お姉ちゃん、いや、この異常者は恍惚とした表情で思い出に浸っていた。
現在までの話を聞き終わり、僕はそこで初めて尋常じゃない量の汗をかいていたことに気づく。
一気に体が冷えていく。まるで極寒の地に迷い込んだみたいに。震えが止まらない。
脳が逃げろと警告する。早く、早くと。
だけど何処に。何処に逃げ場がある!?
考えるよりも早く体が動いた。どう考えても気づかれるのに。


「ほら。行動にでた。今、逃げようとしてるでしょ」


くっ――!
当然じゃないか!!こんな話をされて、逃げようとしない方がおかしいよ!!


「でも君は逃げられない。地上には帰れない。君はずっと此処にいる」


な、なんだって!?
僕は一生、月に――?


「じょ、冗談じゃない!!帰してよ!僕を地球に帰してよ!!」


「あれ?君は月が大好きなんだよね?何で地球に帰りたがるの?」


小さく首を傾げ、疑問符を浮かべる。


「それはそうだけど!でも地球にはパパやママが…!」


それにこんな怖い人がいる場所に一生だなんて…!


「そっか。じゃあ私がママになろう」


「はぁ!?」


「パパは……、いらないか。そうだ、パパの分まで君を愛しましょう」


なんなんだ、この人は!無茶苦茶だ!!
頭どうかしてるんじゃないか!?


「それにね、もう君は地球には帰れないんだ」


「ま、待ってよ。どういう意味?」
「だってお姉ちゃんはよく分かんない力を使って僕を此処に連れてきたんでしょ?だったらその力で僕を帰してよ!!」


「はぁ…。あのね、ほんとに"帰れないんだ"君は」


やれやれ、と、飽きれた顔で否定された。


「なんで!!」


沸きあがった感情をぶつけるように捲し立てる。
けれど一時の感情はかき消されることになった。


「もう君は月の住人だから」


「――え…?」



最後の種明かし。
それはとても優しく伝えられ、とても残酷に告げられた。


「地上と月とでは食とは正反対の性質」

「一口食べれば穢れを自らに溜め込みまた穢れを生み出す地上の食とは違い、
月の食は穢れを浄化するために摂る行為」

「そして穢れを生み出さんとする月の桃」

「これを口にすれば肉体は邪悪を発しなくなり精神は毒を払い除ける」


罪人では無くなった君は、紛れもなく月の住人――

もはや地上に居場所はない。永遠に穢れることはない。
君のこれからは、ここから始まるんだ。
大丈夫。私があなたのそばにいるから。

さぁ…私と一緒に、ね…!



青く、白く、この世のどんな星よりも美しい星。
けれどそこに生きる者たちは存在するだけで罪人であり、死してなお、その罪は消えないという。

男は目の前に映る星をじっと見つめていた。
かつて男は其処に住んでいた。もう遠い日のことだ。
地上から眺めるあの星は、男の憧れであり、夢だった。
黄色のような白色のような星を男は毎日観ていた。

後ろから歩いてくる音が聞こえる。
ざくざくと足音を立て、ゆっくりと近づいてきた。


「ここにいたの?探しましたよ」


白い肌に長くてさらさらな金色の髪をした女性だった。
白色の長袖に襟の広いシャツ。そのシャツの上には青いスカートを重ねるように着込んでいる。
特徴の一つであろう頭には青いリボンが特徴的な帽子を被っていた。


「ん?何か用かい」


いや、きっと用などでは無く、ただ自分が不意に居なくなったから探したんだろうと男は推測した。
永いこと共に居ればなんとなく言いたいことも分かるようになるのだ。
女はさらに近づき、男の正面に立った。


「探したのはあなたが勝手に居なくなるからですっ!目を離したらすぐ何処かに行ってしまうんだから…!」


口を尖らせ女は日々の愚痴を口にする。


「少しぐらい、いいじゃないか。君は束縛心が強すぎるよ」


それに対し、男はあまり反省してない様子で逆に女の日頃の行動について非難した。


「あら、そんなこと言うなんて…。帰ったらお仕置きが必要ね」


ぎらりと目を光らせ、この後の事を決められた。
堪忍して、と男は女に謝った。


じゃあ帰りましょうか、と女はにこりと笑い手を差し出した。
男は何も言わずその手を握り返し、家路へ歩く。
浜辺を過ぎ、桃の果実園に差し掛かったところを、ふと後ろを振り返ってみた。

星はもうみえなかった。

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最終更新:2017年05月28日 20:06