マジカルマリサ3




薄ら笑いを刻んだ唇には、昔と同じように毒々しい色の紅が厚く塗り込まれていた。
「今度はどこで遊ぼうか」
「君とにもう今度というのはないよ」
「厳しいんだ。怖い奥さんなんだね」
一歩離れて、彼女から距離を取ろうとすればまた、一歩こちらににじり依ってくる。
まるで触手のように絡み付いてくる手先は、体の至るところを撫で回してくる。
「君は恐ろしかったけどね」
「酷い、愛ゆえにだよ」
「愛というよりは憎しみに近かっただろ?」
「それも愛ゆえに」
気づけば、大通りの手前にまで押し戻されていた。迫る清潔で、健全な営みの音が、俺に
「その女は、お前の築いた財産を失わせる」
と自覚させた。
「もう俺に近か」
「じゃあ、またね」
マリサはするりと俺の側を通りすぎて、通りへと抜け出た。瞬間、彼女の姿は人の流れに飲み込まれて行った。

ようやく印刷所にたどり着いた頃には、職場は既に紙を忙しなくめくり整える無機物的な動作を繰返し続ける静かな繁忙に満ちていた。
戸を開けると、一斉に向けられる視線を無視して自分の仕事場へと歩みを進める。
何十年も使い古されて、破れ目が走る革貼りの椅子に腰掛けてデスクに山積みされた原稿を一部抜き取り校正に入る。
暫く読み進めると、機械的な作業音の中に、耳障りな囁きが聴こえてきた。
「〇〇さんって…」
「え、それ本当なの。案外…」
もう、職場にまで行き渡っているのか。単調で娯楽のない業務の中では浮いた話は伝播しやすいとは言うが、
当事者になってみると事実に尾ひれがついて別の生き物になる様がよくわかる。
おいおい、さっきまで二股の魚が八股の蛸になっているぞ。冷ややかな空気に、
居たたまれなくなって喫煙所に逃げると、今度は同僚の質問攻めにあった。
「嫁にばれるドジ踏むなんて珍しいな。で、相手は誰だよ。若いのか?」
元カノで、遊女。なんて口が避けても言えないので
「居酒屋でたまたま横にいた女に、逆に送り狼されたんだよ」
「羨ましいねぇ、流石は逆玉男。掴まれるのが上手いんだろ」
「馬鹿いってんじゃないよ。義父にも多分、ばれるんだから。お先真っ暗、今も真っ暗」
まず俺の机が今日あったことに驚いてんだからな。

午前を過ぎた頃、皆が昼食の内容を和気あいあいと話し合いながら職場を離れようとする中、
遅刻した私は未だに原稿とにらめっこをしていると
「え、は、はたて様⁉」という声がその活気を一瞬で冷め返らせた。
思わず顔をあげると、入り口に集まった同僚たちが引き潮のように二手に道を開けていく。
そして、その最後尾にいた人間がのけ反るように横に退くとはたてがそこにいた。
「お弁当忘れになったので、届けに参りました」
その顔には、表情というものが存在していなかった。
「あ、ああ、ありがとう。うっかりしていたよ」状況が理解出来ていなかった私の顔は恐らく、
ひきつり過ぎていて微笑みすら浮かべることが出来なかったのだろう。
「では、用がすんだので、帰らせてもらいます。」そういって、振り返って来た道を戻っていく。
周りは固まったように身動きすらせずに、その場で立ち止まっていた。
そして、彼女が入り口にまで行き着く時、思い出したように振り返り、今度は微笑みを浮かべて
「ああ、そうだ。今日の夕飯はあなたの好きなさつま揚げですよ」
と昔のように明るい声でそういった。

好きな男?
いますよ、まだ女といえる歳だもん。
しわくちゃのシャツみたいに、頼りなくてだらしなくてそのくせ妙に涼しい顔して歩くやうな人でね。
目を離すと、人混みにまぎれ混んでそのまま迷子になっちゃいそうで。
ずっと手を繋いでるみたいに、彼から離れなかった。
彼はそれが嫌いみたいだったようだけど
猫みたいに、近寄ればすっと離れるのに、放っておけばすぐにいじけて膨れっ面で煙草を吸ってた
馬鹿な人だったけど、あたしにはそれがツボみたいで。けっこう好き者なんだーあたし。
うん、お客さんはどうだって?それはもう少しお喋りしてから決めるよ
恋愛ってやっぱりタイミングと費やした時間で美しくなったり、ひび割れたりするからさ

冷たさとからかいの視線のむしろにいながら、ようやく仕事を終えた頃にはもう日が沈みきっており、
窓には自分の顔が、血色の薄い幽霊のようにぼんやりと写っていた。
さっさと帰ってしまおう。

家捜しを終えた空き巣さながらに、荷物を抱えて職場を後にしようとした時に、ばったりと上司と鉢合わせてしまった。
彼自身も少し驚いたようで、剥げ上がった頭に残るほんの数本の髪を撫で付けながら、幾分考える様子を見せたのちに
「〇〇、ちょっと話があるんだが、時間いいか」
とまるで飲みに誘いにいくような親しみを滲ませて言った。

客室に通され、革貼りのソファーに腰掛けるように促された私は、これから下される人事について考えると
落ち着いてじっとしていられなくなり、知らず知らずの内に出された湯呑みを抱えるように握りしめていた。
「嫁さんにも急かされてるみたいだし、早く終わらせることを努力するよ」
俺の対面に腰かけた彼は、おもむろに一封の書類を、分厚い黒塗りの鞄から取り出した。
「これ、前向きに検討してくれると助かるんだがな。お互いに」
差し出された封筒の隅に、小さくそしてくっきりと辞令という文字が印されていた。
「勘違いしないでくれ、これは前々から打診されていた案件だったからね」
そういいながら、いつの間にか取り出していた煙草に火を着けた。
彼の前には安い茶屋で配られるようなラベルのマッチ箱が置かれていた。
「編集部に回したいとの、上からのお達しでね」
今置かれている現状で、想像していなかった単語が出てきた。編集は明らかに上のポストだ。
「お前さえ良ければ、明日にでも異動の段取りを始める」
「ただし、前提としてお前の机の上を綺麗に片付けておくこと。」
「な、簡単だろ」
茶封筒を手にしたまま、黙り混む俺を眺めた彼は煙草をつまんでいる指先まで、
チリチリと吸い上げると長い息と共に真っ白な煙を吐き出した。
灰皿にしつこく吸い殻をこすり付けた後、立ち上がって俺の横を通りすぎた。
その際、肩に置かれた手は、グローブのように厚く重さとはまったく異なる質を感じた。








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最終更新:2019年02月09日 20:34