僅かに開いた拳大の穴からのみ光が差し込むその石室を最も端的に表現するのであれば、地獄と言う言葉が最も相応しいだろう。
床に転がるのは、腐乱して蛆が沸き、真っ当な神経を持つものであれば卒倒する臭いを放つ複数の人間の屍。
更に、その上に無造作に撒かれた、発酵し熱を放つ動物の糞尿。
半地下に造られた上に換気口もない為、まるで富士の山頂の様に薄くなった空気。
おおよそ、人間が生きて行ける環境では無く、よしんば生きなければならなくなったとて、死んだ方が『マシ』であろう閉ざされた世界。
死体と糞尿と閉塞で構成された、静止している筈のその世界に……けれど、ただ一つ動く物があった。
積もった垢により浅黒くすら見える、所々に炎症を起こし、爛れた肌。
アバラが浮き出るどころか、あらゆる精気が尽き果て、文字通り骨と皮のみになった肉体。
肘と膝から先が存在せず、もはや動物の様に四足でしか動けぬ四肢。
焼かれた様に潰れた片目。
「……ぐっ……げっ……」
石室の地獄において、呻き声を吐き出すソレは――――生きた人間であった。
長い時間この地獄に囚われているのだろう。
体に巻かれた黒い服は、元がどの様な衣装であるのか判らぬ程に傷んでおり、栄養失調から全身の体毛は抜け果てている。
ある意味では、床に転がる死体よりも死体らしい姿をしたその人間は……けれど、それでも。
こんな状態になり果ててすらも、生きるつもりであるのだろう。床の糞尿に舌を伸ばし、僅かでも水分と栄養を取り込まんとしている。
あまりに悍ましい狂った光景。
半年に渡り続けられているこの地獄は、この日もまた滞りなく営まれる。そう思われたが
「おうおう。臭い、臭いのぅ。罪人の臭いで鼻が曲がりそうじゃわい」
――――石室と外界を繋ぐ、拳大の小窓。
そこから、蠅の羽音ではない。人間の口が紡ぐ意味ある音が響いた。
「……あ……あ……」
その声を聞いた石室の人影はビクリと体を動かすと、かろうじで視力の残る片目を光が差し込む穴へと向ける。
僅かに動くだけで苦痛なのだろう。その首は痙攣をしているが、だがそれでも己が生きている事を示す為に、人影はうめき声を出し……それは、外の人間にも確かに届いた。
「ふん……?なんじゃ、まだ生きとったか。随分生き汚いのう。そんなに死にたくないのか?ん?」
だが、そのうめき声に対して、外の人影が返した言葉に込められた感情は、嫌悪と侮蔑――――そして、他者を嬲る事への小さな愉悦であった。
人影は、着込んだ法衣の袖で鼻を覆いながら、採光穴へ向けて投げつけるようにして言葉を落としていく。
「……まあ良いわ。ワシも暇ではないからの。用件だけを伝えるぞ――――喜べ。此度我らが宗派の総本山は、貴様と貴様の弟子の背教行為に対する罰、その終わりを決めた」
「……あ、あ……っ……!?」
外の人影の口が告げた言葉に、大袈裟な程に反応する石室の人影であるが……それも当然であろう。
投げかけられたその言葉は、屍と共に過ごし、四肢を切断され獣の様になり、無様に糞尿を喰らいながらも尚……石室の人影が待っていたものであるのだから。
喜びの感情を見せた石室の人影に対し、フンと鼻を鳴らすと外の人影は続ける。
「仏の道に在るべき僧侶が、鬼子を育て……あまつさえ、悪鬼と化したソレを滅する事無く京の都に解き放ち、結果として、多くの貴族の息女達が喰われ、金品は奪われ、寺への喜捨も減った。
……その罪を償う為に貴様に命じた、『釈尊のなされた苦行と同じ物を半年に渡り行う』という罰。今日こそが丁度その半年目という訳じゃ」
石室に放り込まれてから、とうに時間を数える余裕など失っていた人影は、続きを促すようにうめき声を出し、それに答える様にして外の人影は言葉を続ける
「おうおう、その様子じゃとまだ狂っておらなんだか。貴様が聞きたいのは『約束』についてじゃろう? 確か『もしも貴様が耐え切れば、貴様の罪を赦し……悪鬼と化した貴様の弟子を、我らが祈りで浄化し人間に戻してやる』という約束じゃったな。勿論覚えているとも」
じゃが、と。外の人影は一度言葉を切ると、採光穴から袋に入った何かを放り込んだ。
「―――ほれ。話の前に、それを喰らうがよい。今の様子では、全て話し終える前に死んでしまいかねんからのぅ」
急に優しげな声を出し始めた外の人影。それを怪訝に思いつつも、己の体力と命の限界を感じていた石室の人影は、投げ込まれた袋を口で開き、中に入っている黒く変色した生肉を口に入れ、無理矢理に飲み込んだ。
食肉はあるまじきものとしてきた石室の人影であったが、生きる為に口にした血の滴るその肉は、砂漠で口にした水の様に美味であり、石室の人影は、まるで餓鬼の様にその肉を貪り……喰らい尽くした。
その様子を、石室の人影が最後の一口を飲み込んだのを笑顔で未届けた外の人影は、再度口を開き優しげな声で告げる
「どうじゃ―――――くひひ、どうじゃ美味かったか?」
「 なあ、美味かったか? 貴様の弟子の、薄汚い悪鬼の心臓は 」
「……? ……あ……ああああああああああああ!!!!」
初めは何を言っているのか理解できなかった石室の人影であったが、時間を置きその意味を理解した瞬間、狂った獣の様に叫びだした。
そうして己が口にした物を吐き出そうとするも、四肢の無いその身では喉に指を入れる事すら叶わず……ただ悶え続けるるその様子に、外の人影は今度こそ、満面の笑みを浮かべる。
「くひひひひ!約束?鬼を人間に戻すぅ!?馬鹿めが、人間が仏敵を生かす訳ないじゃろう!貴様の弟子は、無様に首を切られて地獄の底よ!そして、悪鬼の肉なぞ喰らった貴様も同じ地獄行きじゃ!愚か、くひひ……実に愚かよなぁ!」
「ああああああ!!があああああああああ!!!!」
絶叫し、残った片目を血走らせ、涙を流しなら外の人影を睨みつける石室の人影であるが、それさえも外の人影にとっては滑稽である様で、とうとう腹を押さえて笑い出した。
「くひひ、ひひ……!愉快、実に愉快よ!ワシを馬鹿にしおった小僧が、ワシの前でこうして地に這っている姿は滑稽でたまらんのォ!」
そうして一頻り嘲笑をしてから、外の人影は酷薄な笑みを浮かべつつ、未だ絶叫している石室の人影に対して告げる。
「ひひ、ひひ……さて、さぁて。さんざ笑わせて貰ったからのぅ。そろそろ、貴様の罰も『終わり』にしてやろうではないか。死ぬまでの僅かの間じゃが、好きに生きるといい。最も――――もはや誰とも会う事もないじゃろうがな」
外の人影のその言葉と共に、石室に残った僅かな隙間……採光穴が塞がれていく。
「くひひ……恨むなら、鬼になって人を殺した貴様の弟子と、それを庇った自分自身を恨むんじゃな」
……そして、ゴトリという音と共に石室の中に完全な暗闇が訪れた。
それから二日の間、暗闇の中では慟哭が延々と響いていたが……それもやがて止まり、石室の中に生者はいなくなった。
暗闇の中には、もの言わぬ屍と、その臓腑の中の血が滴る心臓が一つだけ。
最終更新:2017年10月13日 23:19