巫女と神社 後編
風邪とはいえ、病人を一人にしてはおけない。
男はその日博麗神社に寝泊まりした。
そして霊夢の熱が引いてからもなお、男は博麗神社に留まっていた。最初の二三日は様子見のために、それからは霊夢が不安だと言って聞かないために。
幸い男には他の用事というものが無かった。仕事も平生から日雇いのものばかり受けていたので、人里に帰らなくて済んだ。
すっかり回復したと言って差し支えなくなったこの日、霊夢は台所に立った。
食料には困ってないようだった。男が聞けば、年に何度か臨時収入があるという。
お玉を持った霊夢が言った。
「ねえ、〇〇さん」
「何でしょうか」
「お味噌汁は濃いめがいいかしら」
「薄めがいいです。味はどっちでも構いませんが、塩分を取りすぎるのはよくない。病み上がりなんだから」
「一理あるわね。そうしましょう」
鼻歌を歌いながら、味噌を掬って溶かし始めた霊夢の姿は、初めて見た時の姿とは結び付かないものだった。あの淡々とした精魂をどこかに置いてきてしまったような霊夢は、いま男の前にはもういない。
夕飯が出来た。
「いただきます」
そう手と声を合わせて呟いた後、二人は慎ましやかな食事に取りかかった。玄米と、山菜が一種入ったきりの簡単な味噌汁。元々粗食であった男には程よい量であった。
飽きるまで玄米を食らった後、口の中を改めてしまおうと男は味噌汁に口を付けた。
「ん?」
味が濃い。
言い逃れの出来ないほどに濃い味だ。
「あら、箸が止まってるわよ」
「霊夢さん、味噌汁はもう飲みましたか」
「いいえ、まだだけど……不味かったかしら」
「味が濃いです。薄めがいいと言ったのに」
「おかしいわねえ」
とぼけたような顔を作って、霊夢も味噌汁を口にした。
「濃いかしら」
「濃くありませんか」
「ちょうどいいと思うけど……飲んでみてくれない?」
霊夢は自分の茶碗を差し出した。
年頃の娘が口付けたものを口にするのに、男にためらいがあったと言えば嘘ではない。しかしこれまで霊夢と同じ布団で寝たり、その体を抱きしめたことがあるのだ。今更物怖じするようなことでもなかった。
「ん……やっぱり濃いですよ。そう感じます」
「そう?ごめんなさい。私はまだ味覚がおかしいのかも。本調子には程遠いわ」
本調子には程遠い。
「あなたがしっかりするまでは」などと言った男からすると、こうした形で不調を知らされてしまっては、まだまだ帰る口実が見つからなくなる。
「仕方ないですね」
そう霊夢に聞かせるつもりでもなくごちた男の文句には、どこか満足の響きがあった。
それを聞いた霊夢の顔も、どことなく嬉しげなうっすらとした微笑みが浮かべられていた。
それから幾日か時間が過ぎた。
ーー博麗神社にも信仰が必要だ。
その考えの元に、男は守矢神社へと出かけた。
守矢神社と言えども、男が向かうのは下宮だ。妖怪の山の山頂にある本宮では、辿り着くことすらままならないだろう。人間の信仰を得る為に出来た下宮で、人間相手の巫女と神社のあり方というものを学ぼうとしたのだ。
山の麓にある下宮へは、博麗神社からでも半刻ほどで辿り着けた。一度人里を経由して、今日は下宮で奇跡を拝見出来る日だということを確かめておいた。奇跡というには、守矢神社の巫女が直接下りてくるのだろう。
守矢神社は下宮と言えども賑わっていた。
奇跡が起こるというもので、仕事を中断してまでも参詣に来る人間がいる。けして少なくない人数だ。
男はしばらく境内の端でじっとしていた。
そして巫女が登場し、奇跡を起こし、それを見て人が信仰を強くしてゆく有り様を観察し続けた。
巫女の立ち振る舞いや儀式の進行など、これは重要だと思ったものはメモをしておいた。筆記具は香霖堂で揃えておいた、現代式のボールペンだ。
見たものを忘れないうちに、と一心不乱にメモを取り続ける男の背中から、不意に声がかけられた。
「何をなさっているんですか?」
驚いた男が振り向くと、そこには守矢神社の風祝ーー東風谷早苗の姿があった。
どうにか奇声の一つも出さずに取り繕った男に、早苗は話を続けた。
「驚かせちゃいました?ごめんなさい。確か前にもお話ししたことありますよね。覚えていらっしゃいますか?東風谷早苗です。みんなそう呼ぶので、下の名前で呼んでください」
「ああ……その節はどうも。〇〇と申します」
それから少し憚るように「早苗さん」と呼びかけて、
「実は、こう、なんと言いますか。神社の風習について調べているんですよ」
博麗神社の名を出すことはしたくなかった。巫女である霊夢の意志を無視して、独断で好き勝手やっているのだ。
「どれどれ……ずいぶん詳しく書いてありますね。その道の専門家なんですか?」
「アマチュアですよ。熱を入れてるつもりですが、私自身は神職とか研究者とか、そう言う訳じゃありません」
「でもすごいですねえ。こんな細かい作法まで一々記録するなんて、本当に神職でもない限りはやりませんよ。普通」
男と早苗の話は弾んだ。
博麗神社の事情を抜きにしても神道好きであった男と、根が親切で、由緒ある家に生まれた早苗の組み合わせは、大変相性が良かったのだろう。
二人は時間を忘れて語り合った。
気がつけば陽も大分傾き始めていた。
「あ、もうこんな時間……それでは、そろそろ…………」
「あの。最後に一つ、いいですか?」
思い出したように男が早苗を引き止める。
「なんでも構いませんよ」
早苗も快く聞き入れる。
「博麗神社という神社について、一つ訊きたいのですが……」
その瞬間、和気藹々としていた空気がどこか微妙になった。あんまりにも短かな一瞬であったので、男はそれを認識することは出来なかったが。
「博麗神社ですかあ。どうもあそこの神社については、よく知らないんですよ」
控えめな声色であった。
「えっ、そうなんですか」
「私も守矢神社に勤めていますが、神社や巫女などと一括りに出来ない間柄なんですよね、うちとあそこは」
「一括りに?」
「ええ。あそこは神社とは名ばかりで、別の目的のために存在しているんですよ。そこの巫女も」
「博麗神社が、神社で、ない…………?」
「あそこは博麗大結界という結界を張るためにあって、博麗の巫女は幻想郷の異変を解決する為にいる……他の神社とは根本的に違うんですよね。何て言ったらいいか……外の世界風に言うなら、国境線とお巡りさんみたいなものでしょうか」
男の認識が、音を立てて崩れ去った。
普通の神社とは違う?
だとしたら、信仰を得て強固な基盤を手に入れる……そういう手順で霊夢の生活を安定させることは出来ないのでは?
この守矢神社のようにはいかない。霊夢はずっと孤独のまま。
また熱で倒れたらどうする?都合良く自分がそこにいるのか。
「ううん……結界ってなんて説明したらいいのか…………あれ?どうしたんです?」
「すいません。ここまで親切にしてくださって大変身勝手な話ですが、急いで行かねばならない所が出来ました。重ね重ね恐縮ですが、これで失礼させて頂きます」
「あれ?ちょっと…………〇〇さん、また、来てくださいねえ!」
何も知らない早苗の暢気な声援を背に、男は博麗神社に向かって駆け出した。
「あら、どうしたの?そんなにお夕飯が待ち遠しかったかしら」
肩で息をする有り様の男を、霊夢は心配げに迎えた。
「ねえ、霊夢さん。君は一体何者なんだ」
「私?私は博麗霊夢よ。決まってるじゃない」
きょとんとした目で男を見詰める。
「その博麗というのは……博麗の巫女というのは。もしかしたら異変を解決するためにいる巫女で、博麗神社は、結界を張るために存在しているんではないですか」
これまで男はそうした話は一切知らないでいた。
霊夢が身の上話について一切話さなかったし、ずっと一人でいる霊夢を見て、余計な詮索はすまいと口を噤んでいたのだ。
霊夢の沈黙が意図的なものであったかどうかはわからない。もしそうだとしたら、いまこうして踏み込むべきことではなかったのかもしれない。
けれども男はここで訊ねずにいられなかった。
好奇心か。自分の思い付きをふいにされたことへの身勝手な怒りか。それともありのままを語ってほしかったという度の過ぎた占有欲か。
霊夢を気遣うという一連のいきさつを考えれば、必要ないことだとすぐ気付くというのに。
魔が差したとしか言いようがない。男は詰め寄ってしまった。
「え、そう、そうだけど……」
見たことの無い剣幕で詰め寄られた霊夢は、今にも泣き出しそうな顔をして答えた。
「いけないこと、だったかしら…………?」
青ざめた顔で霊夢は男を必死に窺う。
少しずつ足を踏み出しながら、男の許しをただただ求める。
「黙っていたのが、駄目だった?それとも巫女としての本分を忘れたことが、駄目だった?それとも普通の神社じゃ無かったから、あなたが失望してしまったの…………?」
その姿は、ちょうど先日風邪で寝込んだときの有り様にそっくりだった。熱を出している訳でもないのに、意識が朦朧としている訳でもないのに、霊夢は痛ましく男を頼る。
他に頼れる人がいないと。
声を震わせながら縋り付く霊夢を前に、男は自分の過ちを知った。
黙っていたのが悪い?そんな訳が無い。
巫女としての本分?そんなものは知らない。
失望だって?しない。
ああ、どうしてこんな詰まらないこと訊ねてしまったのだろう。
「そんな訳、ないですよ」
男は霊夢を強く抱きしめた。いまにも崩れ落ちそうだった体が、外からの力に支えられる。
「〇〇さん……〇〇さん…………嫌いにならないで……行かないで…………」
なおも許しを乞うかのようなか細い声が、男の胸元で繰り返される。喉が潰れても、舌が動かなくなっても、きっと止まないであろう小さな叫び。ただ男だけに捧げる祈り。
はじめはうわ言のようであったその声も、男が抱きしめ続けるうちに、やがて声色を取り戻して行った。
「行かないで」
「行きません」
「どこにも?」
「どこにも」
「嘘よ。お買い物にもいけないじゃない」
「ならあなたを連れて行く」
「私、重いわよ?」
「引きずっていけば、少しずつ前に進めるでしょう」
「疲れたからって、目移りしないでね?」
「何にですか」
「もっと明るくて、優しくて、面倒じゃない女」
「そんな人、いる訳が無い」
「たくさんいるわよ」
「なら僕が会ったこと無いんだ。そしてこれからも会わない」
「本当?」
「誓ってもいい」
「じゃあ、信じてみても……いいかしら」
長い間抱き合っていた二人は、ようやく互いを解放した。
そして冷静さを取り戻すように、少しだけ距離を置いてから、どちらともなく話し始めた。
博麗の巫女のこと。神社と結界のこと。
人里では有名であったから、当然知っているだろうと踏んでこれまで黙っていたこと。
信仰を得る得ないは大した問題じゃないと知りながら、二人の話題に水を差したくなかったこと。
「しかしこれまで気付かなかったなんて、どんな経緯でそういう話になるのよ」
外来人は博麗神社の話を最初に知るものだと言う。
元の世界に帰るための手段として、これを伝えるのは当然の話だ。
「里の人に拾われた時、ちょうど火災がありまして。その火消しを手伝っているうちに、すっかり馴染んでしまい……きっと向こうもそういう話を忘れていたんでしょう」
「へえ。そんな話があったのね」
「まったく、こんな大事なことなのに、これまで知らなかっただなんて。早苗さんには感謝をしないといけない」
何気なく口にした一言。
普段なら何となしに聞き流されたかもしれない名前。
それはすっかり立ち直ったように見えた霊夢の心を支えていた、最後の常識の柱を弾き飛ばした。
「え、いま……なんて?」
「東風谷早苗さんという人だ。守矢神社の巫女さん……いや、風祝らしい」
「嘘つき!」
男は霊夢に突き飛ばされて、障子を倒しながら庭の中へと放り込まれた。
「嘘つき!目移りしてるじゃない!私より明るくて、優しくて、面倒じゃない女に!会ってるじゃない!」
「そんなつもりは……」
そう言いかけた男の口は、彼の意識が沈んでいくのと同時に動かなくなった。
「ああ、ああっ……〇〇さん、どうしてっ…………」
涙を流した霊夢が呪符を掲げて祈る。
たちまちのうちに博麗神社を暗い光が包んでゆく。
男も、霊夢も、境内の中の一切のものが、幻想郷から切り離された。
「うっ……ここは……」
男は見知らぬ景色の中で目を覚ました。
どこか部屋の一室のようだ。中庭の土の上ではない。どこか畳敷きの部屋の、さらに布団を敷いたその上。
ここはどこだ。
早く霊夢の誤解を解かなくてはいけないのだ。
「あら、ようやく起きたの?お寝坊さんねえ」
霊夢の声が聞こえる。
その声は耳元で聞こえた。
「……おはよう、霊夢さん」
「おはよう、〇〇さん。ふふっ、今が朝なのかお昼なのか、わからないけど」
様子がおかしい。
布団から這い出ようとすると、強い力で掴まれた。
四肢を使って全身で羽交い締めにされる。
「霊夢さん……」
「あなたがいけないのよ、〇〇さん。あなたが私に嘘をつくから。早苗なんかに目移りするから。どこにも行かないって言ったのに、嘘つき。〇〇さんの、ばか…………」
「それは違う。あくまで観察のために……」
「ねえ、〇〇さん」
男の話を遮って、霊夢が改まってささやく。
「早苗は、素敵な女の子でしょう?」
「早苗さんが?そんなことは……」
実際に早苗は魅力的な女性だった。
それを真っ向から否定することなど、到底出来ない。
「私と違って、神社のこともなんでも知ってるものね。きっと気さくに話し掛けてきたんでしょう?あの娘は気が利くから」
そう言う霊夢の声が、少しずつかすれていった。
感情が高ぶっているのか、密着した胸の鼓動が強くなっていくのを感じる。自然と息も荒くなってゆく。
男の首筋に何かが触れた。熱を持った雫があふれて降り注いだ。
「あたしなんかより、ずっと、ずっとずっと…………」
そんなことは、と言いかけた言葉が、喉で引っかかる。
「生まれた時から
神奈子と
諏訪子に囲まれて、全然ひとりぼっちじゃなかったくせに……〇〇さんまで持っていっちゃうの?はっ、欲張りなこと」
そんな仲ではない。まだ二回しか顔を合わせていない仲だ。
そうした弁解も、霊夢にはけして届かない。
「ごめんね、〇〇さん……早苗の方がいいに決まってるの、知ってる。それでも、もう、一人は嫌」
「一緒だ。僕らは一緒だ」
「気を遣ってくれてるのね、やさしい〇〇さん」
腕の力だけをそっと緩め、霊夢が顔と顔を合わせてくる。
「〇〇さん。やさしい嘘つきさん。もうどこにも行けなくなったら、あなたもずうっと、ここで一緒にいるしかないわね」
涙を流してふっと微笑む彼女の顔には、悲しみばかりが透けて見えた。
男の望む女ではないという悔恨。男の自由を奪ったことへの真心からの謝罪。男を失い癒えなくなった孤独に気が付いた絶望。
言葉は要らないつもりだった。誤解なんてどうにでもなると思っていた。
しかし誤解が歪めた霊夢の心は、取り返しのつかないほどに壊れてしまった。男が霊夢を本当に好いていようとも、早苗との仲が赤の他人であろうとも、霊夢の世界で、それは気の利いた嘘にしかならない。
そうか。あなたは、もう…………。
「もう、逃がさない」
霊夢は男に笑いかける。
これだけ悲痛な涙を流して、到底笑えるはずがないのに。
「ええ、逃げませんよ。ずっとあなたの隣にいる」
せめて最後までお付き合いして差し上げましょう。
たとえ誤解が解けなくとも、あなたが一人でいるよりいいから。
「そう。うれ、し、い…………」
最後の方はとても言葉になってなかった。
霊夢は大声で泣き続け、涙が涸れるのを待った。
やがて水の涙は止まったが、一度解かれた不審と孤独の涙の川は、枯れることなく流れ続けた。
閉ざされた結界の中で二人は、理解し合えないまま寄り添い続けた。
※守矢神社に下宮なんて無い筈です。
そもそも人間の信仰を得ているという話も聞いたことはありませんが、ご容赦ください。
感想
- 好き -- 山本侑弥 (2019-11-30 00:47:19)
最終更新:2019年11月30日 00:47