ふと気がつくと先生が隣にいた。心配そうな目で僕を見つめる先生。優しく僕の手を握りながら先生が話しかけてくる。
「大丈夫ですか?実は先日はあの後気絶してしまったので、こちらの方にお連れしました。ですので今日、あなたの様子を見にきまして。」
「ありがとうございます。今日は大丈夫そうです。」
「どうですか、せっかくですので今日はここで治療をしましょうか。」
願ってもない申し出にうなずく。
「それでは始めましょう。」
先生がパチンと指を鳴らすと、僕はまた催眠の中に入っていった。
情報屋と夜の道を進む。ふと、周囲に霧が出てきた気がした。
「そういえば、この殺人鬼についたあだ名を知ってるかい?」
「切り裂き魔じゃないのか?」
「ああそうさ、だけど別名は切り裂きジャックって言うんだ。丁度、霧の都の倫敦から幻想入りしたようだね。」
「馬鹿馬鹿しい、そんなもの妖怪でもなんでもないじゃないか。」
そう言って前を見た瞬間、目の前にいたはずの女達が消えていた。慌てて後ろを振り返る。自分たちの後ろにいたはずの、達人の先生
とやらも霧に紛れて忽然と姿を消していた。
「おいどうなってるんだ!」
思わず隣の情報屋にくってかかる。彼は平然として答えた。
「いやいやまさに、切り裂きジャックのご登場ってことじゃないか!」
何処か芝居がかった様子で、待ちわびていたかのようにそう答える情報屋。
「さあ、こっちだ!」
興奮した情報屋に腕を引っ張られて、僕はそのまま彼について行った。月の光もわずかにしか入らない霧で覆われた幻想郷。路地裏の奥に
そいつは居た。
そこにいたのは少女だった。白を基調としたメイド服に銀色の髪が映える。普通に昼間に見たならばとても美しいと思えたその少女は、
死の結晶を周囲に積み上げつつ、月の光を浴びて赤いナイフを光らせていた。こちらを見て逃げるでもなく、襲ってくるでもなく、
ただ悠然と佇む少女。そしてこちらを見ると、ナイフを手に持ったまま優雅にスカートを上げ一礼をする。あまりにも非日常的すぎるその
光景を見ていると、なんだか自分が場違いのように思えた。ふと、その少女の視線は自分を見ていないことに気が付いた。まるで自分の隣に
いる情報屋に向けて、あの軽薄な青年に向けてまるで主人に仕える臣下のように彼女は礼をしていた。時が止まったように凍りつくその空間。
悪あがきのように僕が隣を見ると、そこにいた彼は青い髪の少女になっていた。
「ご機嫌麗しゅう、お嬢様。」
透き通るような声で挨拶をする犯人。そして隣にいたはずの彼は、少女の主人となって労いの言葉を返した。
「ご苦労さま、咲夜。これで全員ね。」
「はい全員です。お嬢様。」
そのまま優雅に彼女は歩いていく。僕の側から離れ、向こう側へと行ってしまうかのように。
「どうしてだ…。」
相対した彼女を見ていると言葉が漏れた。それと一緒に逃げる気力すらもなくなってしまったような気がした。
「そうね、ちょっと昔話をしましょうか。」
そう言って彼女は話しを始めた。
もしも…そう、もしもの話だけれども、あなたはもしも大切な人を失ったらどうするかしら。そして、その原因が誰かの罠にかかったとしたの
なら、あなたはどうするかしら?復讐するかしら、それとも復讐なんて割に合わないと思って、残された人生を大切にしようと生きるかしら?
あなたはどう生きるかは、あなた自身が選べばいいのだけれども、 ある人にとってはどうしても許せないことがあったの。
とあるところに一組の夫婦がいたわ。夫は人里の普通の男性で、妻の方は獣人の狼の妖怪。幻想郷からすればちょっと珍しいという程度
なのかもしれないけれど、それでもその夫婦は平和に暮らしていたわ。だけれどもある時、悪い奴らに目をつけられてね、ちょうど妻の方
が満月の光を浴びた時に、色々と策を凝らして襲われたのよ。わざと夫の前で妻を襲わせて、夫に見せつけるかのように妻を辱めようとし
て…。そうすれば夫の方の心が折れるかもしれないと思ったのかもしれないし、あるいはそうやって満月の晩にそうすれば、妻の方が絶対
逆らえなくなると、そういうような邪法を使っていたのかもしれないわね。そして奴らの方は、逆らえない奴隷を一匹作り上げて、それを
自分たちが経営しているここの店で使って、金を稼ごうとしていたのかもしれないわね。
そう、屑にも劣るその下劣な行為、もしもそれが行われていたならば、おぞましい悲劇になったであろうその話は、妻の獣人が必死に抵抗
したことで未遂に終わったわ。いえ、たとえ未遂に終わったとしても、それは恐ろしい話よ。それも精神的な面だけでなく、物理的にもね。
妻の方は必死で、そう、自分の方がどうなってもいいと、そう思いながら夫の方を懸命に逃がそうとしたわ。そして自分がひどい傷を負い
ながらも、どうにか夫の方を解放することができたのだけれども、逆に自分の方は力が尽きて捕まり、もはやどうにもならなくなってしまったの。
そうなった妻の方は、もはやこれまでと思ったのでしょうね。わずかに折れずに残った自分の鋭い爪で、自分の命を掻き切ったのよ…。
夫に操を立てるためにそうしたのでしょうね。追い詰められて、どうしようもならなくて、それでも世界一愛している自分の夫にもう一度
会いたかったのでしょうに…。汚されてしまっては、もはや合わせる顔がないと思ったのかしら。ああ、なんともかわいそうなお話ね。
そして、夫の方はどうしたと思う?自分の平和な家庭を無残に壊されて、自分の愛する妻に酷い死に方をさせてしまって、そして、自分
だけはのうのうと生き残ってしまって、いろんな気持ちに夫はなったのでしょうね。辛く張り裂けそうな気持ち、凄まじいまでの後悔と苦悩、
もはや二度と取り戻せない日常への渇望、そして…こんなことをした奴等への心の底からの復讐心! だけれども、夫の方には復讐をする力は
なかった。あの襲撃で自分の体は満足に動かなくなっていたし、当事者以外の目撃者もいない出来事、よしんば村に訴えたとしても彼らに
本当の罰が下されるとは、そう夫には思えなかったの。正義にも神にも見捨てられたその男。どうかしら…?だからその男は悪魔に魂を売ったわ。
神様が助けない者は悪魔の領分でしょう?そして今回の事件の幕が開けたのよ。
「どうだったかしら?」
話し終えた後で悠然と彼女は立たずんでいた。あれほどまでにも恐ろしい罪を犯したというのに、しかしあくまでも当然のことをしたまでだと
言わんばかりに、彼女は僕を見ていた。
「そうだったのか…。」
彼女の語る言葉に圧倒されてしまった僕には、返事を返す気力すらもほとんど残っていなかった。
「そういえば、どうしてあなたはこの事件を追っていたのかしら?」
「親友が行方不明になったから…。」
「お嬢様、○○という人物のことかと。」
隣にいた少女が、青い髪の彼女に話しかける。
「あら、その人物なら白玉楼で無事に過ごしているわよ。良かったわね。」
「そいつは良かったよ。それで、このまま逃がしてくれるとありがたいんだがね。」
少女が笑う。悪魔の笑みを浮かべながら。
「もちろん私もあなたのことを信じたいわよ。でもそれは駄目。このままでは色々と不都合なの。あなたの様なお喋りな人が地上に居るのは、
私あんまり好きじゃないの。」
-だから-と少女は言う。運命を見通すかのように。
「あなたには稗田の屋敷に行ってもらうわ。そうね、そこできっと運命の出会いをするでしょうから。」
ガバリとベッドから跳ね上がる。ああそうだ、僕はあの後気づいたら、稗田の屋敷に連れて行かれていて、そしてそこで…。物となった自分、
九代目の
裏の顔、訪れて来た妖怪のあの女、そして積まれた金!!
「ようやく思い出しましたね。」
隣にいた先生が僕に声をかける。優しかったはずのその声が歪み、あの女の声が聞こえてくる。
「さあ、これで…ようやく一緒になれますね。」
先生の形が溶けていく。そしてあの女の姿が目の前に現れた。自分の部屋だった筈の風景もいつのまにか、あの館のものに変わっていた。
「あなた、これからずっと一緒に過ごしましょうね。」
「
さとり…」
粘つくような目で彼女は僕を見ている。屋敷で僕を買ったその時から、彼女の目は執着と情念に塗れていた。
「はい、あなた。折角思い出してくれたんですからね…。これでもう、私達の間に邪魔はありませんよ。」
「お前なんて嫌「そんなことはないですよ。」
僕の言葉を遮る彼女。
「だって、あなたは記憶を自分から取り戻したのですから。あのまま発狂して偽りの記憶に留まるよりも、私との真実を選んだのですよ。」
「嘘だ…。」
「嘘じゃないですよ。ええ、あなたは私を選んだのですよ。私と一緒になることをあなたは本心では望んでいたんですよ。どうですか?
あなたの心を読んだ私が嘘を言っているか、能力で確かめてみてはどうですか?」
僕の力は残酷な真実を告げていた。
最終更新:2018年03月28日 00:06