2007年2月4日。

戦勝パレードによって共和国各藩へとばらまかれた資金は買付注文となって市場に押し寄せ、値の釣り上げを狙いすぎた一部の機関投資家達により、需要と供給のバランスは崩れ、取り引きは一気に破綻。

多くの個人投資家が現物を用意することが出来ず、莫大な負債を抱えることになる。

先の不戦敗の責任問題を巡って分裂に揺れる帝國とは対象的に、遭遇戦に勝利した共和国の再びの平穏を破ったのは、皮肉にも、自身の犯した過ちであった。

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「ムゥエの奴、大丈夫かな…」

教室で、鞄からノート一式を取り出しながら呟くミード。隣ではクラディスが相変わらずノートも開かずにぼんやりしている。

「しょうがねえよ。今回のありゃあ、どっちかっていうと舵取りを間違えた大統領が悪い。金バラまいたら使うに決まってるだろう、常識的に考えて」
「先輩、二人の生活かかってるんだから宵越しの金は持ちましょうよ…」

同居人の言葉に嘆息したミードは、それにしても…と、視線をめぐらす。

「顔ぶれも、微妙に減っちゃいましたね」

経済状態の悪化により大学から籍を外した者は、少なからずいた。

国立であり、教育に力を入れている連邦のこと、学費はもちろん良心的なものだったが、負担の多寡がどう、というレベルではなく、生活が完全に成り立たない次元にまで財力を引き裂かれたものが、その大半であった。

つまり、投資家の家のものが。

ムゥエもその一人であり、クラスメートの不在にミードは胸を痛めていた。
何よりも心苦しいのは、彼が、誰にも何も言わずに姿を見せなくなったことだった。
密かに思いを寄せていたものなどが、涙に暮れている光景に出くわすこともあった。
本当に、誰にも何も言わなかったのだ。
ある日出席で彼だけが名簿から名前を外されていて、それで彼らは初めて事態に気付いた。
家に押しかけていっても既に引き払った後で、行方がわからないという。
この国を出たのではないかという噂だった。

何が出来ると言われれば、何か出来るのか、迷ってはしまうが、それでも彼は、ムゥエに何か一言、言ってほしかった。

何も言われないのは寂しい。

「…………」
「俺達は貧乏でよかったなあ、おい」
「そんな、無神経な」

取りようによったら不謹慎にも響く発言に、さすがにミードは眉をひそめて辺りを見回した。
幸い誰も聞きとがめた様子のものはいなかったが、クラディスは相変わらずの態度で平然としている。
ミードは嘆息する。

「藩王も胸を痛めてらっしゃるでしょうに……」
「痛めたって死人が帰るわけでもないだろ。体力をつけるためとはいえ、買いを殺到させたのは事実だ。たとえ一国だけの責任じゃなかろうが、歩調をあわせなかった責任は消えんぜ」

相変わらずページをめくる手を止めないクラディスの表情は平静である。その平静には、だが、穏やかに凪いだ海のように、言外の圧力が感じられた。

「俺達ぁ共和国だ、共に和してこその藩国だ、そうだろう?」
「頑張って国の運営をしている人にその言い草はあんまりでしょう、先輩…」

ぱたむ。

本が閉じられ、横目が冷たくミードの瞳を捉えた。

「ムゥエや死んだ人達もかわいそう、でも、それをやった連邦のお偉方もかわいそう、か?
あまり甘えたことを言うのもほどほどにしておいた方がいいぞ、お前。今後どれだけ勝とうが死人は生き返らないんだよ。ことに、俺達のレベルだと絶対にな」
「…………」
「取り戻せない敗北もあるってことだ」

以上、終わり、と、すっぱり話題を断ち切って、今度こそ平素の様子に戻ったクラディス。
その言い草に、ミードは一言だけ、

「冷たいですね、先輩は」
「情だけで話が通るなら法は要らん。世界はご都合主義の物語じゃねえんだぞ」

法学生であるクラディスの、文学生であるミードへの、それが終わりの一言だった。
遅ればせながらやってきた教授が、助手にプリントを配らせ始めたのを見て二人は前に向き直る。
まだ何か不満そうにちらちらと見てくるミードの隣で、クラディスが最後にぽつり、呟いた。

「…失敗をな、忘れさせようとしてやるな。それは罪だ。慰めでもなんでもない」
「じゃあ、どうしろっていうんですか」

そこ、私語は謹んで、と助手に叱責され、む、と口をつぐむ。
続く言葉を欲しそうにする後輩の横で、だがクラディスは、もう何をも語ろうとはしなかった。

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パレードの日が遠い昔のように思えた。

「ほんの一週間前のことなのにな……」

最低限の日用品が詰まった胴長のずた袋を背負い直すと、彼は背後に続く街道を見渡した。

煉瓦の敷き詰められた道は、砂丘の起伏の向こうにも延びていて、けれどももう、街並みが遠い。

「ムゥエ、ムゥエ」

呼びかけられて、前を見る。
この一週間で大分痩せた父は、それでもまだ線の細い顔立ちに、優男のような、強く、やわらかな微笑をたたえていた。

「前を見るんだ、ムゥエ。私達の道は、後ろにはない」
「でも、父さん…」
「ムゥエ」

オアシスがある。そこまで行って、話そう。それまでは、頑張るんだ。
そう、父は告げた。

「…………はい」

足取りは重かった。
距離にすればほんの2kmもない。だが、今日という、今にたどりつくまでに、ムゥエの心は疲弊しきっていた。

この道を通り抜けた、藩王を始めとする高官達の晴れ姿は、屋台で買って来た炭酸水の味まではっきり覚えている。国中が、祝いで休みとなった日だ。珍しく体の空いた父と共に、ぎゅうぎゅう詰めになって並んで旗を振った。共和国の旗と、連邦の旗、二つを一緒に、だ。

道端で腰を落ち着けて、父が語るのを待った。
父は、幾分か掛かって、それから口を開いた。

「…私達は、運がいい。こうして命がある。私の友人は悲運を嘆いて身を投げたものもいたが、それは違う。違うと私は思っている」
「…………」
「幸いにも市場はまた再開される見込みだ。何、元手さえ作っていけば、きっと取り返せる。どれだけ負債を抱え込もうと、その荷はきっとまた下ろせる。この国は、愛の国だ、ムゥエ。信じる愛には、必ず報いがあるよ」

肌の色の濃い西国人の中でも、取り引き市場にかかりきりの父の肌色はひときわ薄かった。
それはまた、元来は帝国に所属したその血筋の名残りであるのかもしれない。

ムゥエが幼い頃、二人はこの国へと移民してきた。
愛の国ならば、彼女がおらずとも、きっと立派にお前は育つだろう、健やかに育つだろう、そう、港に降りた時に父が語ったのを今でも彼は覚えていた。

父は笑顔を絶やさない男だった。
そしてそれ以上に、心を絶やさない男だった。
ずっと、心を注いで絶やさないで、いてくれた。

その父が、彼を見つめている。
穏やかな、細いまなざしの奥に揺るがないものがある。

「私達は多くを失った。だが、私は何も失ってはいない」
「………?」
「お前がいてくれるじゃあないか、私には」

そう、屈託なく、父は笑った。

「愛ある限り、負けはしないよ。愛とは、そういうものだからね、ムゥエ、覚えておきなさい」
「……はい、父さん」

うん、と返事に満足したように父は立ち上がり、そして彼の前を行く。

そうだ。
まだ、新しい生活が待っている。

これまでのように、お金に不自由のない暮らしは出来ないだろう。
家財もほとんど差し押さえられ、持っているのは価値を認められなかった、ほんの幾許かの思い出の品々だけだ。

だが、

「―――――――………」

ムゥエは父の背中を見つめた。

この背中がある限り、僕は頑張れる。

きっと僕が将来の夢をまだ見つけていなかったのは、このためなんだ。

父さんを支えて、もう一度立ち上がる、そのために神様が力を残しておいてくれたんだ。

そう思い、ムゥエは力強く足を踏み出した。

見据える先に、港町の街並みが見える。

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王宮の裏に広がるオアシスを見つめる男がいる。
素晴らしく均整の取れた長身は、だが、金の髪色と青い瞳をしており、この国生来の者ではない特殊な人間であることを示していた。

その男は、鋼ならばいかなる暴竜であろうとも乗りこなすと自負をする、騎士であった。
遥かな昔、祖先が交わした約束を、今に至るまで守り続ける二人の愚か者のうちの、一人。
カール=T(タキガワ)=ドランジその人である。

「それで、相談というのは何かな、マグノリア」

花の名を呼ぶ。

花は、おずおずと呼ばれるままに歩み出て、そのピンク色の艶やかな唇を開いた。

「はい…その、先日の、市場の混乱について、お伺いしたいことがありまして」
「自分に?」

花は、女性であった。
名をマグノリアという。
建国に携わった舞い手の一人であり、長い髪を編み、それをさらにくるんとまげて輪を二つ、ちょうど後ろから見ればハートの形にも見える形でまとめた、花のようなたおやかさを持つ、女性である。

ドランジの巌のような面が、そのマグノリアの言葉に、僅かに動く。その表情の変化は決して穏やかなものではなかった。

「自分は経済に明るくない。話すなら、ヤガミが適任だろう」
「はい、あの…すみません」

すまなそうに身を縮めるマグノリアの様子を見て、ドランジは恥じた。
同じ女性達の寵愛を争う相手の名を、自ら出して不機嫌を晒したのは自分だ。それは彼女の責ではない。

そして今、目の前にいる女性の心は確かに自分にはない。
だが、自分を頼ってきたものには違いなく、それに応えないままいたずらに話題を曲げるのは、恥ずべき事だ。そう、己の生き方にかけて恥じる事が出来るのが、ドランジという男であった。

「いや、いいんだ。聞こう」
「ありがとうございます」

深々とお辞儀をする、自分からしたらとても小さな、それこそ花のように華奢な女性を相手に、ドランジもまた己の信条に基づき会釈を返して礼を払う。

マグノリアは、そうしてやっと話を聞いてもらえる段になって、意を決したかのように、それでいて恐る恐る、まるで見当違いなのではないか、と念を押すかのように前置きした上で、抱いていた懸念を彼に語った。

「その…確かに今回の市場の動きは正常なものだと思うんです。実際に燃料や資源を持つ方達が、少しでも高い値で取り引きをしようとするのは当然の心理で、健全な経済の反応だと」
「ああ。だが、それが?」
「ですが…本当にそうなのでしょうか」

彼女は自分の言を翻すかのように、疑問を投じる。

「取り引きそのものが成立しなければ、折角の買い手を逃す事になります。おかしいと思います」
「なるほど…」

ドランジは言わんとしていることを察し、言葉を接いだ。
火星の海で彼もまたその身に脅威を晒した、憎き怨敵の名を、強い意志と共に口にする。

「セプテントリオン、あの七星の死の商人が、裏で糸を引いていたかもしれないと、そう君は言いたいのだな?」
「…はい」

戦乱を好み、出来うる限り長引かせ、自らは傷つくことなく最小の労力で益を得ようとする者達がいる。

七星の名を冠する、暗躍組織である。

「ドランジさんのいた、あの火星の海でも、いいえ、あの宇宙でも、彼等は経済を操り私達の前に立ちふさがりました。今回もそうでなかったと、誰が言えるでしょう?」
「しかし、現在我々は奴等と休戦協定を結んでいる最中だ。こうも直接的な介入をしてくるだろうか」
「これまでのように戦争の手を貸しているわけではありません。ある意味では至極まっとうな商売として、益を得るためにした事とは考えられませんか?」

マグノリアは胸元で堅く両手を絞り、懸命に彼に問うてくる。

「休戦協定と仰いました。そして確かに今回の件で、彼等が裏を引いていたとすれば、その介入は直接的ではありますが、戦闘行為には当たらないとも言えます。いいえ、確かに証拠を持って問い詰めても、言いぬけるだけの余地があります。だとしたら…」
「マグノリア」

重い、制止の響きを含めた呼びかけに、はっとする。

「君はとても美しい心根を持っている。だが、確たる証拠もないままに、自分達に不都合が起きたらすべてをセプテントリオンの責任にするのは、良い事ではないと、そう自分は考えるが」
「…すみません」

恥じ入るように、彼女は面を伏せる。

その彼女の表情を見ながら、ドランジは改めて思う。

この国の女性は優れて優しい心根を持っている。
だが、だからこそ、言わねばならない言葉もある。

ドランジはあえてその言葉を口にすることにした。
騎士とは守るもののことである。
それは、外敵からだけではなく、守る対象自身からをも、時として守ることを必要とする。
ドランジは騎士であった。
語るべき言葉をためらわない、騎士であった。

「奴等は確かにどこにでも現れて、隙あらば付け入る。幸せになりたいと、誰もが願うその願いに乗じて取り引きを持ちかけ、結果的に戦乱を生む。それが彼らの生業で、それが彼らの願いに叶うからだ。だが、忘れてはいけない。奴等との取り引きに、結果的に応じているのもまた我々なのだという事を」
「…………」
「期待に応えられなくて、済まなかった」

いいえ、ありがとうございました…そう、消沈して頷く彼女の肩を、ためらいがちに叩いてドランジは立ち去っていった。

「…………」

去る、ドランジの背中にお辞儀をして、マグノリアは考える。

本当にそうなのだろうか。

確かに、蝶子さんの心理的負担が軽くなればとの一心で思いついた考えだったかもしれない。

でも…………

「セプテントリオンのせいではなかったとしても、このまま私達は何もしないでいて、よいのでしょうか……」

呟きは、乾いた砂漠の虚空に飲まれ、消えていく。

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最終更新:2008年04月02日 10:03