古びた洋館の一室で、いつものように白いシーツをひいたベッドに横たわる。先生に治療をしてもらってから早数回がたっていた。僕が記憶をなくし
てから、こうして先生のもとに通っているのだが最近は慣れてきたのか、徐々に記憶が戻ってきたような気がする。そして今日も僕は先生のもとで治療
を受ける。
「さあ、ゆっくり力を抜いて下さい…。」
先生の優しい声が聞こえてくると、僕は催眠の中に入っていった。
「また留守なのか。」
最近何度も訪れているがいつも彼の家は留守だった。あの事件の真相を追うと言って、調査をしていたやつなのだが、ある日とてもいい手がかりを見つ
けたと言って、しばらく帰らないと言い残して出かけて行った後、いつも通りならばその日中に帰ってくるはずだったのだが、彼は帰ってこなかった。
たまたま調査先で遅くなってしまったのかと思い、その後も一日おきほどに彼の家を訪れているのだが、いつ来ても彼の家は無人であった。それ以降、
僕も彼のあとを追うようにして、調査をすることにした。近頃人里を賑わせている、「切り裂き魔」、外界では似たような犯罪があったと記憶している
が、ここ人里でもこのまま放っておけば未解決事件となるような気がした。僕はそれが忍びなくて、このままでは行方不明になってしまった彼に申し訳
ないような気がして、こうして調べ物をしている間に時々彼の家に寄っていた。
彼の家から帰ろうとすると、ふと、向こうから一人の里人が歩いて来るのが見えた。何かのついでだと思いその人に声をかけてみる。
「こんにちは、この家に用ですか?」
「ああ、そうだが…。お兄さんはこの家の人の知り合いかい?」
自分が住んでいる人ではないと知っている事に対して、ふと疑問が生じた。
「ええ、そうなんですけれども、実はここに住んでいた友達がずっと家に帰ってこなくって、それで心配になって見に来たんですよ。近くのあんな事件
がありましたしね。」
「ああ、そうなのかい。それなら大丈夫だよ。この家の人は引っ越したらしいからね、そこで家を売ってくれって頼まれて、それでこうして見に来たん
だよ。」
「嘘。」
「おいおい、のっけからなんだい。私は本当にその人から頼まれたんだよ。」
「それも嘘。」
「気味が悪い奴だな…。ほら帰った帰った。」
形勢が不利になったのか、こちらを追い出しにかかる。 しかしそれに負けずに追撃をかける。
「おじさん何か知ってるんじゃないのか?」
「何かってなんだよ、私は何も知らないよ。」
「実は僕、能力があるんですよ。」
「妖怪なのかお前?!」
相手が目に見えて驚いた。
「いえ、ただの能力者ですよ。」
「ならとっとと帰りやがれ。一々つきやってやる暇なんてないんだよ。」
「ここに住んでいた人は何か事件に巻き込まれた。」
「知らん。」
「おじさんはその事件を知っている。」
「知らん!」
「おじさんは、真相を話すことを恐れている。」
「知らん!!」
「その相手は人外の有力者だ。そしてその有力者の報復が怖い。」
「知らんと言っているだろう!!」
逃げ出すように去っていったその人の後ろ姿を眺める。非常に困ったことになってしまった、どうやら友人の失踪には妖怪が関わっているようだ、それもとびきりの強力なやつが。
催眠から醒めて、僕は汗をびっしょりとかいて飛び起きた。ベッドのすぐ横には先生が立っていた。
「驚きましたか、大丈夫ですよ。」
先生が優しく声をかけてくれる。
「忘れていた記憶を思い出しましたので…。」
「そうですね、忘れてしまいたくなるほどの記憶を思い出したので、きっと心に負担がかかったのでしょう。でも、大丈夫ですよ。思い出せたというこ
とは、それを思い出す時が来たということなのですからね。さあそれではまた明日、こちらに来てくださいね。」
僕の手を握って、穏やかに話しかけてくれる先生の目は、ただ優しかった。
人影が消えた路地の闇の中に、濃い血の臭いが充満していた。物言わぬ骸となり果てた末に、生者の尊厳と共にその肉体すらも壊されている女。
その隣には銀色のナイフを血に染めた犯人がいた。若い女、見た目は未だ少女と言っても通用する年代なのかもしれない。辺りに飛び散る紅い悪意
と手にした狂気とは裏腹に、その目には激情の一片たりとも浮かんではいなかった。
女が深く丁寧に一礼をする。今さっき殺人を犯した筈なのに、それ以上に優先することがあるとでもいうかのように、優雅にカーテシーをする
少女。グニャリと視界が歪む。止めてくれ、止めてくれ、これ以上は見せないでくれ。あの惨劇を繰り返したくないのだから!
そして僕はベットの中で目が覚めた。
窓の外は暮れており、部屋の中にはランタンが赤々と点いていた。夢で乱された僕の心をほぐすように優しく揺れる炎。その光を見ていると、段々
と気分が落ち着いてきた。改めて考えると酷い夢だった。しかしどこかで体験したことだと、紛れもなくそれは現実にあったことなのだと、僕の直感は
伝えていた。頭を振ってベットより出る。先生の元に行かなければならなさそうだ。この記憶こそが僕の欠けていた記憶なのだから…。
夜の時間になっていたが、先生は優しく僕を迎え入れてくれた。診察室のベットに横たわり先生の穏やかな声に耳を傾ける。たゆたうような、海
の中で泳ぐような、そんな揺らぎに身を任せて催眠の中に入っていく。深く深く、記憶の海の中へと。
その日、僕は人里の離れに来ていた。最近起こっていた遊女惨殺事件を追うために、身近な人物から何か情報を聞けるのではないかと思ったため
である。色街の門をくぐり一角に足を踏み入れる。途端に濃厚な空気にあてられた。艶やかな色、女性の艶やかな声、そして艶めかしく淫靡さを漂わせ
る香り。そういった俗世とは離れた諸々が、僕の五感にシャワーのように流れ込んでくる。熱に浮かされたようにフラフラと周囲を歩く。本当は証言
を誰かから聞きださないと行けないのであるが、どのようなことは思いもつかなかった。ただひたすらに圧倒されながら夢遊病者のようにあてどもな
くふらふらと歩いていく。そして僕は何かに吸い込まれるかのように、ある一軒の店に入っていった。
店の中には老婆が一人いた。値段の交渉をしてくる老婆を適当にあしらった後で、部屋の奥へ進んでいく。奥の部屋には女性が一人いた。
「いらっしゃい。こういったお店は初めてかしら?」
突っ立っている僕に対して優しく声をかけてくれる彼女。そう言われて、ようやく僕は当初の目的を思い出した。
-へえ、お客さんそんなこと調べてるんだ。確かにあの事件は怖いものね。ここら辺ならあの噂で持ちきりだよ。でもみんな腰が引けてるんだよね。
どうしてかって?それはあんなことをする犯人に対してはみんな怒っているけどね、でもそれ以上に怖いんだよ。あんなことをする奴がこの周囲を歩
いているなんて、本当にゾッとする話だよ。本当に人間がしたとは思えないものね。あんなに死体をぐちゃぐちゃににするなんて、悪魔の仕業だよ。
よしそれじゃあ、お姉さんがいろいろ教えてあげるね。何せこんなお客さんは初めてだからね。お遊びはどうでもよくって、ただ事件の解決のために、
私に話を聞くだけのために、態々お金を払う人なんて初めてだからね。私だって本当は、あんな事件がなくなってほしいと思ってるんだよ。
でもね実はね、私達は襲われないって知ってるんだ 。どうしてかって?実はあの犯人に襲われてる女たちは、裏モノ通りの人達なんだよ。裏モノっ
て何かって?お兄さん初心だね。実は本当は知ってるんじゃないかい?本当に知らないの?珍しいなぁ。あそこの通りにはね、普通の人では満足できな
い、そういう人たちが通う特殊な店があるんだよ。そこの通りには色々なお店があってね、所謂特殊なお遊びを提供してるっていうことなんだよ。そし
てその中にはね、妖怪専門のお店ってのもあるんだ。女の人が妖怪でね、あっこれ内緒の話だよ、男の人に色々提供するんだけれども、普通の人里の人
だったら妖怪になんて関わりたくもないと思うだろうけれどね、それでも中には普段はかなわない妖怪に対して、思う存分欲望の丈を吐き散らかそうっ
ていうねじれた人がいるらしいよ。私には理解できないけど…。まあそんなこんなで、主にそこら辺の店に関わる人が狙われているようだね。
まあ他にもちょこちょこやられているみたいだけれど、一番殺されているのはそこの人達だから、犯人はそこに恨みがあるんだろうね-
「今日はここまでにしましょう。」
軽やかな先生の声で現実に引き戻される。催眠の余韻で、しばらくぼうっとしている僕の頭を、先生は優しく撫でてくれた。穏やかな声が心に染み
渡る。
「さてだんだんと、色々思い出してきたことかもしれません。これから先は何か、あなたが記憶をなくした本当のことにたどり着くのかもしれません。
これ以上進んでしまっては、見たくもないことを見るのかもしれません。どうですか、これ以上続けますか?」
「お願いします。」
先生の方を見て強く伝える。先生が頷いたのを見ると、僕の決意がしっかりと伝わったようだった。
最終更新:2018年03月27日 23:43