彼が部屋から出て言ったのちに、私は胸に溜まったストレスを吐き出すように長い息を吐いた。
会社を出ると日はすでに暮れて、うすら寒い木枯らしが帰り時に吹いた。
歩を進めていく中で、誰かがぴったりと自分の後ろをつけているのではないかと想像せずにはいられず、
かといって振り返る勇気もなかった。
今朝買った煙草は既に吸いきってしまい、過敏になりすぎている自分を休ませることすら出来ない。
恐らく、誰かが自分の背中を見ているとするならば、きっとひどく頼りないものに移っていることだろう。
自分の家の前まで来ると、烏が一匹玄関の塀の上に止まっていた。
じっとこちらを見つめるそれは、普通の烏よりも一回り大きく、てらてらと脂ぎった羽と尖った太い嘴が強く主張していた。
自分が近くまで近寄っても、全く反応を見せずにまるでここの家主のように堂々としていた。
私は何故か自分を見くびられているように思えて無性に腹が立った。
「消えろ!」
その咆哮は、自分が予想していたよりも、はるかに大きな声であった。
烏は瞬きすらせずに、じっとこちらを見ながら身動き一つすらせずにいて、
十秒ほどその状態が続いたのちにゆっくりと羽ばたいてその場を去った。
かあっと頭が熱くなった、自分は烏にさえ見くびられているのか。
そこで、目の前の玄関にぱっと光がついた。
窓ガラスの戸が静かに引かれ、
はたてが不安そうな顔をして現れた。。
「如何したんですか、こんな夜中に大きな声をあげたりして」
彼女は言葉を返さずに押し黙っている自分に近寄って、自分の冷え切った頬に手を寄せた。
「何か言ってくださらないと、私どうすることも出来ないわ」
彼女の白々しさにまた怒りが再燃してしまって、思わず考えなしに言葉が飛び出た。
「お前は……何がしたいんだよ。全部、お前がしたことだろう!浮気したことを今更こんな形で返すならあの時の夜にそう言ってくれればよかったじゃないか」
一息に言葉を吐き切った後、彼女の顔を見上げるとそこには先ほどの烏の首があった。
眼前にそびえる大きな首は、一面に黒い体毛が並々に蓄えられており、黒いガラス玉のような光沢を持った瞳は顔の両面についてこちらをのぞき込み、表面がヒビ割れて前のめりに突き出した巨大な嘴は自分の額に突き刺さりそうであった。
その時の自分を襲った感情は、意外にも恐怖や驚きではなく無であった。というよりはそれがそこにあるということに理解が及びついていなかった。
その首からは、はたてと全く同じ声で、
「あなたが悪いんじゃないですか」
「あなたは出会った時からずっと私を見てくれなかった、いや興味すら持ってくれなかった」
「私にかける言葉も、瞳も、全部私の後ろにいる誰かにかけているようだった」
「最初はそれでもよかった。いつか、私を見てくれる。そう思って、」
「子供が出来た時、あなたどんな顔してたか覚えているの」
「もう自分は逃げられないんだねって、そう言われたようだった」
「殺してやりたかった。こんな虚仮にされるなんて産まれて初めてだった」
「でもね、同時にこう思ったのよ。あなたをここまで引き付けている女は誰なんだって」
延々と短調のない言葉が紡がれた。
冷や汗が一筋、彼女に手を当てられている左頬を伝った。
「ようやく、見つけた」
いつの間にか、彼女の顔は元に戻っており、その顔には穏やかな笑みが浮かべられていた。