一月も終わりの事だ。

「やっと一段落ですね」

とん。

青年の声と共に、資料の束が小気味よい音を立てて机の上で揃えられる。
壁側に広がる一面のガラス戸が、昼下がりの明るい空気を差し込む光で存分に会議室の中へと伝えていた。
その光の中、1人の男が長い灰色髪のポニーテイルを揺らして笑っている。

「パレードのおかげですっかりシメが遅れちゃいましたけど、これでやっと肩の荷が下りた心地ですね、藩王」

切れるような細い笑みの似合う、黒尽くめの男だった。
華奢そうな顔立ちに、にこにこと、人懐っこい笑顔を浮かべている。

「ええ。城さんもミサゴさんも、本当にありがとうございました」
「いえ。蝶子さんもお疲れ様です」

摂政・砂浜ミサゴは、藩王・蝶子のねぎらいに対してそう答えながらも、男の笑顔に、以前から抱いていた疑問を遂にこらえきれなくなった。

(この張りついたみたいな笑顔の下に、本当は一体、何を思っているのかしら……?)

そんな彼女の内心を、知ってか知らずか、彼は今回の仕事内容について蝶子と談笑している。

ここレンジャー連邦は西方に位置する藩国である。
つい先日の戦役の折にもぎりぎりのところで兵役を達成している、「健闘している」といった評価の一番似合う小国だ。

ほとんどの国民がその上で暮らす、冗談のような形をしたハート型の本島を中心に、縦3km・横15kmの領海を持つ海洋国家であり、近海にはそれぞれアルファベットで「L」「O」「V」「E」の形をした諸島の存在が確認されている。

多数の藩国からなる共和国、いわばその本国とも呼べる天領からの指令で仰せつかった環境調査が今回の任務だった。数日前に実施した調査行の結果、無事諸島に関するデータが取れている。その提出自体は既に済んでいるが、今までやっていた書類整理は、それらにまつわる都市伝説めいた話についての、言わば調査の余禄部分だった。

「あ、そうそう藩王に摂政」
「はい?」
「なんですか?」

見つめていた相手から急に呼びかけられると、どきっとする。
ミサゴはそんな事を思いつつ、蝶子と一緒に返事をした。
彼はミサゴの驚きに、気付いた素振りも見せずに話を進める。

「先ほど城とお呼びになられましたが、是非とも華一郎と、今後はそうお呼び下さいな。城さんでは、嬢さんと呼ばれている気になりますし、字面でも、お城なんだか人名なんだか、いまいちわかりづらいもので」

城華一郎(じょう かいちろう)。
誰あろう、彼女がこの国へと招き入れた人材である。

「あ、ごめんなさい」
「いえいえ、摂政にはこの国に呼んで貰った恩義もありますから」
「そんな、私の方こそ無理に呼んでしまって」
「なあに。兵役も、ぴたり後1人でしたしね。俺も皆に混ざる丁度いい口実になりましたよ」

みんなが助かればこれ幸い。そう、笑って言って見せてから、戦争を子供の遊びのように言って見せたその彼が、今度は神妙な面持ちで頷いて見せた。

「愛ゆえに、いい国是です。楽しいところですよ、この国は」
「…………」

その様子に、ためらいつつも、彼女はずっと胸に抱いていた問い掛けを口にする。

「華一郎さんは…」
「なんです?」
「華一郎さんは、本当にこの国に来てくれて、よかったんですか…?」
「もちろん。どうして?」

きょとんとしながら笑顔で答える華一郎に、ミサゴは不安を深める。
彼はいつも笑っている。でもそれは、皆の浮かべるようなそれとは違って見える時がある。
まるで彼の名にある城・華(ジョウカ)の響きの通り、道化師(Joker)の笑い化粧に見える時が。

「だって、その…無理に手伝ってもらっちゃったんじゃないかな、って」

そう、おずおずと華一郎に問い掛けるミサゴ。
蝶子はその様子を、口を挟むでもなくじっと見守っている。

「そんなことはないよ。
貴方は、どうしても人手が足りなくて、一時的でもいいから、と、ちゃんと断りを入れた。俺も条件をつけてそれに乗った。そうですよね、藩王?」
「ええ」
「……………」

頷きながらも、どこまでも平静な華一郎の態度に、疑念を払う事は、出来なかった。

彼には他で帰りを待つ仲間がいる。
それを差し置いて、自分が彼の未来を一つ、邪魔をしたのではないか。奪ったのではないか。
そう思うと、自然に顔はうつむいた。

毛足の短い絨毯が、ミサゴの足元には広がっている。
会議室として普段使いに用いられている部屋によく似合った、王宮を装うのに相応しい調度品だ。
その絨毯の毛並みの上で、くる、くる、模様が複雑に入り組み、渦を巻いている。それを目で追う。
くる、くる、心の中で育った疑念が、それにあわせて渦を巻く。

つい、押し黙ってしまう。

彼に対する沈黙が、心の中に、育ってくる。

「やー、それにしてもあのパレードはよかったですねえー!」

その沈黙を、打ち破ったのもやはり華一郎であった。

彼は懐かしむように目線を宙に浮かせ語っている。
両腕まで広げているのは彼特有のオーバーなジェスチャーだ。このようにいちいち感情表現が過剰なので、何が本心なのか見分けづらいのも、彼女の不安を育てる一因となっているのだろう。

「みんなで共和国の旗と、連邦の旗と、両方を振って」
「そうそう、皆で馬車で、街道を通って四王都の全部を巡ったんでしたよね」
「あれはすごかったです」
「最近穏やかな話題ばかりではありませんから、ああいう催し事は、これからも行えるとよいですね」

蝶子は、会話に入ってきたミサゴにほんの一瞬だけ微笑みを零しながら、そう語る。
光の加減によっては橙にも輝いて見える、その薄茶色の、瞳までをも力強く笑ませた、微笑みだった。
自ら国の先陣を切って働き、いざ戦場になると男装の伯爵夫人となる、勇敢なる王。
それがこの、誰もが認める蝶子という女性の強さである。
そう、ただ一つの弱点を除きさえすれば……

「いやまったくです。今度はどんな口実で騒いだものでしょうねえ……」

そう言いながら、はい、と綺麗に丈の整った資料を手渡す華一郎。
ありがとうございます、と、受け取った蝶子との、指と指が、軽く触れ合う。

「あっ」

なぜかその光景に嫌な予感がしたミサゴは、それまでの物憂い態度も何もかも投げ捨てて、咄嗟に身を横に投げ出した。

直後、太いかけ声と共に一枚のガラス窓が盛大にぶち割れる。

「とうっ!」

ばりーん!

「城さーん、見てましたよー!」
「何がですか、フェ猫さん!?」

窓を突き破りながら飛び込んできた中年男は、ビッテンフェ猫という高官の一人だった。
なぜかガラス片の範囲外にいた蝶子が、フェ猫さん、窓ガラス一枚、とメモを取るのに、ああー!とショックを受けながらも、今更つけた勢いは止められず、彼はびしいっ!と華一郎を指差した。

「藩王にはヤガミという想い初めた人がいるというのにあなたはこここ事もあろうに、指を!」

蝶子、にこやかにぶっ倒れる。

「いやだから誤解だというに!?」

机の下に潜ってガラスのシャワーから避難していた華一郎は悲鳴のように弁明する。

「おや、どうしました藩王、そんなところで横になって」
「いえ、ちょっとめ、めめめ、めまいが…」
「やや、ろれつが回っていない!
これはいかん、衛生兵、衛生兵はおるかー!」
「だだ大丈夫ですからというかどうしてフェ猫さん、や、ヤガミのことを…」
「そんなこと…藩国中の皆が下はうちの愛娘から上はご老人まで皆周知のことでありますが」

のう城さんと冷静に同意を求められ、華一郎、こくり机の下からこれまた冷静に頷き返す。
のを見てまた蝶子、ぶっ倒れる。

「おう、なんということ!
衛生兵ー!」
「今更だなあ…」

頬杖をつきながらミサゴは、照れて真っ赤になっている蝶子を見つつにこにこ笑って呟いた。

好きな人の事が絡むと、途端に泡を食って挙動不審になる。それが蝶子の弱点なのだ。

「蝶子さん、普段はしっかりしてても結構ぐるぐるしちゃうところあるから…」
「ま、恋する乙女は強くもなり、弱くもなる、って事かねえ」

ミサゴと華一郎のその会話に、立ち直りかけていた蝶子、また倒れる。
そろそろ立ち上がれないかもしれない。あ、穴を掘ってそこに埋まり始めた。

「なにやら藩王の一大事ですかー!!?」

ばりーん!!

「双樹くん、君もかい!?」

ビッテンフェ猫が突き破ってきた窓の、隣の窓から体当たりでこれもガラス片を撒き散らしつつ突入してきたのは、体格のよい、双樹真(ふたき しん)という男。

「割れた窓、抉れた床、そこに埋もれている藩王、避難している城さんに、うろたえるフェ猫さん、そして立ち尽くすミサゴさん…」

すべての材料を一つ一つ並べていく双樹。その大きな頭脳が高速回転を始める。
一瞬で状況を解き明かし、鋭く彼は叫んだ。

「曲者ですね!?」
「ちがーう!!」

蝶子が立ち上がってだだっこのように地団駄を踏みながらつっこむ。

「む」
「は」
「!?」

瞬間、男性陣三人が、鋭敏な感覚でもって扉の方を振り返った。

BOMB!!

「ソーーーーーーックス!!!!」

煙たなびくバズーカ担ぎ、高笑いと共に突入してくるのは髭の男。

「ふはははは藩王、あなたの靴下いただきます!!」
「青海さーん!!?」

慌てて退こうとする蝶子の足元を見て、しかし青海正輝(おうみ まさき)は固まった。

「な…ない!?
馬鹿な、履いてないだと!!?」
「あー、砂漠だしねえ…」

相変わらず寝そべりながら、やる気のなさそうに頬杖をつく手を変える華一郎。

「普通は履かないですよねえ、砂漠だし」

その隣、煙から避難するようにしていつの間にか並んで寝そべっている双樹。

「まさか未着用とは、不覚…はっ!!」

振り返るその頭上に、投網が広がっている。
咄嗟に飛び退る青海。かろうじてかわしたものの、その構えは油断ない。

「ソックスハンター、御用です!!」
「風紀委員会めええ!!」

気がつけば、どこから取り出したのやらミサゴが肩にバズーカを構えている。
投網はそのバズーカから発射されたもののようであった。

大人しい、落ち着いた淑女に見えたミサゴは今や、狩人を狩る、もう一人の狩人と化している。
その唇が、容赦なく仲間を呼んで眼前の怨敵を追いつめる。

「ものども、出会え、出会えー!!」

かけ声と共に、跡形もなく砕けた扉の向こうから、人影が二つ、駆けつけてきた。これもやはりバズーカを肩に担いでおり、いずれも妙齢の女性である。連邦の高官、小奴(こやっこ)と浅葱空(あさぎ そら)だ。

三人は青海を挟みこむようにして対峙する。青海は対峙を嫌って即座に飛んだ。なぜかわざわざ入ってきたところとは違う窓へと、高らかな声で捨てゼリフを残しながらに。

「次こそは、そう、寒い砂漠の夜に欠かせない、寝冷え対策用の靴下を頂戴する!!」
「あ、待ちなさーい!!」
「とうっ!!」

ばりーん!!

ぼすぼすぼすっ!!

たたたたた……

「く……逃げられたか」
「次こそは悪の根を」
「ええ、断ちましょう」

窓枠に手をかけ、黄色い砂塵の彼方に逃げ去ったハンターの行方を、どこか悔しそうに目を細めて睨んで見つめる三人衆。決意の表れ、えいえいおーと重ねられる、三つの華奢な手の甲が無駄に麗しい。

「な、何故拙者がかような憂き目に…」

投網でがんじがらめになって転がるビッテンフェ猫の肩を、ぽむ、と両側から叩く男二人。

「危険とは事前に察知するものですよ、フェ猫さん」
「何かあってからじゃ遅いですからね」

うんうんと頷く双樹の肩に、ぽんと置かれる手。双樹は喜ばしそうににこりと笑ってその手の持ち主へと振り返った。

「ああ藩王、よかったですねえ無事に済んで」
「フェ猫さんと同じで真さんも窓ガラス一枚ですからね」
「そんなー!?」

にこやかに笑う藩王と、女性陣に両脇抱えられてしょっぴかれていく双樹とフェ猫とを見比べつつ、無事今日もことなかれ主義を貫ききった華一郎は、元気になったミサゴの背を見送り、にこにこ笑って呟いた。

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「平和だねえ……」

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折りしも同じタイミングでその言葉を口にした男が、もう1人いた。

「ノートも開かんで余所見とはご機嫌だなあ、クラディス?」
「いえいえ教授、いたって気分は平静であります。史学はつまるところ記憶するためのものでありますから、記憶対象を眺めながら勉学にいそしむことが一番と私思いますればこそ」

白い煙の上がっている王宮の方を見やりながら、クラディスは自分の肩に手をかけている教授へと、のうのうとそう答えて見せた。

教室から見下ろす街並みでは、いつものことだと皆も王宮の変事に対して関心を示していなかった。今年に入ってから、もう何度目の事か解らないからだ。その人の群れの中を、今、怪しげな人影が爆走し、追いかけるようにして女性達が王宮方面から駆けつけてくる。

まったく平和な事だ。
帝國では粛清の嵐が吹き荒れているという。明確なトップを頂いている組織構造ゆえの事であるため、皆が横並びの共和国では、まったくの他人事として眺めていられる。とはいうものの、同じ世界に生きるものとして、やはり見ていて気分が落ち着かないというのも正直なところだ。

(脳天気に振る舞って見せて、国民の不安を取るのも偉い人達の仕事…っちゅう、事かねえ)

また物思いに耽り出す彼の、眺める視線が顔の向きごと、ぐいと動かされた。
にこやかに笑った教授の顔が、彼の両頬をがっちりと手で掴みながらこちらを見つめている。

「よろしい、反省の色がないようだな。
では明日までに学習の成果を見せ給え。本日の授業の内容、この国の建国にまつわるレポートを5000字だ」

ふあい、とクラディスは返事をした後、教授が教壇に戻る背を、やれやれと肩をすくめながら見送った。
人間年取るとああも怒りっぽくなるかねえ。

(しかし…)

実際どうしたものかな、と教室内を見回しながら考える。
この授業を取っている知り合いが、いない。

いつもつるんでいる後輩がいれば話は簡単だったのだが、それは今、別の授業を受けている。

この授業、単位厳しいんだよなあ。
簡単に取れるって聞いたから選んだのに、おのれミードの奴め、この恨みどう晴らしてくれようか、と、理不尽な逆恨みを彼が抱いているところへ、先輩、先輩、と、その肩を後ろからつつくものがある。

振り返るとそこにはこっそり彼にだけ見えるよう開かれたノートが立っていた。
几帳面に整理されていて、使いやすそうなノートだ。

ノートの持ち主は優しげな顔をした青年だった。
長い髪を素のままに垂らした、長身、優男風の青年である。
その笑顔にはしかし、育ちの良さそうな品が備わっていた。
綺麗な金色の瞳が印象的である。

「おお」

小声で快哉を挙げると彼は、青年へと頷き返してハンドシグナルを送った。
口元で指を二本揃えてかっこむ仕草をしてみせる。
だが、ふるふると青年は首を横に振る。

(む、学食では駄目か。贅沢な奴め…)

しかし今の経済状態ではそれ以上の額など捻出できない。
追試代と一体どちらが安く上がるだろうかなどと物騒なところにまで発想が及びつつ、彼がしばらく悩んでいると、向こうは指で丸を作ってこちらに見せた。
クラディスは安心して頷く。

(なんだ、ただの釣り上げ目的のはったりか)

無事交渉が成立し、手元のノートを教授対策に見せかけだけ開きつつ彼はさもあらんと内心独りごちた。

(自分もよくやる戦法だ。しかし、そいつは往々にして通らないものよ)

そう、需要と供給は、バランスが取れてこそなのだから。

/*/

授業が終わった後、済まんな、と彼は件の青年へと鷹揚に告げた。
周りでは、この後の昼休みに向けて、学生達がぞろぞろと道を急ぐように席を立っている。この分ならば自分が誰かと話しているところなど、あの教授の老眼では目に入るまいと、たかをくくっての行動である。

背は小さいが傲岸不遜、それがこのクラディスという学生の特徴であった。

恩人を待たすわけにはいかんな、という建前を口にしつつ、自分が行列に並んで料理を取ってくるのが嫌で、早めに済ませようと彼は立ち上がりながら青年へと促した。

「では、行こうか」
「?」
「どうした、不思議そうな顔をするな。学食一回でOKだったのではないか?」
「ああ…」

最初は怪訝そうだったが、それを聞いて、納得したように青年は破顔した。
彼はさらりともう一度同じハンドシグナルをして見せながら、クラディスへと説明して見せた。

「違いますよ、先輩。これはタダでいいってサインです」
「馬鹿な!?
そんなサインが実在したとは……」

あまりにも自分とは異なる世界の現実に、跪きそうになるほど動揺するクラディス。
ふと、まったく別の事に思い至って彼は踏みとどまった。

「はて…
先ほどから貴様、先輩先輩と気安いが、どこかで面識があったか?
済まんが思い出せんぞ」

大真面目に悩む彼のことを、くすくすと楽しそうに青年は笑った。

「この藩都大学では有名ですよ、先輩は。
それに、ミードと僕とは語学のクラスが同じなんですよ」
「ほほう、ではさぞかし俺の素晴らしさを聞き及んでいることであろう。
うむ、知遇を得られて幸いと思うがいい」
「うーん…噂通りの人だなあ」
「そうだろう、そうだろう」

微妙に食い違っている互いの見解がさておかれたところで、彼は改めて自己紹介を始めた。

「初めまして、先輩。僕はムゥエと申します」

/*/

「ほほう、あの男、そんな経歴の持ち主であったか」

その夜、ムゥエから借り受けたノートを今期分丸ごと頭から写しつつ、クラディスはミードの話に相槌を打った。

既に時刻は夜半であり、砂漠特有の干し煉瓦で積み上げられた四角い家は、砂が入り込まないよう、窓を小さく作られており、今はその窓も閉じられていて、机上を照らすランプ以外、密室に灯される明かりは一つもなかった。

箪笥と机兼テーブルを除けば後は寝床だけという、実に質素な家である。ミードは既に、毛布を敷いただけの簡素な寝床であぐらをかいて寝る一歩手前の格好だ。

「『あったか』、じゃないですよ先輩、だからあれほど授業はまともに受けろと」

嘆くミードは中肉中背、これといって目立ったところのない男だったが、どこかひょうきんなところのある青年だった。そのひょうきんさは、本人生来のものというよりは、どちらかといえば、この厄介なルームメイトのつっこみ役に回っているうちに培ったもののようである。

ムゥエはぼやくように言った。

「いやだってなあ、史学なんて、テキスト読むだけでいいんじゃね?と思って」
「駄目ですよ、駄目。大駄目」
「お前先輩に向かって遠慮がないなあ」
「学年上は同級じゃないですか」
「そこだ!そういうところが遠慮がなくていけないぞお前、もっとこう、ムゥエの奴を見習ってだな…」
「はいはい、いいからさっさと写してくださいよ。照明代だってただじゃないんですから」

むう…と、もっともなことを言われて唸りながら、クラディスは仕方なく机上に集中する。

ノートの文章は、文字を含めてとても端正なものだった。
口頭の発言を、一本の流れを作るようにして、自らの理解の中に組み込んでいく。板書の写しもただの引き写しではなく、自分なりに注釈や入れ換えを足しており、見ているだけでわかりやすいのにするする理解が進んでいく。

頭のいい奴だ、とクラディスは感心した。

既にムゥエと知遇を得ていたミードによれば、彼はこの国有数の資産家の一人息子らしい。
元をたどれば騎士の一族にも連なる名門で、父一人、子一人の家庭環境ながらに、大切に育てられた、いわば御曹司であるという。

「サラブレッドだねえ…」
「そこ、無駄口叩かないで手を動かす!」

この野郎教授より厳しいじゃねえかとぼやきつつ、もう一枚、レポート用に開いたノートへと、時折要点を書き出していく。

ランプの油代も節約しなくてはいけない身からすれば、不自由のない生活が出来るムゥエの立場は素直に羨ましいが、それははたして本人にとり、どれだけ幸せなものなのだろうか。

今日、あの後話した限りでは、それでもムゥエはいい奴のようだった。
生まれに驕りを抱くこともなく、さりとて周りと違うことに対する引け目を感じている様子もない、実に自然体な男だ。

父親の育てがよかったのかねえ、と考える。

世の中には二親が揃っていないことなど珍しくもない世界がある。しかし、幸いにもこの世界はそうではない。

そんな中で、欠落を抱えて生きていくことは、決して容易いことではなかったはずだろうに……。

「…………」

ちら、と肩越しにミードを振り返る。
ミードは腕組みをしたまますっかり寝入っていた。
しょうのない奴だ、と、肩に毛布をかけてやる。

(それとも、欠けているがゆえにこそ、かな……)

人は、欠落を埋めるために生きている。
生まれ落ちたその瞬間から、死という最初にして最後の欠落を与えられ、それを埋めるために一生をかける。すべてはその同型反復のようなものだ。

互いに異なりあうもの同士だからこそ、男女は惹かれあい、結ばれる。
互いに異なる欠落を抱えているもの同士だからこそ、人は手をつなぐ。
それが絆という言葉の本質だ。

きっとムゥエ親子はそのようにして、お互いの欠落を補い合うことで、普通よりも一層強く絆を結んでいるのだろう。

本人が起きている目の前では口が裂けても言えないが、いや、思うことも恥ずかしいが、自分とミードが、ある意味ではそのようにしてバランスを取り合っているように、だ。

「そういやこいつ、何のために史学なんぞ取っているんだ?」

あれこれと、そんな風にして考えを巡らせているうちに、ふと、そんな疑問が生じた。
ムゥエのノートは綺麗に整理されている。しかし、多かれ少なかれ、整理には目的が伴うものだ。
こいつのノートは学ぶため以上の目的が存在していないように見える。
単位を取るためだけの自分みたいな人間ならともかく、興味を持たない授業を取っても仕方あるまい。

写しの総まとめとして調べるつもりで、通して読み返すうち、クラディスはすぐにあることに気がついた。

ノートに記された補記は、共和国と帝國の関係に関する記述が圧倒的に多かった。

/*/

翌日彼は、ありがとな、と、待ち合わせの場所でムゥエにノートを返すと、なあ、と立ち去ろうとするムゥエを呼び止めて聞いた。

「お前、期末レポートの題目、何にするつもりなんだ?」
「?
おおまかには、ビッグセブンの成立過程についてですけど…まだ細かいところは決めていませんよ」
「そうか…いや、つまらんことを聞いて悪かったな」

だとすると、あれは個人的な調べものか。

共和国領内で帝國について調べるのは大変なはずだ。大方、自分の家系についてでも調べようとしたんだろう。いつ移民してきたのかは知らないが、騎士は、帝國の爵位だからな。

そう納得を一人で済ませると、クラディスはくだらない個人的な詮索をしたことを少しだけ後悔しつつ、挨拶もそこそこに次の授業がある教室へと去っていく。

「……………」

その背を、その場に立ち尽くしながら、じっと見つめるムゥエの金色のまなざし。

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それが、『その日』がやってくる前の、最後の風景。

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最終更新:2008年04月02日 10:02