黒い、影が佇んでいた。
だがその影の輪郭は、物語の半ばで顔をのぞかせた、あの自らの名に道化師を持って任じている男のものとは異なっており、黒よりも、なお濃い黒、光喰らうまさに漆黒の色合いを、その装いに漂わせている。

何より異なるのは、その肌と髪の色。
砂漠に焼けた灰色ではなく、日差しに焼けた褐色ではなく、白い、白い抜けるような肌と髪を、その影の主は持っていた。

亡霊のような高貴なつば広の帽子を目深に被り、影は大地をまなざす。
その形で持って全力で愛を叫ぶ、青の中に頼りなく浮かぶ、とても小さいその大地を。

「――――――――」

影は紫色の唇を、笑みもさせずに閉ざしたまま、そうしてじっと、その大地をまなざしていた。

/*/

「「「「「「「乾杯ー!!!」」」」」」」

高らかな唱和がオアシスに響き、星の印がついたラベルの缶に、みな、口をつける。
国産の、ビールであった。熱い日差しの中、多量の発汗に促されてか、するすると傾きが深くなり、かん、と響く軽い金属音と共に、空いた一本目が彼らの手元で立てられる。

流れた時は既に半年を数え、季節は夏真っ盛りの八月を迎えていた。

王宮の裏庭に設けられた宴席で、互いの労をねぎらいあうのは、つい先日、ようやっと長い大戦が区切りを迎えたばかりのレンジャー連邦の高官達である。

「長かったですねえ…」
「ええ、本当に。当初は三ヶ月という話でしたから」

倦み、疲れて姿を消したものもいる。それはこの国だけの事ではない。
今はいないものたちに、想いを馳せながら、それでも最後まで戦い抜いた彼等は祝杯を挙げた。

「ヤガミが死にそうになったり、死にそうになったり、死にそうになったり…」

はぁ、と溜め息をつくのは、移民してきたサクという女性である。短い髪が凛としたところのある、今もなお、後にした国の仲間の写真を大事に持っている、情の深い女性であった。

「ドランジがヤガミと殺しあいになりかけたり、いなくなったり、間一髪だったり…」

はぁ、と、これも溜め息をついている、萩野むつき。彼女は死闘のただなかに飛び込んできた、恐れを知らない女性であった。銃弾よりも、何も出来ないことの方をこそ、恐れる勇敢さを持つ、女性である。

幾千幾万の敵と、それをもたった一人で上回る強敵を、いくつも薙ぎ倒して、今、彼等はここにいる。一つの勝利でパレードを行った、最初の頃が微笑ましく思えるほどに、大敗も、大勝も、逆転も、完敗も味わいつくしてきた、戦士の血を持つものたちなのだ。

「その節は、心配をかけた」

高性能の義手を軋ませもせず、二本目のビールを口にして笑むのは当のドランジである。
恋敵のために作られたというこの製品の味わいに、内心穏やかならざるものもなくはないが、一時期のように、若気に任せて感情に振り回されるようなことは、さすがにない。

「ほんとだよ、もう…」

さんざ口やかましくその件については言われ続けたのだろう、わざわざ彼の捜索のために戻ってきた、左右の瞳の色が違う女性がそう呟き、背中をこつんとこづくのへ、ドランジはただ苦笑するしかなかった。

内輪だけのささやかな立食パーティーの形式を取る、テーブルクロスの飾りつけや、料理を給仕するのは、今は姿を見せないものたちに名づけられたものも多い、文字通り『毛色』の異なるものたち。頭に猫の耳を生やし、腰から尻尾をはみ出させる、歳も姿かたちも様々な、猫士と呼ばれる若者達である。

音もなく豊かに溢れるオアシスの冷気と、王宮の影という立地とで、裏庭はなかなかに快適な居心地の空間となっていた。20人ばかりが一堂に会すると、それなりに賑やかにはなるもので、笑顔が絶えない。

「これからしばらくは、小笠原通いの人も多そうですね」

手に大皿を持ちながら、にこにことそんな女性陣を見守るのは双樹。

「特定の好きな相手がいない人間にとっては、なかなか手が出ない娯楽だけどねえ…」
「あれ、城さんはなっこちゃんびいきじゃなかったんですか?」
「うん、それがね」

と、華一郎もまた隣に並び、見る景色を彼と同じくしながら困ったように笑う。

「俺はどうも、日本人特有の判官びいきという奴だったらしい。石田の時も、横山の時も、そうだ。頑張ってる女の子が好きなんだな、要するに」
「へえ……」

わかったようなわからないような声で双樹は相槌を打った。
強く、世界を己のために変えてしまえるほどに強く、心の中に光を灯してくれた、『ヒーロー』を持つ彼にとり、その意見は理解しにくいもののようだったらしく、スパイスの効いたタンドリーチキンを手づかみにやっつけながら、頷くだけにとどまった。

「でも、そういう感情って『そばにいてあげたい』ってなったりしませんか?」
「それがねえ」

と、もっと困ったように、けれども嬉しそうにも笑いながら、華一郎は告げる。

「もう、いたみたいなんだよね。そばにいてあげたい相手が、俺にも」
「へえ…誰なんですか?」
「さあ、誰なんでしょう」

くつくつ喉で笑いながら意地悪くはぐらかす。

「いずれにしても、これからは呑気な恋の季節だよ。春はとっくに過ぎ去った後だけれども、その春の、訪れるまでまた、この夏は続くのさ。バカンスに最適のシーズンがね」

君も舞に会いにいったらどうだい、と勧めるのへ、双樹は、はい、いつか機会があれば、是非…と、照れくさそうにも、真っ直ぐに頷いた。おお、と眩しそうに目を細める華一郎。

この、体の大きな年下の友人のことを、華一郎は好ましく思っていた。
情に脆く、熱いが揺れやすい。その上で、きっと、彼は何があってもくじけない。そう信じていたから、華一郎は彼のことを好ましく思い、信頼していた。

くじけるとは心が折れることではない。
そこから立ち上がれなくなることだ。
折れた剣はより強く鍛え直せばそれでいい。
だが、中には折れた剣を手にしたまま、立ち上がれないものもいる。
折れた剣をそのままにしておきたいと思うものがいる。
それを華一郎は知っていた。

双樹はそうではない。
だから、信頼できる。

深く、ぬばたまに黒い瞳で、華一郎はそう思いながら、友人のことを見つめていた。

「それにしてもよく食うなー君は」
「はい、おいしいですから!」
「そりゃーよかった。ハニーちゃんや愛佳ちゃんも喜ぶだろう」

そう言って、目の前で、串から肉を削ぎ落とし、白いソースをかけるのへ、

「ケバブもいいが、そこのキョフテもいけるよ」

と、指さしてやる。

「西国料理は懐が深いですねえ」
「長く大陸の覇者であったオスマン帝国の元で、いろんなうまいものの要素が交じり合って出来たからなあ。この、ゆで卵の丸々一つ入った饅頭なんてうまいぜ」

ようやく勝ち取った、平和の味。
それに舌鼓を打ちながら、彼等は昼下がりをのどかに過ごす。

太陽は遥かに天高い。

/*/

無論、束の間とはいえ訪れた平穏を謳歌しているのは一般の国民も同じだった。

「バイトで懐もうはうは、景気もよくて暮らしやすいと来たらこりゃもう豪遊しかないだろう、なあ!?」
「『なあ!?』じゃないですよ、どうしてそう浪費癖があるんですか、あなたは……」

クラディスとミードもまた、その恩恵をほおばりながら、港通りを歩いていた。

手にはそれぞれ件のゆで卵入り饅頭がある。出来たてで、湯気の立っているところに加え、もう片方の手にはナッツの散りばめられたうまそうなデザートパイも抱えられている。きらきらナッツが光沢を放っているところを見ると、蜂蜜に、漬けたか塗ったかしたのだろう、手が汚れるのも構わずそれらをむしゃむしゃと歩きながら食らう姿は決して行儀のよいものとは言えなかったが、親指についた汁までしゃぶってがっつくのが、なんといっても買い食いの醍醐味、まして普段爪に火を灯すような節約生活でいた彼らにとり、久しぶりの贅沢は至福の味わいであったのだ。

「いやあ、うまい!黄金の味がするな!」
「本当、食べているとなんだか世界がきらきら輝いて感じられますね」
「いや単純に銭の詰まった旨味がするよ。ビバリッチ!」
「うわあ金に意地汚い人だなあ、あなたは」

思わず率直な感想を漏らしつつ、ミードは味の濃いものを食べたので、何か渇きを癒す飲み物でも、と屋台か売店を探す。

ふと、その視界の端に影がよぎった。

「?」
「なんだ、どうした。小銭はもう道端で探さなくていいんだぞ」
「いや、そうじゃなくて…ていうか普段そんなことまでしてたんですか、あなたは!?」
「拾ったものは俺のもの」
「それはねこばばじゃ…」
「小銭はさすがに構わんだろう、常識的に考えて。誰の落としたものかわかるわけねえし。そんなことより急に止まるな、置いてくぞ」

ほれほれとせっつくクラディスに追い立てられ、気がかりをよそに、その場を後にする。

「法官志望なら、せめて公益のために拾ったお金でも寄付するとか、届け出るとかをですね…」
「そういうのは護民官に言ってくれんか。あとむしろお金は俺が寄付されたい方の側だったわけだが」
「こ、公人たる器ではない人だ…小さい、器が小さいよ」
「やかましい細かいことにこだわると若ハゲるぞ」

ほっといてくださいよ、と、最近気になり始めた生え際を意識しつつ、思い出す。
さっきの影、どこかで見たような……?

/*/

はっ、はっ、はっ。

片手を握りしめたまま、急いで路地を走る。

途中で何度か折れ曲がり、誰も追ってきていないことを確かめると、広げた手の中にある、砂で汚れたコインを見つめ、彼は安堵した。

よかった。今日は何か、暖かいものを買って食べられそうだ。

同時に、いつもなら感じなかったはずの恥辱が頬を苦く歪めさせる。

かつての同級生の姿を見た時は思わずひるんだ。なるべく昔の知り合いに会わないようなところでばかり、仕事をしていたつもりだったが、あの二人だけは神出鬼没で敵わない。

薄汚れた服の胸をなでおろしながら、呼吸を落ち着けるつもりで歩き出す。

どうして、こんなことになったのだろうか。そう、二人の姿を見て、思ってしまった。

彼らと自分と、一体何が違ったのか。

どうして自分がこんな目にあわなければならなかったのか。

自分だけが、とは言わない。生きているだけまだ幸運なのだ。

この思いを払わねば、これからの日々を、ずっと今噛み締めたような恥を感じながら生きなければならない。

わかっている。

わかっている。

何が悪いわけでもなかった。

ただ、不幸だっただけなのだ。

運が悪い。

そんなもの、どうしろというのだろう。

久しぶりに見上げた空は、砂塵舞う、黄色く濁ったもの。

地面を舐めるように見つめて歩く癖がついたのは何時の頃からだったろうか。

「……っ……」

ない、片腕の付け根が幻痛に軋む。

「苦しいよ、父さん……」

影は、はたしてムゥエであった。

/*/

五月のことだった。

「すまんなあ、お前にこんなことをさせて」

笑う父に、いいんだよ、これくらいなんてことないからさ、と、強がりを言って見せたムゥエは、慣れない港での荷揚げ作業にすりきれた筋肉をことさら元気そうに酷使して見せた。

港付近の借家住まいとなった父子は、当初の見通しとは裏腹に、市場で再び投機をやるほどの元手をいまだに作れずにいた。

労働の対価が少ないのではない。また、労働が不当に過酷だったわけでもない。

現実はとても公平だった。

それまで何十年も机にかじりついて、運動などたまの余暇にしか楽しまなかった四十絡みの男が、いきなり不得手な仕事を不慣れな環境でこなせるほど、労働というものが甘やかなものではなかったというだけのことだ。

それはいっそ、似たような暮らしを一緒に過ごしていたムゥエでも、若さがあるからこそ徐々に体が慣れて来ているのとは裏腹だった。

慣れて来ているとはいえ、父の分まで働いているムゥエの疲れが尋常なものであるはずがなく、日に日に父の浮かべる笑顔の力がなくなっていくのを、それでも見たくなくて、懸命にムゥエは働いていた。

汗と汚れにどろどろになった服の内側に、タオルを通して手荒く拭うムゥエ。もうこのような仕草も随分と板についてきたものだった。

「次ぃ」
「はい!」

かけ声をあわせ、ぐいと荷を両足を踏ん張って手と肩で押し流す。筋骨逞しいベテラン作業員は、そのムゥエの様子を、軽々と荷を片手で押し流しながらその都度横目に見て、実にいきいきと仕事をしていた。

「大分腰入ってきたなあ、兄さん」
「そうですか?」
「おう。線の細いぼっちゃんだと思ってたけど、やるもんじゃねえか」
「ありがとうございます!」
「ほら、次!」
「はい!」

聯合国との物資のやりとりが頻繁になるにつれ、臨港作業の口は増えた。今の住まいから近いこともあって、二人でそこに働き口を求めたムゥエ達は、自分達が生活のために数値で取り扱っていたものが、いかにして実際の生活の中で回っているのかを体感することになった。

「親父さんも、株だけやってりゃあ一生わからなかったろう、なあ?」
「ええ。まったくいい勉強になってますよ!」

にこりと皺深く笑った父の笑みは強い。息子には負けていられないと、滴る汗を拭い拭い、気力を振り絞って荷を扱う。

「国内で有数の資産家だっていうからどんな苦労知らずかと思えば、なかなかどうしてガッツがありやがる。本当に見直したもんだぜ!」
「恐縮です!」

ごうんごうんとクレーンの動く轟音に負けじと張り上げるので、声は自然と大きくなる。

おおー…ん。

その、クレーンの音が止まった。
作業をしていた皆の手も止まる。

「上がりだ。終わろうや」

にこり、笑ってその男はムゥエと父との肩をばしんと叩いた。
その鮮烈な痛みが、泥のような疲労で埋まった肉体に、とても心地よいとムゥエは思った。

/*/

山盛りの食事を片手間にたいらげながら、ムゥエは本を開いた。
在学していた頃に使っていたテキストである。

「よく続くねえ、学生さん」
「折角覚えたことがもったいないですから。いつかまた、どこかで使うために、です」
「おう、その意気だ」

周りの逞しい男達も、やはり彼らのような父子が自分達の中に混じっていることについては相応しくないと思っている。だが、それは、最初の頃こそ、仕事もろくに出来ないお荷物に対しての取り付く島もない感情の結果だったが、休まずによく働く彼ら、ことに近頃は重機の免許取得に向けて寝食を惜しむ息子の側の著しい成長に、やはりこういう人種は自分達とは根本的に向き不向きが違うものだと打ち解けて感心を隠さないでいるためだ。

「頭いい奴はそれを生かす。体強い奴はそれを生かす。そんだけのことなんだよな、人には向き不向きがあって、それ以上でもそれ以下でもねえっていう。あんたら見てて、つくづくそう思ったよ」
「そう…ですか?」
「ああ。俺もな、昔は勉強嫌いで、体動かさないで稼いでる奴等が羨ましかったもんだ。あの日の騒動なんて対岸の火事みたいにへえそうですかいてなもんだったよ。けど、やっぱり違うんだよな、そういう態度は」
「…………」
「みいんなどこかでつながってるもんだ。俺らが荷揚げする品が株価を動かしてるんだし、投機する人間がいなきゃ金は回らねえ。俺達が今食ってるメシだって、作ってくれるおばちゃんがいなくちゃ冷たい弁当ばっかで力が出ねえよ、でもおばちゃんは俺らがいないとせっかくうまい料理作っても食ってくれる相手がいなくて稼げねえもんな」

安くて量があって飽きないメシなんて、まあありがたいぜ、俺らみたいなのにしてみれば、と言う彼の言葉に、ムゥエも笑って頷いた。

「初日なんざろくにメシも通らず吐いてたのになあ。若いってのはいいよな」
「へへへ……」

照れ隠しにかっこんだ米が、ぐいぐいと喉を通る。
昔ならば到底考えられない量の食事が、体の中に溜まるたびにパワーとなって筋肉を立ち上げる。たらふく食べて、たらふく飲んで、たらふく動く。たらふく寝る。たったそれだけのことだが、勉強をしているだけでは味わえない、強い充実感がそこにはあった。

「ん…父さん、どうしたの?」

ふと隣を見ると、はたして皿の上に料理が残っている。

「食べないと明日もたないよ。まずは食事が一番、体が何事も資本じゃない」
「あ、ああ…そうだ、そうだな」

ぼうっとしていた父を、いぶかしむように眺めながら、ムゥエは骨付きチキンを食いちぎる。タオルで指についた油を拭い、何気なくまた本のページをめくった。

「いつも父さんが言ってたことだものね、それは」
「ああ…」

父は、いらえると、深く、皺深く笑みをこぼして皿の上に目線を落とす。そうしてゆっくりスプーンを取った。

「そうだったな……」

/*/

翌日の朝。
いつものように、帰ってからどのように過ごしたか覚えていないほど深く眠ったムゥエは、ん、と大きく伸びをした。

相変わらず体は軋む。だが、自分でもわかるくらい、筋肉がつき始めていた。いつか父の分まで働けるようになるだろう。いや、その前に、操縦の難しい重機の取り扱い免許を取得して楽になるのが先だろうか。それとも、市場取り引きに戻れるだけのお金が溜まるのが先か……

「なんにしても、まだまだ先は長いなあ……」

外を見ると今日もいい天気だ。雨季まではまだいくらかある、当分はこんな調子だろう。
黄砂が潮風で重たく舞いあがり、干し煉瓦造りの家屋に張り付いて、まるで垢のように表面に溜まっていく。それをたまに削り落としてやらないと、家は増えた重みに傷んでしまう。借家とはいえ今は世話になっている立派な自分の住まいなのだ、明日の休日には手入れをしてやろう、そう、ムゥエは気分よく考えた。

海に囲まれた連邦では良質な水は貴重なので、そのまま売られている水を飲めばいいというわけにはいかない。そのため、これだけは今も常備している珈琲の粉末をなべ底にひとすくい落とし、湯を注ぎこんでカンカンに直火で沸かす。

その傍らで、腸詰を転がして焼き、早朝の物売りから買った出来立ての饅頭を一緒の皿に盛ると、ムゥエは父を起こしに行った。

「父さん、父さん…朝だよ」

むうう…と、寝苦しいようなうめき声を挙げ、父は顔をしかめる。

「ご飯出来たよ、起きないと仕事に間に合わないよ」
「ん、ん……」

吐息をどっと漏らすと、ようやくうっすら目をあけた父は、のろのろと身を起こして立ち上がった。

「もう、そんな時間か…」
「肉饅頭を買ってあるよ。珈琲も淹れたから」

その言葉を聞くなり、妙な顔をしてムゥエの父はじっと立ち止まっていたが、ふと我に返って、

「おお、そうだな、そうだ。朝は一日の始まりだ、しっかり食べないとな」

/*/

その日は珍しく、天領にある本国からの荷がやってきていた。

「ストームブルー、か……」

珍しいなと思う。
ハイマイル区画ならともかく、こんな小国で見かけるような名前ではない。

「どこからの荷だろうと同じだよ。お客様の大事な荷だ、大事に扱うだけさ。そら!」
「わっ」

行くぞっ、と威勢良くいつものようにかけ声をあわせ、荷を運ぶ。

頭上ではクレーンの立てる轟音が、港にはそびえ立つ輸送船の異様が、相変わらずの光景を繰り広げていた。

その中で、ただ一つ、普段通りではないものがあった。

「おい、大丈夫か?」
「え、ええ…大丈夫、なんでもないです」
「倒れられちゃあそっちの方が迷惑なんだからな、無理すんなよ」
「はい」

ムゥエの父は、どうやら疲労の極致らしかった。
今朝から動きに精細がなく、何度も荷を押す手が途中で止まっている。

「心配なのはわかるが、余所見だけはするなよ」

相方から念を押され、自身も歯を食いしばって荷を動かすムゥエ。

(父さん……)

普通に暮らすだけならお金にゆとりはあった。
だが、まとまった商取引をするためには、まず借金を返して失った信用を取り戻さなければならない。それにはまとまったお金が必要で、どうしても切り詰めるところが出て来てしまう。それが、休みのほとんど出ない日程であり、遊びのほとんどない日常となって、生活を苦しめる。

おそらく、父の体力ではもう限界なのだろう。

ちらちらとそちらの方を気にするムゥエに、相方の男は溜め息をついた。

「しょうがねえな…ほら、ここはいいから」
「え?」

でも…と顔を見るムゥエに、

「いいからいいから、ほら、行け、行け!」

しっしと手で追い立てる。

「……っ」

顔をくしゃっと歪めて、ありがとうございます、と勢いよくお辞儀するムゥエを、顔も見ずに追い立てた男は、集中出来ねえからさっさと行け、と、なおも怒鳴りつけつつ、どこか照れくさそうでもあった。

慌てて父の元へ走り、

「押しまーす!」

と、かけ声をかけてから反対側に入る。
ぐい、と押すと、荷物は思ったよりずっと楽に前へと進んだ。
驚いたような顔をする父に、笑って見せるムゥエ。

「ほら、次」
「あ、ああ…」

そうして二人で、しばらく次から次へと来る荷を押していく。

一緒に押すことで感じられる、父の手の力は、頼りなげで、

「…………」

頑張らなくちゃな、僕が、と、ムゥエは微笑みと共に心に力を漲らせる。

ここまで自分を育ててくれた父に、今度は僕が報いるんだ、そう思うと、不思議と力が湧いてきた。

「そぉら!」

ぐん、と、ほとんど一人で押すような形で荷を押した。
本当の意味で、ようやく吹っ切れたような気がした。

僕のやりたいこと。
それは、父さんに報いることなんだ。
ここまで育ってくれた、父さんに、楽をさせてあげたい。
そのためなら、頑張れるよ。

「ムゥエ、お前…」

その背を見て、父がまぶしそうに呟く。

「立派な背中をするようになったなあ…」

ばちん。

太い金属音が、瞬間響き渡る。

衝撃。

暗転。

ムゥエの意識はそこで途絶えた。

/*/

…母さん。

母さん?

どうしたの、どこへ行くの?

父さんと一緒にいようよ。

ねえ。

ねえってば。

駄目だよ。

僕は、行けないよ。

父さんにおかえりなさいってしてあげなきゃいけないんだもの。

ほら、もうすぐ父さんが帰ってくるよ。

ね、お母さん。

ご飯作って、二人で待っていよ?

ね?

ね?

母さん。

母さん。

母さん……?

/*/

「…………」

目を、あけようとすると、ぱりりと固まった目やにが弱くそれに抵抗した。

体が横たえられている。

見知らぬ天井に、鼻を利かせると、消毒薬のにおいがした。

病院にいるのだろう。

そう、他人事のように理解した。

ここはどこだろう。そう、理解していない頭が疑問を抱き続けているのにも関わらず、だ。

室内は薄暗い。

薄暗い?

本当にそうなのだろうか。

「……っ」

目を、動かす。目は見えている。両方とも。

大丈夫だ。どこもおかしくない。

よかった。

まずは安堵が先に来た。

あまり長い間入院していては、父がもたない。

ただでさえあれだけきつそうにしていた父を一人で働かせるわけにはいかない。

なんだったらお医者さんに無理を言って、明日からでも退院して働こう。

身を、起こそうとして、不意にバランスが崩れる。

「…………あ…………」

右腕が、肩の付け根からもげていた。

/*/

「なんだよ…なんだよ、これ、なんだよ」

ある。

ほら、あるじゃないか。

右手の感覚がある。

思うと同時に、言葉が頭の中で閃く。

あまりに大きな傷を負った時、脳はその欠損に対応出来ないまま、例えば失った四肢を動かすための神経回路がそのままになっていることが、よくあるという。

幻肢だ。

「おい…嘘だろ…?」

はははははははは……

乾いた笑いが響いてきた。

笑っていたのは自分だった。

「これからどうやって働けばいいんだよ」

いや、違う。

利き腕だ。

それを無くして、どうやって生活していけばいい。

笑いながら、ぼろぼろとシーツを濡らす、ものが零れる。

涙だった。

「なんだよ……くそ…泣いたって腕がまた生えてくるわけでもないっていうのに…」

慌てて目元を拭おうとして、また右腕を使おうとしていることに気付き、左腕で改めて拭いなおす。

少し、冷静になれた。

「そうか…クレーンの鎖が千切れて降ってきたコンテナに、腕を潰されたんだ…」

業務上の過失ではない。労災だ。ならば生活保障は会社から全額下りる。
そう冷静に頭の中で判断すると、少し落ち着ける。

それだけのまとまった金額が手元に入ってくれば、きっと父もまた借金の返済を終えてなお取り引きにあてるだけの余裕が残るだろう。そうすれば、あの懸命な父のことだ、きっとすぐにまた盛り返せる。質に流れた家財なども取り戻せるだろう。

「こういうのを、不幸中の幸いっていうのかな…」

皮肉な気分で笑う。

どうやら麻酔が効いているらしく、痛みは感じない。ただ、どうしてもそこに右腕があるような感覚がして、それが困った。

視覚的に、自分の右腕がないというのも、まだ大きな動揺として見る度打撃となって心に入ってくる。

「当分、慣れそうにないな……」

ふう……と、身をよじって、寝そべる体勢を直す。

あるはずのものがない。それだけで、こうも違うものか…

シーツを全身にかけなおすのにも、いつもと勝手が違い、戸惑ってしまう。

大丈夫。

そうだ、まだ、自分にはこの命が残っている。

運がよかった。

ほんの数センチずれていただけで、死んでいたのだ。

片腕だけで済んでよかったと思うべきなのだ。

両足はまだ少なくともぴんぴんしている。

父から教えてもらったことなのだ。

この命がある限り、そして、この国が愛の国である限り、頑張ったものにはきっと報いがあると。

そう、思うと、ようやく落ち着けた。

大分血が無くなったのだろう。そもそも腕がもげた時点でショック死していてもおかしくない。よっぽど大量の血が輸血されなければ、自分は今頃死んでいた。

感謝だ。

きっとこうして意識を取り戻したのも、今が初めてのことなのではあるまい。

泥のように眠って、生命力が戦って、その上で、生き残ったのだ。目を、覚ましたのだ。

それで、はっきりと認識出来る形で意識が覚めたのは、きっと今が初めてなのだ。

「…………」

もう、これ以上考えるのはよそう。
これからのために少しでも眠って力を蓄えるべきだ。
そう、思い、目をつむった時だった。

あるはずのものが、ない。

気付いて、唇が震えた。

/*/

「義肢のないわけでもないが、なかなかに値の張るものだからな…借金を抱えた没落貴族では、気の毒だが到底手が出るまい」

そう、カルテを見ながら呟くのは、病院の医師であった。

「あとは後遺症か……患者の意識が戻るのを見て、それからリハビリだな…」
「そうですね」

看護士が当直への引き継ぎの準備をしつつ、相槌を打つ。

「実際、港から病院まで、よくあの出血で一命を取り留めたと思います。輸血パックが足りませんでしたからね……」
「ああ。提供者がいなければ、本当に危なかった」

既に見舞いの品は会社から送られてきている。同僚達も、よく顔を病室に見せていた。
あの若者は、よほど身内で慕われていたのだろう、と、二人は思う。皆一様に黙り込んで、それでも励ますように、最後には声を絞り出して、意識のない彼へと話し掛けていた。

だが、中でもクレーンを操作していたものなどは、聞くところによるといまだに見舞いに来れないのだという。

あまりのことで、顔向けが出来ないのだろうと思う。

ちか、ちか……

室内灯が明滅する。

「おう、いかんな。つい」
「そうですね…早く交代しないと」

どうしても物思いに耽ってしまう頭を振って、医師は立ち上がり、看護士はカルテを棚にしまいこんだ。

こういうことは、命を預かる仕事をしている以上、いつでも目にするものだ。これ一つだけが悲劇なのではない。それは、よくわかっている。

だから彼等は、自分達の思いを振り切ろうと、診療室を後にしようとした。

がたん。

扉に重たい何かがぶつかって、二人の前で唐突に開く。

/*/

震える足で、肩を壁にこすりつけるようにして、体を支えながら歩いた。
傷が開き、右腕の付け根から血がにじみ出て、ずるずると帯状に壁を汚すのも構わずムゥエは歩いた。

ない。

ない。

考えても、考えても、ないものがある。

部屋中を探しまわして散らかしたが、なかったものが一つだけ、ある。

明らかに血色の悪い、白い顔で、体は冷え、歯の根もあわずにがちがちと震わせながら、それでもムゥエは、院内を歩き続けた。

ロビーも見た。

廊下中のプレートも見た。

どこにもないものが、一つだけある。

夜更けに入ろうとしていた院内は静まり返っていて、職員達も今は休憩中のようで、途中、出くわすことはなかった。

どこに行けば、会えるだろう。

そう思って彼は、診療室へとたどりついた。

よろめくように扉に倒れ掛かり、どん、と大きな物音を立てつつ、左手で引き戸の取っ手口を掻いて、引きあける。

中には驚いたような、壮年の医師と、女性の看護士が立っていた。

いない。

ここにも。

ムゥエはだから、この人たちに聞くことにした。

僕の父さんはどこですか、と。

/*/

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2008年04月02日 10:04