってないわよ」
 少女はデスクの縁に軽く腰掛けて、書類の一枚目をつまみ上げた。
 スイッチが切り替わるように、少女の表情が冷徹なものへと変化する。
「バーサーカーが動いたわ。あなたの出番、そう遠くないわね」


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最終更新:2009年11月30日 22:56